あなたのことが好きなのに

宇土為名

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『あーこれあれだねえ、完全に故意にやってるね、写真撮りましょうか』
 朝匡孝の自転車を持って行った自転車店の店主はあっさりとそう言った。警察に届け出すでしょう?と。
『最近多いんだよね、修理する前に被害届出さないと駄目ですよ』
 自分のではない、と浜村が言うと、店主はじゃあ一日預かりますから、と言った。
『持ち主にちゃんと言って、どうするか聞いてからまた明日にでも連絡ください…』
 
 浜村は時計を見た。
 匡孝が出て行ってから既に1時間が過ぎていた。
 招待状の配布先は12軒、どれも半径200m内ほどのご近所だ。こんなに時間がかかるわけがない。
 胃の辺りを嫌な予感が刺す。
 ちゃんと今朝、言えばよかったのだ。自転車の事を。そうすれば匡孝は行かなかったはずだ。今日も帰りは送っていくつもりだったのだ。
 また時計を見た。
 夜の営業開始まであと20分、今日は週末で予約も入っている。自分がこのまま店を放り出して出て行くわけには行かない。
 大沢もいない。
 どうする?
(落ち着け…)
 浜村は仕込みを続けながら思案した。落ち着け。もう帰って来る。道に迷ったとか何とか──そんな理由だ。大概の事には理由があるものだ。帰ってきたら頭ぐりぐりしてやる。大丈夫、男子高校生だぞ?女の子じゃない…
 心配のしすぎだ。きっと。
 何でもないと思う狭間に、切り刻まれた自転車のタイヤがちらついた。
「くそっ…」
 一度鳴らした匡孝の携帯はロッカーの中で震えていた。
 せめて携帯を持って行ってくれていたら。
 ──携帯。
 電話。
 誰かに電話を──しかし匡孝の家族は近くにはいない。
 匡孝はひとりだ。誰か…
 ──誰か。
 ハッと浜村は店の電話に飛びついた。いる。
 ひとりだけ。
 操作ボタンを押す。
 履歴だ。残っているはずだ。掛かって来た、あの時、あれは──
 いつだった?
 電話の着信履歴をさかのぼっていく。
 三日前?五日前?
 ──土曜日、一週間前、そうだ。
 弁当を作って持たせた日だ。
「あった」
 浜村はリダイヤルを押した。念のためにメモ用紙に番号を書き留めていく。
 出ろよ、頼むから。
 コール音が続く。
「出てくれよ…」
 五度目のコール音に呟いたとき、電話が繋がる音がした。
『──はい』
 市倉ですが、とその声が言った。


 吉井が匡孝に送ったメッセージは、やはりしばらく待っても既読にはならなかった。真面目な匡孝の事だ。バイト中には携帯の音を切っているか、持っていないに違いない。
 昨日姫野が言っていたことを思い出す。
『…あいつさ、なんかヤバいんじゃねえかな』
『あいつって?』
 吉井は聞いた。
 姫野の言うあいつが誰なのか分からない訳でもないのだが、その口からはっきりと言わせたかった。有体に言うなら、いじめておきたい気分だったのだ。
『…あいつじゃん』
『知らねえよ、はっきり言えよ』
 姫野は不服そうに口を尖らせた。
『………市倉』
 口にするのも嫌そうに顔を顰める。それでもその名前を口にするのは、よほど切羽詰まってのことらしいと、ホットチョコレートを飲みながら吉井は思った。
『いっちゃんが何』
 その呼び方には大いに不満か。
『とっとと言えよ。オレだって暇じゃない』
『俺だって』
『暇なんだろ。余計なことばっかり考えやがって』
 上目に姫野が睨んできた。掲げたカップ越しに吉井はそれを見返した。『八つ当たりするな』
『俺は…!』
 がたん、と姫野は立ち上がろうとして、やめた。ここがどこだか思い出したようにまたそろそろと座る。隣のテーブルの女3人──おそらく大学生──がこちらを見ていたが、吉井はきれいに無視をした。それでなくとも男ふたりで目立っているのに、──これ以上目立ってたまるか。
『俺は、ただ、…心配で、…ちかが』
 そうだろうとも。
