転生したら棒人間

空想書記

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転機

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     巡り逢えた真一郎と結ばれてしまった…。
自分が身を引く筈だったのに、記憶を取り戻した真一郎の前には、蓮華の倫理感は瞬く間に消し飛ばされてしまった。
彼の事が大好きだ…。
蓮華が真一郎と幸せになるには障害が二つある。
一つは天涯孤独で良家の出身でもない平凡な自分と真一郎の家柄の格差。
もう一つは最大の砦、婚約者の磯鷲  嶺衣奈の存在…。
真一郎は別れると言っていたが、実際問題そんな簡単には行かないだろうし、蓮華か真一郎と幸せになるという事は嶺衣奈が不幸になってしまうという事…。
冷静になるとやはり倫理感が蓮華に迷いを生じさせていた。
    会社からは今週は休みを取れという指示が出ていたので、蓮華はこの先、真一郎とはどうなるんだろうとボンヤリと考えていた…。
悲観的なことを考えれば駐車場にあるマセラッティを取りに来る時にまた逢えるだけ…。
落ち着いて考えてみれば、嶺衣奈と別れないという方がかなり現実的だなと思った…。
身体の関係だけとか、二号になるのは私には無理だ…。
結局、蓮華は倫理感をスッ飛ばして真一郎が私のモノになるのが一番幸せだし、それを望んでしまっている自分に自己嫌悪していた。


ピンポーン

インターホンが鳴った…。こんな真っ昼間に、誰だろう?
蓮華は気だるそうに身体を起こして、玄関に向かった。


「ただいまー」


「真一郎…君。…って…君、鍵はどうやって開けたの?」


「え?昨日、合鍵持って帰りましたよ?棚の上にいつも置いてたじゃないですか」


「…あ、うん、そっか…。そうだね…」


    マイペースだな…。相変わらず。
真一郎にしてみれば記憶が途絶えていただけなので、合鍵を持っていくというのは至極当然な事なのだろう…。
彼にとっての当たり前の動作が 嬉しかった …。
 “こんにちは”  でなく  ”ただいま“   と言ってくれた事が蓮華には嬉しかった…。
だがその前に、合鍵を持っていく前に一つの大きな磯鷲  嶺衣奈という山をどうする気なのだろう。
蓮華は二号になんかならない絶対と言おうとして顔を上げると、真一郎の右側の首筋には大きく貼られた創傷被覆材が、両手の平と指には包帯が巻かれていた…。
痛々しいその姿に蓮華はどうしたのかと心配して声を上げた。


「別れ話で、ちょっと…死にかけました」


「…れ…嶺衣奈さんと…別れ話…したの?」


「もう別れましたよ」


「……う…そ…」


    昨日の今日でもう別れた…。どんな話をしたのかは分からないけど、刺されかねない言い方をしたのではないかと、子供のようにニコニコと佇む真一郎を蓮華は不安そうに見据える。


「…し…真一郎君」


「はい?」


「…ちょっと…早すぎて…驚いてるんだけど…」


    デリケートな事はもっと時間をかけた方がいいと思うんだよ…。
君は一体どんな風に話をしたのかと蓮華は心配そうに真一郎に問いかけた。


「セッ○スしたら人間になれた事とか…」


「…そ…そんな事…言ったの?」


「はい」


     それは流石に怒るだろう…。自分が言えた義理ではないが、もう少し言葉を選ぼうよと蓮華は少しばかり楽観的過ぎる真一郎に戸惑っていた。


「嶺衣奈さん、もの凄く怒ってしまって…、包丁持ち出して蓮華さん殺しに行きそうになりまして…。
その後、自殺を図ろうとしたので止めたときに両手はこうなりました」


「…く…首は」


「あはは…。これはですね。嶺衣奈さんの自殺を止める為に、矛先はボクだからボクを殺してと首に自分で刺したんです。蓮華さんを襲わせるわけにはいかないので…。首は痛かったですねぇ。嶺衣奈さんが止めてくれなければ昨日、死んでました」


