恋する天然酵母

はぎわら歓

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1 失恋とワンピース

 うなだれて雨音が収まった中をフミはとぼとぼと歩く。大通りの裏道は人気も少なくアスファルトもガタついてて物悲しい雰囲気だ。三十分前に男に振られたフミには最高のロケーションだった。後ろから車の音がしたのでもう少し端によろうと左足を一歩踏み出すと運の悪いことにへこんだ排水溝のブロックにヒールのつま先を突き入れてしまった。あっと小さな声を上げてそのまま前のめりに突っ伏してしまう。転んだ瞬間に車が隣りを走り、水たまりの泥水を少し跳ね上げた。フミは倒れ込んだまま何秒かじっとした。すると五メートルほど先でシルバーのSUV車は停まり運転者が下りてきた。

「大丈夫?」
 アイボリーの作業服を着た30代半ばの男がフミに手を差し伸べて起こすのを手伝った。
「は、はい。大丈夫です」
 フミは男が自分のせいで転んだと思ったのではないかと心配して続けた。
「あの、穴に突っかかっただけで平気ですから、すみません。お構いなく……」
 男はフミのワンピースの裾あたりに目をやって言う。
「転ぶなと思ってみたんだ。ゆっくり走ったんだが服を汚してしまったね」
 眼鏡のクールな視線のほうにフミも目をやると白いサテンのワンピースに二,三センチから五、六センチの様々な茶色い楕円が染みを作っていた。
「ああ」
 ついてなさと諦めでフミはため息をついた。「弁償するよ」との落ち着いたトーンの声にはっとして
「いいんです。いいんです。このワンピ今日捨てるとこだったんです」と慌てて言った。
「いや、今すぐならクリーニングすれば落ちるから」
「いえ!……ほんとに……捨てたいんです、これ」

 気が付くと涙がこぼれてきてフミは目の前が滲んできてしまった。知らない男の人の前でやばいと思い下を向いたまま「じゃ、失礼します」と立ち去ろうとした。その瞬間、手首をつかまれ、「乗って」と男に引っ張られ車に乗せられてしまった。そして男は停めていた車の前の自販機で温かいミルクココアを買いフミに手渡した。助手席に乗せられて手の中のココアをぼんやり見ているとさらに男は白いタオルをフミの頭に乗せ身体が冷えてきているよと言って車を走らせた。手のひらからじんわりと全身に熱が感じられてくるとフミは落ち着きを取り戻し、それと同時に初めてあった男の車に乗っている自分にはっとした。
「あ、あの。もう、ほんと大丈夫ですから」
「落ち着いた?もう着くからそれでも飲んでて」
「え、は、はあ」
 どこに着くというのだろう。とりあえず冷めないうちにココアを飲むとさらにほっと安らいだ。そして今の自分の状況に危機感を感じないでいるのはなぜだろうと思ってぼんやり窓の外の景色を見た。町中から大きく外れず少し住宅街の中を走って小さな雑貨店の前に停まる。『アダージョ』と木目の控えめな看板に書いてある。ほかの立方体の住宅とは趣が違いログハウスで三角屋根のかわいらしい建物だ。「着いたよ」と男に促されフミは車を降りた。


2 雑貨店『アダージョ』

「可愛い。こんなお店あるなんて知らなかった」
 店構えは木の暖かさを感じることができ森の中にある童話の家みたいだと思った。
カランとベルが鳴り緑色の木製の扉を男は開けて「入って」と言った。言われるまま店内に入ると十坪くらいのスペースにバッグやら帽子などの小物類、食器やカトラリー、そして衣服のコーナーとカフェのコーナーがあった。ざっと見渡してみても外から見た印象と同じくナチュラルな製品をあつかっているようでアイボリーとベージュの優しい色合いにフミは和やかな気持ちになる。男についてカフェコーナーへと向かい、席に着くと、店の主人らしい女がやってきた。

「あら、弘樹。いらっしゃい。彼女つれてきたの?」
 茶色い艶やかな髪を不思議の国のアリスのようにカチューシャで留め、力強いと目と優しい眉が同居する年齢不詳の女がフミに笑顔で
「ようこそ」
 と声をかけた。
「は、はじめまして」
 フミは慌てて頭を下げる。
「彼女じゃないよ。初めて会った娘。さっき俺が服を汚しちゃったんだ」
「ははーん。うちの服をプレゼントに選んだってわけね」
「頼むよ、姉さん。」
 どうやら二人は姉弟らしいがフミは二人のやり取りに慌てて口をはさんだ。
「あ、あの。服なんか気にしないでください。ほんとにもうコレいらない服で、汚してもらってちょうどよかったです。踏ん切りつくし……」
 一気にまくしたてながら段々と力が抜けていきフミは肩を落とした。女が心配そうに顔を覗き込む。
「なんかつらいことあったの?お名前は?私は吉川美里、こっちは弟の弘樹」
「杉田フミです」
 鼻をすすりながらフミは名前を告げた。
「よかったらお話していきなさいな。後で弘樹に送らせるから。時間いいんでしょ弘樹も」
「うん。まあもう仕事終わってるしね」
「いえ。服は私が勝手に転んでしまって全然、ひ、弘樹さんのせいじゃないんです。ぼんやり歩いてた私が悪くて」
「あら、そうなの。でもそんな顔じゃちょっとほっとけないわね」

