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暁を行く鷗
17.
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「うわぁ、街だ」
人の多さに思わず立ち尽くす。圧倒される独特の熱気というか、空気の重さに後ずさりすらできない。
「お前、山籠もりが長すぎて阿呆になったか」
見上げれば晴天。山から下りてきたというのに空が近く感じるのは、並び立つ大きな建物のせいか。緊張からか高揚からか、なんだか息苦しい気がしてくる。
「人が多いな。何かあるのか?」
「ただの平日だ。おい、はぐれるなよ。こっちだ」
ぼうっとする俺の手を橘はずんずんと引いていく。迷いなく進む橘に足を縺れさせながらどうにか着いていけば、西洋風の一際立派で新しそうな建物の前で奴は立ち止まった。
「え、えっ? まさか此処へ入るのか?」
入り口からして煌びやかだ。眩しく、そしてほんのりと不可思議な匂いがする。
「臆したか」
鼻で笑った橘のごく僅かに気遣いを混ぜたからかいに、嫌みで礼を返せるだけの余裕は今はない。
「いや、その、少し時間をくれ。こうも洒落た場所は馴染みが無さすぎる」
「なら端に寄れ。往来の中に立ち尽くしているな」
そうして手を更に引いて俺を太い柱の影に隠すように移動すると、橘は此処が「百貨店」という建物なのだと教えた。
薄々勘づいてはいたが、やはりここは一つの店というわけではないらしい。この建物の中に幾つも店が集まっていて、俺にも分かるように言うと、室内で行う青空市のようなものなのだという。とはいえ俺は青空市にも行ったことがないのでよく分からないが。
ただまあ、この建物が「百貨店」という名をもつと分かっただけでも恐れは少し消えていく。出入りする人々が美しく着飾って優雅に過ぎていくのを見ると、橘が「官服を着ろ」と言ってくれたことに感謝した一方で、箪笥に仕舞いっぱなしにしていたせいで所々虫に食われていたのをどうにか誤魔化して着てきた自分が情けなく恥ずかしくもあった。
「そろそろいいか?」
「ああ悪い、待たせた。行こう」
意を決して入り口を入ると、なんのためにそんなに大きいのか分からない広間と、その奥に大階段が鎮座している。荘厳、というか圧巻というか、言葉を探して天井を見れば、雨粒に光を灯したような電気が降り注ぐようで恐ろしい。
「なん、なんなんだ此処は」
「だからさっきも言ったろ。百貨店だっつーの、鳥頭が」
ぶっきらぼうに俺の背を押して、橘は颯爽と階段を上っていくと、踊り場で俺が追い付くのを待ってから右へ進んだ。
比喩でなく、本当にとりどりの店がそのまま並んでいた。俺は市を知らないが、やはりこれは青空市と比べてはならないんじゃないかと、そんなことを思いながら橘についていく。
愛らしい小間物屋を見つけて思わず足を止めると、数歩先で橘も気付いて止まり戻ってくる。にこやかに話しかけてくる店の主人と少し話しながら幾つか牡丹に合いそうな物を物色して、簪を一本と櫛を二枚購入した。
次にその少し先で洋服や反物を売る店を見掛けた。ふと立ち止まると、
「ようこそおいでくださいました。ささ、こちらへどうぞ」
と、あっという間に奥へ連れていかれる。なんとも強引な、番頭さんと呼ばれていた彼に戦きながら、それでもなんとか用件だけは伝えなければと思い、
「あ、ああ。あの、この位の背格好の娘の洋服を何か見繕ってもらえないだろうか」
と手で牡丹の背丈を示して見せると、彼は柔和に微笑んで腰を曲げた。
「かしこまりました。さあ、まずはお座りになられて。――外はよく晴れておりますね。道中お暑くはございませんでしたか? 今、冷茶を用意させますから」
「あ、いや」
息をしているのだろうかと不安になるほど喋り通す番頭に、どうにも戸惑う声しか出せない。促されるままに座布団の上に座ると、何処からかすぐに小僧が湯呑みを持って来た。
