楽園の方舟~楽園1~

志賀雅基

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第18話

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 ソフトスーツの下を台襟の高いドゥエボットーニのドレスシャツに着替えたハイファはシドの部屋の二人掛けソファに身を投げ出した。
 しっぽは結わえてなく、淡いシャボンの香りがする明るい金髪は力なく背に掛かるままとなっている。

 あのあと数軒の病院を当たるも成果はなく、署に戻って報告したのちシドの声掛かりでハイファは定時より早めに上がった。だが一日中歩き回ったあとでダイナマイト美女との食事プラス予測通りにハイファの部屋での『仕事』続行となったのである。
 幾ら汎銀河を駆け巡るスパイであろうと、へばりかけるのは仕方ないと云えた。

「それにしちゃ早かったな」
「早かっただなんて……何たる侮辱!」
「これは失敬。ほら、飲めよ」

 ロウテーブルに置かれたマグカップからは熱いコーヒーの湯気が立ち上っている。

「あー、いい香り。ありがと」
「で、戦果はあったのか?」

 立ったままで自分もコーヒーを啜りながらシドは訊いた。

「うーん、住所・氏名・経歴、全てだめだった。本当に知らされてなくて、ただ病院長がクレジットを積まれたみたい。でも血液型とDNA型に外見特徴は取れたから。別室戦術コンにはもう送ったよ。インプットしてIDデータをふるいに掛けたら絞れると思う」
「特定は? あと眠り姫のリモータはどうだ?」
「別室戦術コンならほぼ特定するんじゃないかな。リモータは着けてるけど、ロックされてるって。花束男が来た日だけ更新されるんだってサ」
「そうか、残念だが常套だろうな。しかしチェック入れてる肉食師長も相当なタマだぜ」

 あのフロアの患者の個人情報なら随分と高値で売れることだろう。

「僕も骨まで食べられなくて良かった」

 起き上がったハイファはカップに口をつける。ノーブルともいえる表情が僅かに緩んだ。だが次にはまたも仕事を思い出して声色に悔しさを滲ませる。

「でももう少し絞れると思ったのになあ。この身を犠牲にしたのに同価値以下の情報しか引き出せなかった時の虚しさったらないよ。それもシドにまで知られて」
「マジでご苦労さんとしか言えねぇけど傍目は役得。そこで俺は関係ねぇだろ」
「うわあ、それ言うかなあ。僕はシドに七年間も同じジョークを言い続けてきたと思ってる訳? ちょっとそれは酷すぎない? あああ、もう、信じらんない!」
「あー、すまん。俺が悪かったとは思わんが喚くな。大体さ、本人にも如何ともし難い性格とか性癖とか、そういうどうしようもねぇことは山ほどあるだろ?」
「……そんなの、分かってるもん。追いかけさせてくれるだけでもマシなんだって」
「急にしおらしくなりやがって、何だよ。珍しく弱気じゃねぇか」

 煽ってみたが常の白々しいほどの明るさは戻ってこないようだ。本当に萎れているらしくハイファは俯いてしまう。その細い首筋に高い襟と後ろ髪で隠そうとして、隠しきれていないキスマークを発見し、ふとシドは逆の立場だったらと考えてみた。

 性別はともかく自分の好きな人物に、仕事とはいえ別人を抱いた事実を知られる。だが仕事だと割り切っているから好きな人物側も咎め立てはしない。それは本人にとって果たして嬉しいことだろうか。
 遠く離れた地での仕事を敢えて隠さず語るのと、ドア二枚を挟んだ所での行為について語り合わねばならないのとは全く違うのではないだろうか。

 そこまで考え及んだが図に乗られると面倒なので慰めの言葉など掛けない。ただ本当に疲れているらしいのでシドはコーヒーサーバからおかわりを注いでやった。大サーヴィスでサイドボードからブランデーを出すとカップに少し垂らしてやる。

「散歩、出掛ける気、あるか?」
「あるよ。それを励みに頑張ったんだから」
「頑張りすぎてそれか。ダートレスで揉まれたみたいに見えるぞ」
「はいはい、どうせ僕のスパイ稼業の『汚れ』は洗濯したって取れませんよー」
「疲れすぎだな。自棄ヤケになってるなら独りで行く。そこまで戦果を得たなら別室でのお前は立つ瀬もあるだろう。ここから先は俺の方の商売だ。付き合わなくて構わん」
「あん、そんなつれないこと言わないで」
「変な声出すなよ、お前。あれだけで酔ったのか?」

 空になったハイファのカップを取り上げたシドは長めの前髪の間からハイファの顔を覗き込む。相棒の様子を心配したのだ。若草色の瞳が切れ長の黒い目を見上げる。

 ――と、思わずシドは大声を上げていた。

「おいコラ、何すんだよっ!」

 ハイファがいきなりシドの首に腕を回し、抱きついたのだ。

「ちょっとだけ、ちょっとの間だけだからいいでしょ。お願いだから……」
「何なんだよ、良くねぇって! マジで酔ってんのか、お前は?」

 一瞬硬直したシドの頭を抱え込み、ハイファは力任せに唇を寄せようとする。我に返ったシドは藻掻いた。冗談だと思いたかったがこの力は本気である。

「くそう、やめろ、こらっ! ハイファ――」

 細腕にしては意外なほどの力に体勢の悪さも加わって、振り解けないまま頬を滑る柔らかい感触はシドの唇の端を捉えた。その時のシドは性別がどうのとか七年越しのアタックとかいったことは関係なく、ただ親友を失くしたくない一心だった。

「痛っ……!」

 肩で息をするシドの前で、俯いたハイファはロウテーブルに点々と血を滴らせている。反射的に唇の端を噛み切ったシドにとっては緊急避難的措置、同情なんか欠片もない。
 誰に愛情を抱こうが個人の勝手だが、付き合い方の形まで一方的に決める権利はない。お互いに合意したラインはきっちり護るべきである。

 それを護れず踏み越えてくる奴は、意志を持った一個の人間としても警察官としても許せなかった。親友を失くしたくない思いは強く残っていたが、妙に弱った態度と発言に騙されたような気もしてしまい、シドは鋭い言葉の刃を振り下ろしてしまう。

「何をサカってんだよ、テメェは! さっきあの師長と……」
「そうだよ、シドから数メートルも離れていない所で女性を抱いたよ。でも、だから何だってのサ。僕は仕事でどんな相手とやったって、いつでも相手にシドを投影してる。出会った時からずっと想ってた。知ってるクセに、そうやって僕を挑発する」

 感情的な科白を激情を抑えに抑えた静かな声で告げられ、シドも更にキレた。

「挑発? 馬鹿かお前は? 俺は出掛ける、ロックするからテメェの部屋に帰れ!」
「逃げるの? 僕の話から逃げるの?」
「ざけんな、逃げるも何も話にならねぇ。そのピンクに染まった脳ミソを水洗いしてから出直してこい。マジでさっさと出てけ、俺には俺の予定があるし狂うと困る」
「僕も行く」
「迷惑、邪魔だ。来るな」
「行くったら、行く……うっ!」

 暴れているうちにシドが取り落としたカップの取っ手が欠け、破片を踏んだのだ。


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