東雲に風が消える

園下三雲

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白夜に見る七星

27.

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「枳殻! 枳殻ってば!」

 朧に光の射す世界に声が響く。乱暴で、しかし何処か幼さと甘えの残る声だ。

「うるせえぞ、桔梗。キャンキャン吠えんな」

 怠そうな声が答える。片手で頬を掻きながら枳殻は振り返った。

「だって飴狼がぁ」

「あ?」

 桔梗は枳殻の手を強引に取ると、引きずるようにして玄関先まで連れていく。

「追っかけっこしてたら引っ掛かっちゃってさあ。傷が……」

 入口の近くで寝そべる飴狼の脇腹は一部だけ毛が薄く、赤いのか黒いのか判別の付きづらい血に塗れていた。桔梗に強く促されて枳殻はそこに顔を近づける。

「あぁー、これな?」

「うん。棚の薬ももう無くてさ。これだろ?」

 桔梗はポケットから貝殻を一つ出して見せる。白地に赤茶色の線が一本太く入るそれの口を開ければ、深い色をした薬らしきものは淵に寂しく残るばかりだった。

「ああ、そうだ。よく覚えてたな」

「こないだ教えてくれたんじゃん」

 口を尖らせる桔梗の頭を枳殻が撫でると

「なあ、撫でてなくていいから、飴狼が――」

と、撫でなくてもいいと言う割には、反抗もせずに撫でられたままでいる。

「だーいじょうぶだ、飴狼なら。取り敢えずこれ塗っとけ」

 枳殻はポンポンと桔梗の頭を二度ほど軽く叩き、それから棚の右端から薬を出した。桔梗は黙ってそれを受け取って、そっと飴狼の傷口に塗り込んでいく。

「薬、お前が作ってみるか?」

 斜め後ろから様子を見ていた枳殻が言うと、「俺が?」と桔梗は嬉しさと不安と期待と緊張を綯交ぜた複雑な顔をした。

「おう。必要な薬草、棚から出せるか?」

「出せる。試験でも聞かれたから」

「そいつは頼もしいな、次点様」

「言うなよ! 別に悔しかねえけど!」

「悔しくないなら、言ったって良いだろ?」

「意地悪いぞ、お前」

 桔梗が睨むも、枳殻はそんなの何てことないとでもいうようにニヤニヤと笑うばかりだ。

「主席様とは仲良くなったんだろ?」

「仲良いとか、そういうの分かんねえ」

 棚から薬草を出しながら桔梗は嘘もなく答える。

「この間の入省式だって一緒に居たじゃねえか」

「あれは、たまたま俺が一人で、橘も何故か一人だったから」

「楽しそうに話してたよな」

「飴狼と遊んでる時の方が楽しいけど」

「素直じゃねえ奴」

 桔梗は口をすぼめて枳殻を見て、それから視線を外して少し考えてから、もう一度枳殻を見た。

「俺、ああいう所でどうしたら良いのか分かんねえから、あいつが居て助かったな、とは思ったよ」

「……そうか」

 枳殻が桔梗を見る視線が優しくて、言葉よりも雄弁な温かさがあった。頭に手が乗るわけでも肩が触れるわけでもないのに、彼らの間には風さえ通らないのではないかと思うほど、二人の結び付きが感じられた。

「枳殻、これで合ってる?」

「うん。バッチリだ。……ああ、でも」

「でも?」

 桔梗が見せた薬草の中から幾つかを手に取って

「ほら、ここ見てみ?」

と、葉の先や茎の付け根などを指し示す。目を凝らせば僅かな変色が広がりかけていた。

「うわ、悪くなってんじゃん」

「な。新しいの採りに行くか」

「俺も?」

「お前も」

 うん、と頷きかけて桔梗は枳殻の裾を掴む。

「ねえ、でも飴狼は」

 不安気な桔梗に枳殻は呆れたように笑って、

「だーから、大丈夫だって。傷の深さは? 幅は? 種類は? 冷静に観察してみな」

と、桔梗の頭をグイと飴狼に近づけた。よろけて桔梗は尻餅をつく。

「んで? 着いてくんのか、こないのか」

 見下ろす枳殻の目は挑発的で、しかしその視線には気づかずに桔梗はじっと傷を見つめている。迷うように傷のそばに触れ、飴狼の表情を見、俯いて、そして。

「……行く」

 ムスッとしながら立ち上がった桔梗の肩をポンと叩くと、枳殻は入り口脇にかかる外套を手に取った。

「自分で着れるし」

「羽織るのは着るって言わねえんだぞ」

「うるせえ。子供扱いすんな」

「大人は追いかけっこしねえんだよ」

 笑う枳殻に何も言い返せず、桔梗は弱い拳を枳殻の胸に当てつけるばかりだった。
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