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化学式みたいに決まってた
第17話
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マンションのドアは鍵がかかっていて安堵した。誰もいない。あの男と鉢合わせしなくてホッとする。ポケットじゃ心許なくて鞄の化学の教科書に一万札三枚は挟んであった。
それでもあの男は不思議とカネの匂いには敏感で、僕はもう母親が置いて行くカネを隠すどころか、キッチンのテーブル上から動かすことすら諦めていた。
でも拝島先生から貰った万券三枚は何にも代えがたい価値のあるカネなのだ、今の僕にとっては。
何故なら『何とも交換せずに手に入ったカネ』だから。汚れていない、まるで普通の家庭で普通の高校生が親から小遣いを貰ったのと、そっくり同じに思えるカネ。
実際には拝島先生が今後の僕に何らかの要求をしてくるかも知れない。いや、してこない方がおかしいだろう。何せストーカーじみた真似までするくらい僕に興味を持っているのだ。
その布石として与えられたカネなのかも。けれど現時点に於いては、僕が自分を見ず知らずの男の言うなりにさせた訳でもなく、マリファナを売ってもいないのに手に入ったカネである。
五千円が払えずにいた僕。14ゲージのクリッカーリングが欲しかった僕。だから躰を自由にさせたり、おまけで殴られたりしていたのに、『欲しい物もなく、必要に迫られてもいないのに』三万円が降ってきたのだ。
分かってる。ちゃんと昼食を買って食べて、定期をやめてチャージにするつもりの電車代を払ったら、幾らもしないうちに三万円くらいすぐに消えてしまうだろう。
でも僕は、この三万円を使いたくないと思っていた。
自室で鞄を開けると拝島先生が寄ってくれたホームセンターの紙袋を取り出す。袋を逆さにすると頑丈な鍵のセットと湿布代わりの塗り薬の箱が落ちた。まずはかなり大きな鍵をドアに取り付けるのに、父親の書斎だった部屋で家探ししてドライバーを発見する。
部屋に戻って自室の壁側とドア側にしっかり鍵を取り付けると、付属のダイアル式南京錠をセットしてみた。ドアノブを押したり引いたりするたびにガチャガチャと音は響くけれど、簡単には壊れそうにない。壊れそうにないのを拝島先生が、
「これなんかどうですかねえ、頑丈そうだがなあ」
などと選んだのだ。
取り敢えずは、せっかく買って貰った鍵を取り付け、次に洗面所で鏡を見ながら湿布の匂いのする塗り薬を口許の変色箇所に塗った。
そして自室に戻ると丁度玄関のドアが開く気配。足音でさえ自己主張しなければ気が済まないのは、あの男らしくて笑える。僕はそっと自室の鍵をかけた。今の時間に母親がいないのは知っていて、ヒモらしく振る舞う必要もなく足音は僕の部屋に真っ直ぐ向かってくる。
鍵がかかっているとは思わなかったからだろう。外開きのドアノブを握ったまま仰向けに仰け反った挙げ句、足まで滑らせたのがドア越しにも分かった。次には下品極まりない罵倒語を、これでもかと叫びながらあの男は目茶苦茶にドアを揺さぶり蹴った。それでも鍵は何ら問題なく機能していた。
ずっと僕は黙って気配を殺し、様子だけをじっと窺っていたので、やがてはあの男も暴れて喚く甲斐がないと思ったのか、ドカドカと足音をさせて再び玄関から出て行った。
少しだけ様子見した僕は着替えてからドライバーで鍵を外す。鍵のセットをドライバーごとショルダーバッグに入れた。うちの鍵と財布に携帯。
――それと化学の教科書も。
ここ暫く夜は街を徘徊するか『待ち』か知らない男と一緒かのどれかだった。今更うちで自習も落ち着かない。鍵をガチャガチャして叫び、ドアを蹴る輩がいれば当然だ。
だからって『待ち』も『売り』もできない。拝島先生、いや、慧さんとの契約をその日のうちに破るのは気が進まない。
考えながら表通りを歩いていると声をかけられた。
「おい、きみ。何処の高校? 高校生だよね?」
「凄いピアスだね。校則、結構緩いなら北高かな?」
言い当てた二人組の大人は私服である上に『獲物』を見つけた嗜虐の嗤いを浮かべていた。警察官の巡回じゃないと咄嗟に悟る。おそらくは教師が補導員として巡回しているのだ、こんな早くから。
僕はまともに腕時計を見てから、嗤う他校の教師たちを見上げた。あからさまに反抗的には思われない程度の反抗的態度。馬鹿じゃなければ判る、県の青少年保護条例では補導時間帯が決められていて、ここなら23時から4時までだ。今はまだ21時過ぎ。
