遠き道を -儒者 林鳳岡の風景-

深川ひろみ

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四 天、予を喪せり

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 八畳ほどしかない守勝の私室には多くは入りきれず、たちまち廊下にまで人が溢れた。いつも看てもらっている医者が往診に出ていたため中々捕まらず、皆でじりじりしながら待った。
 短い譫言を言うばかりの守勝は、家族の声も聞こえていないようだった。
 知らせを受けた春勝は、上野から籠を飛ばして戻ってきた。
「靖は」
 詰めかけた家族の間をもどかしげにすり抜け、春勝は弟の褥の傍らに膝をついた。
「靖―――」
 投げ出された手を堅く握り、必死の声で呼びかける。頬に触れ、父はほとんど叱りつける語気で言った。
「靖! しっかりしろ! わたしを見ろ!」
 守勝は何かを追い払おうとするようにわずかにかぶりを振った。目は閉じたままだ。春勝は焦れた様子で、弟の肩を掴んで揺さぶり、頬を打った。
「靖!」
 春常が知る限り、父が人前でこんなに取り乱したことはない。奥に詰めていた妻の千が袖で目元を押えた。部屋には守勝の妻も子も詰めている。普段は身内への気遣いを欠かさない、家族思いの父であったが、今は周囲の様子など目に入っていなかった。ただ、弟だけを見ていた。
「靖!」
 父の傍らにいた春信が目立たぬように立ち上がり、春常の所へ来た。
「つね」
 小声で言った。
「これ以上待てない。とにかくお医者様を誰か捕まえてくる。ここを頼む」
「はい」
 春常が応えると、春信は春常の肩に手を置いてから、足早に部屋を出て行った。



 春信が部屋を出たのとほぼ同時に、ようやく医師が来訪したが、高熱を発して昏睡状態の病人に対し、もはや為す術もなかった。
 夜明けを待たず、守勝は急逝した。
「靖」
 兄の必死の呼びかけに、守勝は最期に一瞬だけ反応した。その目が確かに兄を捉え、口が動いた。もはや声はなく、言葉の代わりに涙が一筋流れた。そして、呼吸が絶えた。
「靖」
 春勝は、なおも弟の手を握り続けていた。繰り返す呼びかけが呟きに変わり、それはやがてうめき声になった。弟の手を両手で握りしめ、額を押しつけた。そして、人目も憚らず身体を折り、声を上げて泣いた。
 慟哭―――というものを、春常は初めて見た。誰も春勝に声を掛けられなかった。すすり泣きが部屋に満ちた。


          ※

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