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夕暮れ ―ある名人の話―
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御前試合に本当に御前の臨席を賜るなど、すでに城での試合が形式と化していた当時はまれであった。そのうえ、御前試合といいながら、特別に御前御自身が対戦されるという。そのため控え室は一目見ようという貴人とその家来たちで混みあっていた。
しかし、名人はその騒ぎの対極にいるかのように泰然自若として盤の下手側に座っている。そのしわの多い顔を昼を過ぎた日が照らし、今のうちにとお抱え画家が描いていた。
「またせたな。いや、そのままでよい。始めようか」
その場の全員が深く礼をする。王はふだんのように上手に座る。中年過ぎを感じさせない軽やかな身のこなしだった。
「五枚で参りましょう」
名人は挨拶もせずにそういったが、だれも無礼とは咎めなかった。
「七枚では?」
「王よ、闘将では謙遜はいけません」
王は笑う。
「そうか。朕はそれほどまでに上達したか」そういいながら縦横十八本の墨の線が引かれた闘将盤に、先に白軍を五枚配置した。いずれも交点上だった。生産を重視するらしい。そのまま先手として行動する。
名人は逆に枡目の中に黒軍を配置した。
「これは、いかなる手かな。生産の前に攻撃は定法ではない」
「定法は過去の闘将人が作ってきた蓄積です。わたしは今日新たな定法を生み出します」
見物の貴人たちがどよめいた。定法は百年前から決まっている。そこに新たな手を加えると宣言したのだ。しかも隠居の日に。
王は交点上に配置した自軍で生産を開始し、国と軍の強化を始めた。白が見た目に美しい幾何学模様を描いていく。
それに対し、名人の黒は不穏だった。強化もされない野蛮人のような初期兵が着々と陣を整える。だが、どう見ても烏合の衆だった。国も貧しいままだ。
「しつこいようだが、本当に隠居するのか」
「はい。本日をもって」
「惜しいことだ」
「なにごとにも引き際があります」
秩序だった集団を形成しつつある王と、野蛮人の群れがごちゃごちゃしているだけのような名人の陣は対照的だった。
「前に、闘将盤上では直観が肝要と教えてくれたな」
「はい。いまでも変わりありません。理屈を考えてはいけません。経験と知識をもとに、ただ手を動かしてください。考えるのは闘いの前と後です。だからこそ、闘将はほかの盤上遊戯のように持ち時間が与えられないのです」
「もう一度頼む。考えないとは?」
「見るのです。盤の上の配置をです。闘将人であればその絵を見ればどこに不足があるかわかります。ここに線が足りない、あそこは塗らなければ、と。それは直観です」
「そうか。朕の直観はいかがかな」
「五枚先置まで上達されました。それが現時点の王の力です」
話しながらも絵は動き、変わり続ける。まわりの見物たちはほとんど呼吸すら忘れていた。王の整った国と陣に対し、名人はどう闘おうというのか。
火蓋を切ったのは王だった。自国付近に進出した黒を襲撃する。皆緊張した。名人はどう逆襲するのだろうか。
なんの策もないとわかった時、そして、策もない野蛮人の突撃が功を奏したとわかった時、貴人たちは思わず声を上げ、すぐに自らの非礼に気づいて小さくなった。
さらに、貴人たちの中でも上級者がやっと理解した。その野蛮人の突撃と思えたものが、よく見てみると美麗な絵画となっていた。
「まさか。朕はなぜ気づかなかったのだ」王も、自軍をずたずたにされてやっと絵が見えた。
「それは王の直観力に不足があるからです。まだまだ闘将を一つ一つの兵が動く文章としてとらえておられるのです。全体の絵として見ていない」
王は盤ではなく名人の顔を見た。眉は下がり、唇は固く結ばれている。悲しそうだった。
「朕は謝罪する。これまでのご指導、なにも生かせなかった」
それから闘い続けたが、初期の強攻を受けきれず、蛮族に国中を食い荒らされる形で王は敗れた。
「これはただの娯楽です」名人がいった。
「いや、闘将は盤上遊戯のみならず、国や軍を運用する際の思考法にもかかわる。こんなことで国を栄えさせられるものか、自信を失った」
「本当になにもわかっておられない。教え方が悪かったのでしょう」
王は名人を睨んだが、なんの反応も返ってこなかった。
「闘将は遊びです。絵を鑑賞するのと変わりありません。経験と知識が導く電光石火の直観。それを競うものです。なのに昨今、文章を読み解くように理論ばかりがもてはやされ、一部では思考のための持ち時間導入の動きもあります。わたしはもうついていけません。隠居の理由の一端はそこにあります」
「ほかにも理由はあるのか」
「ええ、いまの王のように闘将を国や軍の運用に役立てよう、闘将で鍛えた直観や思考力を現実世界で利用しようといいはじめる者が出てきたからです。現実は闘将のように抽象化されてはいませんし、血や肉のある人間のものです。だから隠居します。闘将が政に持ち込まれるのを見てはいられません」
