こぬ人を待つも待てぬも世の定め されど待ちたし人の心は

相生 るり子

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『入水伝説』

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 私はあの日、確かに言葉を聞いたのだ。
 確かに誰かが、私に告げたのだ。
 

 高校を卒業した春のことだった。3年間バスで通り過ぎるだけだった川沿いの神社の桜が美しくて、私はその日初めて神社の前のバス停で下車した。国立大学の後期試験を終えて、開放感でいっぱいだった。これで今日の試験に受かっていなかったら1年浪人しなければならないけれど、出せる限りの力を出し切ったのだから後悔はなかった。国立大学のレベルを落として後期試験を頑張ってまで、大学で地層を研究したかった。断層から垣間見える砂のグラデーションに強く心を惹かれていたから。ヨーロッパを学びたくて仕方がなかった。フランスとイギリスの地層が特に好きだった。親も友人も呆れていたけれど、それが私のやりたいことだった。
 3年間素通りした神社に、初めて足を踏み入れる。扇の文様が染められた垂れ幕のようなものに目を引かれる。鮮やかな赤だ。
 月曜日の夕暮れ。居たのは、赤い着物を着た可愛らしい女の子と母親の2人だけだった。
 綺麗に結い上げていたのであろう髪は、女の子が活発に動き回るからだろう、少しよれていた。帯も少しぐったりしているようにも見えた。けれど、きらきら輝いた丸い瞳が美しかった。洋服にはない長い袖が嬉しいのだろう、鳥居の手前の階段を、ぴょんぴょん飛んでは鳥のように腕をめいいっぱい伸ばして羽ばたこうとしているようだった。母親は何かしら話しかけているけれど、女の子の耳には入っていないようだった。もうご飯の時間だから帰ろうよとか、そういったことを言い聞かせているのかも知れなかった。
 あまりジロジロ見てはいけないような気がして、階段ですれ違う時はできるだけ母娘を視界に入れないようにした。
「ーーだんのうらでであうよ」
 女の子よりも一、二段上まで登った瞬間、背後から声がした。しわがれたおばあさんの声だった。反射的に振り返る。赤い着物の女の子が私を見上げている。バチンと目があった。女の子が丸い目をにゅっと細める。神社の桜が舞っている。
 口が乾く。細められた目が空洞のように思えた。なんて返したのか覚えていない。酷くアンバランスで、緊張したけれど、けっして怖くはなかった。夕闇の中、女の子の姿だけがくっきりと見えた。



「と、いうわけで中世文学にしたんです。どうやら私は壇ノ浦に待ち人がいるらしいので」
 自己紹介を求められた私は、戯けるように締めてニヤリと笑う。中世文学、鎌倉時代に書かれた文学作品を研究するゼミの顔合わせ。国立理系を目指して大学受験をしていたことに言及された私は、教授室のおっとりとした雰囲気に流されるように、初めて壇ノ浦の話をした。
「紫式部に会った、と言う平安文学の研究者は山ほどいるんですけどねぇ」
 丸メガネの教授は、そう言ってほけほけと和やかに笑う。
「今年の研究室の合宿、壇ノ浦にしますか?」
 博士課程の男の先輩が、携帯端末で予約サイトを提示しながら提案する。
「ちゃんと行きました? 壇ノ浦」
 震えた声で、助手の女の先輩が心底気遣わしげに尋ねてきた。
「大学の長期休暇ごとに行ってるんですけど、まだ出会ってないんです」
 言うと、残念そうに首を傾げ、パチン、と手を鳴らした。
「行きましょう、壇ノ浦。いざ壇ノ浦!」
 完全に「いざ鎌倉!」のトーンだった。1221年、承久の乱。後鳥羽上皇が鎌倉を攻め滅ぼそうとしたときに、鎌倉幕府の御家人たちが「いざ鎌倉!」と鎌倉幕府のもとに集ったと言う話だ。「いざ壇ノ浦」はちょっとまずいような気がしなくもなかった。



「そういうことで、弊研究室の合宿先は壇ノ浦だったんですよ」
 教育学のグループワークで一緒だった英文学科の男の子にそう言うと、もっと聞かせてくれと言われるがままに細部まで丁寧に話してしまった。承久の乱のくだりはいらなかった。多分。
「でもそれ、結局今回も出会えなかったんだよね」
 顎に手を持って行った彼は、少し考えてからこう言った。
「こう言っちゃあれだけれど、本当に壇ノ浦なんかね」
 虚を突かれた。
「ほら前、って言っても20年以上前なんだけど、英訳したら殺された研究者がいて。えぇと、翻訳に携わる学生なら大抵知ってる有名な事件なんだけど」
 とある本を英訳した研究者が、階段の踊り場で殺害されたということだった。犯人は不明。その時のメモが、「だんのうらで殺される」。
「階段の裏で、殺されたーー?」
「俺たち、日常生活で階段の裏、なんて言い方しないから。特に日本史での受験生なら、壇ノ浦に聞き間違えなくもないかなって。だから尾道さん、階段で出会うんじゃないんですかね、その待ち人と」
 ぐわんぐわんと頭が回るようだった。



 この最後の一言によって。
日常生活に在りふれた階段で、私は誰かを待つこととなったのだ。
いつまでかは判らないけれど。
きっと私は、彼や彼女が現れるその日その瞬間まで、待つのだろうーー。
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