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第31話:夜明け
しおりを挟む霊廟に朝の光が差し込み始めていた。
禍々しい気配も魂を揺さぶるほどの光の奔流も、全てが過ぎ去り後には夜明け前の静寂だけが満ちている。
紫釉は、腕の中で穏やかな寝息を立てる玲瓏の髪をそっと撫でていた。長い、長い夜が、ようやく明けたのだ。
その静寂を破ったのは、恐る恐る霊廟に近づいてくる、二つの足音だった。
「……玲瓏……? 紫雨殿……?」
香蘭の声に、曉の緊張した気配が続く。結界が消えた後、彼らは夜が明けるのを待って中の様子をうかがいに来たのだ。
扉の隙間から中を覗き込んだ二人は、そして、息をのんだ。
祭壇の前で朝日を浴びながら、一人の青年が静かに座っている。そして、その膝を枕にするようにして、玲瓏がまるで子供のように安らかな顔で眠っていた。
その青年の顔を、香蘭は見間違えるはずもなかった。
瓜二つのはずなのに、隠紫雨とは全く違う。腰まで届く、長く艶やかな黒髪。すっと伸びた、気品ある背筋。そして何よりも、その魂の全てを映し出すかのような、潤んだ琥珀色の瞳。それは紛れもなく、彼が八年間焦がれ続けた、従兄弟の姿だった。
「……し、ゆ……?」
掠れた声で、その名を呼ぶ。
青年――紫釉は、ゆっくりと顔を上げると、涙ぐむ従兄弟に向かって、八年前と何も変わらない、穏やかな笑みを浮かべた。
「ただいま、香蘭」
その瞬間、香蘭の目から堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出した。
彼は、自らが羽織っていた外袍を脱ぐと、衣が乱れたままの紫釉の肩にそっとかけてやる。そしてその肩口に、己の顔を埋めると、子供のように声を上げて泣いた。長年の、苦悩と安堵と、喜びの全てが、嗚咽となって溢れ出す。
そんな香蘭の背を、紫釉は優しく撫でた。
「……すまなかったな、香蘭。お前にも、辛い思いをさせた」
曉は、その光景をただ呆然と見つめていた。
(紫雨……)
目の前にいるのは、紛れもなく、彼が知る幼馴染の顔だ。だが、その身にまとう雰囲気は、隠紫雨のものとは全く違っていた。気品と、揺ぎない自信。そして全てを知る者の、深い哀しみと優しさ。
嬉しいはずなのに。無事だったと喜ぶべきなのに。なぜか胸の中に、ぽっかりと穴が空いたような寂しさが込み上げてくる。目の前の親友が、もう自分の知らない、遠い場所へ行ってしまったかのような。
そんな曉の心の揺らぎに、紫釉は気づいていた。彼は、眠る玲瓏の髪を撫でながら、優しい声で曉に語りかけた。
「曉」
「……」
「今まで、ありがとう。ずっと、そばにいてくれて」
それは紛れもなく、「隠紫雨」としての、感謝の言葉だった。
「曉が知る『僕』は、ちゃんとここにいるよ。だけど……忘れてしまっていた、もう一人の『私』が、ようやく戻ってきたんだ。今の僕は、その両方なんだ」
「……紫雨……」
「うん。僕は、紫釉であり、これからも紫雨のままだよ」
そう言って微笑む顔は、曉が知る、あの気弱で優しい幼馴染の顔そのものだった。曉の瞳からも、安堵の涙が一筋、こぼれ落ちた。
だが、その穏やかな再会の時間は長くは続かなかった。
香蘭が、涙を拭い厳しい表情で口を開いたのだ。
「紫釉……。君が無事に戻ってきてくれたこと、これ以上の喜びはない。だが……これはまだ、終わりじゃないんだ」
彼の視線が、紫釉の腕の中で眠る玲瓏へと注がれる。
「玲瓏は還魂の法を使った。天の理を歪め、死者の魂を呼び戻す、最大級の禁術だ。……仙家の長老たちが、これを見過ごすはずがない」
「そうだね……」
紫釉の、琥珀色の瞳に、深い哀しみの色が浮かんだ。
彼は、腕の中で安らかに眠る愛しい人の頬をそっと撫でる。
「……だが、香蘭。もう少しだけ……。ほんの、少しだけでいい。この愚かで、どうしようもなく愛しい男と、穏やかな時間を過ごさせては、くれないだろうか」
その、あまりにも切実な願い。
香蘭は、何も言えなかった。彼はただ、黙って頷くと、こう答えるのが精一杯だった。
「……ああ。分かっている。長老たちには、私がうまく話をつけておこう。だから、今は何も考えずに、休んでくれ」
その言葉に、霊廟の中の空気は、再び張り詰めたものから穏やかなものへと変わっていった。
ようやく手にした、穏やかな時間。だがその下で、彼らの最後の試練となる、新たな嵐が静かに、しかし確実に、近づいてきていた。
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ここから主人公であった「紫雨」の名前の表記は「紫釉」に代わることになります。
曉はそのまま「紫雨」と呼びます。ややこしくなりますがご了承ください。
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