東雲に風が消える

園下三雲

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日暮れに鳴く烏

2.

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「牡丹。疲れる前に休むんだぞ」

 爪先立ちで手を伸ばし碧龍の鱗を磨く牡丹に声をかける。牡丹はこちらに頷いて見せるものの手を止めることはない。日の光に髪を煌めかせ、鱗の一枚一枚を丁寧に磨く姿が愛らしい。
 余所見しながら掃除していたら、箒の先が松虎の背に当たって「グアゥ」と唸られた。

「ごめん、ごめん」

 その背を撫でながら謝って、牡丹から視線を外す。普段なら日がな一日眠っている松虎が今日は起きていることに首を傾げたが、考えても分からないので放っておくことにする。
 粗方掃除を終えて、牡丹を誘って一息いれようとした所で外から車の音が聞こえた。

「失礼」

 横柄に入ってきたのは馴染みの顔だった。

「よう、桔梗。元気にしてたか?」

 と、偉そうな声で俺を呼ぶ。

「元気だよ。橘はちょっと肥えたんじゃないか?」

 皮肉で返せば奴は鼻先でふんと笑った。

「筋肉だよ。お前の脂肪と一緒にすんな」

「なんだよ、筋肉自慢に来たのかよ。暇な奴」

「仕事だ、馬鹿」

 勝手知ったる様子でどっかりと椅子に腰かけると、橘は頭の後ろに手を回して反り返った。

 橘は俺と同じ、神祇省神獣寮神獣保護掛の官吏だ。主に中央で小型神獣保護官として栗鼠や兎などの保護・飼育を行っている。加えて大型神獣保護官としてこの山奥で働く俺との連絡係も務めてくれている。
 口も態度も悪いが心根はそこそこまともな奴だ。白い制服の胸元には藍色の瞳を持つ「藍栗鼠」を忍ばせている。人の少ない場所へ行くと藍栗鼠は橘の肩や腕を落ち着きなく動き回っているが、そこから離れようとしない辺り、よく世話しているのだろうと思う。
 湯を沸かして茶でも用意しようかとすると、橘は「今日は良い」と断って、それからじっと牡丹を見る。ただの興味というには、その眼差しに情が足りない。

「へぇ。ちゃんと右腕やれてんじゃん、雀。そろそろ鳴くようになったか?」

 半笑いで訊いてくる橘に不快感が沸き立ち、俺は思わず舌打ちをした。

「うるせえ。あの子には牡丹って名前があんだよ」

「ほぉー。これまた愛らしい名前つけたもんだ。雀要素は何処に消えたんだよ」

「情緒のねえ奴」

「なんとでも言え。んで、鳴いたのか鳴かないのか」

「鳴くとか言ってる内は教えてやんねえよ。ってかそもそも牡丹は普通の女の子だ」

「普通じゃないだろ、神の遣いなんだから」

「揚げ足取んな」

 何ということもない会話も牡丹には少し怖く思えたのか不安な表情でこちらを見ているから、「大丈夫だ、心配ない」と頷いてやった。橘は尚も牡丹を観察していたが、やがて

「まあ、いいわ。今日はお前と喧嘩しに来たわけじゃねえし」

と俺に視線を戻した。

「仕事だ、桔梗。吽膝山に烏が一羽。保護しに行くぞ」

 その言葉に引っ掛かりを覚えて

「烏なら俺よりお前らの担当だろ?」

と聞き返す。

「子熊と同じ背丈の烏のどこが小型だよ」

「子熊? 烏がか。見間違いじゃ」

「ねえよ。とにかく吽膝山だ、お前だって見りゃ分かる。すぐ支度しな」

 腕を伸ばして藍栗鼠を遊ばせる橘の姿に、これ以上ごねても無駄だと知る。何があってもいいように必要な荷物は予め全て鞄に詰めておいてあるが、心配はそこではなかった。

「牡丹、俺はこれから少し出掛けなきゃならない。碧龍達のこと、任せても大丈夫か?」

 初めての留守番となる牡丹に尋ねると、すかさず「おい」と橘が割って入る。

「何で置いてく前提なんだよ。連れてくぞ、そいつも」

「は?」

「だからその雀、……牡丹つったか。そいつも一緒に行くんだよ。そういうご神託だ」

 まさかの事態に頭が働かず、「え」も「あ」も言えない。ぐるぐると考え込んでいると、いつの間に傍に来たのか牡丹が背中に優しく触れてくれた。まさに牡丹の事で悩んでいたのに、その温もりだけで気が抜ける。

「だって、碧龍達はどうするんだよ」

「今までずっと置いてってただろ。今回だって鍵掛けて留守番させとけ」

 確かに橘の言う通り以前はもっと軽々しく留守にしていたし、牡丹を一人にしないですむのなら心配もないはずだが、しかし何かが心を重たくさせていた。

「碧龍、松虎、飴狼。待っていられるか?」

 碧龍と飴狼は空を見ながら俺の言葉には何の反応も見せなかったが、松虎はやおら立ち上がるとこちらへ近づいてくる。

「ん?」

 松虎は何を思ったか牡丹の洋服の裾をかじった。身動きが取れず牡丹が戸惑って俺を見る。

「松虎、何してるんだ。危ないだろ、離せって」

 その鼻先を軽く叩いて合図しても、松虎は頑なに離そうとしない。松虎は賢い神獣だ。こちらの言葉も大方分かっていて、それでも決して譲らないのには何か訳があるはずだと思うのだが、皆目見当がつかない。

「ついて来たいのか?」

 低く唸って松虎は首を横に振る。

「牡丹を行かせたくないのか?」

 押し黙るのは肯定の合図だろう。珍しく何かを強く訴えるような松虎の目に何か不吉な予感がした。

「分かってんだろ、桔梗。俺ら人間は、神様のご意志に背いちゃいけない」

 橘の声が鈍く頭を打つから、俺は松虎に目を合わせるようにしゃがんだ。

「ごめんな、松虎。牡丹は連れていく。ご神託があったから。分かってくれるな?」

 宥めるように言えば、松虎は渋々口を離した。不服そうな顔にやるせない思いが募る。

「ありがとう。牡丹は俺が――」

 俺が守る。と、ただその一言が言えない。

「俺が、ずっと手を繋いでいるから」

 左手を牡丹と繋いで見せれば、松虎は溜め息をつくように口元を震わせて徐にその場に寝そべった。行くなら早く行けと言われているようで、俺は早速に玄関先の戸棚から鞄を出そうとして躊躇した。結局繋いだ手を一度離して鞄を肩に掛け、ついでに壁に掛けてある自分の外套を牡丹に羽織らせてから、また手を繋ぐ。

「ごめんな。行ってきます」

 松虎も碧龍も飴狼もこちらと目を合わせない。強く感じる後ろめたさを振り切るように、扉を閉め、鍵を掛けた。
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