エスプレッソとバニラ

伊東悠香

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1巻

1-1

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   1 仕事の鬼


「昼食、一緒に行く?」

 朝からひと言も言葉を交わしていなかった久保くぼさんが、急に声をかけてきた。誘ってるっていうんじゃなくて、無視するのも気まずいから一応声をかけたっていう感じ。
 今日は私たち以外は出張でいない。だから私は朝から彼とふたりきり。そのせいで背筋に汗をかくほど緊張していた。
 久保さんは、ほどよく筋肉のついた体に整った顔立ちの若きホープだ。私より三歳年上なだけなのに、ばりばりと実力を発揮していて、何年後かには省庁に出向し、会社に戻る頃には役職についているのではないだろうか。


 ここは、全国に数ヶ所の研究所を抱えている会社だ。その東京支社に、私、桐原きりはら芽衣めいは派遣で通っている。社員の人がやっている仕事は、専門的でものすごく難しいけど、私はその書類を整理するだけ。パソコンの技術があれば、誰にでもできる仕事だ。
 この部署に配属されて半年。私は……久保さんを好きになっていた。でも、彼はまったく私に興味がない。私に限らず、女性全般に興味がないんじゃないかと思えるほどストイックだ。
 仕事に対するシビアな姿勢を見て、彼を冷徹だと評する人も多い。話しかけた女子社員の中には、彼が発するオーラに気圧けおされて後ずさる子もいるほどだ。
 近くにいると、ちょっと怖いと思うのは私も同じ。
 だけど……それでも彼が好きだ。彼の仕事に対する厳しい姿勢だって素敵に見える。
 真夏にネクタイをきっちりめて涼やかな顔で仕事する姿も素敵だと思うし、自分に割り振られた仕事以外のことにも、積極的にチャレンジしている姿もかっこいい。

「社員食堂じゃなくて……また、外に行きませんか?」

 久保さんと一緒にランチするなら、プチデート気分を味わいたいと思った。

「ああ、いいよ」

 相変わらず素っ気ない態度で、彼はそう言った。
 久保さんは密かに女子社員から人気があるけど、実際は誰も声をかけない。私だって、隣り合って仕事をしていなければ、声なんか絶対かけられなかったと思う。
 彼は自分だけでなく周りにも、同じレベルの仕事を求める。
 あまり事務処理の速くない私は、何度も怒られた。作った書類を捨てられたこともある。でも、彼の言うことは正論だし、自分のバカなミスだったから、文句は言えない。
 くやしくて、何度となくトイレで泣いた。そんな怖い久保さんだけど、部署に人がいなくなると、時々外でのランチに付き合ってくれる。
 いつもの私は、同じ部署の人達と昼食をとる。髪の薄い飛田とびた課長と、小太りの五十嵐いがらしさん、細身の小田おださんの三人だ。さしておもしろいことがあるわけでもなく、黙々と食事するだけのつまらない時間。だから部署の全員が出払って、久保さんとふたりきりで過ごすのは私の密かな楽しみだ。
 男ばかりの部署だから、私には女子社員の友達がほとんどいない。派遣の中途採用で入ったせいもあり、他部署の女性ともなかなか親しくなれなかった。だから仕事場での仲間は、キャラの濃い男性四人だけだ。


「企画書、そろそろできた?」

 エレベーターに乗るなり、久保さんは仕事の話をふってきた。せっかくのお昼休みなのに、仕事の話なんかしなくてもいいのに……
 私は心の中でため息をつきながら答える。

「ええ、あと一時間くらいでできます」

 いつもこうだ。彼は私に仕事の話と、仕事上で関係する人のことしか話してくれない。
「休日はどうしてるの?」とか、「今日は寒いね」とか、あたりさわりのない世間話すらしてこない。恐ろしいほどに、仕事とプライベートをわけているのがわかる。それでも、私は彼の心に入り込みたくて強引に話しかける。

「もうすぐクリスマスですね」

 こんな話題を出せば、少しは会話が広がるはずだ。「街がにぎやかだね」でもいいし、「ライトアップされてる木があったよ」でもなんでもいいのに。なのに、彼は興味なさそうな顔をするばかり。