「いやあ、お客様。お客様が三つ隣の店を覗いていらした時から、ずいぶんな美丈夫がお二人いらしたとうちの若いのが色めき立っていたんですよ。お嬢様もさぞかしお美しい方なのでございましょうねえ」
「ああ。それはもう天女のような……。あ、いや、その、透き通るような肌をして、華奢で、春を告げるように笑う子だ。あの、服はあまり華美でないほうがいい。飛び切り上等なものを一つと、あとは動きやすいものが二、三あると嬉しい。金はこれほど持ってきた。ひとまずこれで見立ててくれまいか」
向こうの呼吸に持っていかれる前に、と一息で一先ずの用件を述べ、ドンと金の入った袋を置けば、
「おや……」
と番頭は驚いた顔をして少し固まる。何か不味いことをしただろうかと不安になりかけたところで、
「すまない、これはあまり買い物に慣れていないのだ」
と橘が割って入った。見たこともないような、人受けの良い笑顔を浮かべている。
「それではこちらは一度お仕舞いいただいて。少々お待ちくださいませ。いくつか良いものを持ってこさせます」
橘の言葉に何か察したのか番頭は優しく袋をこちらに返すと、何かを帳面に書き付けてから小僧にそれを渡した。
「よろしく頼む」
頭を下げると、向こうもつられたように頭を下げる。
「どうぞ、楽になさってくださいませ」
「いや、しかし緊張する。なんとまあ煌びやかなことか」
楽にしろとは言われても、ソワソワして居心地が悪くて落ち着かない。そもそも他所の人間と話すこと自体、俺の人生でそう何度もあることじゃなかった。ちゃんと出来ているだろうか。牡丹に似合いの物を、買って帰ってやれるだろうか。
怖くなって、膝の上で手を強く握りしめる。そんなことをしたって不安が消えるわけでもないのに。
「すまないが、少し外してくれるか。それと……」
橘が徐に立ち上がって番頭に話しかける。小さく耳打ちすると
「かしこまりました」
と番頭はお辞儀して離れていった。
それから橘はまた元のように座ると、パシン、と俺の背を軽く叩いた。
「静かに、落ち着いて、ゆっくりと見回してみろ。他の客はどのように振舞ってる? お前、観察するのは得意だろう」
耳馴染みのいい橘の声にひどく安心する。分かりやすく穏和なわけでも懇ろなわけでもないが、この乱暴な声は確かに俺を宥めた。
「なあ、お前。まさか街へ下りたのはこれが初めてじゃないよな」
「一度あるさ。確か入省する少し前に、枳殻に連れられて……」
思い出してくる。あの日もこんな風に眩しくて、風の匂いが違うことに驚いて、そんな俺を見てあいつは笑ってた。目を閉じればもっと鮮明に見えてくるだろうか。俺を育ててくれた人――枳殻の嬉しそうな顔も。
「そうだ。あの日もこんな風に着物の多く並んだ場所で、ぐるぐると何かを何度も宛がわれて。それで帰りに、茶店に入って少し甘い茶を飲んだんだ」
「官服を仕立てたのか」
「多分そうだと思う。……駄目だ。あの茶の味しか思い出せない」
「その頃から飲み食いにしか興味なかったんだな、お前」
「うるせえよ」
意図せず普段通りの悪態をついて、そうしてやっと自分を取り戻した気がする。何処かから楽しげな笑い声が聞こえて目を向ければ、他所の客が品を手に和気藹々と話をしていた。
「やはり私には少し若いかしら?」
「いえいえ、とてもお似合いでございますよ」
漏れ聞こえてくる声に、ああそうかと何かがストンと落ちた。変に身構えたり肩肘を張ったりするのではなく、彼らは純粋に胸をときめかせているのだ。手にしたその品に、というよりはむしろ、良い方へ変わっていくであろう己の未来に期待している。
これは牡丹のための買い物ではないのだ。牡丹に服を買ってやりたいという、俺自身を満たすためだけの我儘だ。俺自身がほんの少し、幸福になりたいだけだ。今この胸を巣食う不安も、そう思えば途端に、まるで意味のないもののように思えてくる。
「お待たせいたしました」
