左手薬指の相手

雪井氷美子

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「ごめん、結人俺今日は帰る。……って、ここ俺の家だった!!」
「ぶはっ! 急にどうしたんだよ、紡。変だぞ?」
「あー変……かぁ。まぁ、そう、だよな……」

 歯切れの悪い紡。キョロキョロと自分の部屋を落ちつかなそうに見ている。

「じゃあ俺そろそろ帰ろうか? 小母さん達もそのうち帰ってくるだろうし……」
「い、いや、いい。結人はゆっくりしてけよ。まだ本調子じゃないだろ?」
「そうだけど……帰るぐらいなら平気だし」

 重たい腰を持ち上げて、立ち上がる。大丈夫、歩くぐらいどうってことない。まぁ、外は暑いからそれだけが嫌なんだけど。

「そうなのか? なら送るよ」
「いいって近いし、一人で帰れる」
「ダメだ!!」

 急に物凄い剣幕で怒鳴る紡。その大きな声に驚いて俺は目を丸くした。

「俺が送ってく!」
「え、あ、……そう?」

 それから強情な紡に押し切られて俺は自宅に戻った。

 だるい。散々ヤられて腰が痛い。紡の奴手加減せずに貪りやがって……と舌打ちをする。ベッドに横たわりスマホゲームをピコピコといじくる。軽快なリズムと共に玉を打ち出して敵を落すゲームだ。やり慣れてて適度な暇つぶしになって楽しい。腰が痛いのも忘れて俺は暫しそれに夢中になった。

 それから夕飯をとり、母さんや父さんと適当なことを喋ってからまた私室に戻ってきた。布団に潜る。

 あー、なんかすっげぇ疲れた。眠いっつうか、もう意識保ってらんねー。

 俺はうとうととしながら、怒涛の一日だったなぁと思うのだった。


◇◇◇ 

 八月二十日月曜日。俺は昨夜からじっくり考えに考え抜いた。答えは出ていた。だが、全然分からない。答えが出ているにも関わらずその途中経過がさっぱり分からないのだ。

 俺は結人が好き。

 それは間違いない。俺は結人に恋愛感情を抱いている。だが分からないのは、俺がいつ結人をそういう意味で好きになったのか、だ。思い出してみてもきっかけらしいきっかけがない。肉体を欲するきっかけはあれど、精神を欲するきっかけがないのだ。結人とずっと一緒に居たいとは思う。結人が好きだとも思う。でも、俺が結人に恋をした、それだけが理解不能だった。

 結果は判明している。なのに過程が不明。経緯が理解出来ないまま、俺は結人の痴態を思い出す。昨日俺は好きにしていいと言われて結人を抱いた。友達一人失うかもしれないってのに、俺は行為に夢中になった。終わればあっという間で、結人の方も案外あっさりしていた。俺に触られたりエロいことされんのが嫌だって言ってたわりには。……凄く気持ちよさげだったし。

 キライだと言われた時には多少なりとも傷ついた俺だが、好きだと気付いた時には多かれ少なかれ慌てていた俺。

 頭の中は今なお結人のことでいっぱいだった。

 
 夏休みも残りの日数を数えるほどになってしまった。そのうち新学期が始まる。始まったら俺……結人と普通に接することが出来るんだろうか? っていうか、今までどおり何食わぬ顔してて平気なんだろうか? と、俺の思考はど壺(つぼ)にはまった。

『いっそこんな関係崩しちゃってよ』
 
 結人は言っていた。そして俺になにかされるのも、それについて何か言うのも疲れた、とまで。

 だが、俺は結人が好き。それはつまり、友人に色恋を向けている。その時点で――俺達の関係はとっくに修復不能なんじゃないか? 俺達は腐れ縁の幼馴染の友人だった。そう、だ(・)っ(・)た(・)のだ。だがお互いが運命の相手になって関係は狂い出した。それは僅かに、少しずつ。目に見えない速度で。

 気持ちばかりが先走る。このままじゃいけないって気はする。でも具体的になにをどうすればいいのかまでは分からない。

「はぁ……」

 まるで俺らしくなかった。いや別にそれは今日に限ったことじゃなく、ここ最近。こんな風にぐだぐだと悩むなんて男らしくない。ならばいっそという気持ちが湧いてきた。そう、どうせどうしようもないなら……。

 そして俺は携帯を手に取る。連絡を取る相手は勿論――

『はい、もしもし』
「結人?」
 
 喉に引っかかるような声が出る。緊張で我知らずズボンを掴んでいた。

『え、紡?』

 結人は驚いているようだった。

「あ、切らないでくれ!!」
『いや、切らないけど……どうしたの? 何か用?』
「結人……確かめたいことがある。明後日の二時半、小暮市臨海水族館に来てくれないか?」
『え、なに突然……」
「ふたりで話したいことがあるんだ」
『ってか、え、お前と……ふたり?』
「あぁ」
「…………」