「ああ」

 返事も、これだけ。まったく会話が続かない。

「あのー……」

「恋人と過ごすんですか?」そう聞いてみたかった。でも、怒り出すかもしれない、と思って聞けない。
 IDカードを通して外に出る。重いドアを押さえて、私が出るまで彼は待っていてくれた。こういうところで、私の心はキュンッとなる。口調はいつも冷たいくせに、時々優しい行動をしてくれるところがツボにはまる。

「で……なに。さっき言いかけたの」
「え?」

 ドアのエスコートの件で妄想モードに入っていた私は、自分がさっき久保さんに質問しかけていたのを忘れていた。

「あ、ああ……そうそう、久保さんはクリスマスって恋人と過ごすのかなーとか思ったんですよ」

 外に出た開放感で、思わず言ってしまった。言ってから、冷や汗が出た。

「別に、クリスマスに限らず、恋人ならいつでも一緒がいいだろ」
「あ……ああ、そうですよね」

 ものすごく意外なことを聞いた気がする。能面のように表情を崩さないくせに、彼の口から出てきた言葉は、ちょっと情熱的だった。その返答から、彼に恋人がいるのかどうかまでは推測できなかったけれど、やっと聞けた仕事以外の話題に感動した。
 これでも、ちょっと強引にアプローチしているつもりだけど、彼が私の気持ちに気づいている気配はない。久保さんが鈍くなければ、自分が好意を持たれていることに気づいてもいいはずなのにな。
 空気を送っている。オーラを発している。雰囲気で、相手が自分に好意があるって察知する力。これ……恋愛には大切だと思うんだけどな。久保さんにだって、少しはあるでしょ?
 なのに、さっぱり反応がない。相手にされていない。
 心の中でひとりごとを言っているうちに、目的のピザ屋さんに到着。

「嫌いなもの、なかったよね?」
「はい。イタリアンなら、とくに苦手なものはありません」

 一緒に食事ができるっていうだけで私は浮かれているのに、彼はいたって冷静にピザを注文している。
 数分後、イタリアンピザが二枚運ばれてきた。ふたりで黙々とそれを一枚ずつ平らげる。
 この間、会話なし。ピザが運ばれるまでの間は、やっぱり仕事の話しかしてくれなかった。
 クリスマスの話を、もう少し続けたかったのに。残念ながら食事は終わってしまい、私達はまたオフィスに戻ることになる。
 外食のときは、久保さんが無言で支払いをすませてくれる。何度もそのお金を返そうとしたけど、受けとってくれなかった。いつも外に食べに行こうって誘うのは私なのに……
 私の少し前を歩く、無言の久保さん。その広い肩幅に、またもやトキメく。
 彼は自分の足下に転がっていた、まだ火のついているタバコを踏みつけた。

「ポイ捨てなんてマナー悪いですよね。歩きタバコとかも最悪ですよね」

 彼の行動に同調するつもりで言ったのに……

「他人の恋人探るのも、マナー違反じゃないの?」

 冷たい視線が注がれる。

「……」

 なにも言えない。クリスマスの話題を出したことが、そんなに気に食わなかったのだろうか。ここまで言われるほど、失礼なことを言ったんだろうか。
 悲しさが押し寄せる。好きな人から、こんな風に冷たくされるのは……つらい。
 私がうつむいてなにも言えなくなっていると、久保さんはそれを無視してまた歩き始めた。この人には、自分に好意を寄せる女の子に、少しでも優しくしようっていう気遣いはないのかな。

「企画書、早めに出してね」

 それだけ言って、オフィスの一階にあるコーヒーショップに向かってしまった。
 彼はコーヒーが好きで、しょっちゅうエスプレッソを飲んでいる。あんな苦くて濃いコーヒー、どこがおいしいのかわからない。


 言われた通り、午後の仕事が始まってすぐ、仕上げた企画書を提出した。

「……脱字がある」

 即行で用紙を返される。

「え、どこですか?」
「自分で探して」
「……はい」

 冷たい言葉に心を砕かれるが、私は必死で脱字を探した。
 企画書とにらめっこして、やっと一ヶ所発見! 嬉しくなって「あった!」と、思わず口にしていた。

「三ヶ所あるから」

 意気揚々いきようようと修正にとりかかっていると、冷たくそう言い放たれた。
 そうですか……三ヶ所ですか。瞬時に、よく見つけましたね。先に教えてくれてもいいんじゃないですか?
 そう思いながら、私はムキになって間違いを探す。
 ようやく三ヶ所見つけて、用紙を印刷し直した。