「……そ…そんな…事に…」


    こうなってしまった原因は蓮華自身にも勿論あるわけだが…。
嶺衣奈からすれば浮気、横恋慕になる…。
私が逆なら気も狂わんばかりに発狂してしまうだろうと、自分達の幸福の犠牲になってしまった嶺衣奈には合わせる顔がない、何て謝ったらよいのかもわからない、申し訳ないという思いは当然あった。
    真一郎はニコニコと平然として話しているが、それは蓮華に心配をかけまいと装っているのだろうと思ったが、一年間一緒に居た彼を分析すると、かなり楽観的なところもあるので、半々かなと思った…。
その気になったら本気度は計り知れないので、彼は昨日、本当に死ぬ気で自らの首に包丁を刺しに行ったのだろう…。
一つ間違えば本当に死んでいたかも知れない…。


「…真一郎君」


「はい」


「…お願いだから。簡単には…死のうとしないで」


「蓮華さんだって…ボクを護ってくれたじゃないですか」


「あれは…本当に…無我夢中っていうか…」


「同じですよ…。ボクも…蓮華さんの為になら死ねますから」


「だから、死んじゃダメなんだって…。もう…君は…どこにも行って欲しくない」


「ボクは…蓮華さんと生きて行きますよ」


「…いいの?本当に私で…」


「私でなんて言わないでください…ボクは蓮華さんがいいんです」


    静かに抱き合った二人は、当たり前のように唇を重ね合った。
真一郎は嶺衣奈と別れてきた…。
アッという間に…。
倫理感に苛まされていた先刻までの自分がまるで嘘のように身体が軽く感じた…。
   これは倫理感を消し去るほどの幸福感だと蓮華は肌で感じていた。
彼をもう離さない…。
彼は私のモノだ…。
誰のものでもない、曽我部  真一郎は私のモノ…。

  同様に真一郎もそう思っていた。
黄桜  蓮華はボクのモノだ。
誰にも渡さない…。
彼女をもう離さない…。
黄桜  蓮華は永遠にボクのモノ…。

    こんなにも強く好きだと想える相手に出逢えたのは初めての事だった。互いに互いの心は捕らえられてしまう程、二人は愛し合っている。


「…それで、こんな真っ昼間にどうしたの?」


「仕事でそこまで来たので合間に寄らせてもらいました。勇気を貰うために」


「勇気?」


「婚約解消のことで、父に呼ばれたんです」


    蓮華はどこかで見たうろ覚えの曽我部 鉄治郎の顔を思い起こしながらスマホで検索してみた。
ビッタリ張り付いた白髪のオールバック、つり上がった野太い眉、
そこに沿うように目力の強い鋭い眼、通った鼻筋、下り曲がった唇。
厳格という言葉がピッタリと当てはまる力強い老人が画面に映し出された。
…に、似てない…。全く真一郎と似ていない…。この人に真一郎が似なくて良かったかもと蓮華は少しばかり安堵した。