 きょとんとしているフミを見ながら弘樹は
「なんか『ナナ』に似てた」
 とポツリとつぶやいた。
「ああ。どこかで見たことあると思ったら」
 美里は大きな声で顔を上下させ納得して見せた。フミは訳が分からず美里と弘樹を交互に眺めていると美里が控えめに上目遣いで言う。
「昔飼ってた猫に似てるのよ、フミちゃん」
 どうコメントすればいいかわからずフミはじっとしていると美里がまっすぐ綺麗な瞳でみつめて
「そのワンピ確かに似合ってないわね。うちのやつのほうがよっぽど似合うから選んであげる」
 と上から下までフミを一瞥し言う。
「え、あ、あの」
「いいのいいの。似合うの何着か選んでくるからゆっくりしててよ」
 有無を言わさない雰囲気にフミは座って待つことにした。いつの間にか弘樹は勝手に店の奥に入り紅茶を入れて持ってきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます。なんかこんなことになってしまってすみません……私お金払いますから」
「いいよ。その服よりはたぶん全然安いし、よかったらこの店の宣伝でもしてやって。先月オープンしたんだ」
「ああ、そうなんですか。へー。通りで」
 テーブルはアンティーク調だが真新しい木の香りがする。
「素敵なお店ですね。可愛いものばっかり」
 美里が三着ほどワンピースを持ってきた。どれも同じサンドベージュの色味だが素材が違うようだ。
「こっちが生成りのコットン。これはリネン。で、これはコットンのダブルガーゼ」
「うわあ」
 優しい色と手触りにフミは思わず声を出した。
「そのワンピも確かに素敵だけどフミちゃんはさ、こういう素材がよく似合いそうだよ」
 白いテカリのある素材は身体にべたついて不愉快だった。手触りも見た目ほどすべすべしておらずカサカサしている気がしていた。
「私もほんとはこういう自然な感じのほうが好きです。着てて気持ちいいし。パジャマとか下着は全部綿だし」
 少し間を置くフミに美里は鋭く素早く囁いた。
「それ彼氏の趣味なんでしょ」
 ハッと顔を上げてうなずきフミは話した。
「ガラじゃないのにこんなの着て頑張ってたんですけど、さっき振られちゃって……」
 口に出すとまた涙が出そうになったので上を見上げた。天井からぶら下がっているピンクの和紙でできたランプシェードが滲んで見える。美里が同情するように優しく「そう」とつぶやきワンピースをフミの身体に当てた。
「次はそのままのフミちゃんを好きになてくれる人が現れるわよ、きっと」
 身体に当てられたコットンの柔らかさにフミは心地よくなり姿見を見るとよく似合っている気がしてそのまま店で着替えさせてもらった。弘樹がちらっと見て「いいんじゃない」と木訥に言う。フミは少し微笑んで「ありがとう」と言った。気が付くと外は真っ暗になっていた。

「送るよ」
「フミちゃん、またいつでも来てね」
「はい。また来ます」
 名残惜しい店を後にし、弘樹の車に乗せてもらいもと来た道を戻った。実家住まいなので近所のスーパーで降ろしてもらった。
「あの。今日はほんとうにありがとうございました」
 深々と頭を下げると弘樹はふっと笑んで
「元気出してね」
 と言い発進した。いつの間にか星が出ていて見つめているとなんだか元気が沸いてきた。(明日からまた頑張ろう)今日出会った優しい大人の二人に感謝して力強い足取りで家路についた。


3 パン屋『パインデ』

 ハンガーにかけたコットンのワンピースを見て「いってきます」とつぶやき家を出た。
フミは自転車で一五分のスーパー内にあるパン屋に勤務していた。仕事は製造で朝が早い。静岡は天気が良く残暑も厳しいが早朝五時出の彼女に今朝は肌寒く感じられた。昨日の雨のせいだろうか。隣の家の青い朝顔もしぼんでいる。「夏も終わりか」心の中で言い自転車をこいだ。「おはようございます」元気よく声をかけロッカーに荷物を置き白いユニフォームに着替えた。きっちり一つにまとめた髪をさらに白い作業帽子に押し込み、マスクをかける。タイムカードを押していると店長が声をかけてきた。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日は食パンのあとバターロール多めに頼むよ」
「はい」
 血色の良い丸顔の店長は最近、腰を痛めてしまい製造をフミに任せることが多くなった。
フミは昨日の仕込みと今日の作業をチェックした後、倉庫へ材料を取りに行った。二十五キロの小麦粉を台車にのせているとパートの芝崎良美が「一人で持てる?」と心配してきて一緒に乗せるのを手伝った。
「良美さん、ありがとうございます。」
「いいのよ。フミちゃん。女の子なんだからあんまり無理しちゃダメ。店長だって腰やっちゃたんだからね」
 もうじき還暦を迎える良美はフミと同い年の息子がいるらしく自分の子供と同じような感覚で接してくる。彼女もやはり丸顔で気立ての良い雰囲気だ。フミはどちらかというと肉付きが悪くスレンダーだった。顔立ちは目が丸く八の字眉とへの字口のおかげで美人の類ではないが年配者に好かれやすかった。店長は店先に出る販売担当者にはふっくらした人間を選ぶそうだ。彼曰く可愛い子や美人よりパンのような雰囲気をもった人間が店に出ていると売り上げが伸びるらしい。なるほど売り子にも適材適所と言うものがあるらしい。フミは製造を希望したので容姿は面接にあまり関係がなかったようだが。
「さて、こねるかな」
 気合を入れて別れた男のことを思い出す前にバタバタと仕事を開始した。忙しくしていればなんとか乗り越えられるだろう。そして今度の休みにパンを持ってあの店にお礼に行こうと考えていた。


