藺草と鉄

夕凪海月

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藺草と鉄

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 たたみを張り替えた。横になって大きく深呼吸した。吸い込んだ空気は、爽やかな藺草いぐさかおりと、少しの墨のにおいが混じりながら鼻を抜けていく。ほんのわずかに鉄のにおいがした。
 びた金属のような形容しがたい臭いがやけに鼻腔びこうをくすぐっていく。そこまで気になる訳ではないが、新品の畳にしてはみょうな感じだ。


 ─ピンポーン♪︎─


 こんな片田舎の家に訪ねてくるのはお隣さん(400m程離れているが)か新聞の勧誘ぐらいだ。一瞬居留守いるすでもしようかと思ったが、仕方なく戸を開けた。

「あ、こんにちはー!これから近くで水道管の工事をするんですけども、ちょっと騒音が鳴りますんで、申し訳ないですがしばらくご協力お願いします。」

「あぁ…それはどうも…。」
(鉄臭さの原因は水道工事か。なんだよびっくりした…)

「んにしてもお若いですなぁ…!ここら辺の人ら、じいちゃんばあちゃんばっかりでしょ?一人暮らしですか?」

「えぇまぁ…。」


 “工事のおっちゃん”とはなぜこうも一度話を切り出すと止まらなくなるのだろうか。いやまあ確かにご老人の家ばかり挨拶に回っていたら、俺のような20代半ばなんて珍しいのだろうが。


「いいですねぇ!この暑い日に甚平じんべなんて涼しくていいじゃないですか。なんか最近若い人らの間で“古民家暮らし”とか流行はやってるんでしょ?」

「いやこれは…仕事柄しごとがら薄手の服が動きやすいので。」

「ほう!それはどんなお仕事で!?」


 男の瞳が『知りたい』と訴えかけてくる。田舎で職業を隠しているとご近所から何を言われるかわからない。しぶしぶ「お茶でも飲みながら」と家に招きいれた。
 築70年の木造平屋。キッチン・寝室・風呂場に庭までついた、お手本のような古民家だ。曾祖父そうそふから祖父に譲られ、隣の県で働く父ではなく俺へと受け継がれた。古い家だが、耐震工事と何度かリフォームもされて、家電やインターホンも新しい物になっている。電気水道ガスにWi-Fiまで完備されたなかなか良い我が家だ。


「お茶けと言っても、大したものではないですがどうぞ。」

「いやーすみませんねぇ。わざわざお茶まで頂いて。」


 蒲田かまたと名乗った男はタオルで額の汗を拭いながら麦茶を美味しそうに飲み干した。外はよっぽど暑かったのだろう。出不精でぶしょうで昼間家から出ない身からすると、汗を流しながら働いている人は本当に尊敬できる。


「それで、白浜さんのご職業をお伺いしても?」

「……見てもらった方が早いですかね。」


 家の一番奥の部屋に過去の作品を置いてあり、ふすまで仕切られた一つ手前の部屋が俺の仕事場だ。掛け軸、扇子、うちわ、大量に積み上げられた紙の束。太いものから細いものまで様々な筆が並べられ、すずりや墨がちょうどいい位置に用意されている。ここが俺のアトリエだ。


「これはすごい…。お若いのに書道家とは。」

「不安定ですが、作品を売ったり依頼を受けて生活しているんです。もっとも、まだまだ祖父たちには勝りませんし、業界の中では青二才もいいところですけど…」

「いやいや素人目から見ても凄い作品ばかりですよ!それに白浜優しらはま ゆうなんていいお名前ですね。もう少しだけ作品を見させて頂いても?」

「えぇどうぞ。ゆっくりご覧になってください。」


 慢心まんしんはいけないと祖父から散々言われてきたが、やはり自分の作品が誉められると鼻が高い。自分の手から生み出された作品が言葉として意味を持ち、人の目に映り心を動かすことができたら、書道家としてそれほど嬉しいことはないだろう。


