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第一章 勇者と魔王

第5話 魔獣カプロス

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 俺が今いる場所はごく浅い川の辺《ほとり》だ。足元には小さな石がゴロゴロと転がり、数歩移動すればちょろちょろと水が流れている。足場はあまりよくないが、大きな木があまり生えていないのはいい。つまり大剣を振り回すには良い場所だ。

 迫ってくるカプロスを見据えながら、足元や周りの木の位置を把握する。カプロスは身の丈二メートル近くはあるイノシシ型の魔獣だ。森の強者だけあって、隠れようともせずに、遠くからまっすぐにこちらに向かって突進しててくる。バキバキと木々を倒しながら来るので、早くから気付けたのは良かった。

 獣と魔獣の違いは主に、体内魔力の多さで区別される。魔獣は大きな魔力を保持する動物の総称だ。体内魔力の少ない獣と似た形のものも多いので、進化の過程で種族が分かたれたのかもしれない。
 魔物はその種族に応じて、獣には使えない魔法や身体強化などの特性を持っている。カプロスの場合は、毛を魔法で凍らせる。全身を覆う硬化された毛は、棘だらけの鎧のようなものか。特に頭から背中にかけての鬣《たてがみ》は短剣ほどの長さがあり、その頭を低くしてたてがみを突き出すように突進してくる。体当たりが得意なカプロスらしい特性だ。

「しかしまあ、氷は剣には勝てんだろ」
「ブモオオオオッ」
「……でけえ」

 闘技場で見るよりはるかに巨大なカプロスに思わず愚痴をこぼした。
 突進してきたカプロスをギリギリの位置でかわす。すれ違いざまに頭の鬣《たてがみ》の部分に剣を振るえば、ガガガッと音がして氷が飛び散る。闘技場で戦わされたカプロスならば、この後、横に回り込んで腹を狙うんだが、目の前のこいつはそれより一回りも二回りもでかい。体重を乗せた突進は、下手に剣を振るえばそのまま剣ごと体を持っていかれそうだ。

 しかも削ったと思った鬣部分の氷は、方向を変えてこちらに向き直ったときにはもう、元に戻っていた。
 毛までは切れていなかったのか!
 再び俺の方へ、その刺々しい頭を向けて走ってくる。
 その能力は、さぞかし森の獣には有効だろう。

「だが切れねえわけじゃねえ」

 立っている位置を確認すると、手にした大剣を構えて、奴がここまで来るのを待つ。足には常に注意深く魔力を注ぐのを忘れるな。
 土を蹴り上げながら、みるみるうちに近付く巨体。

「ブモオオオオッ」
「ハアッ」

 狙うは地面に近い位置にある鼻。特に森の魔獣にとっては敏感で柔らかい場所だ。ギリギリまで待って大剣で掬いあげるように、カプロスの鼻先に思いっきり切りつける。そしてそのまま左前方に飛びのく。
 勢いがついているカプロスは、そのままドドッと走り抜け、俺が立っていた真後ろの巨木に突っ込んだ。
 ドオオオンッ
 巨大な音がして、絶対大丈夫だろうと思った巨木が斜めに傾く。カプロスは切られた鼻から血を流しながら、木の幹に牙を引っ掛けて少しの間その場で暴れていた。

「はああああああっ」

 気合を入れて一瞬だけ。体中の大半の魔力を腕から足までの強化にまわす。カプロスの身動きが取れない今がチャンスだ。
 少し離れた場所から助走をつけて駆け寄り、体当たりするように脇腹に大剣を深々と突き刺す。この一撃だけにすべてを賭けて。勢いがつきすぎて右腕まで当たってしまい、カプロスの凍って鋭く尖った毛が突き刺さる。
 ちっ、腕は強化してるんだが。仕方ねえ、気にしてはいられん。
 できるだけ深く刺して、抜くッ。