名人が辞した時、日は傾いていた。夕焼けの中を城に背を向け、お付きの弟子もなく一人で帰っていった。
******
現在、闘将は将棋や将棋とおなじく遊戯として盛んにおこなわれている。規則は当時のままで、持ち時間はない。
了
しかし、名人はその騒ぎの対極にいるかのように泰然自若として盤の下手側に座っている。そのしわの多い顔を昼を過ぎた日が照らし、今のうちにとお抱え画家が描いていた。
「またせたな。いや、そのままでよい。始めようか」
その場の全員が深く礼をする。王はふだんのように上手に座る。中年過ぎを感じさせない軽やかな身のこなしだった。
「五枚で参りましょう」
名人は挨拶もせずにそういったが、だれも無礼とは咎めなかった。
「七枚では?」
「王よ、闘将では謙遜はいけません」
王は笑う。
「そうか。朕はそれほどまでに上達したか」そういいながら縦横十八本の墨の線が引かれた闘将盤に、先に白軍を五枚配置した。いずれも交点上だった。生産を重視するらしい。そのまま先手として行動する。
名人は逆に枡目の中に黒軍を配置した。
「これは、いかなる手かな。生産の前に攻撃は定法ではない」
「定法は過去の闘将人が作ってきた蓄積です。わたしは今日新たな定法を生み出します」
見物の貴人たちがどよめいた。定法は百年前から決まっている。そこに新たな手を加えると宣言したのだ。しかも隠居の日に。
王は交点上に配置した自軍で生産を開始し、国と軍の強化を始めた。白が見た目に美しい幾何学模様を描いていく。
それに対し、名人の黒は不穏だった。強化もされない野蛮人のような初期兵が着々と陣を整える。だが、どう見ても烏合の衆だった。国も貧しいままだ。
「しつこいようだが、本当に隠居するのか」
「はい。本日をもって」
「惜しいことだ」
「なにごとにも引き際があります」
秩序だった集団を形成しつつある王と、野蛮人の群れがごちゃごちゃしているだけのような名人の陣は対照的だった。
「前に、闘将盤上では直観が肝要と教えてくれたな」
「はい。いまでも変わりありません。理屈を考えてはいけません。経験と知識をもとに、ただ手を動かしてください。考えるのは闘いの前と後です。だからこそ、闘将はほかの盤上遊戯のように持ち時間が与えられないのです」
「もう一度頼む。考えないとは?」
「見るのです。盤の上の配置をです。闘将人であればその絵を見ればどこに不足があるかわかります。ここに線が足りない、あそこは塗らなければ、と。それは直観です」
「そうか。朕の直観はいかがかな」
「五枚先置まで上達されました。それが現時点の王の力です」
話しながらも絵は動き、変わり続ける。まわりの見物たちはほとんど呼吸すら忘れていた。王の整った国と陣に対し、名人はどう闘おうというのか。
火蓋を切ったのは王だった。自国付近に進出した黒を襲撃する。皆緊張した。名人はどう逆襲するのだろうか。
なんの策もないとわかった時、そして、策もない野蛮人の突撃が功を奏したとわかった時、貴人たちは思わず声を上げ、すぐに自らの非礼に気づいて小さくなった。
さらに、貴人たちの中でも上級者がやっと理解した。その野蛮人の突撃と思えたものが、よく見てみると美麗な絵画となっていた。
「まさか。朕はなぜ気づかなかったのだ」王も、自軍をずたずたにされてやっと絵が見えた。
「それは王の直観力に不足があるからです。まだまだ闘将を一つ一つの兵が動く文章としてとらえておられるのです。全体の絵として見ていない」
王は盤ではなく名人の顔を見た。眉は下がり、唇は固く結ばれている。悲しそうだった。
「朕は謝罪する。これまでのご指導、なにも生かせなかった」
それから闘い続けたが、初期の強攻を受けきれず、蛮族に国中を食い荒らされる形で王は敗れた。
「これはただの娯楽です」名人がいった。
「いや、闘将は盤上遊戯のみならず、国や軍を運用する際の思考法にもかかわる。こんなことで国を栄えさせられるものか、自信を失った」
「本当になにもわかっておられない。教え方が悪かったのでしょう」
王は名人を睨んだが、なんの反応も返ってこなかった。
「闘将は遊びです。絵を鑑賞するのと変わりありません。経験と知識が導く電光石火の直観。それを競うものです。なのに昨今、文章を読み解くように理論ばかりがもてはやされ、一部では思考のための持ち時間導入の動きもあります。わたしはもうついていけません。隠居の理由の一端はそこにあります」
「ほかにも理由はあるのか」
「ええ、いまの王のように闘将を国や軍の運用に役立てよう、闘将で鍛えた直観や思考力を現実世界で利用しようといいはじめる者が出てきたからです。現実は闘将のように抽象化されてはいませんし、血や肉のある人間のものです。だから隠居します。闘将が政に持ち込まれるのを見てはいられません」
名人が辞した時、日は傾いていた。夕焼けの中を城に背を向け、お付きの弟子もなく一人で帰っていった。
******
現在、闘将は将棋や将棋とおなじく遊戯として盛んにおこなわれている。規則は当時のままで、持ち時間はない。
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