「曽我部 鉄治郎って写真で見ると厳格そうだけど…」


「厳格…とは違うんですけど…化け物ですね」


「…ば…化け物?」


「六十五歳なんですけど、ベンチプレス二百キロ挙げてます」


「二百…キロ…」


「クルミが片手で割れます」


「クルミ…」


「子供の頃、森で遭遇した熊に父は金的と目潰しを喰らわせて撃退してました…」


「熊…」


「男たるもの心身ともに強くあるべきだ!!というのが、彼の信念でして、殺される勢いで鍛えられました。あの人、我が子を谷から平気で蹴り落とすんですよ」


「た…谷…」


「恐らく日本で強いお年寄りの十本指には入ると思います」


    恐ろしい…。大企業の社長はもっとおっとりしているか、如何にも金持ち的な紳士を想像していたのだが、厳つい輩のような老人の逸話に蓮華はかなり狼狽えている。


「…し…真一郎君も…喧嘩とか強いの?」


「…そうですね…。父親以外では生涯、負けたことはないですね」


     そんな環境で育った真一郎には篤郎なんか勝てる筈もないだろうなと、蓮華は当時のことを思い返していた…。


「蓮華さんに勇気をもらったので、熊と闘ってきます」


「…し…死なないでね」


「蓮華さん」


「なに?」


「愛してます」


「…あ…うん…私も…愛して…るよ」


    耳まで紅潮して赤くなった蓮華は気恥ずかしそうに俯き加減で微笑んだ。アパートを後にした真一郎の姿を見据えて幸せを噛み締めていた…。


        -夜-

    堂々たる和風建築の豪邸が厳格な佇まいを醸し出している。
歴史を感じる燻んだ板に  ”  曽我部  ”  と達筆な書体で掘られた表札を見るのは久し振りだ…。
門を潜ると何度も通った石畳が真一郎を出迎えるように並んでいる。
軽い溜め息をついた真一郎は玄関の扉をカラカラと開けた…。
その瞬間に拳が飛んできた。
重さが父のモノではないと喰らった瞬間に理解できた真一郎は殴ってきた相手の顔を見て抵抗は止める事にした。
玄関で馬乗りになられて、鮮血が辺りに飛び散る。


「嶺衣奈さんを…なんで泣かすんだよ!!」


    そう怒号を上げた男は更に真一郎を殴り続けた。彼の怒りは当然なことだと、真一郎は黙って殴られ続けている。


「なんだよ!何で殴り返して来ない!」


「…いや、俺が…悪いから。気が済むまで殴ったらいいよ。憲一郎」


    弟の憲一郎が怒る理由は知ってる。嶺衣奈に惚れているからだ…。
弟故か…、幼少の頃からいつも真一郎の物を欲しがっていた。
嶺衣奈と付き合った当初から、俺にくれと冗談めかした様に言っていたが、割りと遊び人だった憲一郎は女関係を全て断ち切り、その後、本命の彼女とも別れた…。
その行動が裏付けるものは嶺衣奈への想いが本気なんだと真一郎は理解していた…。


「嶺衣奈さんは…俺が貰う」


「…それを決めるのは嶺衣奈さんだと思うけど」


    それは至極当然の事だが、真一郎が独断で婚約破棄したのが、そもそもの発端だ。
発端を作った真一郎が最もらしい事を述べた矛盾に憲一郎は更に苛立ち、妹の清香は呆れている。


「真兄、最低だわ」


    玄関先で押し問答を続けていると奥の和室から三人を呼ぶ声が聞こえた。
曽我部家に於いて絶対的権力を持つ家長の声に三人は和室へと歩を進める。
長い廊下を歩いて和室に入ると、力強い書体で  ”徹頭徹尾“  と書かれた掛け軸の前に腰を降ろして佇む鉄治郎が、キセルを咥えながら真一郎を見据える。


「お前さぁ…他の女、好きになっちゃったの?」


「はい。すみません」


「どうするの?ウチと磯鷲が揉めちゃったらさ」


「ボクは…彼女と生きていくので、曽我部家から絶縁される覚悟は出来てます」


「本気か?」


「本気です」


    真っ直ぐな目で見据える真一郎に対して父親の鉄治郎は、婚約を破棄をしてでも曽我部の名を捨てでも一緒になりたいと言うほどの女との馴れ初めと人間性を教えろと言った。
憲一郎と清香はどんな謝罪をするのか、どんな言い分けをするのか見物だと思っていたが、あっさりと家柄を捨てると言い切った真一郎に驚き、それを言わしめた女に興味が湧いた。


「彼女と出逢ったのは…ボクが昏睡状態の時でした…」


「…昏…睡」


「……状…態?」


    真一郎は嶺衣奈に話した時と同じように記憶を辿っていく…。
泥酔した蓮華に拾われた事。
目が覚めたら棒人間になっていた事。
曽我部  真一郎としての記憶が全くなかった事。
誰かに必要とされる事、誰かの為に何かを遂げたいと想う事で人間に具現化した事。
その後、蓮華と恋仲となり、互いを求め合う事で人間への具現化が進んだ事。
その裏側で昏睡状態の肉体が透けていった事。
死神シド、ナンシーと出会い、彼等の立ち合いで魂の一部を共有し合い、婚約した事…。等々、思い出せる限りのことを真一郎は話した…。