番頭が小僧を連れ、彼らにはおよそ似合わない華やかな色合いを手に戻ってきた。
人の多さに思わず立ち尽くす。圧倒される独特の熱気というか、空気の重さに後ずさりすらできない。
「お前、山籠もりが長すぎて阿呆になったか」
見上げれば晴天。山から下りてきたというのに空が近く感じるのは、並び立つ大きな建物のせいか。緊張からか高揚からか、なんだか息苦しい気がしてくる。
「人が多いな。何かあるのか?」
「ただの平日だ。おい、はぐれるなよ。こっちだ」
ぼうっとする俺の手を橘はずんずんと引いていく。迷いなく進む橘に足を縺れさせながらどうにか着いていけば、西洋風の一際立派で新しそうな建物の前で奴は立ち止まった。
「え、えっ? まさか此処へ入るのか?」
入り口からして煌びやかだ。眩しく、そしてほんのりと不可思議な匂いがする。
「臆したか」
鼻で笑った橘のごく僅かに気遣いを混ぜたからかいに、嫌みで礼を返せるだけの余裕は今はない。
「いや、その、少し時間をくれ。こうも洒落た場所は馴染みが無さすぎる」
「なら端に寄れ。往来の中に立ち尽くしているな」
そうして手を更に引いて俺を太い柱の影に隠すように移動すると、橘は此処が「百貨店」という建物なのだと教えた。
薄々勘づいてはいたが、やはりここは一つの店というわけではないらしい。この建物の中に幾つも店が集まっていて、俺にも分かるように言うと、室内で行う青空市のようなものなのだという。とはいえ俺は青空市にも行ったことがないのでよく分からないが。
ただまあ、この建物が「百貨店」という名をもつと分かっただけでも恐れは少し消えていく。出入りする人々が美しく着飾って優雅に過ぎていくのを見ると、橘が「官服を着ろ」と言ってくれたことに感謝した一方で、箪笥に仕舞いっぱなしにしていたせいで所々虫に食われていたのをどうにか誤魔化して着てきた自分が情けなく恥ずかしくもあった。
「そろそろいいか?」
「ああ悪い、待たせた。行こう」
意を決して入り口を入ると、なんのためにそんなに大きいのか分からない広間と、その奥に大階段が鎮座している。荘厳、というか圧巻というか、言葉を探して天井を見れば、雨粒に光を灯したような電気が降り注ぐようで恐ろしい。
「なん、なんなんだ此処は」
「だからさっきも言ったろ。百貨店だっつーの、鳥頭が」
ぶっきらぼうに俺の背を押して、橘は颯爽と階段を上っていくと、踊り場で俺が追い付くのを待ってから右へ進んだ。
比喩でなく、本当にとりどりの店がそのまま並んでいた。俺は市を知らないが、やはりこれは青空市と比べてはならないんじゃないかと、そんなことを思いながら橘についていく。
愛らしい小間物屋を見つけて思わず足を止めると、数歩先で橘も気付いて止まり戻ってくる。にこやかに話しかけてくる店の主人と少し話しながら幾つか牡丹に合いそうな物を物色して、簪を一本と櫛を二枚購入した。
次にその少し先で洋服や反物を売る店を見掛けた。ふと立ち止まると、
「ようこそおいでくださいました。ささ、こちらへどうぞ」
と、あっという間に奥へ連れていかれる。なんとも強引な、番頭さんと呼ばれていた彼に戦きながら、それでもなんとか用件だけは伝えなければと思い、
「あ、ああ。あの、この位の背格好の娘の洋服を何か見繕ってもらえないだろうか」
と手で牡丹の背丈を示して見せると、彼は柔和に微笑んで腰を曲げた。
「かしこまりました。さあ、まずはお座りになられて。――外はよく晴れておりますね。道中お暑くはございませんでしたか? 今、冷茶を用意させますから」
「あ、いや」
息をしているのだろうかと不安になるほど喋り通す番頭に、どうにも戸惑う声しか出せない。促されるままに座布団の上に座ると、何処からかすぐに小僧が湯呑みを持って来た。
「いやあ、お客様。お客様が三つ隣の店を覗いていらした時から、ずいぶんな美丈夫がお二人いらしたとうちの若いのが色めき立っていたんですよ。お嬢様もさぞかしお美しい方なのでございましょうねえ」