 姫野がこんなにも気に掛けるのは匡孝しかいない。
『匡孝は大丈夫だろ』
『だから、あいつといるから、ちかは…』
 吉井はため息をついた。
『いっちゃんの何がヤバいんだよ。オレはあの人好きなんだ、気に入ってんだよ。いい加減なこと言ったら許さねえぞ』
『俺聞いたんだよ』
『何を』
 姫野は大きく息を吸い込んだ。
『市倉が、前のとこで何したか…それで、もしかしたら今度はちかが酷い目にあうかもって、だから俺、──』
『ちょっと待て』
 吉井は姫野を遮った。市倉が何をしたか?市倉の前職は大学付属の研究室…研究員だったか、助手だったか、とにかくそんなものだったと以前に誰かに聞いた。あれは…誰に聞いたのか、吉井は思い出そうとした。
 深津、そうだ担任の深津だ。それから…
『いっちゃんが何したって?』
『職場の同僚の女奪って脅して横領したって──』
『はあ⁉』
 声を上げた吉井に、逆に姫野は潜めた声で続けた。
『それで俺調べてみて』
 これ、と姫野は携帯を出して吉井に差し出した。スマホの画面には聞いたこともないようなニュースサイトの小さな記事が表示されている。
 ネットニュースか。
 吉井はその記事を目で追った。
 記事には具体的なことは何も記されていない。事件(そう呼べればだが)を憶測でしか語っておらず、主観的だ。客観性はなく、どの名前も名称も記されてはいない。ただ、それを知っている者が読めば、そうだと分かるだろうというような、新聞やローカルニュースの断片を切って繋ぎ合わせたような曖昧なものだった。これが市倉だと、彼がしたことだと断言するにはあまりにも根拠がない。
 吉井は言った。
『これがそうだって思った理由は?なんでそう信じたんだ?誰が何を…』
 こいつに吹き込んだ?
 そしてこれがどう匡孝に繋がる?
『女が、この記事の女を、俺見かけて…後ついてった』
 女?
 は、と吉井は息を吐いた。
『なんでおまえ分かったんだ、その女だって』
『ネットで見た』
 なるほど。小さくともネットニュースになったくらいだ。どこかに、ネットの片隅に、当事者の顔写真が──面白半分に、あるいは正義感に駆られた不特定多数の自称匿名記者達に──上げられていてもおかしくはない。
 ありがちなことだ。その中から女の顔を探すのも案外簡単だっただろうと吉井は思った。
 こんなふうに深く──調べる者がいれば。
 知りたいと思わなければ。
『ふうん…、で?』
『その女はさ、俺がよく行くゲーセンにいたんだよ。それでそうだって分かって、後つけて…そしたらもう一人の女と会って、喋ってたんだ。あれが、仕組んだことだって』
 吉井はカップを取った。濃い茶色のマグカップはすっかり冷たくなっている。持ち上げただけで、すぐにソーサーに戻した。
『俺確かめたかったんだ、話聞いて、あれが本当のことなのかって、なのに…、あの女、あいつ…』
 仕組んだって言いやがった、と姫野の声は苦々しく歪んでいた。
『面白かったって、もっともっと苦しめてやるって、市倉のこと心底憎んでるみたいで、それで、だから』
 引き攣れるような声を姫野は漏らした。
『あいつが大事にしてるものも、何もかも、全部、失くしてやるって…だから、あいつらそうなんだろ?…俺、だから…』
 大事なもの。もの──物か、人か。
 人…
 吉井は姫野が何を考えているか分かった。
 何を思いついたかを。
『それが匡孝だって?』
 泣きそうにくしゃくしゃになった顔で姫野はうん、と頷いた。


「……」
 はあ、と吉井はため息をついた。
 姫野の考えは突飛だ。本当にそんなことが?
 あるだろうか、共通の人物を知る見知らぬ他人が互いの生活圏の中で、出くわす可能性は?
 出来すぎていないか?
 でも…
 その女が市倉の周りをうろついているのなら、あり得ることかもしれない?
 分からない。
 それが真実仕組まれたことだったとして、市倉がそうだったとして、その女が市倉を憎んでいてまだ何かを企てているのなら、なぜ市倉はそれに気づかないのだろう…
 気づいているのか?