 咄嗟の判断だった。俺は結人を水族館に誘っていた。どうにかして話し合いたい、その思い一心だった。

『つーか男二人でんなとこ行ってどうすんだよ』
「ダメ……か?」
 
 祈るような気持ちだった。昨日のことがあっての誘いで結人が乗るとは到底思えない。けれど、どうか結人が断りませんように……と。

『んーダメじゃないけどさ、確かめたいって電話とかじゃダメなの?』
「ムリだ」
『……無理なんだ。ふ~ん』

 再度の沈黙。

『分かった。明後日の二時半な』
「結人……! ありがとう!!」
『大げさだな。んな喜ばれると……照れるっつーか……妙な気分になるよ』
「そうか?」
『ま、いいや。用はそれだけか?』
「ああ。悪かったな、急に連絡して」
『いいよ。んじゃ、』
「じゃーな」

 ピッ、と通話終了ボタンを押すと、やばい。顔がにやける。と、そんな場合じゃない。

 俺には確かめたいことがあった。それを試そうと思い、その為に直接会って欲しかったのだ。まぁ、単に顔見て安心したいってのもあったけど。それから俺はネットで水族館のことを調べたり、当日着ていく服の用意などをした。
 

◇◇◇
 

 紡の突然のお誘い。約束の時刻10分前に俺は目的の場所に着いていた。小暮市臨海水族館は第一館、第二館とあって、去年第二館をリニューアルオープンした。最近人気の深海生物やらが豊富にいる。勿論、メジャーなのも。

「結人!」
「あ、紡」

 紡は白と黒のボーダーTシャツの上に紺色の開襟シャツ、黒いスキニーに茶色のサンダルを履いていた。アクセントにシルバーのペンダントを首から掛けている。俺はというと、白い無地のTシャツに灰色の七部袖のカーディガン。下は薄茶のアンクルパンツに黒いサンダルだ。水族館ということで、互いにそれなりのおしゃれをしているのが分かった。

「じゃあ行くか」
「あぁ!」

 入館料を支払って中に入る。

 イワシの大群がうねり泳ぐ水槽は圧巻だった。マンタや小魚達が泳ぐ水槽は綺麗だった。他にも海亀などの生物がいる水槽はまんま海を思わせた。中でも印象的だったのは、赤、青のスポットライトが照らすのは沢山のクラゲが入った水槽。丸く切り取ったような窓の中でゆらゆらと気持ちよさそうにクラゲ達は泳いでいる。青く照らされた水槽の中には、水色と桃色っぽいわりと大型のクラゲが居た。恋人達に人気のようで、室内には甘い雰囲気が漂う。
 
 そんな中を紡と歩く。さすがに小さい子みたいにはしゃぐ年でもないので、静かに見回る。どこもかしこも靴音がして、賑やかな声が木霊す。夏休みだから客も多いんだろう。道中人とぶつかりそうになる場面もあった。

「ん」
「?」
 
 急に紡が手を出してきた。

「手、出せ」
「なんで?」
「なんでって……繋ぐから」
「どうして?」
「危ないだろ。お前、さっきからフラフラと人にぶつかりそうになって」
「平気だよ。今度はちゃんと見てるから」
「じゃあ必要だからって言ったら」
「それこそなんで??」

 ため息を大きく吐かれて、強引に手を繋がれた。いや、ため息吐く理由が分からないから! なに呆れた目でこっち見てるんだよ!!

 繋がれた手から感じる、紡のか俺のか分からない脈拍は少し速かった。黙ってうつむく。なんかこれ、緊張する。男同士で手なんか繋ぐもんじゃないなと思った。クラゲそっちのけで手の温度に集中してしまった。

 通路の通りに歩くと、わりと人気のないエリアに出た。海老やら蟹やらがいる。きっと食材だったら大人気だろう。深い海をイメージしているのか、わりと薄暗かった。静かだ、と思った。わずかな人声もあるが、それでも他の場所に比べたら音が少ない。だって紡の呼吸音まで聞こえるのだから。

「なぁ、確かめたいことって結局何?」
「それは……」
「言えないの? 考えなしってこと?」
「違う。それはない!」
「ふ~ん、まぁいいけど」

 俺が水族館に来た理由は、簡単だ。紡との今後を考える為にここに来た。紡を突き放すにしろ受け入れるにしろ、それを考えなくちゃいけない。一応今日のこいつは大人しい。さすがにこんなとこだし、欲情している気配もない。俺に指一本以上触れてはいるが、俺の嫌がることは今のところしてこない。普通だった。でもその普通に安心する俺。

 手を繋いだまま暗い室内を抜けていく。周囲から俺達はどう見えているのだろうか。普通の友人? それともカップル? どっちも違う気がした。
 
 第一館を出ると、屋外に出された。掌で日差しを遮るようにして、俺は空を見上げる。上空は雲ひとつ無い快晴。だから、からっと暑い。さすがは真夏なだけはある。俺のもやっとした心とは裏腹だ。

 そのまま屋外を進むと、水槽ではなくプールが見えた。中にはシロイルカのベルーガが泳いでいる。名の通り、白っぽい象牙色をしている。頭部が丸く口が大きいのがチャーミングだ。プールの中を自在に泳ぎ、時折、甲高い鳴き声を発している。

 か、可愛い!

