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後談 夢の跡の後始末

十四、傷付いたのは

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「いやぁぁ!」
 小さな悲鳴が上がる。

 突き飛ばされた撫子にも、状況は理解できたのだろう。
 朱代は、台所から包丁を持ち出して、此方に危害を加えようとしていたのだと。

 撫子の目の前では、藤花の胸に包丁を突き立てる朱代と、そんな彼女を逃がさない為かしっかりと腕を掴む藤花――そんな、凄惨な光景が広がっていて。


 狭い廊下で向かい合ったのが災いしたか、桐矢達が全てに気付いた時は、朱代の本懐が達成された後だった。

「藤花!」
 朱代の体を水無月家当主と使用人達で押さえている間、藤花は桐矢達に介抱されていた。
 桐矢の腕の中で横たわる藤花は、浅く呼吸を繰り返している。

「早く病院に!」
「藤花、しっかりして!」
 必死の形相で藤花を抱え上げようとしている桐矢や、涙を流しながら藤花の手を握る撫子。
 そんな彼等とは反して――

「あの・・・・・・どうしよう」
 藤花の方は、何故か平然とした様子を見せていた。

「撫子様、痛くないです」
「え?」
 刺された時の衝撃こそ感じたものの、覚悟していたほど痛くなかった。
 何故か、『ぱきっ』と小枝が折れた時のような音が耳に届いたぐらいで。

「お前・・・・・・それ、もっとやべぇんじゃ・・・・・・見せてみろっ」
「変なこと言わないで下さい」
 桐矢はかなり動転しているらしい。
 藤花の安否を気遣っての行動であろうが、このような場所で脱がされるわけにいかないので、居間へと逃げた。

「藤花ぁ、私の所為で・・・・・・」
 涙が止まらぬ撫子をあやしつつ、着物の襟元を開く。
 隙間から覗き込むが、傷や出血のようなものは見受けられない。

「不思議ねぇ・・・・・・」
 梅雨明けを待つ季節、さして厚着もしていない。
 あのような刃物を突き立てられたら、多少は肌に刺さってもいいはずなのだが。
 藤花としては、刺されたような、刺されていないような・・・・・・不思議な感覚である。

「・・・・・・あ」
 着物を整えている時に、あることに気が付いた。
 懐に手を伸ばし、取り出したのは一本の扇子・・・・・・だったもの。

 以前、撫子が放り出した扇子――
 父である天津家当主から授けられたという曰く付きの品であるが、いざという時の為に持ち歩いていたのだ。
 何かの拍子に、撫子が『あれはどこだったかしら』と尋ねてくる時があるかもしれないと。

 扇子を広げると、真ん中の部分が見事に裂けていた。
 鳥の絵が台無しである。
(やってしまった・・・・・・)
 おそらく、水無月朱代の凶刃は、この扇子に刺さったのであろう。
 お嬢様の私物を・・・・・・しかも、こんな高級品を駄目にしてしまうなど、何たる失態。

「お嬢様、申し訳ありません」
 扇子を広げたまま撫子の前に差し出し、頭を下げる。
「え?」
 彼女はきょとんとした顔で藤花と扇子を見比べて――何が起きたのかを察したのだろう。
「いい。藤花が無事なら、こんなのいいの」
 泣き止んだと思ったら、再び涙が零れて。
 撫子は、藤花の胸にしがみ付いた。


 水無月家の関係者を帰して、邸宅には三人と一匹だけが残った。
 藤花の負傷の有無はともかく、撫子に危害を加えようとしたことは、もう、弁護の余地もない。
 水無月家当主は気落ちしながらも、必ず厳罰に処すと桐矢に約束し、朱代や使用人達を連れて行った。

 水無月家当主との折衝や天津家本邸への連絡・・・・・・諸々を終わらせた桐矢に扇子を見せると、彼の反応は芳しくない。
「いや、そんな・・・・・・上手くいくもんかぁ?」
 事情を聞いた桐矢は、半信半疑の様子。
 扇子を摘みながら胡乱気な様子で藤花を見ていた。

「いや、私も、そう思うんですけどね」
 刺されたと思ったら、偶然懐に入れていた扇子に――なんて、現実味が無さすぎる。
 しかし、藤花は現に傷一つ負っていない。

「まあ、でも、お前は病院に――」
 桐矢が藤花の手を取って立ち上がろうとした時だった。

「桐矢様、大変です!」
 聞き覚えの無い声から察するに、天津家から違う使用人が来たのだろう。
 水無月家当主の来訪を知らせる時と変わらぬ・・・・・・むしろ、その時よりも切迫した雰囲気を纏っていた。

「もう勘弁してくれ・・・・・・」
 苦痛すら滲ませる桐矢の声には、とてつもなく共感する。
 これ以上の騒ぎは御免被りたい。

 しかし、そんな藤花達の願いも虚しく、使用人は新たな騒動を告げた。


「隼人様が何者かに刺されました!」
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