 まさか知らないはずはありえないと吉井は思った。
 赴任してきてから一年にも満たないが、吉井は市倉のその人となりを見抜いていた。
 市倉は敏い人だ。分かるはず。汚名を着せられて、その悪意の正体に気づかないはずがない。
 今日、無理にでも捕まえて確かめておけばよかったか…
 市倉は匡孝をどう見ているのだろう。
 吉井は携帯を眺めて、画面を消してウインドブレーカーのポケットに入れた。画面には姫野のスマホから転送したあのニュースサイトの記事が映っていた。
 駅前から住宅街への道を歩く。スニーカーの足音は静かに続く。
『頼むよ、なあ。俺はもう、今、ちかに近づけないから…夏生しかいないんだよ』
 姫野はやり方を間違えている。そんなに心配なら市倉に食って掛かる前に、もっと──やり方はあったはずだ。
 あんなふうに嫌われることばかりして。
 バカだよなあ、と思う。
 匡孝は、姫野が思うよりもずっと強い。なのに一体どこを見ているのだろうか。
 はあ、と吉井はもう一度息を吐いた。
 とりあえず行くしかない。
 日が落ちた暗がりの道を、匡孝のバイト先へと──コンタットへと吉井は足早に歩いた。

 ***

 着けたままのエプロンの裾が風に煽られた。
 その赤い唇は闇の中でもよく見えた。
 ねえ、とその口が言った。
「こんなところで何してんの?」
 りいの友人は舐めるようにその目で匡孝を見回した。あの時と同じだ。ぞっとするような眼差しに匡孝は胃の底がせりあがってくるような気がした。出来るものなら立ち去りたい。しかし彼女は匡孝の進路を遮るように立ちふさがっていた。足の先から冷えていく。
 ねえ、とまた言われて、ようやく匡孝は答えた。
「…店の、用事です」
「へえそう」
 興味もなさそうに彼女は鼻で笑った。実際どうでもいいのだろう。
「あんたさ、アレなの?」
「え?」
 匡孝は彼女を見た。
 彼女はコートのポケットから何かを取り出し、匡孝の前に掲げてみせた。手のひらほどの大きさの紙──写真。
 暗がりの中で匡孝はそれを見ようとして、目を眇め、ハッとした。
 ──市倉。
 そして…
「見えた?じゃあこっち、ほら」
 自分の携帯を取り出して彼女は素早く操作をして、その画面を匡孝の鼻先に突き付けた。
「よく写ってるよねえ、最近のケータイのカメラ感度いいから暗くってもバッチリだった」
 明るく光る携帯の向こうで彼女はうっすらと笑った。視界の隅にその視線を捉えながら匡孝は画面を見つめた。
 その中には、市倉と匡孝がいる。
 特にどうということもない写真だ。全体的にぼんやりとしている。
 ふたりで、車に乗っている…ただそれだけの…
 写真がスライドした。
 匡孝がひとりで写っている。どこかの店の前、ガラスの扉、自動ドア…
 ぎく、と匡孝の肩が強張った。
 もう一度スライドする。
 明るい店内、棚の隙間から見えている匡孝が写っている。その向こうにある窓の外は暗い。コンビニ?
 もう一度。
 コンタットの外観、夜、窓の明かり、入口に立っている自分。
 客を見送っている──昨日の自分。
 ぞっとした。
「気づかなかったでしょ」
 ねえ、と彼女は笑った。晴れやかなほどに。
 満面の笑み。
「マジで何にも気づかないからさ、めちゃくちゃにしちゃった。けど、助けてくれる人がいてよかったよねえ、あの人もさ、あんたのカレシ?」
「何…、めちゃくちゃって──」
 匡孝は目を見開いた。
 なんて言った?
 助けてくれる人?カレシ?