 俺は暫しベルーガに見惚れた。すると、水族館のスピーカーからアナウンスが鳴る。

「お客様にご連絡です。ただ今より5分後、水族館内屋外プールにてベルーガのショーを開演致します。ぜひご覧下さい」

 ショーだって!?

 俺はわくわくして、紡の手を引いて言った。

「な、紡、ショー見てこう? 俺すっげぇ楽しみなんだけど」
「あぁ、いいぜ。じゃあ場所を移動するか」

 席に座り、俺達は間もなく始まったショーを見た。投げられたボールをキャッチしたり輪をくぐるベルーガに俺は興奮した。紡にも必要以上に話しかけて「な、今の見た? 可愛いよなぁ」と絡んだ。軽快なミュージックや掛け声に合わせて、踊るように泳ぐベルーガの様は愛らしかった。俺は大満足だった。

「良かったよな、ショー」
「見てて飽きなかった」
「だよな、だよな。っていうか、もっと楽しんでもよかったんだぞ?」
「いや十分楽しめたよ」
「そうか?」


 その後は新装された第二館を見学した。音と光の演出に合わせた水槽なんかが色々あった。見ているだけだが十分楽しめた。時刻は四時過ぎ。俺達は帰ることになった。馴染みのバス停で降りると、家まではもうすぐ。

「なぁ、結人……、ちょっと公園寄って行かないか?」
「公園? 別にいいけど……」

 俺の発言を、いちいち恐る恐るといった感じで窺う紡。紡はそこまで緊張しなくてもいいと思う。でも、今日は久々に紡と一緒で楽しめたなと思う。


 ――だからこの後の公園で、予期しない発言を受けることになろうとは、俺は思ってもいなかった。


◇◇◇

 繋いだ手から伝わる温もりが心地よいと思えた。 

 館内を歩き回っている時は静かに見ていた結人だが、屋外プールのベルーガを見た瞬間、相好を崩した。ショーを見ている間中、俺の隣に寄り添うように、近しい距離に平気で「今の、今の可愛いよな!」とか「イルカって頭良いよなぁ」とか俺の耳元で囁いていた。本当結人の声は男の俺でも聞きとりやすいイイ声をしてるから、……少しだけ、俺に劣情を抱かせる。それでも俺も気にしないように振舞った。

 そして、俺はようやく気付いたのだ。

 目の前の反射する水しぶきより澱みなく、ベルーガよりも可愛らしいと躊躇なくそう思えたのが不思議だった。その瞬間俺の世界は結人だけに夢中になった。笑顔ではしゃぐ結人を見て、離したくないと思った。こんな自然なふれあいこそ、俺が求めていたものだって気付いた。ああ、こういったことがしたかったのか、と。結人に辛そうな顔や怒らせた顔より、楽しんだ顔をさせたかったんだと。それが無性に嬉しいのだと知った。

 なんの迷いも憂いも無い、無邪気なその満面の笑みを見た。


 それは俺が――改めて恋に落ちた瞬間だった。


 芽生えたのは、独占したくなるような感情。結人の笑顔が俺だけに向けばいいのにというもの。今この瞬間、目の前の結人を掻っ攫いたい衝動に駆られた。奪い去って俺だけのものにしたい。

 もう、後悔はしたくない。そう自然な気持ちで思った。

 ショーが終わると、足を踏み出して結人の手を取る。その瞬間、俺にとって今日の誘いはデートなんじゃないかって思えた。彼氏同士の合意じゃないけれど。

 そして俺は願っていた。同じ分とは言わない。けれど、半分、いやほんのわずかでいいから想いを返して欲しいと。結人に、俺と同じ感情を。


 それから俺はどうやってこの想いを結人に伝えるか、それだけでいっぱいになった。もう何度使ったか分からない近所のバス停までたどり着いて、やっと、解決策を見出した。公園へと誘って――俺は――。


◇◇◇

 
 夕暮れの朱里公園に二人きり。胸が勝手に切なくなるヒグラシの合唱が辺りに響く。目の前には紡。そして俺は紡に連れられるままだった手を解く。

「なぁ、紡。話って……何?」
「…………」
「紡?」

 何も言わない、どころか反応しない紡の様子を不審に思った。だから顔を覗きこむようにして驚いた。澄んだ茶色の瞳が、俺をまっすぐに見つめてくるのだ。そんな目を見てしまって、ドキリとわけもなく心臓が鳴った。

