東雲に風が消える

園下三雲

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日暮れに鳴く烏

5.

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 俺が玄関を開けたのか、中から勝手に開いたのか分からない。

「松虎!」

 飛び出してきた松虎は俺の膝に頭突きする。手加減してくれていることを感じて、心苦しさに、松虎の首に腕を回した。

「すまない。すまない! 牡丹を追ってくれ!」

 じれったそうに何度もその場で地面を蹴りながら、松虎は空の匂いを嗅ぐ。俺はその背に跨って、それから一度碧龍と飴狼を見た。彼らも心配そうに外を見てはいたが、しかし建物から出てこようとはせず、今回は松虎に任せるということなのか、橘の傍らに座っているだけだった。

「日の沈む方角へ!」

 松虎に声をかければ、ビュンと風を切って駆け出した。

 車の何倍も速く松虎は進んでいくのに、恐怖心はこれっぽっちも抱かなかった。不思議なほどに木々が避けていく。というよりも、導いている。松虎の行きたい場所へ、木々が意思を持って道を造っているようにさえ思えた。

「危険だと教えてくれていたのに、お前の言うことを聞かなくてごめん。手を……、約束を守れなくてごめん」

 今言うべきことではなかったのかもしれないが、それでも自分のために謝罪したかった。身体全部を委ねた、頼もしい彼にずっと甘えている。

「俺を背中に乗せてくれてありがとう」

 頬をつけた首筋の細い毛がふわふわとして温かい。

「グアゥ」

 その返事が俺への許しなのか、呆れなのか、ため息なのかは分からなかったが、「ありがとう」ともう一度言った。そうして心を落ち着ければ、もう視界は潤まない。目一杯に空の果てまで映して、どこまでだって牡丹を探せる。

 松虎は荒い岩肌も難なく駆け上がって、少しばかり開けたところで立ち止まった。国中を見渡せる高さに息をのむ。

「牡丹……。あれだ! 行けるか?」

 西の海岸の上空を、ゆったりと廻る黒い影が見えた。小指の爪よりも小さなその黒は紛れもなく牡丹と烏だと、本能的に確信していた。

 松虎は勢いをつけて一気に崖を駆け降りた。頭から落ちていく。自分の体の重たさを強く感じるのに、体が空に留まっていようとして気持ち悪い。身体中の血液が上へ下へ振れるから気を失いそうになる。
 松虎はある程度下りたところで岩壁をダンと踏み切って、町の木々のてっぺんを飛ぶように渡っていった。まるで空に道があるように、颯爽と力強く進んでいく。
 徐々に加速する。ハッキリと見えてくる。大きな烏は何を思っているのか、牡丹をその嘴に咥えたまま、静かに暮れていく水平線を見つめている。

 ヒュン ヒュン ヒュン ヒュン!

 烏に狙いを定めると、松虎はその毛を逆立てて空へ飛び出した。数段飛ばしで階段を上っていくように、風さえも味方につけている。

「うっ!」

 松虎が烏に体当たりして投げ出される。うまい具合に烏の背に乗って見下ろせば、振り落とされた牡丹がスゥッと落ちていく。

「牡丹!」

 松虎が追いかけるが、距離は一向に縮まらない。

「グオーゥ!」

 松虎の叫びに、呼応したように最後の太陽が強く光った。光は吸い込まれるようにまっすぐに牡丹に伸びていく。眩しくて、それ以上に美しくて、息ができない。

 牡丹の羽衣が真っ白な光の色に染まっていく。黒髪は白く透き通り、開いた瞳の黒が深い。肩甲骨から大きな翼が広がって、空中に凛と立っている。まるで天女のような姿に、松虎は静かに傍らに寄り添った。

(大丈夫、なのか……)

 そう思ったのが伝わったのか、牡丹はこちらを見上げるとたおやかに微笑んだ。

 涼やかな風が吹く。それは為すべき事を知らせるように優しく促すから、俺は烏と向き合ってその首筋に丁寧に触れた。

「お前は、日暮れの空が好きなんだな」

 声を掛けながら見た空はもうすっかり夜の色をして、昼の光の僅かな残りに薄く紫を映すばかりだ。

「お前がさっきまで咥えていた少女はな、牡丹って言うんだ。可愛いだろう?」

 神獣と対峙する時、必要なのは正直であることだけだ。畏れすぎず、軽んじず、一人の人と一頭の獣として対等に在る。偽りを持たないこと、それが唯一で最大の敬意だった。

「あの子に空を見せてくれて、一緒に飛んでくれてありがとう」

 彼がそのつもりで牡丹を咥えて空を飛んだのか、本当のところは分からない。しかし牡丹を傷つけたくて飛んでいたわけではないということは、牡丹を見ていれば如実に感じられたから、俺に都合の良いように解釈した。

 雀から人間の姿になって歌が歌えなくなっただけではなく、空を飛ぶことも出来なくなったことは、牡丹にとってとても苦しいことだったろうと思う。それが今、牡丹は確かに空を飛んだのだ。風を友に空を行く感覚を、牡丹に思い出させてくれた。彼には、何度頭を下げても足りないくらいだった。

「君に体当たりをしたのは、松虎だよ。痛かったか? ごめんな」

 体当たりした場所には手が伸びず、代わりに艶やかな首筋を撫でる。気持ちが良いのか頭を預けてくるから、彼の気が済むまで撫でたままでいた。

「ほら、左手に見えるあの山で俺らは暮らしてるんだ。牡丹も松虎も。他に、碧い龍と、飴色の目をした狼もいる」

 家の方角を手で示す。

「お前もおいで。退屈だけど、落ち着いて暮らせる」

 頷くことも返事をすることも無い神獣の意思を量るのは難しい。だから、こういう時は一つ指示を出す。従ってくれたら、肯定の証だ。

「そこの松の枝に留まって。話をしよう。お前の顔もよく見せてくれ」

 烏は一度大きく旋回すると、風に乗ってゆっくりと大きな一本松の枝に俺を下ろした。トントン、と隣を手で示してやれば、彼はやおらに腰を下ろす。

「ありがとう。いい子だな」

 褒めれば、ツと俯いてから顔を背けた。あまりこういうのは慣れていないらしい。

「美しい羽だ。深い夜の色。……お前も見ただろ? 牡丹は昼を吸い込んで、眩しいほど白く染まっていった。お前とは反対。お前と牡丹で、ちょうど日暮れだな」

 そう言ってやると、彼は恥ずかしがって顔を隠す。存外と初な反応が素直で愛らしい。

「なあ、お前、菫烏キンウって名前はどうだ? 日暮れに最後まで残る菫色。お前によく似合うと思うんだ」

 彼は束の間固まって、それから唐突に枝を離れた。地面に着くギリギリを飛んだかと思えば、急速に空の果てまで高く飛んでいく。

「カー! カー! カー!!」

 ぐるぐると国中をはしゃいで回りながら、三度響いた鳴き声は夜の初めの冷たい空気に広がっていった。

「ハハッ! そうか、気に入ったか」

 追突しそうな勢いで飛び込んでくる菫烏を宥める。こんなにも名を貰って喜ぶ神獣も珍しい。

「帰ろうか。一緒に」

 菫烏は頷く代わりに俺を咥えた。背に乗せるという発想は未だ持たないらしい。

 すっかり空に溶けた羽は何もかもを包み込むように大きく広がると、西風に乗って町に下りた。
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