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四、火中の末娘を拾う(回想の部 全六章中の三)

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 空にかかり、庭の池に映る月の形は日々変わり、またおなじ形にもどった。昼の熱が土にのこって翌朝まで冷めず、そこに昇った翌日の太陽が熱を足していくようになった。

 雨宮あまみや家当主、深山守みやまのかみの部屋はしかし、暑さとは無関係だった。庭木や草花、池が熱を食い止めている。

 戸善とぜんは下座で頭をさげた。

「かまわぬ。顔をあげよ。おまえを呼び出したのはほかでもない。これまでの勤務成績優秀と警備士長から聞いておる。現地雇用の者の中では群を抜いておると。ほめてとらせるぞ」

 正面上座の深山守みやまのかみは銘の入った短刀を片手で突き出した。戸善とぜんは低い姿勢のまま膝を擦って近づき、うやうやしく両手で受け取った。元の下座にもどってさらに深い礼をする。

「ありがたき幸せ。謹んでお受けいたしまする」

 その後、茶菓が供され、深山守みやまのかみ戸善とぜんは辺境の警備について雑談した。

 深山守みやまのかみの右手には退屈さを隠そうとして隠しきれていない末娘がすわっていた。話の途中で入ってきたのだが、挨拶も紹介もされなかった。となりの父親にそっくりな丸い目を伏せている。
 彼女が小さくあくびを噛み殺したのを潮に深山守みやまのかみは話を変えた。

「……そうか、そこまで開けてきたか。あのあたりは田舎と思うておったが。いい話を聞かせてもらった。さて、きょうわざわざ中央に呼び出したのは褒美を与えるだけが目的ではない」

 いま気がついたかのようにとなりの娘を見る。大きな口を一文字に結んでいる。

「顔を合わせるのは初めてだったな。末の小夜子さよこだ。呼び名は千草ちぐさ。王立高等学校を今年度卒業する」
「それはおめでとうございます」
「うむ。で、教授から研究の題目の指示があってな。わしにはよくわからんが言語の変遷に関する研究とのことらしい。その調査と卒業旅行を兼ねて穂高ほだか国に行くことになった」
「それはそれは、ご研究とご旅行がご無事にすみますように」

 そういう戸善とぜんを娘はじっと見ていた。父親そっくりの目の下の鼻は低く、幼児のように前から穴が見える。

「いや、実はな、成績優秀な警備士のおまえに小夜子さよこの護衛を命じたい」

 戸善とぜんは一瞬驚いた表情になり、すぐ真顔にもどした。

「は、ご命令とあらば否やはございませぬが、お嬢様のご旅行とあらば通例は女官がつくのでは?」

 そういうと、深山守みやまのかみが答える前にとなりから娘が返してきた。

「それはわたしが断った。お父様は卒業旅行を兼ねているといったが実質は研究旅行。物見遊山ではない。また、長期になると予想される。柔な女官では不足だ」

 深山守みやまのかみは割りこんできた娘の無礼を咎めるような目で見たがなにもいわなかった。
 戸善とぜんはそちらへ軽く頭をさげる。
「そういうおつもりとは知らず、差し出がましいことを申し上げました。では、わたしを含め護衛は何人編成でしょうか」
「おまえ一人だ。こたびの研究は農村部をまわって取材を行う。ぞろぞろと来られては話も出来ぬ」
 彼女はあらかじめいうことを決めていたかのように大きな作りの口を動かした。
「失礼ながら申し上げます。わたしのみとは驚きました。それは護衛ではございません。ただのお供でございます」
 深山守みやまのかみは苦笑しながら答える。
「その通りだ。穂高ほだか国との間に緊張や不安は実質もう無い。名目は護衛だが、ま、従者と考えてくれ。無論手当は出す。任務完了後の地位も用意する。どうだ。嫌か」
「とんでもないことでございます。ご主人様からの直接のご下命。喜んでお引き受けいたします。また、お手当などは不要にございます。すでに充分頂いております」
「そうか。まあ、そちらのほうはまた考えよう。悪くはせぬぞ」
 戸善とぜんはまた礼をした。その顔をあげた時、娘がまた割りこんできた。
「おまえ、名はなんと?」
柄明慶つかあきよしと申します」
「呼び名は?」
三郎丸さぶろうまるです。が、無論お嬢様は真名まなでお呼びください。こたびの任務ではご主人様ですから」
「そうしよう。さて、明慶あきよし穂高ほだか国の地理や歴史にくわしいか」
「申し訳ございません。一般的な知識以上は持ち合わせておりません」
「そうか。出発までもう七日無いがその間に詰めこめるか」
「わたしのできうるかぎり」
「よし、それでいい。家の蔵を使ってよい。とくに地理については掌を指すが如くにしておけ」
「は、仰せの通りに」

 娘は父のほうを見ていった。

「お父様、この者、わたしの護衛兼従者として連れて行きます」
「なにをいう。連れて行くもなにもわしがつけるのだ」
「いいえ。決めるのはわたしのはず。きのうそうお約束なさったでしょう」
「そうであったか?」
「そうです」

 そう強くいってから、戸善とぜんを指す。

「この者、まじめすぎ、かたすぎのようだが不まじめよりましだ。ついてきてもいいだろう」
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