「…ぼ…棒人間」


「…死…神?」


    とても信じられる話では無かったが、昏睡状態の真一郎が透明になる所を目撃している家族は、嶺衣奈と同様に信じざるを得なかった…。


「先日の事故の時も、彼女は自分の命を省みず…ボクと同乗していた嶺衣奈さんを護ってくれました」


「…すっげぇよ…。それが全部本当なら、…すっげぇ女だよ」


「実際に真兄、透けていったの私も見てるし…」


「彼女は…全世界でたった一人…。素性も分からない、何も持たないボクを…、当初…人間でもないボクを何の迷いもなく温かく迎え入れてくれたんです。ボクは何を犠牲にしてでも蓮華さんと一緒になります」


    いつになく厳しい顔をした鉄治郎は少しばかり考え込んだ後、咥えていたキセルを灰皿にコンと当てた。


「わかった…。お前がそこまで言うなら好きにしたらいいよ」


「…い…いいんですか?」


「母さんと一緒になるとき、俺も婚約破棄してるからさぁ」


「ええーー?!」


    鉄治郎の放った言葉に真一郎、憲一郎、清香の三人は物凄く驚いて声を張り上げた。
初めて聞いた…。母とはお見合いだったと言っていた。
教育上not  goodということで伏せていたと鉄治郎は言ってのけて、キセルを吸い上げて煙を吐き出した。


「いや~大変だったよ。許嫁捨てちゃうんだもん。俺」


    凄いことを軽く言うなぁ…。大丈夫かこの人…。などと三人は思ったが、真一郎はあんまり人の事言えないだろう…。


「時代が時代だからさぁ、日本刀で斬られて、殺されかけたよ。向こうの親父と親族、俺の親父と親族からは目茶苦茶殴られたし…」


    揚々と語り出す鉄治郎に割って入るように母親の遙香が人数分のお茶を座卓に置きながら当時の事を思い起こす…。
    中流家庭で育った遙香は街で有名な美少女で、求婚相手が途絶えないほど男が列を連ねていた。
毎日同じ様なセリフを並べて同じ様に振る舞う連中、金持ちアピールと薄っぺらい言葉ばかり並べる連中に辟易していたところに鉄治郎との出逢いがあった。
    曽我部家の嫡男鉄治郎は街で有名な暴れん坊で、金持ちのボンボンだと揶揄される事を嫌い、それを払拭する様に暴れ回っていた。
    そんな手のつけられない鉄治郎を少しでも落ち着かせようと画策した両親や親族は、かねてから付き合いのあった良家との縁談の話しを推し進め、許嫁となった娘と鉄治郎は渋々身を固める運びとなった。
親族や街の人々が安堵する中、鉄治郎は街で見かけた遙香に一目惚れしてしまい、結婚式の直前で勝手に婚約破棄をしてしまった。
    それを知った相手の親、親族が恥をかかされたと輩を引き連れて曽我部家へ殴り込み、曽我部家も鉄治郎を捕まえて半殺しにした上で差し出すつもりだった。
     迎え撃った鉄治郎は相手の親族と雇われた輩、自分の親族も含めた二十人余り全員を返り討ちにし、その足で血染めの日本刀を片手に遙香の家に出向いて求婚した。


「血塗れで日本刀片手に求婚してきた人なんてこの人が初めて…」


「…それで、お母さんはどうしたの?」


「そんな破天荒な人は初めて見たから可笑しくってね。この人となら退屈しなさそうだと思って、その場で結婚を決めたのよ」


    父親もイカれてるが、それを見て面白いと思ってしまう母親も大概だ…。初めて知った両親の馴れ初めの真実に三人は呆然としていた。
反抗期に何度立ち向かっても勝てない理由を骨の髄まで理解した二人は改めて父は化け物だと痛感した。


