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第四章 闇を祓う輝き

<閑話>我輩はただの猫である

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 それは、ただの猫であった。

 自分の生まれなど、もう覚えていない。
 砂に塗れた地にいた気もするし、大きな河を泳いでいた気もする。

 住みよい地を求め、陸や海を渡り、辿り着いた先は小さな島国。
 人間と共に生き、数多の人間を看取り、いつしか自らがどれだけ生きたのかも忘れてしまった。

 人間と共に暮らすことは嫌いではなかったので、気に入った飼い主を見つけては、その主の望むように姿を変えていった。
 血が沸き立つような戦いに身を投じたことも、ただ縁側でのんびり寝そべるだけの暮らしもあった。

 そして、何人か、何十人か、何百人目か分からぬ飼い主は、一人の少女であった。


 穏やかなそよ風を浴びながら、大きな欠伸を一つ。
 夕日を思わせる、赤い瞳は、空を仰いだ。

 季節はいつしか梅雨時へ。
 分厚い雲が流れるが、今日は貴重な晴れ間であった。
 我が飼い主はせっせと洗濯に励み、飼い主の主は久し振りに外で修行する・・・・・・各々がやるべきことを為した後、二人は茶を飲んで休憩をしていた。
 無論、可愛い猫ちゃんである自分にも、茶と菓子が用意されている。
 しかし、何か起きる予感がして、門扉の上で寝転んでいた。

「良夜さん、体は大丈夫か?」
「ええ、今日は調子が良いですし・・・・・・私も、撫子の住んでいる所へ行きたかったのです」
 門扉の外からは、強い霊力の気配と、それを感じさせない穏やかな会話。
 撫子の兄と婚約者が此方へと歩いて来る姿を確認し、猫は自分の予感が正しかったと微笑んだ。

「藤花さーん」
「はーい」
 大きな声でやり取りが交わされた後、飼い主が門扉を開ける。
「葵様! それに、良夜様まで!」
「突然、お邪魔して申し訳ありません」
「これ、土産だ」
「まあ、ありがとうございます! どうぞ、どうぞ・・・・・・」
 天津桐矢と相対している時の半眼とは違い、飼い主は瞳を輝かせて二人を見上げている。
 美しく優しい天津良夜と、麗しいながらも豪胆な霜凪葵・・・・・・この仲睦まじい婚約者を、飼い主は崇拝しているかのような素振りを見せる。
 この二人を見ている所為で、飼い主は『恋愛』や『結婚』に対して理想が高くなりすぎているのでは・・・・・・と思うのが、最近の猫の悩み。

「すまないな。撫子はどうしている?」
 葵の方は迷いなく邸宅の中に入ろうとしているが、良夜は足を止めて、ある一点を見つめていた。
 門扉からふわりと降り立つ自分へと、視線を動かして。

「藤花さん、葵さんを先に案内していてください」
『えっ?』
 主と葵の声が重なる。
「私は、挨拶をしなければいけませんので」
「そうか、分かった」
「え、は、はい」
 此方を認識できていないはずの葵の方が、良夜の言葉をすかさず受け入れる――これが、付き合いの長さというものか。

 心配そうな表情を見せつつも、主が葵を屋内へ連れて行った後、良夜は足を動かす。
 その歩みは、間違いも無く、自分へと向かって。
 そして――
「強きお方、感謝いたします」
 目の前で跪くと、良夜は此方に目線を合わした。


「天津家の人間は、優れた術者を産むことに関しては見境ないのですよ」
 苦笑を交えつつ、天津良夜が語るのは、自らの家系。
「父方の祖母は、東北の方から招き入れられた巫女だと聞いています。この世ならざるものを『視る』力を有していたようなので・・・・・・私の体質は、彼女の血筋でしょう」
 幼い頃から体が弱く、術の行使はできないだろうと見做されながらも、良夜はその目があったからこそ、天津家に籍を残すことを許されていたそうだ。

「お前さん、やはり最初から我の存在に気付いていたか」
「ええ・・・・・・最初に藤花さんと出会った時から、貴方様には偉大なる力を感じていました。強く、熱く、眩しい炎のようで・・・・・・葵さんが感じ取れないほどの隠形の力を有する格の高さ・・・・・・日輪の神の如き存在かと」
「おいおい、買い被りすぎだ」
 畏敬の念を感じさせる良夜の声を遮り、猫は苦笑する。
「我はただの猫。長く生き過ぎて、自分が猫であることしか覚えていない年寄りさ・・・・・・今代の主は我を太陽に見立てた。それだけだ」
「成程・・・・・・そうですか」
 良夜は、穏やかな瞳で頷いていた。
「それでも、貴方様がいたからこそ、私は葵さんの提案を受けることができた・・・・・・撫子を守る人を探そうと考えた時、『自らを守る力があること』を条件の一つにしていましたから」