「結人、一回しか言えない。だから、よく聞いてくれないか?」
「あー、うん。なんだかよく分かんないけど、いいよ」

 すぅはぁと紡は深呼吸をした。そして、強い眼差しで俺を見た。 


「愛したい、です。一生俺と生きてくれませんか」


 ……これは反則だろう。いつもは適当なクセして、こんな時ばっかり本当に真剣だなんて。

 急な台詞に戸惑っていた俺だが、この言葉を聞いてようやっと俺は事態を理解した。これは――紡にとっての愛の告白なんだと。

「例え運命じゃなくなっても、俺はお前を大事にする」

 運命とは言い方を変えれば、〝本能が求める相手〟でもある。その運命が定めた相手が、今、俺の目の前に居る。俺に、告白をしている。


「これからは一途に結人だけを想う。だから――俺の想いに答えてくれないか?」
「それは――……」
「たぶんお前に何度振られても、俺、諦めきれないと思う。どんなにお前に嫌がられても、俺はお前に囚われてるから。お前を離せそうにない。ごめんな、結人」

 チュッと軽いリップ音を響かせて額にキスを落とされる。そんな仕草にさえ心臓は爆発しそうになって俺は、動揺した。溢れんばかりの思いが伝わるように、俺は紡に抱き締められる。

「愛って…………この前から飛躍し過ぎじゃねーの!? そこはまず『好き』からだろ、普通」
「足りない」
「え?」
「『好きなんだ』じゃもう足りない。俺はお前に……『愛してる』って言いたい」
「んなバカな!?」
「馬鹿じゃない。大真面目だ」

 そう言って再度手を取られて……俺の手の甲にまたしてもキスを落す紡。え、なに、どういうことですか? この変貌っぷりは急すぎませんか? 誰か、誰か俺に答えを下さい!!

 とか、頭の中で喚いても返事を、解答をくれる人なんてどこにもいない。俺に、俺に出来るのは……目の前の男に俺こそが答えるだけだった。


◇◇◇


 赤い糸を手繰り寄せるように、結人を抱き寄せて、腕の中に囲った。

 こんな場面だが、俺は思った。一言で言えば……ヤりたかった。もうちょっと綺麗な言い方に直せば、一つに繋がりたかった。それはαの生殖本能で、しかも惚れた運命の相手ならなおさらのこと。運命と絆。それが同じ矛先を向いている。結人、ただ一人に。

 俺の欲情をかきたてて止まない結人。その結人はといえば……熟れたトマトみたいに真っ赤な顔をして俺を見ていた。

 俺の告白を受けた結人は、俺に対してバカだなんだと言っているが、その照れた顔すら愛おしかった。どうしよう、本気で結人が可愛く見えてしょうがない。これって何かの病気? 恋って病気なの?

 俺の腕の中で精一杯呼吸する結人を思いきり抱き締める。

「く、苦しいから締めるな……!!」
「悪い。でもギュっとはさせて」
「ぎゅっとかお子様かよ」

 軽口を叩く結人。今はこれだけで十分とさえ感じられた。

「離せよ」
「ごめん、やだ」
「やだ、とか……これじゃあ、顔見られないだろ」
「顔見てどうするんだよ」
「それは……――返事しなきゃダメだろ?」

 結人はぶっきらぼうに言った。ああ、結人はこのまま流されてくれないのか。それが少し残念だった。このほんのささやかなレモンの香りをいつまでも嗅いでいたかったから。

 これで――終わりか。俺の初恋は、ここで、終わる。完膚なきまでに叩きのめされて、俺はそれを後生大事に思い出すのだろうか。だが自分の行いを思えば仕方なしと思えた。

 名残惜しい香りから離れて、俺は距離を取る。結人は相変わらず赤い顔をしている。

「紡、俺は……――」

 聞きたくない。このまま結人に嫌われて去られるぐらいなら、と非道なことが思い浮かぶ。結人を俺の家に監禁してでも一緒に居たい、とか大馬鹿な考えが浮かんだ。到底現実的じゃないが。

「俺は――」

 結人の声以外の音が世界から失われた。さっきまで鳴いてたヒグラシの音の喧騒が遠のく。


「お前の気持ちに答えられない」


 脳内が混濁する。やかましく鳴く蝉の声が戻ってきた。

 やはり、か。結人は俺を受け入れてはくれない。それだけで簡単に俺は絶望してしまった。もう結人の方を見ていられず、俯く。こんな悲しいことがあるだろうか、ってぐらいに胸が痛む。今日一日で芽吹いた想いは、今日一日で萎びてしまう。所詮俺にはお似合いの顛末だ。俺はこの感情に踊らされた滑稽なピエロだ。顔で笑って心で泣く、それが、それが――。

