異世界で魔法使いの弟子になりました

彩森ゆいか

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第1話

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 吉倉よしくら風美ふみは仕事が出来る女のはずだった。
 三十歳彼氏あり。家事全般得意。結婚秒読み。
 自分で言うのもなんだが、優秀な女だった。
 これまでの人生も、わりと順調だった。
 あの日までは。

 カンカンカンと階段を駆け下りるパンプス。
 あっと思った時にはもう、滑り落ちていた。
 その瞬間、空間の歪みがあったのかどうか、今となってはよくわからない。
 だが、おそらく、空間の歪みはあったのだ。あの瞬間に。

 風美は化粧品メーカーで働くキャリアウーマンだ。彼氏の平木ひらき葉介ようすけとは大学生の時に出会った。彼がどう思っているのかはっきり聞いたことはないが、そろそろ結婚してもいい頃だろう。
 不安要素がないわけではない。
 葉介は大学卒業後大手商社に入社したが、二年ほどで辞めてしまった。話を聞けば、新人イジメが社内で横行していたらしく、それが嫌でやめたのだと言っていた。
 次の就職先はじきに見つかったが、一年ほど過ぎた頃に倒産してしまった。社長が金を持ち逃げしたらしい。
 再び就職活動が始まり、またすぐに見つかった。だが今度は契約社員だった。給料は下がってしまたが、葉介はあまり気にしていなかった。風美も気にしないようにした。
 契約が切れると葉介は新しくアルバイトを見つけた。時給制になり、ますます給料が減った。
「大丈夫。ちゃんと正社員の仕事、見つけるから」
 それが最近の彼の口癖だ。
 葉介がアルバイト生活になって、そろそろ半年になる。風美の人生は順調だったが、葉介に関しては順調とは言い難かった。それでもまだ彼には期待していた。いずれちゃんとしてくれるはず。そう願っていた。