「そうだ蒲田さん、今日の水道工事で、例えば臭いが出るような工事とかしますか?」

「いえ?そこまで大掛かりな工事でもないですし、時間もそんなにかからないですよ。まぁ、そのおかげでこうやってゆっくりできるんですけど。」


 ニヤリと笑った蒲田は、また作品をまじまじと見つめながらゆっくり息を吸い込んだ。


「それにしてもこのお部屋、なんとも良い匂いがしますね。墨と畳の匂いがいい具合に混ざって気分が落ち着きますなぁ。」

「ちょうど昨日の夕方に畳を張り替えたばかりなんですよ。前の畳は汚れてダメになってしまって。」

「あらー高かったでしょうに、墨でもこぼしたんですか?」

「まぁそんなところですね。」

「じゃあもし水道がダメになったときは私にご連絡くださいね。お安くしときますんで。」

「あはは、ありがとうございます。」


 ひとしきり作品を見終わると、蒲田はお礼をしながら帰っていった。たまにはああいう人が訪ねてきても案外楽しいかも知れない。そう考えながら優はアトリエの新しい畳に横になった。
 呼吸のペースがだんだんとゆっくりになっていく。鼻を通るのはきた草の香りと立ち込める墨の匂い。身体の力がゆっくりと抜けていって心地よい眠りに落ちてゆく。昼寝をするなら畳の上に限る。


 ─ジリリリリリ!···ジリリリリリ!─


 1時間ぐらいった頃だろうか。また呼び鈴がうるさく鳴った。水道の工事が終わった挨拶だろうか。空は綺麗な夕焼け色に染まり、山の向こうの夜と夕方の狭間はざまは薄い紫色になっている。眠気の覚めない目を擦りながら玄関を見ると、どうやらすりガラス越しに映る人影は蒲田のものではないようだ。


「おーい優ー?居るのか?」

「なんだよ、柿原かきはらかよ。」

「なんだよってなんだよ。人がせっかく顔見にきてやったのに。」


 訪ねて来たのは幼馴染みの柿原裕二郎かきはら ゆうじろうだった。お互い大学進学以来離れた所に住んでいるが、両方の家が駅で通いやすいため、こうしてたまに家に遊びに行ったり来たりしている。
 柿原が手に持っているビニール袋にはうっすらとスーパーのお刺し身と唐揚げが見えた。反対の手で缶ビールを取り出すとニヤニヤしながら無言でこちらを見つめてくる。何も喋らなくても顔がうるさいのは昔からの癖だ。


「ぷはぁぁぁ!!いやぁ、ここは空気がうめぇなぁ!空気が旨いと酒も旨くなるわ!」

「はいはい楽しそうでなにより。ねえちょっと醤油取って。」

「ほいよ。」

「ありがと。……何も言わずにわさびも取ってくれた……。」

「そりゃお前の考えてることなんてお見通しだからな。どうせ最後に刺し身の上のタンポポまで食べるんだろ?」

「タンポポは消化に良いんだよ。」

「それ本当かぁ?」


 一人で食べるごはんは味をしっかり噛みしめられて好きだが、人と食べるごはんは会話も相まってさらに好きだ。小さなちゃぶ台に並ぶ温かいごはんの数々、お互いの近況報告。味のしなくなったガムのように擦り続けられる内輪うちわネタはいまだに話題に出てくると笑いが起こる。俺らって変わらないな、と思いつつもそれにやや安心している自分がいた。


「やっべ!そろそろ終電じゃねえか!」

「またこの前と同じ展開かよ…。どうせまた泊まっていくんだろ?」

「もち。歯ブラシと明日の着替えは持って来てるし。」

「やばすぎるだろお前。」


 楽しい夜はあっと言う間にけていき、柿原が風呂に入ってる間に優は作品を片付けて布団を二枚敷いた。一人暮らしの家に布団が二枚も用意してあるのも柿原がよく泊まりに来るせいである。