 でも、どう言い訳しても悲しかったし、なにより悔しかった。あの時こうしていれば――的な思考がとめどなく溢れてくる。結人に嫌な想いをさせてさえいなければ、もっと可能性はあっただろうか? あんな性欲に振り回されるようなマネして、結人を傷付けてまで体を繋いだりして……最悪だ、俺。改めてそう思った。

 もう項垂れるしかない。ため息まで自然に零れた。

「って、おい! 聞いてんのか、紡!」
 
 聞いてる。聞きましたとも。だから俺は――

 ふいに顔を持ち上げられて、至近距離に結人の顔が現れる。

「って、お前なに泣いてんだ!?」

 泣いてる? そりゃ泣くだろう。好きな子に失恋したとあれば、俺だって泣くぐらいはするさ。それでも俺は懸命に口を開いた。

「お前に――振られたから」

 そう綺麗さっぱり俺はたった今振られたのだ。そう思えばますます涙が零れてきた。顔は懸命に笑いを作ろうとするが、結人の目に映る俺は笑いに失敗していて、完全に泣いていた。

「…………は?」

 結人はというと何故か驚いた顔をしている。と思ったら急にケタケタと笑い出した。マジか、こいつ。失恋した相手を嘲笑うなんて。そのせいで俺の涙腺が止まったのはいいものの、なおも爆笑する結人。腹を抱えて笑われて、ちょっとムカついた。

「酷いな結人。俺を笑って気分がいいか?」
「あぁ、すこぶる。お前もこんなことで泣いたりするんだと思うと愉快でしょーがない」

 笑いすぎて出た涙を拭って結人は答えた。

「最低だな」

 剣呑な空気で俺は言った。

「ってか、うじうじするなよ! それでも男か?」
「煩い、これでも男だよ。だから男泣きしてんだよ!」
「男泣き~? わりと女々しい泣き方だったぞ?」
「黙れ。結人のくせに生意気だな。犯すぞ」
「うわ、この人サイテー。告白した相手に笑われたぐらいで、腹いせに犯すとか野蛮すぎんだろ、お前」

 結人が背筋まで冷たくなるような瞳でこちらを見る。その視線に汗をかく俺。

「あ~あ、ちょっとは見直したっていうのに、またこれかよ」
「見直した?」
「うん。お前のこと、ちょっとは、その、いいなって……」

 それだけで跳ねる心臓。〝ちょっとはいいな〟? 振られた後にそんな言葉が出てくるなんて予想外だった。

「男らしい手だなって思ったり、通路でも俺が人とぶつからないようにエスコートしてくれたり。そういうとこわりと格好良いなって……って、なんでこんな恥ずかしいこと言わなきゃなんねーんだよ!」
「本当に、そんなこと考えてくれたのか?」
「そうだよ」
 
 歓喜する俺。

「第一お前、『諦めきれないと思う』やら『離せそうにない』だのと言ってなかったか?」
「あれは――その通りだけど、現実的にお前を束縛することなんか出来ないだろ?」
「そ、そくばくっ……って何考えてんだよ!!」

 動揺する結人がおかしかった。

「そもそもだ。お前、人の話は最後まで聞けよな」
「最(・)後(・)ま(・)で(・)?」

 すると結人は大きく息を吐いて、俺に続(・)き(・)を話した。


「お前の気持ちに答えられない。――悪いけど今はまだ俺、そういう気持ちになれないんだ。でも、未来のことなら話は別だ。今後もし、俺がお前の好意に答えることが出来たら、その時は改めて――お前の告白を受け取らせてくれないか?」
「それって……」
「つまりは、だ。お前が望むなら、……試しにこ、ここ、恋人ぐらにはなってやってもいいかなって、思ってはいる」
「付き合っていいのか!?」
「あくまでお試しだから! お前が急に愛してるとか難しいことを言い出すから答えにくくなったけど、俺、やっぱりお前のこと嫌いにはなれないし、なら受け止める方向性でってわけで……ッ!?」
「よ、よかった……」

 よろよろとその場にへたり込む俺。そんな俺を介抱するように背中を撫でる結人。ムードなんかまるでない。ないけど、結人の手が温かくてほっとする。安心したら涙が出てきた。

「そんなに泣くことかよ」
「うるせー」

 ふふっと笑う結人。そんな結人を見て俺はひたすらに結人に感謝するのだった。


◇◇◇


 紡に告白された。あの紡(・)に。

 腐れ縁の互いに面倒くさい幼馴染。で、唐突に決まった運命の相手。そんなのから告白を受けた。紡は愛の告白なんてガラにも無さそうな奴のくせに、俺に向かって真摯な気持ちをぶつけてきた。

 今日を紡と過ごして、俺にはやっぱり紡を遠ざけることなんて出来ないなと思った。紡、グイグイくるし、俺もちゃっかり楽しんでたし。気の置けない友人ってだけはあり、紡といると楽しかった。変な気を遣わずに済むし、純粋に楽しいことだけ考えていられるのは楽だった。

 それでも、このままの関係を受け入れることも出来ないな、と思っていた。よく分からない、曖昧な関係性。友人でも恋人でもないその中間地点にポイと放り出された俺達。正直今でも紡といるのは気まずい。何話したらいいのか咄嗟に浮かばないことだってあった。それでも紡は始終俺を柔らかな雰囲気で見つめて――それが案外悪くないな、とか思えて……。

 だからその涙は意外以外の何物でもなかった。

 え、なんでこいつ急に泣き出したの!?

