雨は藤色の歌

園下三雲

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雪原の紅い風

43.

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 その夜、レオナルドは夢を見た。

 果ての無い暗闇に、自分の体だけが酷く鮮明に見える。

 ねちゃねちゃとへばり付く床から強引に足を離しつつ前に進めば、やがて一輪の花が現れた。紅く可憐なその花に手を伸ばす。自分の手に傷がないことにはさほど関心なく、レオナルドはその花弁に触れた。

「ひっ……!」

 レオナルドは悲鳴を上げて手を引いた。ドロドロと花は黒く溶けていく。邪悪な何かに引き摺られるように、闇の中へじわりと消えていく。

 レオナルドは自分の手を見つめた。指先から、パラパラと崩れていく。鞭の痕が数本、手のひらに紅く伸びてはボコンと盛り上がり、やがてその痕だけを残して手の平全てが朽ち果てると、紅は風に染まり流れていった。

 気がつけば膝まで何かに沈んでいた。汚泥のようなものが足に絡まって動けない。それどころか、もがけばもがくだけ沈んでいく。

 腕を天に伸ばしたのは無意識だった。もはや闇に消えた手では何も掴むことが出来ないというのに、救いを求めるように腕を伸ばしていた。

 助けて、と、声が出ない。どんな言葉もどんな音も、底無しの闇が全て奪っていく。不思議なほどレオナルドは願っていた。助けて欲しい。沈んでいく自分を引き上げて欲しい。生きたい。生きたい。

 レオナルドの目から一粒の涙が落ちると、それは粒のまま空間をふわりふわりと漂っていった。遠く広がっていく。淡い光が小さく反射する。

 レオナルドはその光景に覚えがあった。死んでしまいたいとさえ思ったあの日、静かに月の光を映した湖面の煌めき。

「私は君のその生き方が好きじゃない。それでも、君は自分を傷つけることでしか自分を守れなかったんだろう? そうしなければ息が出来なかったんだろう?」

 アルバートの声が聞こえる。自分の心の内側から、その声はこの身を守るように包み込んでいく。

「向き合うんだ。君が愚かで醜くて嫌いだと思う君を受け入れるために」

 いつだったか貰った言葉に、今もう一度自分が救われていくのをレオナルドは感じていた。

 ああ。ああ。思いが言葉の代わりに涙になって溢れていく。一滴、一滴、広がって大きな湖になる。足元の闇さえ受け入れて、清かに凪ぐ。円かな月が映される。

 レオナルドは湖面の上を歩いていった。素足に冷たさはなく、ただ穏やかな心のままに歩いていく。


  友よ 信じなさい
  君の歩んできた道を
  友よ 愛しなさい
  君の心の在るままを


 あの日アルバートが歌ってくれた歌を、レオナルドは口ずさんだ。歌は闇に消え、光に消え、レオナルドの体に溶けていく。

 不意に吹いてきた紅い風がレオナルドの手に戻った。痛ましく荒れた手に、もはや愛着も希望もレオナルドは持たない。在るのは愚かしいと思う感情と、それに余り有る自分への愛おしさだった。

 レオナルドは両手を重ねて胸に当てる。

 どれだけ闇に呑まれても、光はこの心の中にずっとある。前を向く強さがなくても、空を仰ぐ勇気がなくても、生きていける。声も温もりもここにあるから、自分を愛することが出来る。

 レオナルドが目を閉じると月の光は目蓋の裏に柔らかく満ち、夢が朧に交じっていった。
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