雨は藤色の歌

園下三雲

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湖月の夢

4.

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「失礼します」

 レオナルドがレポートを持って教員室のドアを開けると、壁際に立ち歓談するルカとシェーベル、そして彼らを無視するように書類を捌くアルバートが自席に座っていた。

「アルバート先生、全員分のレポートです」
「ああ、ありがとう」

 アルバートはレポートを受け取ると、署名と枚数を確認していく。

「たしかに。お疲れさまでした。……一人ですか?」
「はい。ぞろぞろと押し掛けてもご迷惑かと思い、集めて持ってきたのですが……」
「いやなに、責めているわけではありません。一人なら都合がいいと思ったもので」

 アルバートはそう言ってルカに目を遣った。

「ちょっと、話しておきたいことというか、お願いがあってね」

 ルカがレオナルドに向き合うと、アルバートも書類を整理する手を止めた。

「もう、少し噂にはなっているみたいだけれど。一月後にブルダムに行くことになったんだ」
「ブル……」

 その国の名を聞くだけで複雑な感情が膨れ上がる。西の山並みに沈み行く太陽。風を受け黄金に波打つ小麦畑。荒ぶる兵の怒号。焼ける家。息苦しい熱気。眩暈がするほど鋭い匂い。父を送り出した春のはじめの冷たい空に、燕の群れが飛んでいたこと。

「ああ。中央教会が布教を考えているんだけど、その前に今のブルダムの情勢を把握するためにね。ただ、一人で行くわけにも行かないから、手伝いをシェーベルに頼むことにしたんだ」

 ルカがシェーベルの肩に手を置く。シェーベルもまた照れくさそうにルカに一歩近づいた。

 頭頂部から血の気が引いていくのを、レオナルドはどこか冷静に感じていた。耳に椀でも被せたようにボワボワと音が響く。

「それ……は、助手ということですか」
「そうなるね。時間がないから慣例のように選考は行わなかったのだけれど」

 夢の潰える瞬間、こんなにも世界は鈍く鳴るのか。レオナルドは感情が形を無くしていくのを感じながら、ただ「そう、ですか」と答えることしか出来なかった。

「それで、シェーベルを連れていってしまうと、レオナルド、君が一番年長になるだろう? だから、君にもどうか了承してほしいと思って」
「……ええと、すみません。それは、何を?」
「ルカ。だからいつも言っているでしょう。重要な話ほど、君は言葉が足りない」

 黙ってやり取りを見ていたアルバートがたまらず口を出すと、ルカは分かりやすく拗ねた顔を見せた。

「そんなこと言ったって、これでも僕は頑張った方だろう? アルバート頼むよ」
「まったく。……つまるところ、あと一月でルカもシェーベルもここを去る。即ちこの教会の環境が大きく変わるということです。そうすると、子どもたちも不安定になりやすい。そういう子たちも含めて支え、まとめていってくれないか、と、ルカはそう言っているわけですが」
「どうかな? レオナルド」

 二人の大人の目がこちらに向いて、働かない頭になんとか鞭を打った。自分が阿呆だったらいいと思った。これが決定事項だと察知できないくらいに子どもだったら、思い切り駄々をこねて彼らを困らせてやれただろうかと、レオナルドはそんなことばかり考えていた。

「……シェーベルは? 納得しているの」
「うん。その、まさか自分が助手なんて考えてもいなかったんだけど、見識を広めるのに良い経験だって先生のお話があって、それもそうかなって」

 まんざらでもなさそうな雰囲気のシェーベルの、その目を見ることがレオナルドにはできなかった。シェーベルの頬は淡く紅潮し、口角が異様に上がっていた。

 嬉しいのか。なるつもりもなかった助手に選ばれたのが、そんなにも誇らしいか。レオナルドの中には掛けたい言葉がいくつも浮かんで、しかしそれがどのような感情に色づいているのかまるで分からないでいた。

「そう、か……。シェーベルが納得しているのなら、私は」
「いいかい?」
「もう、決まったことなのでしょう。ならばそれに従うまでです」
「レオナルド。ありがとう」

 ルカはレオナルドを優しく抱きしめ、「嫌だと言われたらどうしようかと思ったよ」と小さく笑った。

「ずるい方です。私が嫌だと言わないのをご存じのくせに。……もしも私が嫌だと言ったら、どうなさるおつもりだったのですか?」
「ええ、困る。……なんてね。そのときは、君が納得してくれるまで、時間の許す限り言葉を尽くすつもりだったよ」
「結局、私は頷く以外にないじゃないですか」

 背中に回されたルカの手が温かかった。息を吸えばルカのにおいがした。噎せ返りそうなのを隠したくて、レオナルドは握った自分の手のひらに爪を立てた。

「まったく、私はいつまでむさくるしい抱擁を見せつけられねばならないのです?」

 アルバートの声に、ルカはようやくレオナルドを離した。抱きしめられていれば苦しいのに離されれば寂しくて、もう一度抱きついてシェーベルに見せつけてやりたくなる心をきつく締めつけてなんとか押しとどめた。

「レオナルド。明日の朝礼で話をするつもりですが、どうしますか? もし心の準備が必要なら、来週でもその先でも構いませんが」
「ああ、いえ、明日で大丈夫です。多分」
「本当ですか。私はルカと違って貴方の意見を尊重しますよ?」
「ん! その言い方、傷つくなあ」
「事実ですから。それで? レオナルド。何に気を遣わなくてもいいのですよ。本当に明日で大丈夫ですか?」
「はい、構いません。ありがとうございます」