「ああ。それはもう天女のような……。あ、いや、その、透き通るような肌をして、華奢で、春を告げるように笑う子だ。あの、服はあまり華美でないほうがいい。飛び切り上等なものを一つと、あとは動きやすいものが二、三あると嬉しい。金はこれほど持ってきた。ひとまずこれで見立ててくれまいか」
向こうの呼吸に持っていかれる前に、と一息で一先ずの用件を述べ、ドンと金の入った袋を置けば、
「おや……」
と番頭は驚いた顔をして少し固まる。何か不味いことをしただろうかと不安になりかけたところで、
「すまない、これはあまり買い物に慣れていないのだ」
と橘が割って入った。見たこともないような、人受けの良い笑顔を浮かべている。
「それではこちらは一度お仕舞いいただいて。少々お待ちくださいませ。いくつか良いものを持ってこさせます」
橘の言葉に何か察したのか番頭は優しく袋をこちらに返すと、何かを帳面に書き付けてから小僧にそれを渡した。
「よろしく頼む」
頭を下げると、向こうもつられたように頭を下げる。
「どうぞ、楽になさってくださいませ」
「いや、しかし緊張する。なんとまあ煌びやかなことか」
楽にしろとは言われても、ソワソワして居心地が悪くて落ち着かない。そもそも他所の人間と話すこと自体、俺の人生でそう何度もあることじゃなかった。ちゃんと出来ているだろうか。牡丹に似合いの物を、買って帰ってやれるだろうか。
怖くなって、膝の上で手を強く握りしめる。そんなことをしたって不安が消えるわけでもないのに。
「すまないが、少し外してくれるか。それと……」
橘が徐に立ち上がって番頭に話しかける。小さく耳打ちすると
「かしこまりました」
と番頭はお辞儀して離れていった。
それから橘はまた元のように座ると、パシン、と俺の背を軽く叩いた。
「静かに、落ち着いて、ゆっくりと見回してみろ。他の客はどのように振舞ってる? お前、観察するのは得意だろう」
耳馴染みのいい橘の声にひどく安心する。分かりやすく穏和なわけでも懇ろなわけでもないが、この乱暴な声は確かに俺を宥めた。
「なあ、お前。まさか街へ下りたのはこれが初めてじゃないよな」
「一度あるさ。確か入省する少し前に、枳殻に連れられて……」
思い出してくる。あの日もこんな風に眩しくて、風の匂いが違うことに驚いて、そんな俺を見てあいつは笑ってた。目を閉じればもっと鮮明に見えてくるだろうか。俺を育ててくれた人――枳殻の嬉しそうな顔も。
「そうだ。あの日もこんな風に着物の多く並んだ場所で、ぐるぐると何かを何度も宛がわれて。それで帰りに、茶店に入って少し甘い茶を飲んだんだ」
「官服を仕立てたのか」
「多分そうだと思う。……駄目だ。あの茶の味しか思い出せない」
「その頃から飲み食いにしか興味なかったんだな、お前」
「うるせえよ」
意図せず普段通りの悪態をついて、そうしてやっと自分を取り戻した気がする。何処かから楽しげな笑い声が聞こえて目を向ければ、他所の客が品を手に和気藹々と話をしていた。
「やはり私には少し若いかしら?」
「いえいえ、とてもお似合いでございますよ」
漏れ聞こえてくる声に、ああそうかと何かがストンと落ちた。変に身構えたり肩肘を張ったりするのではなく、彼らは純粋に胸をときめかせているのだ。手にしたその品に、というよりはむしろ、良い方へ変わっていくであろう己の未来に期待している。
これは牡丹のための買い物ではないのだ。牡丹に服を買ってやりたいという、俺自身を満たすためだけの我儘だ。俺自身がほんの少し、幸福になりたいだけだ。今この胸を巣食う不安も、そう思えば途端に、まるで意味のないもののように思えてくる。
「お待たせいたしました」
番頭が小僧を連れ、彼らにはおよそ似合わない華やかな色合いを手に戻ってきた。
応援ありがとうございます!
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