4 吉川美里

 カラランと低めの響く音を鳴らすベルを見て、先日から使うようになった新しい牛乳の濃さを思い出した。こっくりした牛乳を使いパンを作るとやはり味わいが深い気がする。
まずまずの出来栄えだと思うパンを見ながら美里が出てくるのを待った。
「こんにちは」
 すぐに美里が出てきた。
「あら、フミちゃん。いらっしゃい」
 今日も美里は綺麗な髪をふんわりと肩にかけ、薄いブルーのゆるいラインのワンピースに白い透かしレースのあるカフェエプロンを身に着けていた。おそらくフミより十歳は年が上であろう彼女はそんな乙女チックな装いが若作りでもコスプレのようでもなく似合っていた。不思議の国のアリスが成熟した女性になったらこんな感じかもしれないなとフミは憧れるような気持ちで美里を眺めた。

「あの。これ。どうぞ、食べてください」
 自宅で焼いてきたバターロールの入った茶色の紙袋を渡した。
「あら。いい匂い。どうしたのこれ?フミちゃんの手作り?」
 コクリと頷いて
「私、そこのスーパーの中の『パインデ』に勤めてるんです」
 と、説明をした。
「ああ、そうなの。私もそこのパンよく買うのよ。でもフミちゃんのこと見たことないわね」
「私作るほうなんで店先には出ないんです」
「職人さんなの?すごいわねえ。私はそういう方面ダメだったからうらやましいわ」
「そ、そんな。美里さんはこんな素敵な空間を作ってるじゃないですか。こんなお店来たことないです」
「ふふ。ありがと。お茶入れるから座って。一緒に食べましょうよ」
 美里に促されテーブルに着いた。座って店内を眺めると優しい雰囲気に癒されていくようで時間もゆっくり流れていくようだ。木のボウルにパンが入れらて素朴な肌色の無地のティーカップと一緒にテーブルに並べられた。
「優しくていい香り」
「あまり香りが高いとパンがもったいないからミルクティーにしたの。お砂糖入れる?」
「いえ。ありがとうございます」
 にっこりと美里は笑ってふんわりとカップを手に取り紅茶を啜る。一連の滑らかな動作に見惚れながらフミも紅茶を飲んだ。

「美味しいわねえ。お店のも美味しいけど、フミちゃんのパンもすごく美味しいわね」
 褒められてフミは照れた。そして改めて先日の礼を言うことにした。
「先週はありがとうございました。おかげであんまり落ち込まなくて済みました。弘樹さんにもお礼がしたいんですけど、どうしたらいいかなと思って」
 優しく目を細めて美里は
「気にしなくていいのよ。まあ弘樹もこの前は雨だったからちょうど仕事がなくて暇だったんじゃないかな」
「雨だと暇なんですか?」
「うん。あのこは山仕事やってるから雨だと作業がないみたいね。まあ道具とか点検したりするらしいから遊んでるわけじゃないらしいけどね」
「山仕事ですか」
 あまりよく知らない仕事なので首をかしげていると
「木を育てて切って売るのかな。製材とかやってるかはしらないけどね。キコリっていうのかしら」
 と軽く美里が説明をした。
「へー。なんかワイルドですねえ」
 フミの言葉に美里は笑って言った。
「そうね。全然ワイルドな子じゃないのに仕事は男らしいことやってるわね」
 ゆったりと時間を過ごしているとドアのベルがカランと乾いた音を立てた。お客が来たようだ。
「フミちゃん、ゆっくりしてってね」
「あ、すみません。私もお店の中見せてください」
「ん。どうぞ」