 俺が答えを先延ばしにする答えを言おうとした矢先に、俯いて聞いているんだか聞いてないんだか分からなくなった紡に近づいて、その顔を見た時だった。

 そして紡は言った。〝俺に振られたから〟と。

 だが驚いたのはほんの一瞬。こいつでも泣くことがあるのかと俺はおかしくなった。ここ数日、紡にされて悩んだことも吹き飛ぶ程、痛快な気分になった。対して紡はそれを恨みがましいような目で見てくる。いかん、笑い過ぎたか?

 うじうじと涙を流す紡に、それでも男かと言ったら、真面目に男だと返ってきた。よかった、威勢はあるらしい。そこから怒った紡は野暮にも『犯す』という表現を使ってくる。

 せっかく俺が見直したというのに、こいつは。

 それも気のせいかと口に上げれば、縋るように俺を見てくる紡。なんなんだ?

 とてもあの告白をしたと思えない変わり様。ごめんなと言いながら俺を離せそうにもないと言われて、動悸がするようだった。
  
 『愛したい』

 と、紡は言った。それも俺と一生生きて欲しいと付け加えて。躊躇いのある表現に、俺は好感を持った。はっきりと断定されても困ったと思うし、真剣な気持ちが伝わってくるようで、俺はドキドキした。

 運命じゃなくなっても。運命に振り回された俺にはひどく心に染み渡る言葉だった。

 一途に俺だけを想うと。たった一人、俺だけを。それは最高に俺の胸を切なく締め付けた。

 そんな言葉を貰えば、俺も覚悟を決めるしかなかった。

 俺を束縛してでも繋ぎ止めたいらしい紡。その言葉に俺は動揺した。そこまで想われて悪い気もしないが。

 ……と、そもそも紡は早とちりしている。俺に紡を振った覚えはない。だからもう一度、俺は言った。

 まだ時間の猶予が欲しかった。
 また友達に戻りたかった。

 まだまだ俺には考えられないことばかりだった。

 それでも、俺は俺なりの答えを見出した。

 白紙の未来へ先延ばしにするような回答だったが。

 友人でも恋人でもないなら、いっそ試しに恋人になってしまおうか。否定し続けた関係。だが紡はそれより上の気持ちを投げ掛けた。だからこそ、覚悟が決まった。

 体の力が抜け落ちるようにその場に座り込んだ紡。その背を撫でながら、紡の顔は涙に濡れていた。

「で、いいんだよな?」
「あ、ああ。こちらこそ、よろしく」
「よろしく、紡」

 真っ赤になる紡が可愛らしいと思ったのは内緒である。
 

◇◇◇

 
 それから数年後。俺達は高校を卒業して、大学を出て晴れて社会人となった。今も、紡とのお付き合いは続いている。

 俺達が付き合いだしたのが両方の家族にバレてからは基本祝杯ムードだった。だけど俺の家の父さんと、紡の家の母さんからはお小言を互いに貰った。

 あれから付き合うにあたって決まりを作った。挙げればきりがない。そんな交際期間中は月に一度はデートをした。口喧嘩だって沢山した。それでも幸せだった。

 どんどん俺の中で紡への好意が、言い換えれば、愛が育まれていくのが分かった。好きで好きで、堪らなく苦しい日もあった。そんな日は紡との思い出を、決まって高一の夏を思い出していた。

 あとは時間の問題だった。

「紡?」
「何、結人」
「あのさ……」
「うん」

 招かれた紡の部屋。紡は大手貿易会社に就職すると共に、一人暮らしを始めていた。俺の方は生産関連の会社で事務をしている。未だ、家にいる。

 紡の部屋はこざっぱりしていて、物が少なかった。そんな部屋のベッドにふたりで戯れのようにじゃれていた……のだが。


「愛してる」


 俺の一言に目を見開く紡。その後微笑むと、


「俺もだよ、結人」

 そして目尻にキスを落とされる。思わずにやけてしまう俺。再度紡を見れば――目だけではっきりと主張していた。視線だけで感じてしまいそうになる俺。紡は、欲情していた。

「なぁ、いいか?」
「いい……けど……今から? まだ昼間だよ?」
「したくなった。っていうか、どういう風の吹き回し? 結人から初めて『愛してる』って返ってきたんだけど」
「いやぁ、なんか俺も無性に伝えたくなって。最近じゃ紡と、ん、居るの、当たり前、だし……って言ってるそばからキスすんなよ!」
「悪い悪い。で?」
「で? じゃなくて…………あぁ、もういいや。そのまま聞け」

