1 / 1
『入水伝説』
しおりを挟む私はあの日、確かに言葉を聞いたのだ。
確かに誰かが、私に告げたのだ。
高校を卒業した春のことだった。3年間バスで通り過ぎるだけだった川沿いの神社の桜が美しくて、私はその日初めて神社の前のバス停で下車した。国立大学の後期試験を終えて、開放感でいっぱいだった。これで今日の試験に受かっていなかったら1年浪人しなければならないけれど、出せる限りの力を出し切ったのだから後悔はなかった。国立大学のレベルを落として後期試験を頑張ってまで、大学で地層を研究したかった。断層から垣間見える砂のグラデーションに強く心を惹かれていたから。ヨーロッパを学びたくて仕方がなかった。フランスとイギリスの地層が特に好きだった。親も友人も呆れていたけれど、それが私のやりたいことだった。
3年間素通りした神社に、初めて足を踏み入れる。扇の文様が染められた垂れ幕のようなものに目を引かれる。鮮やかな赤だ。
月曜日の夕暮れ。居たのは、赤い着物を着た可愛らしい女の子と母親の2人だけだった。
綺麗に結い上げていたのであろう髪は、女の子が活発に動き回るからだろう、少しよれていた。帯も少しぐったりしているようにも見えた。けれど、きらきら輝いた丸い瞳が美しかった。洋服にはない長い袖が嬉しいのだろう、鳥居の手前の階段を、ぴょんぴょん飛んでは鳥のように腕をめいいっぱい伸ばして羽ばたこうとしているようだった。母親は何かしら話しかけているけれど、女の子の耳には入っていないようだった。もうご飯の時間だから帰ろうよとか、そういったことを言い聞かせているのかも知れなかった。
あまりジロジロ見てはいけないような気がして、階段ですれ違う時はできるだけ母娘を視界に入れないようにした。
「ーーだんのうらでであうよ」
女の子よりも一、二段上まで登った瞬間、背後から声がした。しわがれたおばあさんの声だった。反射的に振り返る。赤い着物の女の子が私を見上げている。バチンと目があった。女の子が丸い目をにゅっと細める。神社の桜が舞っている。
口が乾く。細められた目が空洞のように思えた。なんて返したのか覚えていない。酷くアンバランスで、緊張したけれど、けっして怖くはなかった。夕闇の中、女の子の姿だけがくっきりと見えた。
「と、いうわけで中世文学にしたんです。どうやら私は壇ノ浦に待ち人がいるらしいので」
自己紹介を求められた私は、戯けるように締めてニヤリと笑う。中世文学、鎌倉時代に書かれた文学作品を研究するゼミの顔合わせ。国立理系を目指して大学受験をしていたことに言及された私は、教授室のおっとりとした雰囲気に流されるように、初めて壇ノ浦の話をした。
「紫式部に会った、と言う平安文学の研究者は山ほどいるんですけどねぇ」
丸メガネの教授は、そう言ってほけほけと和やかに笑う。
「今年の研究室の合宿、壇ノ浦にしますか?」
博士課程の男の先輩が、携帯端末で予約サイトを提示しながら提案する。
「ちゃんと行きました? 壇ノ浦」
震えた声で、助手の女の先輩が心底気遣わしげに尋ねてきた。
「大学の長期休暇ごとに行ってるんですけど、まだ出会ってないんです」
言うと、残念そうに首を傾げ、パチン、と手を鳴らした。
「行きましょう、壇ノ浦。いざ壇ノ浦!」
完全に「いざ鎌倉!」のトーンだった。1221年、承久の乱。後鳥羽上皇が鎌倉を攻め滅ぼそうとしたときに、鎌倉幕府の御家人たちが「いざ鎌倉!」と鎌倉幕府のもとに集ったと言う話だ。「いざ壇ノ浦」はちょっとまずいような気がしなくもなかった。
「そういうことで、弊研究室の合宿先は壇ノ浦だったんですよ」
教育学のグループワークで一緒だった英文学科の男の子にそう言うと、もっと聞かせてくれと言われるがままに細部まで丁寧に話してしまった。承久の乱のくだりはいらなかった。多分。
「でもそれ、結局今回も出会えなかったんだよね」
顎に手を持って行った彼は、少し考えてからこう言った。
「こう言っちゃあれだけれど、本当に壇ノ浦なんかね」
虚を突かれた。
「ほら前、って言っても20年以上前なんだけど、英訳したら殺された研究者がいて。えぇと、翻訳に携わる学生なら大抵知ってる有名な事件なんだけど」
とある本を英訳した研究者が、階段の踊り場で殺害されたということだった。犯人は不明。その時のメモが、「だんのうらで殺される」。
「階段の裏で、殺されたーー?」
「俺たち、日常生活で階段の裏、なんて言い方しないから。特に日本史での受験生なら、壇ノ浦に聞き間違えなくもないかなって。だから尾道さん、階段で出会うんじゃないんですかね、その待ち人と」