「紙が無駄になるから、ちゃんと確認してから印刷して」

 ようやく合格をもらった企画書を手に、久保さんはそう言った。

「はい……すみません」

 企画書が完成してホッとした瞬間、電話が鳴った。
 要件は、研究へのクレームだった。

「担当者に代わります」

 私では相手にならなくて、電話を久保さんにまわす。

「はい、お電話代わりました」

 冷静な彼の声。電話の向こうでは、なにやら随分まくしたてているようだ。ひと通り相手の言い分を聞いて、それから彼はこう言った。

「その点に関しましては、上司がそちら様に直接おびにうかがったと聞いております。苦しいお立場と拝察いたしますが、こちらも命をかけて研究しておりますので……これ以上はご容赦いただけますと幸いです」

 相手は無言になったらしく、彼はそのまま受話器を置いた。
 こんなふうに、クレームが入ることは珍しくない。ここで扱っている研究対象が、ちょっと特殊なもののせいなのだけれど、下手な対応をしたら裁判沙汰になりかねない。

「命をかけて……ってのは大げさかもしれないけど、それぐらい真剣にとり組んでるんだ」

 そう言って、彼は席を立った。またコーヒーでも買いに行ったのかもしれない。私は、彼の仕事への情熱を感じて、ひとりでまた感動していた。
 やっぱりかっこいい。どう見ても……かっこいい。
 もし恋人がいると言われても、仕事場では私が独り占めしたい。ひとりで熱くなりながら、また別の仕事にとりかかった。


 次の日の朝、会社の入り口で久保さんにバッタリ会った。いつもは早く出勤する彼が、私と同じ時間に来るのは珍しい。朝から彼に会えて少し嬉しくなった。

「おはよう」
「おはようございます」

 エレベーターの中では、やっぱり無言だった。クリスマスの一件できついことを言われたから、なんだか声をかけづらい。
 フロアに入ると、今日も三人は出張で、ふたりきりだった。
 久保さんの様子をこっそり盗み見る。相変わらず自分の仕事に没頭している。
 無言の時間が、今日は重く感じる。ようやくランチタイム。この日のランチは、社員食堂でとることにした。
 そうそう外食に誘うのも悪いし、今日はそこまでのパワーがいてこない。
 どちらともなく立ち上がって、ふたりそろって歩き出した。私がまったくしゃべらないのが気になったのか、珍しく久保さんから私に声をかけてきた。

「課長、出張いつまでだっけ」
「さあ……。課長はだいたいスケジュール書かないで出かけるから、私は知らないです」
「あ、そう」

 まったく会話が弾まない。素っ気なく答えた私も悪いんだけど。
 そうこうしている間に、食堂に着いた。
 私の食べているメニューは、きつねうどん。油揚げがやたら薄くて、ボリュームとしては「素うどん」と変わらない。
 思えば、好きな人を前にして、汁ものを注文する自分は女としてどうなのか……。まあ、そういうのを気にする人でもなさそうだから、私はかまわずに食べる。
 久保さんは牛丼と味噌汁のセットにしたようだ。私達は黙って昼食を食べた。
 食事が終わり、また例のごとく彼はコーヒーショップに立ち寄ると言ったから、私はそのままフロアに戻った。
 二十階のフロアから景色を眺める。薄くもやがかかっていて、今日は東京タワーが見えない。快晴だと富士山だって見えるほど高いビルなのに残念。
 ボーッと窓の外を見ていると、ふっとうしろに気配を感じた。振り返ると、久保さんがコーヒーカップを私に差し出している。

「カフェラテ、飲める?」

 どうやら私にごちそうしてくれるらしい。

「あ、ありがとうございます。カフェラテ、好きです」

 軽く頭を下げて受けとった。久保さんは自分のエスプレッソを手に、机に戻ってパソコンをいじりだした。

「……」

 どうして、今日に限ってコーヒーをごちそうしてくれたんだろう。よくわからないけど、なんだか嬉しい。私は単純だから、こんなことですぐに気持ちが上向く。

「久保さんは、いつもエスプレッソですよね?」

 これなら怒られないだろうと思い、言葉を選んで話した。パソコンに向かっていた手がぴたりととまって、私を見る。またなにか言われる?