 会社帰りにスーパーに寄って食材を買った。明日は会社が休みなので、これから葉介の暮らすアパートに行くつもりだった。久々の手料理だ。
 喜んでくれる顔を想像しながら、風美はうきうきする気持ちでレジを済ませ、スーパーのビニール袋を両手に下げながら店を出た。
 家に向かう旨をスマートフォンのメッセージアプリで送ったが、まだ既読にはなっていない。ちらりと不安がよぎったが、まあ大丈夫だろうとたいして気にしなかった。
 葉介のアパートに着いたのは、夜の八時を過ぎた頃だった。
 アパートの部屋の明かりがついているので、風美は迷わず階段を上がった。パンプスが金属の階段とぶつかり合い、カンカンカンと少し派手な音が鳴る。葉介の部屋は二階の一番奥だった。
 風美はバッグの中から合い鍵を出した。ドアノブのすぐ上にある鍵穴に差し込む。開いた。
 風美はいつものようにドアノブを回してドアを開けると、玄関ですぐにパンプスを脱げるよう足の準備をした。
 その足がぴたりと止まる。
 見知らぬ靴が玄関に置いてある。
「……なにこれ」
 女物の靴だった。風美の履く仕事向けのパンプスとは違い、もっとおしゃれで可愛いサンダルだった。風美の眉間にしわが寄り、険しい顔になる。
 葉介のプレゼントかもしれないなどという能天気な考えは浮かばなかった。なぜならそのサンダルは何度も履かれた形跡があり、使用感が満載だったからだ。
 風美はその場にスーパーの袋を置くと、ゆっくりと玄関でパンプスを脱ぎ、足音を忍ばせながら、そっと部屋へと近づいて行った。玄関から部屋へと通じる入り口は引き戸で閉ざされており、開かない限り中が見えない。
 風美はそっと引き戸に手をかけ、ほんの少しだけ開けた。室内は明るかったので、狭い隙間からでもよく見えた。
 葉介はいた。見知らぬ女もいた。
 若い女だった。二十代前半ぐらいか。
 どこで出会ったのか、いつから知り合いなのか、親しそうに談笑したかと思うと、互いに顔を近づけて軽くキスをした。もう何回もしたことがあるような、慣れた様子だった。
 風美は音を立てずに、無言でその場から離れた。何かで頭を殴られたような鈍痛がする。動悸もひどい。玄関まで戻ると、スーパーの袋は持たずに、パンプスだけ履いた。
 ああそうだったのか。風美は思った。
 結婚秒読みだと思っていたのは、自分だけだったのだ。
 ドアを開けた。やはり音を立てないように閉めた。鍵はかけなかった。風美が来たのだという痕跡だけは残した。スーパーの袋で気づくだろう。
 気づいた時、少しでも葉介は焦るだろうか。慌てるだろうか。連絡をしてくるだろうか。何か言うだろうか。取ってつけたような言い訳だったらどう対処しようか。
(……なんかもう、どうでもいいな)
 すべてがどうでもよくなってしまった。
 気が抜けた状態で、風美は階段を下りた。カンカンカンとパンプスの音が鳴る。
 あっと思った時にはもう滑っていた。
「きゃああああああああああああっ!」
 落下していく身体。痛いのか痛くないのかすら、もうよくわからない。今の悲鳴は葉介にも、隣にいたあの女にも聞こえただろうか。だが、もういい。すべてがもうどうでもいい。きっとこのまま自分は階段から落ちて死んでしまうのだ。
 すべてを諦めた時、風美はハッとした。
 地面の上にいた。辺りには草がびっしりと生えており、コンクリートではなかった。全身に打ち身のような痛みはあるが、怪我はしていないようだった。足元を見る。パンプスがない。何故か裸足だ。
 辺りを見る。鬱蒼とした木々に囲まれていた。階段がない。アパートもない。どこか遠くで、獣や鳥の鳴く声がする。
「……どこ?」
 風美は混乱した頭で呆然とつぶやいた。
「もしかして、本当に死んじゃった……? ここは、天国?」
 には見えなかった。どう見ても森の中だ。
 ガサッと音がした。風美はハッと身構える。草むらの中から出てきたのは、黒猫だった。風美はホッと脱力する。
「私は黒猫のシャトラン。私のご主人様は魔法使いのラヌート」
「わっ、喋った!」
 風美は心底から驚いた。
「どうした、シャトラン」
 ガサッと草むらから人が現れた。美しい青年だった。思わず風美は見惚れてしまう。
「なんだおまえは」
 美しい青年が眉をひそめた。
 湖水のような碧い瞳。艶やかな銀髪は背中まで伸ばされていた。肌は透き通るように白く、まるで陶器のようだ。どこか古風な、西洋のマントを羽織り、映画やマンガの中でしか見たことがないような服装に身を包んでいた。
「今日から魔法使い見習いが来ると聞いている。おまえか?」
 風美は慌ててぶんぶんと左右に首を振った。
「たぶん、違います」
「随分ボロボロだな。何があった」
 指摘されて初めて、風美は自分の様相に気づいた。会社帰りのキャリアウーマンらしいスーツはどこに行ってしまったのか、着ていた服は薄い布で出来たミニワンピースみたいなものだった。
 ブラはどこかに消えて、コルセットのようなもので締めつけられている。しかもミニワンピースは、どこかで転んできた後のように汚れており、ひどい有様だった。肩にかかる髪を見ると、社会人らしい黒髪はどこに消えたのか、明るい茶色
なっていた。染めた覚えはない。手足を見ても違和感がつきまとう。
(……なんか、肌質が違う。モチモチしてる)
 風美が答えられないでいると、ラヌートはさらに問いかけてきた。
「おまえ、名前は」
「私は……ふ……あれ?」
 自分の名前を忘れてしまった。代わりに出てきたのは、
「エルミアです」
 どういうことだ、と自分で自分がわからなくなる。そんな名前ではなかったはずだ。本当の名前は。本当の名前は……。
「年はいくつだ」
「十六です」
 勝手に口がすらすらと年齢を言う。そんなに若くはないはずだ。そう思っても本当の年齢がわからなくなってしまった。
 記憶障害なのか?
 エルミアは心底から焦った。
 ラヌートは一度シャトランを見てから、改めて彼女を見た。
「よし、ついて来い。まずは美味いものでも食わせてやる」
「えっ?」
 エルミアは目を白黒させた。
 こうして、わけがわからないまま、彼女はラヌートについて行くことになった。
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