宿縁に咲く桃花

Teo

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第20話:外の嵐

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急ぎ戻った香蘭こうらんあきらが目にしたのは、騒然とする仙家せんけの姿だった。
西門の天幕が鬼に襲われたこと、そしてその混乱の中で紫雨しぐれの姿が消えたことを知らされた二人は、血相を変えて、あの巨大な『気』の奔流が発せられた禁域の霊廟れいびょうへと駆けた。

そこに広がっていたのは、最悪の光景だった。
封印は破られ、扉は開け放たれている。そして、霊廟の中には、蓋が開かれたままの棺だけが残されていた。
「紫雨っ!」
曉が、叫びながら霊廟に飛び込む。だが、そこに紫雨の姿はない。その代わり、彼の目に飛び込んできたのは、棺の中に静かに横たわる、一人の青年の姿だった。
「……紫雨……?」
曉は、呆然と呟いた。なぜ、こんな所に。棺の中に眠るその顔に生気はない。
「嘘だろ、まさか、し、死んで……」
「違う、曉殿。その方は、紫雨殿ではない」
後から入ってきた香蘭が、静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「その方こそが、蓮紫釉れんしゆだ」
「……し、ゆ……? この人が……」
「ああ……」
香蘭は、なんとも言えないような切ない表情を浮かべ、棺のそばに膝をつき、その白い頬へと手を伸ばした。
「討伐の地で、我々が感じたあの巨大な気の奔流……。あれは、この紫釉の亡骸に残っていた力が、紫雨殿の……紫釉の魂へと還っていく光だったのだ。……私も内心まさかとは思ってたが、力は魂に宿る。紫雨殿は、紫釉の生まれ変わりだ」

生まれ変わり――その、あまりにも非現実的な言葉に、曉は思考が追いつかない。だが、目の前に横たわる、紫雨と瓜二つの顔が、その言葉に恐ろしいほどの説得力を持たせていた。
「じゃあ、当の紫雨は……! 紫雨はどこに行ったんだ!」
「落ち着け、曉殿!」
パニックに陥る曉を、香蘭が制する。彼は、鋭く研ぎ澄ませた覺者かくしゃの五感で、霊廟の中に残る、微かな『気』の残滓ざんしを探っていた。
「……分かる。あの子の、覚醒したばかりの、強大で純粋な導心の気が。そして、もう一つ……玲瓏れいろうの気も」
香蘭は、目を閉じ、その痕跡を追う。
「気は、ここから、宮殿の奥へと続いている……こっちだ!」

香蘭に導かれ、曉は後を追う。そして、二人がたどり着いたのは、玲瓏の私室へと続く回廊の前だった。
そこには、見えない壁が存在していた。玲瓏が張った、強力な結界。
「……玲瓏の、部屋に……?」
曉が、呟く。
「ああ……。だが、これは……」
香蘭は、その結界にそっと触れると、顔を蒼白にさせた。
「……ただの、侵入者を防ぐためだけの結界ではない。これは、中からも、決して出られないように、内側に対して、特に強く作用する術式だ」
その言葉の意味。
(玲瓏は紫雨殿をこの中に閉じ込めている? 紫雨殿に紫釉の記憶が戻っているならこのような手荒な真似はしないはずだ。ということは……)
紫雨はおそらく紫釉としての記憶を取り戻していない。
「内側ってことは、中にいるはずの紫雨もここから出られないってことなのか……?」
玲瓏が、紫雨を、何らかの意図をもって閉じ込めた。その事実は、もはや疑いようもなかった。

それから、五日が過ぎた。
玲瓏の部屋へと続く回廊は、主の許しなくして誰も通ることができぬ、絶対不可侵の領域と化していた。

「――なんでだ! このまま、紫雨をあの男の好きにさせておくつもりか!」
香蘭の私室で、曉が怒りに震える声を上げた。彼は、この数日間、眠ることもできず、憔悴しきっていた。
香蘭は、荒れる曉の言葉を、静かに受け止めていた。彼とて、玲瓏の暴挙を許しているわけではない。だが、この一両日、奇妙な変化が起きていた。玲瓏の私室から漏れ伝わってくる、あの常に張り詰め、ささくれ立っていた狂気の気が、まるで凪いだ湖面のように、静かになっているのだ。丸薬だけで、あれほどの安定は得られない。ならば、答えは一つ。
――鎮魂ちんこん
その濃密な行為の上に行われる調整は導心どうしんの明確な意思なしに成立しないはずだ。たとえ無理に身体を繋げたとしても導心の意思なくしては鎮魂は施されないのだ。
そして、今の玲瓏を鎮魂できるのは彼が唯一受け入れることのできる紫釉の力を宿す紫雨しかいない。
(つまり……紫雨殿は、自らの意思で玲瓏を?)
その考えは、曉をさらに混乱させるだけだろう。香蘭は、その胸の内を隠すと、荒れる曉の肩に、諭すように手を置いた。