「単に好きだから……」

 それだけぼそっと言って、またパソコンに向き直った。
 彼なりに、きちんと答えたつもりなんだろう。回答としては間違ってないと思う。ただ、もうちょっと話が弾む返答をして欲しい。それを望むのは無茶なことなんだろうか。


 始業のチャイムが鳴り、午後の仕事にとりかかる。
 始めたはいいけど、この日の私は集中力に欠けていた。カフェラテをもらったことに動揺して、ミスを連発した。たったあれだけのことなのに、好きな人から少し優しくされただけなのに、やっぱり戸惑う。「どういう気持ちで?」ってことばかり考えてしまう。

「これもダメ、これも、これも……全部ダメだ。なんだよ、どれもまともにできてないじゃない」

 怒られた。

「ごめんなさい」
「桐原さんさ……」

 フッとため息混じりに私の名前を呼んだ。

「はい……」
「資料を作ればミスが多いし、いつもオタオタ迷ってばかりで、性格も優柔不断だよね。そんな頼りなくて、この先ちゃんと生きていけるの?」

 いつもは平謝りの私も、彼のこの言葉を聞いて動作をとめる。
 優柔不断? 私の将来まで、否定? 性格や未来まで非難するなんてあんまりだ。

「……久保さんにそこまで言われる覚えないです」
「え?」

 私が口答えしたからか、彼は驚いていた。冷たい表情。私のことなんか、どうとも思ってないっていう目。

「仕事のミスは、私の責任だから謝ります。だからって、性格や見えてもいない将来まで否定するなんて……それこそマナー違反ですよ」

 涙をこらえてそこまで言って、大きく一度深呼吸する。そして、彼が握っているミスだらけの書類をとり返した。

「全部やり直します。一時間以内に再提出しますから」

 久保さんは、それ以上なにも言わず、また自分の仕事に戻った。くやしくて、いつもの倍以上のスピードで仕事を進め、宣言通り一時間以内に再び提出した。

「できました」

 私が差し出した書類をペラペラと眺めて、久保さんはそれをクリップでとめた。

「次、この手書き書類を全部ワードに打ち込んで」

 私のがんばりにはなんの言葉もかけてくれず、次の仕事の指示を出された。好きな人だったけど……ムカついた。この人はどこまでも仕事にシビアだ。私にもそれを要求している。
 カフェラテをくれたのは、ただの気まぐれだったんだろう。不毛な恋愛は……もうやめよう。


 この日を境に、彼に積極的に話しかけるのをやめた。
 たまにランチが一緒になっても、もう外食しようなんて言い出さない。
 そう割り切ったら、案外気持ちが楽になった。
 この人に好かれようなんて、思った私がバカだった。血が通ってないんだよ……仕事人間。
 確かに、仕事はばりばりこなせるし、すごいと思う。でも、人間としてどうなの。彼の冷たい言葉で、私の胸はナイフで切り刻まれたようにズタズタだ。
 仕事はがんばることができる。でも、性格はそう簡単には直らない。私を生んでくれた両親までバカにされたような気がして、さらに傷ついた。
 私をかわいがってくれた、おばあちゃんの顔が浮かぶ。

「芽衣は、ゆっくり生きるタイプなのね。おっとりした芽衣が好きだわ……」

 優しく頭をでてくれたおばあちゃん。ごめん、せっかくめてくれたのに、仕事場では否定されちゃった。
 直したいけど……がんばってやっているけど……私にはこれが限界。器用で有能な人から見たら、とんでもなくバカに見えるに違いない。久保さんの目には、私っていう人間が、そんなふうに映っているのだろう。
 悲しい。精一杯やっていた。怒鳴られても、めげずにがんばってやり直した。なのに、ただの一度も、ねぎらってもらったことはない。
 気を利かせてやったつもりの仕事も「余計なことするな」と言われて空まわり。どんどん自信がなくなっていく。
 私は、なんであの人が好きなんだっけ。その理由さえもうわからない。
 別の恋を探そう。そう思い、クリスマスソングが流れる街を、抜けがらのように毎日往復した。
 恋人なんかいなくても、クリスマスは過ぎていく。
 久保さんの誕生日が二十三日にあることも、もうどうでもいい。「おめでとうございます」ぐらいは言おうと思っていたけど、それもやめた。