「まあ、磯鷲んトコとはまた話しておくから、お前の好きにしたらいいよ」


「はい」


「真一郎」


「はい」


「いい女か?」


「最高ですよ」


「今から連れてこいよ。その女」


「私も見てみたいわ」


    戸惑いながら真一郎は蓮華に電話をかけると、スマホから漏れ聴こえるほど大きな声で酷く動揺している様子が伺えた。
それを面白がった鉄治郎はちょっと替われとスマホを取り上げた。


「今からってねぇ真一郎君!」


「あー鉄治郎だけど」


「はっ?!」


「真一郎から訊いてね」


「…………は…はい」


「蓮華ちゃん今から」


ツーツーツーツー…


「切れちゃったよ」


「どどどどうしよう、ビビり過ぎて切っちゃった」


    震える手でリダイヤルしようすると、再度スマホが鳴った。
画面には当然だが真一郎君と出る筈なのに知らない番号が表示された。恐る恐る蓮華は画面をタップすると、先刻の野太い声が聴こえた。


「蓮華ちゃん?」


「…は、はい。すみません…あの」


「真一郎を迎えに行かせたから、今からおいで」


    その一言だけで通話が切れた。自分以上の真一郎以上のマイペース振りに蓮華はしばらく呆けていたが、我に返って急いで身支度を整えた。
マッハでシャワーを浴び、髪を整え、化粧をする。
少し改まった衣服に着替えた蓮華は落ち着かない様子で真一郎を待っていた。
ほどなくして、慌ただしく戻ってきた真一郎は蓮華を見るなり固まった。
纏めて結い上げた髪、身体のラインに忠実に沿った濃紺のスーツ。
唇の艶のあるグロスが更に蓮華の艶と色香を引き立て、漂わせている。


「…れ…蓮華さん…超艶っぽい…」


「は?」


    体温の上昇した真一郎は子供のように蓮華に抱きついて、頬擦りをし、匂いを嗅ぐように首筋に鼻を沿わせていく。


「嗅ぐな!ワンコか君は」


「あああああ…もうダメだ。蓮華さん」


「ちょっとぉ…、なんで滾ってるのよ」


「ちょっとだけ…お願いします」


「時間が無いでしょ?そんなチワワみたいな目したってダメ!」


    子供のようにしょげ返る真一郎はとても可愛らしく見えた。
棒人間の頃にもこんなやり取りはあったが当時は透明か、薄暗いかでハッキリとは分からなかった。こんな顔をしてたんだなと当時を振り返った蓮華は色々なところでの真一郎の表情の変化を鮮明に見られることに幸せを感じていた。


「ちょっとだけ」


「ダメ!」


「そうだぞ。真一郎」


「ぎゃあああああ!!!」


    突然、真一郎の後ろから現れた鉄治郎の声に蓮華は思わず絶叫してしまった。
ゲラゲラと笑い飛ばす真一郎と鉄治郎は顔は全く似てないのに、リアクションが気持ち悪いほど似ていた。
真一郎のマイペースは父親譲りかと納得した。


「え…と…、来てと仰ってましたよね…確か」


「面倒だったからさぁ、真一郎に着いて来た」


「そ…そうなんです…か…」


     どうしよう…。部屋散らかってる…。ウチ狭いし…。っていうか生鉄治郎デカイし、厳ついし…怖そう…。何で真一郎君は何も言わなかったんだと目をやると、実に意地の悪い顔をしてニヤニヤしていた。ワザとだ…。やられた…。やりやがったあの野郎…。


「ごめんなさいね。蓮華さん」


「…え…あ…お…お…」


    追い討ちのように母親遙香の登場で、現実逃避を選択した蓮華の脳は完全停止した。


「あら、魂がどこかへ行ってしまってるわ」


    真一郎が何度か揺さぶると我に返った蓮華は、もうどうにでもなれと半ばヤケクソで室内に招き入れた。
泥酔して拾ってきたよく分からない物、散乱した衣服やCDが蓮華の私生活を嘲笑うように存在を主張している。