 ふわっと立ち上がって美里は客のほうへ向かっていった。二人組の若い女性のようだ。一人はおなかが大きく妊娠中らしい。ちらっと妊婦を見て(ここの商品はきっと赤ちゃんに良さそうなものばかりだろうな)と思いフミも立ち上がって洋服の置いてあるコーナーに向かった。ラックにかかってある洋服を一つ一つ見てみた。ワンピースが十着程度、チュニックやスカートもそんな程度の枚数で多くはなかった。しかしどれも優しい生地で持ち上げるとふわっと羽のように感じる。前に弁償と言う名のプレゼントされたコットンのワンピースも着心地がよく着なくても飾って手触りを毎日感じていた。温かそうなダブルガーゼのチュニックをラックから取り出してみる。薄い黄緑色でまだ黄葉をする寸前のイチョウのような初々しさを感じる色味だった。綺麗な色だなと思いこわごわ値札を見てみた。(思ったより安いんだ)『その服よりはたぶん全然安いし』と弘樹の言葉を思い出し、身体に当てて姿見で確認してみた。顔色が明るく見えなんだか似合っている気がする。
黄緑色のチュニックを元に戻しほかの洋服も物色しているとまたカランとベルが鳴り美里の「ありがとうございました」との声が聞こえた。

 
 美里がやってきて
「何か良さそうなものある?」
 と聞いてきた。
「ええ。このチュニックいただこうかと。」
「あら。嬉しいけど気を使わなくていのよ」
 優しくいう美里に首をぶんぶん振ってフミは答えた。
「いえ。ほんとに欲しいなって思って。値段も思ったより安くてびっくりしました」
「ありがとう。ここの服も雑貨もね。新人さんの作品なのよ。だからリーズナブルな価格でもあるのよね」
「へー」
「セミプロ商品とでも言えばいいのかな。だから流通にのせるにはちょっと不安定でね。ある意味一品ものだから丁寧でしっかりできてるのよ。そのチュニックなんかは染色も凝ってて草木染なの。ただし色落ち注意ね」
「なるほど。でも色が落ちてもきっと気持ちのいいまま着続けられるんでしょうね。これください」
 フミは納得して美里にチュニックを手渡した。
「じゃ今お包みするわ」
 気が付くと外の日差しは落ち着いた茜色になり始めていた。ホワイトベージュの紙袋を受け取って礼を言いフミは帰ることにした。
「また来てもいいですか?」
「勿論よ。弘樹に会いたかったら雨が降った平日の夕方6時にはここにいるわよ。雨の日だけ送り迎えしてもらってるのよ」
「そうなんですね。お礼も言いたいのでタイミングが合えば来たいと思います」
「ふふ。ほんとあんまり気を使わなくていいから、気軽に遊びに来てね」
「はい」
 夢の家から現実の家に帰るような気持ちでなんとなく酔いがさめたような気分になってくる。しかしこの店は現実にある店なのでまた来れると思うと嬉しくなって夕焼けに染まる紙袋を抱きしめた。



5 吉川弘樹

 秋晴れが続き空も高く青い気持ちの良い日々が続いたが、季節外れの台風がやってくるようで来週いっぱい天気はぐずつくらしい。パン屋の仕事は食欲の秋らしくよく売れ忙しかった。休日は疲労回復のためゴロゴロしていて、弟にはその様子を見られ「そんなんだからふられんじゃねーの?」など生意気なことを言われて過ごした。それでも『アダージョ』のチュニックを着ていると心のささくれが治るようであまり腹も立たなかった。来週の休みの日にはワンピースを着て『アダージョ』に行こうと思っていた。雨の日の夕方には弘樹が来るらしいので多めにパンでも焼いてお礼を言いたかった。前回はバターロールを焼いたので今度は何にしようかとパンの本を眺め、来週の悪天候をウキウキしながら子供のように待っていた。