 それを見て彼女は、は、と嘲笑にまみれた息を吐いた。
「だからさ、自転車だよ!分かんないの?あんだけボロボロにしてやったのに、あんたホントマジで鈍いよねえ⁉それともさ、何?それって演技なの?写真撮られても後つけられてもゼンッゼン気づかないのってさ、ボケてんのにもほどがあんじゃないの⁉」
 ドン、と彼女は匡孝の胸を突いた。不意打ちによろめいて匡孝は後退る。
「パンクは…あれはあんたがしたのか」
 暗くてよく見えなかった昨夜、朝にはもう浜村が修理に出してしまっていた。浜村は気づいていた。
『なんか余計駄目にしちまって』
 だから──
 出るなと言ったのか。
 今さら?と彼女はせせら笑った。
「そうだよ、わたしがしたの」
「なんでそんな…俺はあんたに何もしてない」
「カンケーないでしょそんなの」
 ふふ、と可笑し気に笑う。
「だってあのセンセイ苦しめるためなんだし、あんたがどうとかってカンケーないのよね」
「な──」
「あいつ酷いやつだから苦しめてやろうと思って。でもそういうのって、本人にするより周りにいるやつにやったほうが効果あるんだって」
 だからさ、と言って彼女は匡孝に触れた。
「あんたもちょっと協力してよ」
 上着を掴んで引きずられそうになり、匡孝はその手を振り払った。
「やめろ!」
 怖気に似た悪寒が背筋を走り抜ける。
 パン、と鳴った手の甲を握りこんで彼女は匡孝を睨みつけた。「なにすんのよ!」
 匡孝も睨み返す。
「するわけないだろそんなこと!先生は何もしてない!」
「してるよ!」
「してない!」
 ふん、と彼女は嘲笑した。「あんた知らないんでしょ」一瞬たじろいだ匡孝をせせら笑う。「あいつが何したか──なんにも知らないんでしょ」
 匡孝は言葉を詰まらせた。
 そうだ。その詳細を匡孝はまだ知らない。市倉からはまだ聞いてはいなかった。
 にやりと彼女は笑った。
「知りたくない?あいつが何したか」
 匡孝は両手を握りしめた。
「どうでもいい」
「へえ…どうでもいいの?」
 一歩、彼女が近づいてくる。
 甘ったるい香水の匂い。
「先生が何してても、前に何してようがどうでもいいよ」
 彼女を正面から見返して匡孝は言った。それは本心だ。市倉が何をしたか、何をされたのか、もうどうでもよかった。
 知ったところで過ぎたことを変えることは出来ない。
 気持ちも変わらないと思うからだ。
 ふうん、と彼女は言った。
「人殺しでも?」
 深く口の端を吊り上げて笑った。「をさ、あいつが殺したんだよ」
 りいの、親友?
 殺した? 
 何の話だ。
「何言ってんだよ…!そんなことあるわけないだろ!」
「知り合ったその親友を汚いやり方で追い詰めて傷つけたんだよ。だから友達がおんなじように一度追い詰めて苦しめたのにさ、それでもあいつは普通にしてて、笑っててさ、おかしいでしょ」
「違う、…違う!」
 どこからそんな話が…
 まるで違う話だ。
 匡孝は叫んだ。
「違う‼」
「違わないよ。だって殺したんだもん。さ、その本人がなんで笑ってるわけ?」
「なんで──」
 匡孝は気づいた。彼女の言う殺したという言葉は比喩だ。肉体を本当に殺したのではない、殺したのは別のもの…気持ち?精神的な何か、心…
 心か?
 では友達の親友とは、りい自身の事?
 匡孝は首を振った。混乱する。
 いずれにしても、この人はまるで事実と違うことを信じている。りいが彼女に話したことは真実を上手く織り交ぜた作り話だ。
「だからさ、あんたをずっと見てたの。随分とセンセイに大事にされてるんじゃん?男同士とかってマジでウケるけど」
 匡孝は深く息を吸った。
「俺に何かしても意味なんてないよ」
「それはどうかなあ」
「俺と先生は何もない」
「嘘」嘲笑。「あんた顔に出るからすぐに分かるよ、可愛いよねえ。あんたが苦しんだら絶対あいつも苦しむよねえ、自分の事でってさ」
 彼女の手が匡孝に伸びてきた。
「あんたとセンセイがそんな関係だって知れたらどうなるんだろうね」
 襟元を掴まれた。その力は強く、匡孝は体を引いてその手を振りほどいた。
「何もないのにどうにもならないだろ」
「なるよ。どんなふうにだって、…今はすごく便利だよね。ケータイひとつあればいいんだし」
 ほら、と彼女はまた携帯を掲げてみせた。「あんたとセンセイの写真まだあるよ。バラ撒いてやろうか、教師と生徒の淫行?教師が生徒にセクハラ?何でも好きな題名つけて──」
「やめろ!」
 その声を遮る。彼女は笑った。
「そしたらもうあいつどこにもいられないよね?学校にも、どこにも居場所なんかなくなってさ、苦しむよね?」
「あんた…!何がしたいんだよ⁉自分の事でもないのに、なんでここまでやろうとするんだよ⁉」
 ふふ、とそれには彼女は答えなかった。
「今度はあんたが裏切ってよ、あいつを」
 上目に匡孝を見つめる目が、闇の中で白く光る。
「あいつをわたし達の言うとおりに裏切って苦しめてよ」
「嫌だ」即座に言い返した。「するわけないだろ!」
 にやりと彼女は唇を吊り上げた。
「じゃあこのこと、バレてもいいんだ、誰に知られても?家族にも?」
「──」
 家族?