 しんしんと染みるような寒さ。いよいよ雪まで降りそうな空模様だった。
 外は年末の浮かれた雰囲気。
 こういう華やかなシーズンは嫌いじゃなかったけれど、今年のクリスマスはさっさと過ぎてくれないかな、と思っていた。

「じゃ、お先に」

 私と久保さんを残して職員ふたりが帰っていった。
 課長は今日も出張。私は、久保さんに頼まれていた大量の原稿のチェックに追われて残業していた。朝からやっているのにまったく終わらない。派遣会社から、残業代はつけられないと言われているから、完全なるサービス残業だ。けれど私は意地になって、終わるまで帰るもんかと思っていた。
 すると、久保さんがふらっとフロアから出ていった。

「またコーヒーか」

 どうでもいいけど。かすむ目をこすりながら、パソコンに向かい続けていた。
 十分ほどして、ビニールがこすれるようなガサガサという音がうしろで聞こえた。振り向くと、久保さんがコンビニ袋を持って入ってきた。

「弁当買ってきた。食う?」

 私の前にビニール袋をドサッと置いた。中には、どんな好みでもOKなように、おにぎりとサンドイッチ、それに幕の内弁当まで入っていた。

「でも……」

 私が遠慮していると、かまわず彼は袋から品物を出す。

「もう八時だし。桐原さん、それ終わるまで帰らない気でしょ?」

 私の気持ちはお見通し、とでもいうような言葉をかけてくる。

「好きなの食べていいよ。俺はこのおにぎりとお茶をもらうよ」

 彼はしゃけおにぎりとペットボトルのお茶を手にとった。かたくなに断るのも不自然だから、机の上に手をのばす。

「……じゃあ、いただきます」

 遠慮なく、一番食べたいと思った幕の内弁当を手にとった。途端、久保さんが笑顔になった。彼の笑った顔を見たのはこれが初めてで、びっくりした。

「それ選ぶと思ったよ。昼にうどんしか食べてなかっただろ? 腹が空いてるだろうなと思ったから、弁当も混ぜてみたんだ」

 私が幕の内弁当を選んだのが面白かったらしい。普段は仕事一筋で、冷徹で、能面の久保さんが、久しぶりに普通の人間に見えた。
 しばらく笑っていた彼が、ふいに私を見つめている。

「……悪かった」
「は?」

 突然の彼の言葉にびっくりする。

「この前、書類の不備を指摘したとき。桐原さんを侮辱ぶじょくするみたいなことを言って……ごめん。行き過ぎた道は戻ればいいけど、言葉の言い過ぎはとり返せない。ひどいこと言った」

 悲しげな顔でつぶやく。

「職場では冷徹な人間に徹するつもりでやってきた。実際、仕事の鬼って感じだと思うし、この姿勢を崩すつもりないけど、この前のことは謝らないとって思ってた」

 仕事の仮面をはずした久保さんは、とても優しい顔をしていた。

「もういいんです……ミスした私が悪いんですし」

 つい、彼から目線をそらしてしまった。じっと見られてるのが、恥ずかしい。

「いや、ひどかった。仕事とは関係ないことを言った」

 そう言った彼は、本当に落ち込んでいるようだ。
 今まではなんだか、孤高ここうの狼みたいに高いところからにらんでるだけだったのに、急に同じ目線におりてきた感じがする。だから私も、自然に優しい気持ちになってくる。

「まあ、図星でしたから、余計腹が立ったんです。私、小さい頃からこんな性格なんですよ。アイスとチョコレートどちらか選んでいいよって言われて、迷ってるうちに両方溶けちゃう……みたいな。そんな性格なんですよ。優柔不断なんです」

 自嘲じちょうぎみにそう言った私を見て、久保さんは首を横に振って否定してくれる。

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