ぐわんぐわんと頭が回るようだった。
この最後の一言によって。
日常生活に在りふれた階段で、私は誰かを待つこととなったのだ。
いつまでかは判らないけれど。
きっと私は、彼や彼女が現れるその日その瞬間まで、待つのだろうーー。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
夫から「用済み」と言われ追い出されましたけれども
神々廻
恋愛
2人でいつも通り朝食をとっていたら、「お前はもう用済みだ。門の前に最低限の荷物をまとめさせた。朝食をとったら出ていけ」
と言われてしまいました。夫とは恋愛結婚だと思っていたのですが違ったようです。
大人しく出ていきますが、後悔しないで下さいね。
文字数が少ないのでサクッと読めます。お気に入り登録、コメントください!
どう見ても貴方はもう一人の幼馴染が好きなので別れてください
ルイス
恋愛
レレイとアルカは伯爵令嬢であり幼馴染だった。同じく伯爵令息のクローヴィスも幼馴染だ。
やがてレレイとクローヴィスが婚約し幸せを手に入れるはずだったが……
クローヴィスは理想の婚約者に憧れを抱いており、何かともう一人の幼馴染のアルカと、婚約者になったはずのレレイを比べるのだった。
さらにはアルカの方を優先していくなど、明らかにおかしな事態になっていく。
どう見てもクローヴィスはアルカの方が好きになっている……そう感じたレレイは、彼との婚約解消を申し出た。
婚約解消は無事に果たされ悲しみを持ちながらもレレイは前へ進んでいくことを決心した。
その後、国一番の美男子で性格、剣術も最高とされる公爵令息に求婚されることになり……彼女は別の幸せの一歩を刻んでいく。
しかし、クローヴィスが急にレレイを溺愛してくるのだった。アルカとの仲も上手く行かなかったようで、真実の愛とか言っているけれど……怪しさ満点だ。ひたすらに女々しいクローヴィス……レレイは冷たい視線を送るのだった。
「あなたとはもう終わったんですよ? いつまでも、キスが出来ると思っていませんか?」
【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている
キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。
今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。
魔法と剣が支配するリオセルト大陸。
平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。
過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。
すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。
――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。
切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。
全8話
お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c
【完結】狡い人
ジュレヌク
恋愛
双子のライラは、言う。
レイラは、狡い。
レイラの功績を盗み、賞を受賞し、母の愛も全て自分のものにしたくせに、事あるごとに、レイラを責める。
双子のライラに狡いと責められ、レイラは、黙る。
口に出して言いたいことは山ほどあるのに、おし黙る。
そこには、人それぞれの『狡さ』があった。
そんな二人の関係が、ある一つの出来事で大きく変わっていく。
恋を知り、大きく羽ばたくレイラと、地に落ちていくライラ。
2人の違いは、一体なんだったのか?
なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた
下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。
ご都合主義のハッピーエンドのSSです。
でも周りは全くハッピーじゃないです。
小説家になろう様でも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる