鏡の世界に居る女

絵馬堂双子

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13、無為な犠牲者

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 穂積紫恩は新幹線の高架のふもとの古い貸家郡の中の一軒を借りて住んでいる。小さな平屋ひらやだったが、いい点は、各家に駐車場があることだった。
 朝早く、紫恩は愛車の黄色い軽に乗り込んだ。
 と、その前に御堂が立ちはだかった。
 運転席の紫恩はむっつりして睨み、やれやれ、とドアを開けた。
「こおらっ! どうやってここを知った?」
「アパートで会った夜、後をつけた」
「後をつけた?」
 紫恩は考えた。二人で歩きながら話して、御堂の自転車の方が近い所に停めてあったので、そこで別れて、自分はその先に停めた車に乗って、この家まで帰ってきた……
「自転車で追いかけてきたってことかい? あそこからここまで……十キロ近くあるんじゃないかい?」
「まあ、そんなところかな?」
 紫恩は呆れた。九時を過ぎて、交通量は少なく、信号以外ノンストップで走れた。御堂の自転車はママチャリだった。なんて危ない奴だ。
「大した脚と目だね。で、なんの用だい? あたしゃこれから仕事なんだがね?」
「お弁当屋さん? 今日は非番でしょ?」
「そんなことまで調べてたのかい」
 紫恩は忌々しそうにして、
「駄目じゃ駄目じゃ。今日はおまえさんの手伝いはいらん。学生は真面目に勉強しておれ」
 と、乗り出していた身を引っ込め、ドアを閉めた。御堂は声を大きくした。
「カガミ村に行くんでしょ? 連れてってよ」
「そんな所には行かん。帰れ!」
「こんなに朝早くってことは、遠いんでしょ? ほら」
 御堂は運転免許証を取り出して誇らしげに突き出した。
「取り立てホヤホヤだけどね。長距離を一人で運転はたいへんでしょ?」
「初心者になんて運転を任せられるかい」
「賭けてみなさいよ? ここで事故に遭うようじゃ、とうてい魔物になんて勝てないんじゃない?」
 御堂は、ニッ、と白い歯を見せた。
「安心していいわよ。わたし、安全運転だから」
「不安でしょうがないがねえ」
 紫恩は助手席に乗るよう顎をしゃくり、御堂はいそいそと乗り込んできた。
「いやあ、実は自動車学校の卒業試験以来、三ヶ月、運転してないんだけど」
「おいおい」
「だって、夏休みにバイトして買う予定だったんだもん。試験じゃ上手いって褒められたから、大丈夫よ」
「本当に賭けだねえ」
 紫恩はキーを回し、エンジンをかけた。サイドブレーキを下ろし、周囲を確認すると、車を発進させた。
 道路に出て、まだ交通量の少ない幹線道路に出ると、紫恩は言った。
「長いドライブになるよ。目的地は……」
「奈良県でしょ?」
 紫恩はチラッと横目で御堂を睨んだ。
「もう一度由香さんに話を聞きました。紫恩さんがあえて詳しい場所を訊かないようにしているみたいに感じたから」
「そうだよ、奈良県だよ。七時間かかるからね、覚悟しな」