 匡孝は彼女を凝視した。その目は闇に爛々と輝き、異様に濡れていた。興奮しているのが分かる。匡孝は奥歯を噛み締めた。佐凪と拓巳の顔がちらつく。
 深く息を吐いた。
 はったりだ。面白がっているだけだ。誰にだって家族はいる。
「好きにすればいいだろ!」
 一瞬間が空いた。
「店」と彼女は言った。「あの店、変な噂流してもいいんだ」
 匡孝は絶句した。
 抑揚のない声で彼女は続けた。
「あそこ潰しちゃうのは惜しいけどさあ、でもそんなのも今は簡単に出来ちゃうんだよねえ…口コミとか?一発でアウトじゃない?」
「なん──」
 なんで。
 匡孝の握りしめた手が震えた。
 そして初めてこの人を──この女を怖いと思った。
 怖い。
 そんな事になったら…
 どうしたら──
「わたし達の言う事聞くよね?」
 粘りつく視線が匡孝を捉える。
 あの場所を失くして、あの居場所を失って、そんな事になったら、──
 市倉を苦しめろと?
「大事にしてるあんたから裏切られたら、あいつどうなるんだろうねえ」
 どうして笑ってる?
 あんなにも、あんな…
『大丈夫だから』
『どこにも行くな』
 優しい人を?
 苦しめる?
 左目からだけしか泣かなかった。
「……っ」
 出来るわけがない。
「出来ない…」
「じゃああの店見捨てるんだ」
 匡孝は激しく首を振った。
「違う!」
 その瞬間匡孝は突き飛ばされた。その激しさに隣の更地の草むらの中に倒れ込む。
「どっちもないとかあり得ないから」
 匡孝を見下ろして、女は冷たく言い放った。
「裏切ってよ、それしかないでしょ」
 出来ないと言おうとして、市倉の顔が浮かぶ。浜村も大沢も好きだ。あの場所にいたい。ひとりきりの家は早く帰ると寂しくて、冷たくて、余計なことばかり考える。だからいつまでもそこにいたくて…
 家族といられない時間をそこで埋め合わせるように辻褄を合わせていた。
 それならばもう。
 もう充分ではないか?
「どっちも出来ない、断る」
 女が息を呑んだ。
 何かを言い返されるよりも先に匡孝は言った。
「店は辞める。それで先生にはもう近づかない」
 正気を疑うような視線を匡孝に向けた直後、女は弾けるように笑い出した。
「アハハハハハハハハハ!あんたバカじゃないの?」
 笑いを噛み殺した歪んだ顔で女は言った。
「あんたが店を辞めようがどうだっていいよ!いようがいまいが、あんたがわたし達の言う通りにしなきゃ潰すだけってことじゃん!分かんないの?」
「──」
 呆然とする匡孝を見下して、ひとしきり笑い転げると、女はふっと真顔になった。
「あんたがやらないと──あの店の人、困るだろうね」
 風が吹いた。枯れた更地の草むらがカサカサと音を立てる。
 言うべき言葉を探した。
 どうしてこんな事に…
 強く風が吹き抜け、枯れ草が揺れた。
 カサカサと鳴る。
「そうだ、困るよ──江藤君」
 突然更地の奥から声がした。
 女が目を見開いていた。
 匡孝は振り向いた。
「君がいないと僕が困る」
 と草むらの中に立っている大沢がそう言った。
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