「落ち着け、曉殿。気持ちは分かる。だが、一度冷静になるんだ」
香蘭は、曉をなだめながらも、苦々しく顔を歪めた。
「私も、今の玲瓏のやり方が許されるものだとは思っていない。だがな、一つだけ確信していることがある。……あいつは、決して紫雨殿を傷つけたりはしない。己の命に代えてもな。彼にとって、紫雨殿は、ようやく取り戻した光なのだから」
その言葉には、長年、従兄弟の絶望をそばで見てきた香蘭ならではの、揺るぎない確信がこもっていた。

「それでも! あいつは囚われているんだろ!」
「分かっている。だから、何とか解放させる。そのために、今は、策を練る必要がある」
「長老たちにも、何度も掛け合った。だが……彼らも、身動きが取れないのだ。玲瓏は、鬼王と戦うための、我々の最大の切り札。もし、彼を追い詰めて、その精神が完全に崩壊し、暴識にでも陥れば……その時は、仙界せんかいそのものが滅びる可能性がある」
「……ふざけるな」
「玲瓏の狂気と、仙界の存続。それを、天秤にかけられている……。あまりに、酷な話だがな」
結局、長老たちが出した結論は、「静観」だった。
「一人の犠牲で仙界が守れるならってことかよ……」
その、あまりにも無責任な言葉に、曉は絶望していた。
香蘭は、そんな曉の前に、改めて向き直った。
「だが、私は諦めたわけじゃない」
その青い瞳に、強い光が宿る。
「長老たちが動かぬなら、我々で動くまでだ。曉殿、君の力を貸してほしい。二人でなら、あるいは、あの結界を破れるかもしれん」
相手は龍皇級の中でも最強の覺者、だがこちらも龍皇級の覺者二人だ。無謀な賭けではないと香蘭の瞳は語っていた。
曉は、その手を強く握り返した。
「……わかった。あいつを助け出せるなら、俺は何だってする」
ここに、玲瓏の狂気に立ち向かうための、二人の密約が交わされた。

だが、彼らは知らなかった。
仙家全体が、玲瓏と紫雨の異常な関係に気を取られている、その裏で。
さらに深く、そして、邪悪な嵐が、その胎動を始めていたことを。


みどりは、自室の窓から、玲瓏の私室がある方角を、冷たい瞳で見つめていた。
(馬鹿な人たち)
玲瓏の狂気も、曉の焦りも、香蘭の苦悩も、長老たちの保身も、翠にとっては、全てが滑稽に映った。
彼らが時間を無駄にしている間に、自分だけが、全てを手に入れることができる。
その時、部屋の隅の影が、ゆらりと揺らめいた。

『――ご覧なさい、仙女様。皆、あの二人に、かかりきりのようですね』

黒髪の女の幽鬼ゆうき――烏凌雪うりょうせつが、嘲るような笑みを浮かべて、翠の隣に佇む。
「ええ。本当に、愚かね」
『ですが、これは好機です。玲瓏様も、香蘭様も、そして、あの邪魔な曉という男も、今は皆、あの男にだけ集中している。……禁術を始めるには、またとない機会かと』
烏凌雪の囁きは、甘い毒のように、翠の心を侵していく。
『ためらうことはありません。あの男から、神籍の力と、玲瓏との魂の縁を奪いなさい。そうすれば、貴女こそが、玲瓏に選ばれる、唯一の存在となれるのですから』

翠の唇に、残酷なほどに美しい笑みが浮かんだ。
「ええ、そうね」
嫉妬と、欲望と、そして、屈辱。全ての負の感情が、彼女の中で、一つのどす黒い決意へと変わっていた。
「教えて。何をすればいいの」

その言葉を待っていたとばかりに、烏凌雪は、うっそりと微笑んだ。
『では、始めましょうか。……貴女が、真の仙女となるための、儀式を』

翠は、部屋の奥にある、隠された祭壇の間へと足を踏み入れる。そこには、烏凌雪に教えられるまま、何日もかけて準備した、不気味な文様の陣が描かれていた。
翠が、陣の中心に立つ。
そして、幽鬼の囁きに導かれるまま、彼女は、禁じられた呪文を、唱え始めた。
その声は、紫雨の魂を縛る、邪悪な鎖の音色となって、静かな宮殿の夜に、響き渡っていった。
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