 水曜日の夕方。曇り空だが雨は降らなかった。店に弘樹は来ないかもとも思ったがせっかくパンを焼いたのでワンピースを着て出かけることにした。
 美里の雑貨店『アダージョ』はフミの家から歩いて二十分の距離だった。職場の『パインデ』と逆方向で少しだけ坂道を上る。あまり来たことのない方角で新鮮な道を歩くことが楽しい。特に目立つことのない住宅街だが新しい家が多く立ち並びこざっぱりとした町内だった。そんな中に『アダージョ』異彩を放つが不思議と違和感はなく合理的な街並みに温かいガス灯のような温かさを演出していた。店の隣にシルバーの車が停まっているのが見えた。(よかった。弘樹さん来てる)早歩きで店に行きドアを開けた。
「ごめんください」
 フミは店内に入って少し店の中を眺めた。
「やあ」
 カフェのテーブル席から弘樹の声がかかった。
「こんにちは。先日はありがとうございました」
 フミは頭を下げ最敬礼をした。笑って弘樹は
「いいよいいよ。姉貴は少し席をはずしてるけどもう十分もすれば帰るよ」
 と言った。
「ああ。そうなんですか。今日はコレを弘樹さんに。美里さんの顔見たら帰ります」
 パンの入った紙袋を弘樹に渡した。
「聞いたよ。パン職人なんだってね。俺も『パインデ』のパン好きだよ」
「ほんとですか。嬉しい」
 弘樹は紙袋を覗いてパンの匂いを嗅いでいる。そして美里と少し似ている優しい眉と涼しげな目元をゆっくりフミのほうに向け
「美味しそうだね。クロワッサン好きなんだ。ありがとう」
 とほほ笑んだ。
 フミは前回は動揺と落ち込みで弘樹のことをあまり関心を持ってみなかったがこうして会うと落ち着いた大人の男性ですらっと伸びた常緑樹のようだ。そばにいると木の陰にいるような安らぎを覚えた。改めて(かっこいい男の人なんだな)と思うと恥ずかしくなって下を向いた。
「お口に合うといいですけど」
 もじもじしていると美里が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
「こんにちは。お邪魔してます」
 美里はぱっと明るい表情で
「あら、いらっしゃい」
 と迎えてくれた。
「クロワッサンもらったんだ」
「うわー。美味しそう。一個いただき」
「あ、俺のだぞ。とるなよ」
「ケチ。よこしなさいよ」
 大人だと思っている二人が自分と弟のようなじゃれ合う喧嘩を見てフミは笑った。
「やだあ。フミちゃんに笑われたわよ」
 美里は弘樹をたしなめたが彼も
「大人げないからな、姉さんは」
 と切り返していた。ふんっと美里はこっちを向き気を取り直したように笑顔で「わざわざありがとう」と言い「今日はこれから暇?」と聞いてくる。
「えっと、美里さんに会ったら帰ろうと思ってました」
「そうなの?よかったら弘樹とご飯でも食べれば。パンのお礼しなきゃね」
「ああ。そうだね。飯でも行こうか」
「えっ。あの、お礼のお礼って、困ります」
 慌ててフミは首を振るがこの姉弟はなかなか強引だ。しばらく断ったが結局美里を自宅に送ったのち弘樹と食事に行く羽目になった。


6 ナナとフミ

「ここ来たことある?」
「いえ、初めてです。でもお礼とかやめてください。割り勘でお願いします」
「いやあ。さすがに若い子と割り勘じゃ俺が恥ずかしいよ」
 弘樹は静かに笑った。
「は、はあ」
 フミは今日だけと思って気を取り直しメニューを見た。この店は去年オープンしたばかりのネパール人が経営する本格的なインドカレー屋で興味があったがなかなか来れない店でもあった。注文してしばらくすると銀の食器に入った二種類のカレーと大きく伸びたナンとサフランライスが届いた。
「美味しそう。いただきまーす」
 ガラムマサラの香りの高さが鼻腔をくすぐり食欲をそそる。
 フミはサフランライスにどろりとしたルーをのせ「インドカレー久しぶり」と言い口に放り込んだ。
「からーい」
 綺麗に静かに食べる弘樹に気づきフミは自分のリアクションの大きさに少し恥ずかしくなり水を一口飲んだ。
「美味しそうに食べるね。ナンも食べる?」
 弘樹はちぎってナンを差し出してきた。
「あ、ありがとうございます。じゃちょっとだけ」
 ナンを受けっとって弘樹の食べるさまを眺めた。ちぎったナンを緑色をしたカレールーに浸し口に入れ、ルーが付いた指先を舐めている。大きな手とその一連の動作がフミには艶めかしく感じた。うっかり見つめていると弘樹が
「口の端についてるよ」
 と笑いながら指摘する。フミは慌てて舌をだし唇の端にペロッと這わせて舐めとった。
面白そうに弘樹が見るので
「まだ、ついてますか?」
 と尋ねると「いいや」と言って彼は首を振る。
 少しの間のあと
「やっぱ『ナナ』に似てる」
 と懐かしげに言った。

「猫でしたっけ?」
「うん」
「もういないんですか?」
「たぶん死んでるだろうな。いきなり家からいなくなってもう十年以上だから。うちにいたのも十年くらいだから、もうさすがねに」
「そっか。猫って死期を悟ると出ていくって言いますもんね」
 しみじみフミが言うと弘樹は
「そういう困った顔がよく似てるよ」
 と言った。
「あ、そ、そうですか」
 可愛い猫ならいいがこの言われようはそうではないのだろうと思いフミは複雑な気持ちがした。
「可愛い名前ですね。美里さんがつけたんですか?」
「いや、俺がつけた。七月に拾ったんだ」
「へー。私も七月生まれなんですよね」
「ああ、文月のフミちゃんなのか」
「なんかちょっと面白いですね」
 妙な共通点にフミはおかしくなってきた。失恋の痛手が軽いのは猫の『ナナ』のおかげかもしれない。食事が済むと眠くてあくびをしてしまい、弘樹にまた笑われてしまった。おそらくナナに似ているのだろう。
「まだ八時だけど眠そうだね」
「すみません。私、朝四時起きなもんで夜早いんですよ」
 あくびを噛み殺しながら言うと
「そうか、じゃ送るよ」
 弘樹は手早く会計を済ませた。
「ほんとになんか色々すみません。ごちそうさまでした。」
「いいよ。楽しかったし」
 また自宅の近くのスーパーまで送ってもらい車を降りた。
「じゃあね」
「ありがとうございました」
 しばらく車を見送ってフミはまたあくびをしながら家に帰った。