 分かったと頷きながら、サイドテーブルからゴムを取り出す紡を見て俺は言った。

「今日は……ゴム無しでいいや」
「え、……いいのか? 俺は嬉しいけど……でも……孕んだりしたら大変だろ?」

「そーゆーの、含めての愛してる……なんだけど……」

 もごもごと口を動かす俺。そしてコンドームの箱を取り落とす紡。衝撃を受けたような顔をしている。数秒後にはきつく抱き締められた。

「結人……!!」
「つむ……ぐ、きつっ……そんなに腕締めないで!」
「悪い、でも……あぁああどうしよう。俺、マジで嬉しい。こういうのをなんて表現したらいいんだろう。あー最っ高!」
「紡ってば、くすぐったいよ。そんなにくっつかないで」
「これがくっつかずにいられるかよ。結人……今日は寝かさないから」
「寝かさないってまだ昼だから。夜ですらないから!」

 そんな俺の叫びは無視されて、俺の着衣はそうそうに脱がされるのだった。 


 はしたない、とは思いつつ紡の雄雄しい逸物を取り出して早速とばかりに口をつける。蒸れたような匂いと湯気を立てるそれをチロチロと舐めた。その後思い切りしゃぶってやると紡の腰が揺れる。

 もう何度もしてきた行為だ。それだけに紡が喜ぶポイントも分かってる。裏筋を舐めてから、鈴口を強く刺激する。大体これで紡は――俺の頭に手を乗せて耐えるように力を入れるのだ。気持ちいいと言っているような証拠。あとは丁寧にじっくりと責めてやれば……「もういい、結人、早くお前のナカに入れたい」と限界を訴えてくるのだ。

 口から取り出した張り詰めた怒張が、天を向いている。これで……俺は、と既に想像だけで濡れてくる。その場所を指で数度抜き差しされれば、自分がいかに興奮しているのかが分かった。

 あの頃は、高一の頃はセックスを恐れた。発情期にやってくる暴力的な熱も、紡に与えられた強烈な刺激も。だが今は違う。穏やかにゆるやかに愛を与え合う行為だとはっきり理解できるようなセックスを互いに覚えた。そして――紡とのセックスが好きになった。


 湿る唇、紡は舌を入れるつもりだ。そんな深いキスされたら……とか思ってるうちに潜り込まれる。逃げようとしても腰や頭を支えられて逃げられない。執拗に迫る舌、俺の弱い箇所を押さえて刺激してくる。

「ふっ……うぅん……!」

 段々腰から力が抜けてくるようなキス。このままじゃまずい……と思った所でキスが中断された。


◇◇◇


「入れるぞ、いいな?」
「うん……うん! 早く、来て!!」

 二度頷き、結人が俺を迎えるように大きく手を広げた。そして仰向けの結人に覆い被さるように俺はのしかかった。脚も精一杯広げて俺は抱き締められる。直後、肉茎を挿入した。俺の逞しく育ったモノが結人の中を押し進む。

「はぁ……ぅん、あ……あああああッ!!」

 待ちに待った陰茎に、思わず涎が零れ落ちてしまうらしい結人。結人の直腸内に熱い塊がすっぽりと収まる。その感触に俺は満足感を覚えた。暫くじっと耐えていた俺だが、「ねぇ……動いてくれないの?」という結人のおねだりを聞いてゆるく腰を滑らせた。直腸内にマーキングするように何度も叩きつける。先走りと腸内の汁が合わさって内部は滅茶苦茶気持ちいい。腰から下が溶けそうだった。

「ん……ふ、……」

 結人が俺を焚き付ける様に、挑発的な笑みを浮かべる。

「その程度なの?」

 蠱惑的なその姿に、頭にきたというよりは、血の巡りが激しくなって獰猛な野心に突き動かされた。食らいつくようなキスをして、結人を黙らせる。そして思い切り腰を使って結人を責める。

「あ……ン! ふぅっ、はぁ、……あっ! 激しっ、紡……激しい……あぁ、!!」
「激しいのがお好みなんだろ? は、ナカ絡みついて離さねぇな」

 蠕動運動によって生み出される絞り取られるような感覚。つい口元がにやけそうになるのを堪えて、結人の中を一点目掛けて突く。前立腺を中心に結人を苛めてやれば、欲しがったのは結人の方なのに「ダメェとかそこやっ!」だのと弱音を吐く。どうせ全部気持ちいいんだろうに、こういった素直じゃない面も案外悪くない。むしろこの年までそういう部分を持っている結人が好きで仕方なかった。

「な、言ってみろよ」
「なにを、あぁん、あ、!」
「『気持ちいい』って」
「やだ、気持ちよくなんか、あ、そこはぁ、んっは……! はぁぁぁっ――!」

 結人の目の奥がまるでハートマークが浮かんだようになる。どんな顔してんだよ。とても人様には見せられない顔をする結人。そんな風に俺と俺の息子が好きって丸分かりの顔されたら――手加減なんて出来なくなるだろう?

