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第3話(プロローグ2-2)

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 返事はなかった。予想していたことだ。兵士としてはともかく、世界一大切な人の安否を確かめるのは恐怖以外の何物でもない。怖くて思考が真っ白になったままガチガチに固まってしまい、貰っていたスペアキィでドアロックを解くにも手が震えて時間を食う。

 やっとドアを引き開けると、意外なことに室内も呆気にとられるほど明るかった。

「アニータ、入るよ」

 声を掛けておいてから自分の格好に思い至る。これでは一見して僕だか誰だか分からない。声で察してくれても全身真っ白の防護服に彼女が怯えるかも知れなかった。そんなことを思って防護ヘルメットを脱ぐ。蒸れた皮膚が一気に乾いていくのは気持ち良かった。

 でも新鮮な空気を味わっている場合じゃない。彼女を見つけたら島から逃げると決めていても、立哨ポイントに独りで残したバディのダニーが気になって急いで戻らなきゃと裏腹なことを考えて行動し始める。ヘルメットを小脇に抱えたままキッチンとリビングを巡りトイレやバスルームまで検分して最後に寝室のドアの前に立った。

 まずは斜め掛けしていたMP5のスリングを右肩に掛けた。相手は彼女なのに、撃てる筈なんかないのに、銃口を相手に向けてから誰何すいかするのは、この島に来てから身についてしまったクセだった。死にたくなければそうするしかなく、初めの頃はできなかった同輩たちが幾人も凶暴性を持ったグール風邪罹患者の餌食になったのだ。

 だからって凶暴化した彼女を自分が撃てるのか?
 よぎった疑問に答えを出す間もなく深呼吸し、思い切って寝室のドアを開ける。

 一瞥して思わず息を呑んだ。まさか、まさか、そんな、嘘だろう?

 一瞬、何て惨いことを……そう思った。ベッドの毛布が膨らんでいたのだ。虱潰しに軍がチェックした筈の全家屋・全島滞在者リストから洩れてしまったのか、可哀想に彼女の遺体はずっと孤独に放置されていたのかと鼻の奥がツンと痛くなった。

 なら僕が来た甲斐もある。彼女を安らかに眠らせてやらなければと考えて近づいてみると、今度こそ鳥肌が立つような驚愕を覚える。毛布が形作った、震えるほどに期待した彼女のなだらかなシルエットが緩やかに息づいているのが分かったのだ。

 にわかに信じ難くて、息を殺して更に近づいた。

 吐息すら聞こえる距離まできて抱えていた防護ヘルメットを思わず取り落とす。もう彼女も僕が来たことは分かっているだろう。その証拠に不審者への反応と違う明らかに落ち着いた、ゆっくりと柔らかな動きで毛布が内側から剥されようとしている。

「アニータ、無事だったんだね! アニータ!」

 震え声で呼びかけると、いつもの優しい声が聞こえたような気がした。

『いらっしゃい、ティム』

 安堵で膝が萎え、ベッドの枕元に腰を落とす。幾度となく二人で揺れ合ったベッドだ。僕はアニータの髪を撫でてやろうと白い手袋を外す。

 そうして僕はゆっくりと毛布を剥がした――。

◇◇◇◇

 どうやって立哨ポイントに戻ったのかまるで記憶がなかった。都合一時間以上も持ち場を離れていたのにダニーがどんな言い訳で切り抜けてくれたのかも分からない。
 誤魔化してくれたことに対する礼も言えないバディに、いつものように茶化したりもせず、ただダニーはさりげなく訊いてくれた。

「早かったじゃないか、彼女は?」

 何もかもお見通しだったようで僕は表情の見えない防護服に感謝しながら頷いた。

「眠ってたよ、静かに……とっても静かにね」
「そう、か……」

 やがて交代の時間になると僕らの小隊はベースキャンプとなった艦に戻った。それから二回の立哨当番をこなしたら、僕らの小隊は待ちに待った休暇である。
 本土に近くなってから防護服ごと一級対除染措置をとらされた。僕らを乗せてきた艦も洋上に停泊させて本土の母港に入る前に丸ごと除染措置をするのだから大変だ。

 まあ、それに関して大変なのは僕らではないので文句はなく、タンデムローターの大型ヘリで基地まで戻った。この基地内の兵士は殆どがローテーションで島に一度は行っているので、互いに何も触れず話題にもしない。
 防護服で蒸れた躰をバリバリ掻きながら小隊の者はシャワーを浴びてさっぱりすると、殆ど皆がさっさと外出許可を取って街へと繰り出してゆく。

 だが僕は街に出る気も起こらず、これからはもう給料を島への旅費に充てることもないのだ、などとぼんやり考えていた。魂の抜けたような僕を心配してくれたのだろう、同室のダニーも外出せず、しかしPXに誘ってくれた。

 飲みたい気分でもなかったがダニーに悪いような気がして立ち上がる。
 PXに繰り出したダニーは店の親父にとっておきのウォッカを出させグラスふたつに注いで、それをオレンジジュースで割るという暴挙に出た。スクリュードライバーには違いないが店の親父は渋い顔である。構うことなくダニーはグラスを手にした。

「顔色が悪いぞ、ティム」
「そうかな、何でもないんだけど」
「ふん。飲め、飲んで……いいから飲め!」

 ダニーに注がれるままに飲んだ。いつの間にかスクリュードライバーが百パーセントのウォッカになっていた。だが明け方まで浴びるほど飲んでも酔えず、翌日の休暇も兵舎の居室で飲み続けた。こんなに飲んだのは初めてだった。でも躰はふわふわと軽いのに脳にアルコールが染みてこない。現実感がまるでなかった。

 いや、これはやはり夢なのだ。そう、彼女からの冷たいキスが夢であってくれと、衣服の下に着けた彼女のロケットペンダントを握り締め、首の傷痕をなぞる。

 何となく指先を見ると二ヶ所の傷を掻いてしまったか、まだ血がついてきた。
 血……結局この僕がこの手でMP5のトリガを引き、彼女の髪を血塗れにした。

◇◇◇◇

 翌朝だった。眩暈で立ち上がれなくなり、高熱を発しているのに気付いたのは。
 自分だけでなくダニーと小隊の半数が同じ症状を呈するまであっという間だった。
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