「真一郎と似た様な感じだな」


「蓮華さんも音楽を嗜んでいらっしゃるの?」


「はは、はい。たた…嗜んでいらっしゃいます」


     ああああ敬語が変だ。穴があったら入りたい。ヤバい…。もう何を話していいのか全く分からない。テンパった蓮華の頭には真一郎のアホめ真一郎のアホめ真一郎のアホめというフレーズが33回転で鳴り響いていた。
緊張し過ぎている蓮華を見てゲラゲラと笑い飛ばす鉄治郎と真一郎を遙香はチラリと見て一喝する。


「鉄治郎。真一郎。」


    遙香の放った一言で鉄治郎と真一郎はピタリと笑うのを止めた。
勇ましく男前な遙香の印象に蓮華は思わず溜め息をついた。


「カ…カッコいい」


    優しく微笑んだ遙香は落ち着いてと蓮華に語りかけて手狭なリビングに腰をゆっくりと降ろした。
日本人形のように美しく、落ち着いた佇まい。
50代とは思えない艶やかな遙香は同姓から見ても溜め息が漏れてしまうほど綺麗で聡明だった。


「初めてお目にかかります、黄桜  蓮華と申します」


「母の曽我部 遙香です。ごめんなさいね。急に押し掛けてしまって」

     真一郎の話を訊いて会いたくなった二人は蓮華を呼ぼうと試みたが、真一郎が戻って連れてくるより、行ってしまったほうが手っ取り早いので一緒に来たと話した。
現実的には信じられない昏睡状態時の魂が宿った真一郎との馴れ初めに両親も、弟の憲一郎も、妹の清香も、曽我部を捨てるとまで真一郎に言わしめた黄桜  蓮華とはどんな女性なのか非常に興味が湧いた。
自室で真一郎の両親との初対面という想像だにしなかった重圧はあったが、婚約破棄の事は蓮華にも責任はあるのでその謝罪をしようと拙い言葉を紡ぎ出す。


「あの…。何て言ったらいいのか言葉が見つからないのですが…本当に申し訳…」


「謝ることはないのよ」


「……けれども…」


「嶺衣奈さんには申し訳ないのだけれどね…。真一郎が貴女を選んだ。そして貴女が真一郎を選んだ。ただ、それだけの話し…。私はそう思っています」


「真一郎と嶺衣奈が結婚してたら別の話しになってしまうが、気にしなくていい。俺も結婚直前で許嫁捨ててる」


「そ…うなん…ですか」


「ボクもつい先ほど知りました」


「真一郎を支えてあげてね。曽我部家は貴女を歓迎するわ…。蓮華さん」


    その一言が蓮華の全てを救い上げた…。倫理的なこと、家柄のこと、世間体のこと…。
棒人間と出逢い、別れ、そしてめぐり逢った…。
婚約者と家柄を捨ててでも自分を選んでくれた。
真一郎と添い遂げる気持ちに変わりはないが、倫理を侵した事で全世界が敵に回してしまっているほどの罪悪感が蓮華にはあった。
様々な蓮華の苦悩と葛藤が救い上げられた思いで、蓮華は声を震わせて大粒の涙を溢した。


「……あ…ありがどう……ござい…ばず…」


「泣かなくていいのよ。…よほど気に病んでいたのね」


    厳しい目を向けられる、厳しい言葉をかけられる…。そんな覚悟をしていた蓮華は、自らが思っていたよりも温かく迎えられ、受け入れられただけでなく、歓迎するとまで言われた事が素直に嬉しくて涙を溢し続けた…。
会話にならないほど泣き続ける蓮華を静かに真一郎は抱き寄せた。
寄り添う二人を見て安心した遙香は静かに笑みを浮かべる。


「結婚の話しも進めたいので、今度は家のほうにもいらしてね」


「…はい」


    お前は泊まって行くだろうと真一郎の車に乗って鉄治郎と遙香は帰って行った。
曽我部家に認められた蓮華は真一郎との婚約が決まった。
寄り添う二人は、幸せを噛み締めていつもより永く唇を重ね合わせ、いつもより永く深く肌を合わせた…。





……続く。


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