それを知っていると暗に訴えた僕だったが、教師らしき二人の嗤いは消えるどころか深まった。
それでもあの男は不思議とカネの匂いには敏感で、僕はもう母親が置いて行くカネを隠すどころか、キッチンのテーブル上から動かすことすら諦めていた。
でも拝島先生から貰った万券三枚は何にも代えがたい価値のあるカネなのだ、今の僕にとっては。
何故なら『何とも交換せずに手に入ったカネ』だから。汚れていない、まるで普通の家庭で普通の高校生が親から小遣いを貰ったのと、そっくり同じに思えるカネ。
実際には拝島先生が今後の僕に何らかの要求をしてくるかも知れない。いや、してこない方がおかしいだろう。何せストーカーじみた真似までするくらい僕に興味を持っているのだ。
その布石として与えられたカネなのかも。けれど現時点に於いては、僕が自分を見ず知らずの男の言うなりにさせた訳でもなく、マリファナを売ってもいないのに手に入ったカネである。
五千円が払えずにいた僕。14ゲージのクリッカーリングが欲しかった僕。だから躰を自由にさせたり、おまけで殴られたりしていたのに、『欲しい物もなく、必要に迫られてもいないのに』三万円が降ってきたのだ。
分かってる。ちゃんと昼食を買って食べて、定期をやめてチャージにするつもりの電車代を払ったら、幾らもしないうちに三万円くらいすぐに消えてしまうだろう。
でも僕は、この三万円を使いたくないと思っていた。
自室で鞄を開けると拝島先生が寄ってくれたホームセンターの紙袋を取り出す。袋を逆さにすると頑丈な鍵のセットと湿布代わりの塗り薬の箱が落ちた。まずはかなり大きな鍵をドアに取り付けるのに、父親の書斎だった部屋で家探ししてドライバーを発見する。
部屋に戻って自室の壁側とドア側にしっかり鍵を取り付けると、付属のダイアル式南京錠をセットしてみた。ドアノブを押したり引いたりするたびにガチャガチャと音は響くけれど、簡単には壊れそうにない。壊れそうにないのを拝島先生が、
「これなんかどうですかねえ、頑丈そうだがなあ」
などと選んだのだ。
取り敢えずは、せっかく買って貰った鍵を取り付け、次に洗面所で鏡を見ながら湿布の匂いのする塗り薬を口許の変色箇所に塗った。
そして自室に戻ると丁度玄関のドアが開く気配。足音でさえ自己主張しなければ気が済まないのは、あの男らしくて笑える。僕はそっと自室の鍵をかけた。今の時間に母親がいないのは知っていて、ヒモらしく振る舞う必要もなく足音は僕の部屋に真っ直ぐ向かってくる。
鍵がかかっているとは思わなかったからだろう。外開きのドアノブを握ったまま仰向けに仰け反った挙げ句、足まで滑らせたのがドア越しにも分かった。次には下品極まりない罵倒語を、これでもかと叫びながらあの男は目茶苦茶にドアを揺さぶり蹴った。それでも鍵は何ら問題なく機能していた。
ずっと僕は黙って気配を殺し、様子だけをじっと窺っていたので、やがてはあの男も暴れて喚く甲斐がないと思ったのか、ドカドカと足音をさせて再び玄関から出て行った。
少しだけ様子見した僕は着替えてからドライバーで鍵を外す。鍵のセットをドライバーごとショルダーバッグに入れた。うちの鍵と財布に携帯。
――それと化学の教科書も。
ここ暫く夜は街を徘徊するか『待ち』か知らない男と一緒かのどれかだった。今更うちで自習も落ち着かない。鍵をガチャガチャして叫び、ドアを蹴る輩がいれば当然だ。
だからって『待ち』も『売り』もできない。拝島先生、いや、慧さんとの契約をその日のうちに破るのは気が進まない。
考えながら表通りを歩いていると声をかけられた。
「おい、きみ。何処の高校? 高校生だよね?」
「凄いピアスだね。校則、結構緩いなら北高かな?」
言い当てた二人組の大人は私服である上に『獲物』を見つけた嗜虐の嗤いを浮かべていた。警察官の巡回じゃないと咄嗟に悟る。おそらくは教師が補導員として巡回しているのだ、こんな早くから。
僕はまともに腕時計を見てから、嗤う他校の教師たちを見上げた。あからさまに反抗的には思われない程度の反抗的態度。馬鹿じゃなければ判る、県の青少年保護条例では補導時間帯が決められていて、ここなら23時から4時までだ。今はまだ21時過ぎ。
それを知っていると暗に訴えた僕だったが、教師らしき二人の嗤いは消えるどころか深まった。
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