「ブオオオオッギュオオオオ!」
「っ!チッ、抜けねえ」

 暴れた拍子にカプロスの牙が大木から外れた。俺は慌てて足に魔力を注いでカプロスから飛びのく。
 武器を失った。
 大剣から手を離してしまったのは失敗か……だが仕方がねえ。このまま相手の体力がなくなるまで逃げるしかねえか。
 高速移動がいつものように、キンと耳を傷めつける。
 カプロスは脇に剣を突き刺したまま、激しく前足で土を掻いて、血走った目でこちらを睨んでいる。

「やべえな。こりゃ逃げるのも骨が折れそうだ」

 そうは言いながらも、逃げ足には自信があるんだ。さて、どっちの体力が先に尽きるか。
 駆けて駆けて、たまには木に上って逃げまわった。頑丈そうな木も気にせず、カプロスは頭から突っ込んでくる。
 やべえな。
 慌ててジャンプして逃げる。
 隙を見て足元の石を拾っては、腕を強化して投げつける。いくら山のように大きいからといっても、当たればそれなりのダメージだろう。
 やがて少しづつ体力が衰えてきたように見えるカプロス。走るスピードも遅くなった。どうやら大剣は急所に近い場所に刺さっていたらしい。
 随分長く走り回って、ようやく終わりが見えてきたその時だった。

「くええ!」

 ポチが隠れている場所の、触れそうなほどすぐ近くをカプロスが駆け抜け、思わず声が出たらしい。その声に、すかさずカプロスが反応した!ポチの方を憎々し気に横目で睨みながら走り抜ける。
 しまった。怒りをポチにぶちまける気か!

「やべえ、逃げろ、ポチ!」
「くえ!」
「チッ、ポチの足じゃあ逃げれねえか。仕方がねえ」

 ポチの横を駆け抜けたカプロスが遠くでこちらに向いて方向を変えた。その目は今、俺よりもポチのほうに向いている。カプロスが走り出すその前に、俺はなぎ倒された木々の中から鋭く尖った太い丸太を持ちあげた。
 場所はちょうど、ポチとカプロスの中間。
 まっすぐにしか走らないカプロス。その巨体はまぎれもなく今、俺とポチを狙っている。

「さあ、来いよ!」
「ブモオオオオ!」

 全力で丸太を持ち、尖ったほうをカプロスに向けて構える。後ろにはポチがいる。
 絶対に避けねえ。俺がここで止めてみせる!

 構えた丸太など意にも介さず、躊躇なく突進してくるカプロス。その巨体は俺の体重など簡単に跳ね飛ばせるだろう。普通なら。
 だが俺は「混ざり者」だ。いや、あの時魔王は何と言っていたかな?そうだ。森の民だ。この森の中で、身体から湧き出る魔力がいつもより勢いを増しているのを感じる。
 俺は森の民だ!
 足に、魔力を注ぐ。この大地に体を縫い留めるように。
 腰に、胸に、腕に、魔力を注ぐ。全力を込めて、尖った丸太をカプロスに向けて。

 一瞬が永遠のように感じられたその後、衝撃が俺の身を襲った。カプロスは全く避けようともせずに、全身の毛を灰色の氷でツンツンに尖らせて俺に向かった。そしてそのまま丸太に頭からぶつかってきたのだ。
 俺はガッチリと丸太を抱きかかえて、ただそこに立つ。一歩も引かないで。
 空にカプロスの血が舞い、頑丈な頭蓋骨が吹き飛んだ。しかし、死んでなおカプロスの勢いは衰えない。頭のない巨体はそのまま走ろうとし、おれにぶつかってきた。
 丸太を投げ捨て、俺はその巨体を全身で受け止める。魔力で地面に縫い留めていたはずの足がじりじりと後ろに下がる。俺も体も、悲鳴を上げていた。そして数メートル押し込まれ、ようやくカプロスは歩みを止める。俺はそのまま後ろへ吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
 だが、ポチの隠れている木までは飛ばなかっただろう。カプロスを押さえ切ったのだ。
 この勝負、俺の勝ちだ!

 意識が遠のく
 ふふ。これが俺の最後か。
 短い自由だったな。
 だが、この戦いは悪くなかった。

 ……。
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