 訝しがるアルバートに、レオナルドは僅かに口角を上げて答えた。アルバートはじっとレオナルドを見つめると、小さく息を吐いて立ち上がった。

「ならば今日はもう休みなさい。これから何かと大変なことが続きます。考えることも多いでしょうが、今は頭も心も散らかったままでいいですから。下手に整理しようとせずに寝てしまいなさい」
「……はい」

 アルバートの気遣わしげな眼差しに堪えていた感情が溢れそうになって、レオナルドは視線を下にそらした。

「あ、ああ、あの。アルバート先生、清掃の時に報告した長椅子の補修ですが」
「ええ、どうしました?」
「その、明日の朝礼の後ということでしたが、変わりなく? ええと、動揺する子にはトンカチは危なくないかと思ったのですが」
「ああー、そうですね。失念していました。二班に分けましょう。マルコなんかは特に騒がしいでしょうから、ルカに任せます」
「僕? まあ、いいけど。公同礼拝で配るポプリでも作ろうかね」
「では、レオナルドは私と補修を。あとの人選は明日の様子を見てからにしましょう」
「レオナルドは本当に気が利くね。頼もしいよ」

 頼もしいと褒めるルカの言葉が、鎌鼬のようにレオナルドの耳を傷つけた。頼もしいと思うなら僕を連れて行ってよと、思わず声にしてしまいそうで口を引き結んだ。

「では、失礼します。おやすみなさい」

 挨拶をして教員室を出る。暗い廊下を一人で歩きながら、 ため息をつこうとして、吐く息が震えそうな気がして息を止めた。教員室にいる間ずっと押さえつけていた感情が、形を持たないまま濁流のように喉を駆け、鼻を刺し、目の裏まで押し寄せる。泣いてしまいたかった。悔しいだとか、悲しいだとか、そんなものではなく、これがどんな感情なのか名前を見つけてしまう前に、泣いて何処かへ追いやってしまいたかった。

「うっ……、ぁぁ」

 どれだけ息が震えても、呻き声が漏れ出ても、涙は流れてくれない。癖付いた「泣いたふり」は七年を経て、嘘つきな心を苦しめる。自業自得だ。楽になりたいのにそうなれないのは、愚かで浅ましいこれまでの自分のせいだ。そうやって意識をすり替えれば、この得たいの知れない感情からほんの少し目をそらすことができる気がした。

 レオナルドは足を止め、目を閉じて深呼吸を繰り返した。教員室から学寮まで距離があって良かった。いま友らに会えば、うまく誤魔化せる自信がなかった。

 ここに残って友らの面倒を見ることもルカの仕事には必要なことで、ひいてはヴィルトゥム教のためになる。ルカのそばにはいられないし、別に自分でなくてはならない仕事でもないけれど、それでも大切な役割で、ルカに直に頼まれたのだ。こうして先に話をして貰えただけ凄いことだ。そう言い聞かせてどうにか前を向こうとする自分があまりに惨めに感じられて、そんな自分を振り切るようにレオナルドは目を開けた。

 歩き出す。足がいつもより重たいことに気がつかないふりをする。竪琴の弦を張るように、俯かないように慎重に、自分を澄ませて律する。喉が詰まっても苦しくても、視界が黒く眩んでも、息をしていれば生きていける。

「レオナルド!」
「ダレン……」

 遠くから掛けられた声に目を凝らす。走りよる彼はいつものように可愛らしいのに、何故自分を迎えてしまうのかと、疎ましいとさえ感じてしまった自分をレオナルドは軽蔑した。

「お風呂、もう上がったの?」

 微笑みを貼りつけて、口から出した声が震えなかったことにレオナルドは小さく安堵した。

「うん。……レオナルド、叱られた?」
「え? いや、叱られてないよ。どうして?」
「あ、ええと、うーん、なんとなく?」
「ごめんね、多分いま、平常心じゃないから、心配かけたね」
「何かあったの?」
「ちょっとね。……内緒に出来る?」

 誤魔化せているだろうか。ダレンの見てきた「真面目で、優しくて、歌が上手で、美人」なレオナルドで居られているだろうか。教員室にいる時よりもずっと、レオナルドは心臓が縮む心地がしていた。

「ルカ先生とギュッてしちゃった」
「ええっ!!」
「シー。内緒だよ。皆に教えたら絶対羨ましがられるから」
「僕だってちょっと羨ましいよ」
「ふふふ、そうだよね。ごめん。お裾分けね」

 レオナルドは嘘をつかずにダレンをかわす自分を狡く感じながら、それでも抱きしめる彼を騙せている自分に僅かに希望を持った。

「ちょっと、顔が赤いなあって思ったの。レオナルド、ドキドキしてたんだね」
「うん。久しぶりにドキドキしちゃった。隠しきれなかったなぁ」
「ルカ先生、いいにおいした?」
「したした。甘いにおい」
「うわあ、いいなぁ」

 ダレンは体を離してレオナルドを見上げる。レオナルドはそれに気づきながら、窓の向こうの月を探した。

「あーあ、お風呂に入るのが惜しいなあ」
「上がったら、お裾分けのお裾分けしてあげるよ」
「なんだそりゃ。それならもっとダレンにくっつけておいちゃえ!」

 そう冗談めかして、レオナルドはもう一度ダレンを思い切り抱きしめた。歪な笑顔も、混乱した感情も、全部、抱きしめる強さで誤魔化せてしまえたらいいと思った。

 新月なのか、厚い雲に隠れているのか、暗いばかりの空にレオナルドはたまらなく安心した。風もない闇の中に、今まで知らなかった自分のおぞましい影を隠せるような気がしていた。
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