7 別れの理由

 それから三か月ほどの間、フミは美里の店に隔週くらいで通った。客がいて忙しそうなときはさっと帰ったし、暇そうなときはおしゃべりをした。店の居心地の良さと美里に対する憧れがフミを活性化させた。また月に一度ほど会う弘樹の存在も心を温かくさせていた。
「あら、弘樹。今日はどうしたの?雨降ってないけど」
 フミと美里がお茶を飲んでいると、弘樹がやってきた。
「ああ、フミちゃん、こんにちは」
「こんにちは」
 頭を下げると弘樹は優しく笑った。
「あのさ、職場の先輩に子供ができたんだけどなんか見繕ってくれないかな。現金じゃないほうがいいと思うんだ」
「そうなのね。いいわよ。ちょうどオーガニックコットンの可愛い産着あるから。男の子?女の子?一応どっちでもいけるけど」
「んー。たぶん男の子だってさ。来月生まれるみたい」
「じゃ、包んでストックしといてあげる」
「サンキュ。頼むよ。じゃ」
「はーい。またね」
「フミちゃんもまたね」
 弘樹は要件をさっと言って立ち去って行った。後姿を見送りながらフミは素朴な疑問を言葉に出した。
「美里さんも弘樹さんも恋人いらっしゃらないんですか?二人ともすごく素敵なのに」
 ふっと美里は笑った。
「弘樹はもう五年近くいないんじゃないかな。仕事場に女の子いないし、合コンも面倒らしいしね」
「へー。もったいない」
「あら、そう思う?よかったらフミちゃん彼女になってあげてよ」
にっこり言う美里に慌てて両手を振りながらフミは答えた。
「え。私なんてダメですよ。弘樹さんにはもっと大人のほうがいいですよ」
 そう言いながらも美里に言われて妙に意識をし始めている自分に戸惑いを感じ始めた。
「フミちゃんなら弘樹と上手くいきそうだけどねえ」
 目を細める美里に「はあ」とフミは曖昧な声を出した。
「あのこって今どきの草食ってやつ?受け身なのよね。おまけに前の彼女に振られた理由がさ、ゲームしてて一か月連絡しなかったんだって。ばかよねえ」
 あははとフミは乾いた笑い声で相槌を打った。
「まあ、そんなマイペースな弟薦めるのもどうかと思うけど。でもフミちゃんならまともなお付き合いできそうだと思ったのよね」
「そ、そうですか」
「よかったら考えてやってね」

 姉と言う存在は弟に対して常に上から目線なのであろうということに改めてフミは実感し面白くなったが、さすがに自分が弘樹の彼女になってあげるといった態度は無理だった。
むしろ彼のような大人の男とまともに付き合える自信などなかった。そろそろ帰ろうと立ち上がり美里に挨拶をして店を出た。
今日の夕暮れ時は寂しくも美しくフミを感傷的にさせた。夕日を背にゆっくり歩く。失恋して何か月か経った今、久しぶりに振られた時のことを思い出した。


――雨の休日。午後三時に恋人の高橋健児から近所のファミレスに来てとラインが入った。健児は営業マンで外回り中、たまにこうして呼び出されることがあった。お互いに休日が合わず、短い時間のデートを重ね続けて二年経ったところだった。フミは急いで一張羅のワンピースを着、慣れないマスカラを塗り重ね慌てて出掛けていく。空は暗く黒い雲が迫ってきているが、傘を持たずに駆けた。息を切らせて大きな窓を外から除き、健児を見つける。彼はいつも窓際を背にして入口に近いところに座っていた。店に入ったとたんゲリラ豪雨がやってきた。降られなかったことにほっとして健児の待つ席に向かった。
「おまたせ」
「よう」
 短い挨拶をしてフミは席に着く。ソファーに深く腰を掛けている健児がなんだか落ち着かなく組んだ指を揉み合わせて動かしている。今日は湿度が高いせいかブルーのスーツがくたびれている。フミは一人掛けの木の椅子に座りテーブルに近づけるようにぎぎっと寄せた。
「あのさ」
「ん?」
「ああ、先なんか頼めば」
「うん」
 喉が渇いていたフミはアイスティーを頼んだ。飲み物はすぐさまやってきて冷たいアイスティーをストローで吸い込み小さくため息をつくと健児が話し始めた。
「俺さ」
「うん」
「あの」
「どうしたの?」
 なんだかいつもと違う様子だ。フミと健児は同い年で会話には基本的に遠慮がなかった。斜め下に目を動かしながら正視しないまま健児は言う。
「俺たちさ、もう別れたほうがいいと思うんだ」
「えっ」
 喧嘩をしたわけでもなく穏やかに仲良くやってこれていたと思うので、まさに寝耳に水だった。唖然としているフミに健児は言い訳のようにつらつら言葉を垂れ流す。
「休みも合わないしさ、たいして遊べないし……フミは……自分の時間大事にしてるもんな。」
 フミはこの状況を知っていた。最初、既視感かと思った。高校生の時にも付き合っていたやはり同級生の男子に『お前マイペースだから……』という理由で振られた。数日後、後輩の女の子とと仲良く帰宅しているのを見た。
「好きな人できた?」
 ぼんやりと思い出す過去の痛みを吐き出すように静かに聞いた。健児は落ち着かなく指先をテーブルにトントントンと軽く叩いた。
「あの、いや……」
「いいよ。はっきり言ってくれないとさ。私しつこくしちゃうかもよ」
 少しぎょっとして健児は意を決したようにつぶやいた。
「ごめん。そう」
「そっか。わかった」
 あっけなく終わった。フミはしつこくするかもと言ったがそういうことが出来る性質ではなかった。苦く感じるアイスティーをもう一口飲み、じゃあねと言い、またねと続けそうになるのをぐっとこらえてフミは先に店を出た。雨には降られなかったからラッキーなのかなと暗い空を見つめた。