『呪い』の如き靄に覆われた撫子の傍にいてもそれに呑み込まれず、尚且つ、彼女を冷遇している使用人達に害されることのない人物――天津家本邸の息がかかっていない人物で、それを探すのに難儀していたという。

「撫子を守り、慈しんでくれる優しい人柄と、あらゆる悪意を撥ね退けるような強さ・・・・・・藤花さんと貴方様がいてくれたからこそ、母上の呪いから撫子と・・・・・・そして、芙蓉を解放することができたのです。本当に、感謝しかありません」
「まあ、母君の術を解いたのは主殿だ。我にできんことを、あの娘はやってくれた」
 猫はただ狩り、捕食するだけ・・・・・・十年も刻み込まれた呪いを祓うなど、管轄外である。
 高鴨藤花という娘でなければ、飼い猫は主を守る為に撫子を手に掛けただろう。

「本当に、不思議なお嬢さんです」
 猫の言葉に、良夜は深く頷いていた。
「撫子の体を癒し、心を慰めてくれれば・・・・・・と思っていたのに、あの方は、それ以上の大義を為してくれた・・・・・・葵さんの見立ては正しかった」
 主が撫子を思い、親身になって彼女を守ったからこそ、撫子は母の術に抵抗する体と心を育んだ。
 あの清く、正しく、たくましく・・・・・・そして少し厚かましい――年頃の娘らしい気質を備えた彼女は、無限の可能性に満ちている。

「葵さんや、霜凪の方々が非常に気に入っていましてね・・・・・・『撫子がいらないと言ったら、我が家の養子にするぞ』なんて言ってるんですよ」
 そんなことを言いながら、良夜は、少し悪戯めいた笑みを浮かべる。
「私は、自分の義妹にしたいと思っているんですがね」
「・・・・・・さあ、道のりは遠いぞ?」

 猫が思い浮かべるのは、目つきの悪い、不愛想な男・・・・・・きっと、良夜も同じことを思っているのだろう。
 彼と相対すると、主も同じような顔をしているので、春の予感など髭の先程度も見当たらないが。
「私や父の分、彼には苦労掛けていますから・・・・・・支えてくれる存在がいれば――」
 迫る足音に気付き、良夜は口を閉ざす。
「誰か来ましたね」
「そのようだが・・・・・・」

 今までにない、唸るような足音と、大きな霊力の気配に、猫は首を傾げる。
 物音だけなら『甲乙』を彷彿とさせるが、霊力は桁違い。
 桐矢や葵すらも凌駕するような力の持ち主に、猫は些か心が浮足立った。

 その人物は、門扉の前まで来ると、喧しく扉を叩く。
 それが鳴りやんだかと思えば――門を高く飛び越える人影が見えた。
 轟音を上げて着地した体躯は、ひょろりと背が高い。
 細身ではあるが、手足は鍛え上げており、力強さを感じる。

「あれは・・・・・・父上か?」
「ほおお?」
 呆然と呟く良夜の傍で、猫も間の抜けた声を上げてしまった。
 十年に渡って音信不通だった天津家当主・・・・・・よくよく見れば、確かに、桐矢や撫子に似た眉や瞳の顔立ちであった。

 そんな当主らしき人物は、此方に気付く様子もなく、ただ真っ直ぐ邸宅を見つめており――
「撫子ぉぉぉぉ!!」
 家屋を震わすような大声で叫んでいた。
「撫子はおるかぁぁぁぁ!?」
 そのまま、扉を破壊する勢いで開こうとしたが。
「うるさいわね! この変質者!」
 開いた扉から降り注ぐ白い粒――多量の塩を浴びて、悶絶する。
「・・・・・・まあ、そうなるな」
 猫は頷くしかなかった。
「父上、撫子は貴方の顔を知らないんだ・・・・・・」
 箒で追い立てられている当主の元へと駆け寄る良夜。
 そんな息子に気付かず、当主は這いずりながらでも邸宅に入ろうとしている。


 誰も来なかったはずの、寂しい住居は、今ではとても喧しい。
「やれやれ、おんしの周りは落ち着かんの」
 当分、退屈しなくて済みそうだ――
 猫は溜め息を吐きながらも、満足そうに尻尾を揺らした。
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