 檜山刑事は、
(どうやら俺は疲れているらしい)
 と思っていた。
 夜、眠りが浅く、何度も目を覚まして、どうもひどい悪夢を見ているらしい。内容は思い出せないが、赤い色がイメージとして残っている。
 夜眠れていない為、昼間も頭がぼうっとして、トイレの手洗い台で、ずーっと水を出しっぱなしにして、突っ立っていたらしいことが度々ある。
 今日は朝一番から取り調べだった。
 被疑者は二十三歳の無職男。容疑は強盗傷害。
 三人組で仕事帰りのサラリーマンを襲い、財布を奪った。
 三人全員逮捕し、二人は罪を認めたものの、主犯格のこの男だけ黙秘している。
 取り調べも今日で四日目。こんなチンピラ、いい加減、落としてしまいたいところだ。
 取調室には相棒の森川と二人で入ったが、檜山はそのまま鉄格子の窓に向かい、尋問を森川に任せた。
 若い森川もいい加減うんざりして強く机を叩くと怒鳴った。
「ネタは上がってるんだ! さっさと白状しろ!」
 金髪のラッパー風の男は驚いたような顔をすると、ふてぶてしく言い放った。
「証拠があるんならさ、さっさと送検すりゃいいじゃん?」
 森川は忌々しく睨みつけると、ふと、なんでこいつはこんなに強気なんだ? ひょっとして、無罪になるような隠し球を持ってるんじゃないか? と、不安を浮かべ、助けを求める視線を檜山に送ってくる。
(おいおい、コントじゃねえんだぞ)
 檜山は未熟な後輩を放置して外を眺めていた。
 チラリと目をやる。二人が向かい合っているスチール製の机は、壁と床に固定されている。その反対の壁には、マジックミラーが設置されていて、向こうからこちらが覗き見られるようになっている。
 容疑者の男のくそムカつく余裕の顔を見て思う、
 おまえの顔はしっかり見られてるんだぞ、てな演出も無駄か、
 と。
 そうだな、おまえは顔を見られていない自信がある。何故なら、いきなり被害者の顔面をビールビンで殴りつけて、目を潰したからだ……実際失明は免れたが、額を十針縫う大けがだ。その上、殴る蹴るの暴行を加えて完全に抵抗する気力を奪ってから、財布をいただいてずらかった……たかが二万円の為に。おまえらは、なんだたったこれだけかよ、しけてやがんな、とか文句を言ったりしたんだろうなあ……


 ああ、本当にムカつくぜ……


 マジックミラーに室内の様子が映り、机を挟んで座る二人の姿が映っている。
「うぷっ」
 憎々しげに椅子にふんぞり返っていた容疑者の男が、突然、むせたように噴き出して、ガクンと首を前に倒すと、ゴフッ、ゲフッ、と苦しげに咳き込んだ。
「おい、大丈夫か?」
 やり込められている森川が迷惑そうに訊いた。
 男は咳き込みながら、合間にゼエゼエ息をついたが、また咳き込み続け、
「ゴブッ」
 と言う異音と共に、机の上に大量の血を吐き出した。
「うわっ」
 森川は跳ねる血液から逃げるように飛び上がると、慌てて男の横に回り、背を押さえた。
「おいっ、大丈夫か? しっかりしろ!」
 男は嘔吐するように赤黒い血を吐き続け、ベチャン、と、自分の吐いた血の中に顔を落下させた。
「おいっ! ああ、ちくしょう」
 森川はどうするどうすると慌てて、
「檜山さん!」
 と、抗議するように呼びかけた。
「ああ」
 檜山はドア脇のインターホンを取ると、
「急患だ。救急車呼んでくれ」
 と要請した。すると、どういう状況か、容態はどうか、とうるさく訊いてくるので、受話器を突き出し森川に任せた。
 檜山は汚い物を見るように離れたまま男を眺めた。
 横を向いてまだ苦しそうに血の混じった咳をしているが、顔面は自分の血でまっ赤になっている。

 めんどくせえからそのまま死んじまえ、クソ野郎。

 檜山はひたすら薄情に眺めていた。
 男はまぶたをひくひくさせながら檜山を見上げ、その目を恐ろしげにカッと見開いた。
 ぜー、はー、ぜー、はー、ぜえ…………
 咳をする力もなくなり、こみ上げてくる物に苦しそうに涙を浮かべながら、呼吸も小さく、途切れがちになっていった。

 やがて救急車が到着し、救急隊員たちがやってきて、男の状態を視ると、本部に連絡し、搬送していった。付き添いには森川が付いて行った。仮病とは思えなかったが、至急病院に監視の警官を手配しなければならないだろう。
 正義の鉄槌が下ったのか?
 いや、ただ単にムカついて、苛ついただけだ。
 一人になった取調室で、檜山はぼんやりマジックミラーの鏡を見ていた。
 目の奥の神経がギシギシ痛む。
 自分の顔がやけに赤く見えて、自分もやがて、あの男のように顔を真っ赤にして死ぬことになるのかなあ、と、人ごとのように考えていた。
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