――別れ話を聞くまで全く予想をしていなかったが、今思うと別れる一か月ほど前から健児の髪型と使っている整髪剤の香りが変わっていた。無香料のワックスを使い短い髪をツンツンさせていたのが前髪を降ろし甘酸っぱいグリーンアップルの匂いをまき散らしていた。フミは職業柄、香料を使えなかった。だから人の香りには敏感だ。なのに、それを意味することには気が付かなかった。久しぶりに思い出しため息をつく。そういえば弘樹からは香料を感じないことに気づき美里の『マイペースな弟』と言う言葉に自分と同じタイプだと思う安心感がわいた。そして『まともなお付き合い』という言葉に今更反応してどぎまぎしていると後ろから声を掛けられた。


8 定食屋『春日』

「フミちゃん」
 弘樹が車から声を掛けてきた。フミは今考えていたことが、ばれたかのようにドキッとして振り向き慌てて「こんにちは」と頭を下げた。
「さっき会ったけどね。乗りなよ」
 フミは少し躊躇ったがもう遠慮するほどよそよそしくするのも変だと思い頷いて車に乗せてもらった。
「ご飯でもいかない?」
「え。おうちで食べないんですか?」
「うん。今日俺んち誰もいなくてコンビニでも行くかなって思ってたこと。姉貴もデートらしいしね」
「えっ。美里さん恋人いらっしゃるんですか?」
 そんな影を微塵も見せない美里に恋人がいると思うとびっくりもするが、あれだけ素敵な人にいないはずもないだろうと思う矛盾したものがフミを困惑させた。
「うん。もう十年付き合ってるけどね。店にもあったと思うけど藤原浩一郎って陶芸家」
「ああ」
 そういえば一度だけ店に作品を搬入に来た時に見かけたことがある。男にしては小柄だが浅黒い精悍な顔つきはグリズリーを感じさせた。しかし黒目がちな優しい目で作品を手に取る美里を優しく見つめていたと思う。あの眼差しは美里本人に向けられていたものだったのだろう。
「浩一郎さんも最近やっと生活が安定してきたらしいから、そろそろ結婚するかもね」
「十年……長いですね」
「だね。あれだけ待てるって姉貴もすごいよ」
 フミは美里さんらしいと感心して納得していた。浩一郎の作品は焼き締めでガラス質の釉薬がかかっていない土器のような質の炻器と言われるものだ。素朴で模様も絵もなく柔らかい造形とざらついているが温かい手触りを感じさせる作品だった。
「藤原さんのコップ一個買いましたよ。すごい使い勝手いいです」
「うん。地味だから目を引かないけどね。使うといいよね」
 『アダージョ』には素敵なものがたくさんありリラックスできる。そして弘樹の車も加工された匂いも派手な色彩のものもなく同じように落ち着く空間だと改めて思った。
「何食べたい?」
 そうだ。これから食事に行こうと誘ってもらっているのだとフミは回想から思考に感覚を戻した。

「えーっと。ラーメン」
「ラーメン?そりゃ俺も好きだけど、いいの?もっといいとこでもいいよ」
 優しく笑いながら言う弘樹にフミは少し照れながら
「寒くなってきたし、なんかラーメン食べたい気分なんです」
 と言った。
「ん。じゃあどこがいかな『春日』にするかな」
「どこにあるんですか?」
「ちょっと大通りから裏道はいるんだ。定食屋だけど醤油ラーメンがうまいんだよ」
「へー」
「ちょっとオヤジだらけだけど平気?」
「平気です」
「じゃ、いくか」
「はい」