「ふぅーぃい、スッキリしたー。あっ、布団敷いてる!やっほぉーい!!」

「あぁこら!飛び込んで来るなよ!!」

「あっははは!楽しいぃぃ!」

「完全に酔ってやがる…。」


 柿原が悪ふざけを始める前に部屋の電気を消して床につく。障子しょうじを開けて蚊取り線香をいていれば、夏の夜でも涼しく過ごせるのがこの町のいいところだ。この美しい夏の夜空を楽しむのにスマホは要らない。


「いい家だな。」

「ひいじいさんも、この家で五感を研ぎ澄ませながら筆を握ってたんだと思うよ。」

「ははっ、やっぱり優はの元に産まれてきたんだろうな。」

「産まれもっての才能ってこと?」

「さあな。お前にはお前のやるべきことがあって、俺には俺のやるべきことがあるってことだよ。」

「俺のやるべきこと……」

「なぁ優、明日も暇だろ?久しぶりに川に遊びに行こうぜ。」

ってなんだよ、別に暇って訳じゃ…」

「優頼むよ、んだ。」

「……?」


  夜の闇の中で柿原の瞳が優しく光る。このキラキラ光る宝石のような目が昔から俺を惑わせてきたんだ。俺のことをお見通しだとか言っておきながら、俺の気持ちなんて知りもしないで。お前がいきなりに家に訪ねて来る度に俺がどんな思いをしてるか知らない癖に。


「なんでそんな顔するんだよ…」

ものだからだよ。」


 共通の知り合いから聞いた話によると、柿原は絵画の腕が認められてフランスへ留学をすすめられているらしい。柿原はそれをあえて言わずに旅立とうとしていたのだろうか。


「大丈夫だって、今時スマホさえあれば電話もメールもできるだろ?あ、時差って何時間ぐらいだったっけ。」

「なんで、なんでお前ばっかり先に進んでいくんだよ…!お前が俺の字が綺麗だって言ったから俺は書道の道に進んだんだ。お前が芸大に行くって言ったから俺も同じ道を選んだんだ!なのにどうして…一緒に歩いてきたはずだろ!?」

「優……。そんなこと言ったら、俺が絵の道に進んだのは俺の絵でお前が喜んでくれたのが嬉しかったからだ。お互いがお互いのことを見えなくなってきてたんだよ。」

「……ダメだ。俺、俺さ、お前のことを応援したい気持ちと行かないで欲しい気持ちが同じぐらいあるんだ。」

「ったく、ほら泣き虫優!いつまでも泣いてんなよ。そうだ!またちっせぇときみたいに一緒の布団で寝るか?」

「うるせぇ!!」


 一つ一つの輝く星が結ばれて星座になるように、この想いは切れることなくずっと繋がっていく……と思っていた。
 深夜2時半。街灯や家の灯り一つない田舎の夜は虫や野生動物たちがざわめきあっている。


「あぁ…いてて…。」


 一歩ずつ一歩ずつ柿原が目覚めないようにキッチンへと向かう。古い家なので体重をかけすぎると床がギシギシと鳴るのだ。キッチンの入り口に垂れている玉すだれも音が鳴らないように姿勢を低くしてくぐっていく。さいごのさいごまで気を抜かないよう、力強く、思いっきり振り降ろした。


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 ─ピンポーン♪︎─


「すみませーん、水道工事の者です。…あれ、白浜さん留守かな?」


 蒲田が汗を拭いながら帰ろうとすると、縁側えんがわで昼寝をしている優を見つけた。昼間に見せて貰った白浜優先生のアトリエは、障子を開けるとあの縁側に通じているようだ。


「気持ちよさそうに寝てるなぁ。男前ってのは何やっても絵になるもんだ。さぁさ、俺も早く帰るか。」


 畳を張り替えた。横になって大きく深呼吸した。吸い込んだ空気は、爽やかな藺草の香りと、少しの墨の匂いが混じりながら鼻を抜けていく。ほんのわずかに鉄の臭いがした………気がした。
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