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本編

53.ぼたん

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タツに連れられ辿りついた場所は、例の作業場だった。
前に来た時と違って部屋の中は綺麗に整頓されている。
そこにあるのは積み重なった五線譜と、丁寧に磨かれ置かれたギター。
思わず五線譜をまじまじ見てしまう私。
横でタツが苦笑した。

「見せてあげたいのは山々だけど今はダメ」

テーブルに乗った五線譜の山をひょいと取り上げて近くの棚に置くタツ。
中身が見たくてついついその手を目で追ってしまう。
するとタツが唐突に私の目の前に来て顔を覗きこんできた。

「うわああ!?」
「ふは、相変わらず良い反応」

いきなりのタツの顔ドアップに腰を抜かしてしまう。
タツはカラカラ笑いながらしゃがんで手を差し伸べてくれた。
私は顔を真っ赤にしているのに、タツはいつもの表情を崩さない。
……なんだかずるい。
ついついそんなことを思ってしまって、その初めての感情に自分で驚く。
胸はやっぱりドキドキとうるさくて、頭の中はタツでいっぱいで、どんどんと気持ちが重なっていく。
初めて自覚した恋心というものは、幸せだけれどそれよりも忙しなくて中々頭がついていかない。

「ほら、こっち座って」
「は、はい」

それでも優しく微笑んで手を掴まれると、やっぱり嬉しくて仕方がない。
緊張しているのに顔がにやけてしまって、何とも微妙な顔になっている自覚はあった。
恋をすると人は可愛くなるなんてよく言うけれど、私の場合は間違いなく奇怪になるだけだ。
好きな人の前でくらい可愛い私でありたいのに、上手くいかない。
とても難易度が高い。
ああ、恋って難しいんだな。
そんなことも初めて知った。
そうしてぐるぐると空回る私の目の前にタツが何かを差し出す。
A4サイズの紙、その題名に書いてあるのはとあるオーディションの名前だ。

「あ、これ……」
「ああ、知ってるんだな。そう、Aオーディション」

タツは私の反応に嬉しそうに笑いながら肯定してくれる。
そこにあったのは、聞き覚えのあるオーディションの結果通知書だった。

Aオーディション。
新人アーティストの発掘を目的としたオーディエンス審査方式のオーディション。
音楽事務所8社協賛という異例の規模で行われるオーディションだ。
うちの事務所もその中のひとつだから知っている。
最終審査まで進むのは20組。
それぞれが会場でライブを行い、その審査するのは当日会場に入ったお客さん。
全組演奏が終わってからそれぞれが1位から3位までを投票して、各順位に応じたポイントを累積させ、一番得票の高い組が優勝。
優勝した組は協賛8社のどこかからデビューが確約されるという、色々と新しい形のオーディションだと大塚さんが言っていた。
たとえ優勝できなくても、どこかの事務所の目に留まればデビューも夢じゃない。
注目度も高いから、アーティストを夢見る人達にすれば大きなチャンスだというのは確かなこと。

「一次審査、通過」

タツが持つ通知書の中央を読み上げる。
大きく太字で書かれたその文字は、タツとシュンさんが着実に前に進んでいる証拠。
私は少しずつその意味を呑み込んでいく。

「通過……! おめでとうございます!」

すごく嬉しくなって、ついつい声を張ってしまった。
タツも本当に嬉しそうに笑って「ありがとう」と言う。
このオーディション、確か応募総数は2万を越えていたはずだ。
その中で一次審査を通過できるのは10%にも満たない。
第一歩とはいえ、それは大きな一歩。

「やっとさ、自分の中で何かを掴めた気がしたんだよ」

タツが自然な笑顔でそんなことを言う。
フッと優しく息を吐き出し何かを思い返すその表情からは、前に見たような苦悩の色は見えない。
ただただ穏やかで、凪いだ風のように落ち着いている。
そのままの表情でタツはゆっくりと私の方を向いた。

「君のおかげだ。俺の方こそチエにお礼を言わなきゃいけない」

どこか吹っ切れたのだと、そう私にも分かるタツの顔。
私の大好きなタツの、ありのままの笑顔。
お礼を言われるようなことを出来た心当たりは、正直なかった。
いつだっていっぱいいっぱいで、私はいつだってタツに多くのものをもらうばかりで、お礼を言い足りないのは私の方だと思う。
けれど、少しでもタツに何かを返せていたのならこんなに嬉しいことははい。
感極まって言葉が出てこない。
タツは相変わらず笑いながら見守ってくれるけれど。

「散々チエには偉そうなこと言っちゃったけどさ、実際のところは俺も同じ。ウダウダ悩んで心が決まり切っていななかったんだと思う。自分で決めたはずなのに、雑念に惑わされて真っすぐ向き合えていなかったんだ」
「タツ」
「やっと、覚悟が決まった。俺は前だけを見るって」

言葉は簡潔で、けれど力強い。
きっぱりと言い切るタツの目はやる気に溢れていた。

「自分を卑下するのは、もうやめる。信じてみるよ、俺の力を」

……あの日のリュウを、思い出す。
私の心を救ってくれた、力強くて優しいあの音を。
悔し涙を流しながら、それでも笑顔を見せた芯の通ったその顔を。

あれから5年。
彼は一直線にただ一点を目指して進んできた。
ぶれることなく、曲がることなく。
苦しみながらでも、その根を変えることなくここまで来た。
だからこそ乗り越え強くなったタツの言葉。

「やっぱり、タツはすごい」

アーティストとしても、人としても。
どこまでも真っ直ぐで、どこまでも熱くて、どこまでも温かい。

「今度は、俺の番」

子供のように無邪気に笑い、タツは言う。
首を傾げれば、ははっと声をあげた。

「必ず追いついて、チエに必ず伝えるよ」

タツは一体未来にどんなことを伝えてくれるんだろう。
この先どんなタツを私に見せてくれる?
とても気になることではあったけれど、それでもあまりにすっきりとした表情のタツに魅入られて声はあがらない。

「本当にありがとう、チエ。チエに相応しい人間になって、正々堂々会いに行くから。約束の場所に」

目を閉ざせば、瞼の裏にぼんやりと映像が浮かぶ。
過去のタツと、そして未来のタツ。

約束の舞台。
今日私が立った、あの大舞台。
そこでシュンさんと力いっぱい歌うタツ。
そして、私と千歳くんとタツとシュンさんの4人で笑い合う光景が脳裏に浮かぶ。
それはあまりに幸せな映像で、だからこそ私にも気合が入る。

「はい、待ってます。必ず、笑って2人を迎えられるよう私も頑張ります」

そうして今度は私から手を差し出す。
やっと私はタツと同じ所に立って、向かい合えている気がした。
後ろから追いかけるのではなく、真正面で。
タツは少し驚いたように目を見開き、そしてすぐに破顔する。
がっちりと手を握り締めたその感覚を私は、決して忘れないと思う。

タツとシュンさんに送られた一次審査通過の知らせ。
そこに書かれた2人のユニット名。

ぼたん

様になるまで時間はかかるかもしれない。
途中で掛け違えて長く悩むかもしれない。
それでも一つ一つきちんと確かめながら信じるものを形作れるユニットでありたい。
タツが照れくさそうにしながら教えてくれたその名前は、2人が歩んできた道を象徴するような、そんな響きだった。

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