 低めの軒先の暖簾をくぐり店内に入る。弘樹について一緒に座敷の席に座った。初めて入る店内は壁に張り子の天狗の面やらおかめやひょっとこが飾られており、青年誌系の漫画が多くラインナップされ客層もスーツや作業服を着た中高年の男だらけだった。確かにフミ一人では入りづらい店だ。まだ時間帯が早いのか空いている。愛想のよい中年のふくよかな女が水を差しだして「いらっしゃい」と言いフミを見てにっこり笑ってから下がった。
「ラーメンにする?」
「はい。大盛りで」
「俺は麺唐定にするかな」
 頼んでから十分ほどで先にラーメンがやってきた。フミは「お先です」と言って手を合わせ麺を啜り始めた。
「おいしい」
「だろ?隠れた名店ってやつなんだ、ここ」
「繁盛してますよね」
「うん。でもラーメンが美味いって意外と知られてないんだよ」
「へー、こんなに美味しいのに」
 もう三分ほどで弘樹の注文したラーメンと唐揚げセットの定食がくる。
「ああ。麺と唐揚げの定食なんですね。なんか呪文みたいだったから何が来るのかと思いました」
 ふっと弘樹が優しく笑うので一瞬フミは緊張してしまった。ハッとしてラーメンに集中して食べた。縮れた面と濃い醤油と鶏がらスープがあっさりともこってりともせずいい塩梅だ。
「あー。美味しかった」
「唐揚げ食べる?」
「あ、いえ。もうお腹いっぱいです」
「そっか。ここ唐揚げも美味しいんだ」
「見るからに美味しそうですよね」
 あっという間に食事が終わってしまい、フミは弘樹にお礼を言い、二人で店を出た。
このまま帰るのも中途半端で名残惜しい気がしてフミは思い切って弘樹を誘った。
「あの。まだ時間よかったらお茶でもご馳走させてもらえませんか?」
「気にしなくていいよ」
「いえ、あの。気を使ってるとかでもなくて……もう少し一緒に居たいんです」
 言いながらフミは自分が弘樹を好きになっている気持に気が付いた。弘樹もなんとなく雰囲気を察し「いいよ」と答えた。今度はフミのたまに行く喫茶店『パトス』に向かった。


9 喫茶店『パトス』

「いい店だね」
「はい。カフェじゃなくて喫茶店って感じが好きなんです。軽食も美味しいですけど」
「さすがに今はいいかな」
「ですよね」
 二人でホットコーヒーを頼んで飲んだ。今どきのカフェではなかなかお目にかかれないアールヌーボー調のシャンデリアが吊るされており、椅子は緑のベロア生地で使い込まれた木の脚は猫足で艶やかだった。
「こんなとこ知らなかったな。姉貴にも教えてやるか」
「ああ、美里さんも好きになってくれるかな。ちょっと雰囲気は違うかもしれないけど」
「たぶん。好きだと思うよ」
 弘樹は滑らかな木のテーブルを優しく撫でた。
「木っていいよね」
「やっぱり弘樹さんは木が好きなんですね。」
「うん。でも仕事は人付き合いが面倒だからってのが林業やってる大きな理由だけどね」
 笑いながら弘樹はコーヒーカップを傾けた。
「そうなんですか」
「フミちゃんはパンが好きだから?」
「ええ。そうですね。食いしん坊みたいですよね」
 自分で言っておいて恥ずかしくなってしまう。
「いいことだよ」

 まっすぐに見つめられてフミはさっき自覚した恋心に歯止めが利かなくなってしまいそうになり慌ててコーヒーを飲み干した。自覚が始まると態度に出るまでのレスポンスが早い。心臓の鼓動まで早くなってきた。時間は七時を過ぎたところで弘樹は少し様子のおかしいフミを見て「眠くなってきた?」と聞く。曖昧に頷いて店を出ることにした。
駐車場に着くともう真っ暗になっていて普段来ることのない場所でフミはためらいがちにゆっくり歩いた。
「そこ、危ないよ」
 弘樹がフミの手首をつかんで動きを止めた。あと一歩のところに直径二十センチばかりのくぼみがあった。
「あ。ありがとうございます」
 つかまれた手首が離された瞬間に熱くなってくる。つかまれた手首を自分でもう一度握ってみた。
「ごめん。痛かった?」
「あ、いえ」

 明らかに挙動不審のフミは落ち着きなく目を泳がせてくぼみを見つめた。俯いているフミの肩に弘樹がそっと手をのせてくる。見上げるとスッと弘樹の顔が近づき口づけをされた。滑らかで温かい唇が重なる。ゆるゆると唇より少し柔らかい舌先がフミの前歯を越えて舌下をくすぐる。気づくと身体も密着していてフミは弘樹の腰に手を回していた。夢中でキスが終わったことにも気づかず、フミは突っ立ってしまっていた。
「送るよ」
「あ、はい」
 足が軽い。身体が浮いているような感覚だ。今まで知っているキスと違う。大人のキス。
「着いたよ」
「ありがとうございます」
「じゃ、またね」
 『またね』の言葉を聞いてフミは思い切って告げた。
「あの、私とお付き合いしてください」
 弘樹は数秒静かにフミを見つめて「いいよ」と答えた。フミは安堵と興奮がいっぺんに駆け巡りはじけ飛びそうな気分になった。
「ありがとうございました」
 再度大きな声で言い家に向かって全力疾走した。後ろから弘樹の声が聞こえたような気がしたがなぜかゴールを目指すように家のドアを思い描きながら駆け抜けた。
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