 俺は容赦なく結人を攻めた。腰の律動を速めて、ろくな抵抗も出来ない結人を、とになく嬲った。結人の腸の奥にある生殖器内まで甚振って、ガンガンに攻め立てた。そうこうすれば、結人は陰茎から白濁を飛ばしながら、中を収縮させた。気持ちよくイってるのが分かるイキ方だった。俺はそれを静観するのではなく、わざと絶頂している最中の結人をさらに追い詰めた。

「だめっ、やめ、気持ちいいから、気持ちよしゅぎてぇ、だめ、あああ、イってるのに、また、イっちゃ――ああああッ!?」
「イってろ。俺も、もう限界だ。お前のココにたっぷり出すから、全部飲み込めよ」

 腹を示して、俺は、腰に力を入れてラストスパート。すると欲望が一気に爆ぜた。結人の中の生殖器内まで汚す派手な射精。結人はガクガクと震えて白目を剥いている。そんな姿さえ愛おしくて、俺は最後の一滴まで結人の中に注いだ。


 結人は行為が終わって、力なく瞼を閉ざした。その横顔にキスをして、だるい体を無理に起こす俺。別室から水やらまとめてあった菓子類を取りに戻ると――その光景が現れた。

 結人が俺の脱いだ衣服をまとめて抱き寄せて眠っているのだ。匂いを嗅ぎながら安心してうとうととする結人。俺は寝かせないつもりだったが、こんな姿を見てしまえば考えも変えたくなる。

 Ωには習性があって、愛する者と一緒になると、相手の匂いがついた衣類や布団などをかき集めて文字通りの『巣』を形成するのだ。これは発情期前によく見られて、Ωには精神的安静を促す効果もあるそうだ。

 だが、今回は発情期でもないし、まして巣作りと呼ぶには規模が小さすぎる。俺のことを想って作られた、巣とも呼べない代物。それでも俺にはその光景がなにより尊いものに思えた。


 二時間程度は仮眠が取れただろうか。辺りを見れば、夕刻といった感じになっている。俺が薄い布団を退かすと、その違和感で結人も目覚めたらしい。俺達は未だ全裸だ。

「ん~~、紡?」
「なぁ、結人。お前から初めて愛の言葉を貰ったから言うんだが――俺の番になってくれないか?」

 寝起きの結人が「初めて? 愛の、ことば? 番??」と寝ぼけて繰り返す様を微笑みながら見ていると、結人は急にぱっちりと目を開けて「え、ええええええええええ!?」と大げさに叫んだ。

「番って、あ(・)の(・)番?」
「あれ以外にあるのか知らないが……まぁたぶんそ(・)れ(・)だろう」
「番……俺と……紡が?」
「そうだ。俺と正式な関係になって欲しい」
「う、あぁ……それって俺の項を噛むってことだよな」
「ああ」

 長い沈黙が俺たちを満たした。布団の衣擦れや俺達の呼吸音はすれど、それ以外の一切の音は掻き消された空間。一度、結人は瞬きをすると、覚悟を決めたような顔をして俺を見つめた。

「いいよ。番に、なろう?」
「いいのか!?」
「うん。だから――俺の項を噛んで下さい」
「結人…………分かった」

 俺は感動していた。やっと結人からこの気持ちを、完全な形で返してもらえる。そのことがなにより嬉しかった。

 結人をうつ伏せにして、背後から晒された項を噛む。途端溢れるような幸福感に酔いしれる俺。脳の奥から手足の末端まで痺れるような快楽とはまた違った感情に支配される。これでやっと……――俺達は〝番〟だ。正式な伴侶(パートナー)として認められる。

 α特有の発達した犬歯を剥き出しにして笑った。じーんと湧き上がる達成感にも似た感情に俺はひたすらに喜んだ。そんな俺の顔を見て結人も微笑んだ。抱き締めあって額をくっつける。

 俺達は互いに手を繋いだ。すると、あの初夏のように奇跡が起こった。結ばれた赤い糸が突如光り輝き、左手薬指の根元に光が集中すると、光は霧散した。何事かと思ってみれば――互いにそれと分かる締め付けられたような痕が残っていた。まるで……リングのように。


 このことは後から知ることになるのだが、正式な番になると、左手薬指に締め付けられたような痕ができる。そして運命の相手と番うとその伴侶達は結婚指輪をつけない。何故ならそれが婚約指輪の代わりになるから。だから運命の相手、魂の番だと他者からもはっきりと分かるのだ。赤い糸は、うなじを噛んで痕を残すと肉体に刻まれるようになる。ペアの証だ。勿論、他人からは不可視の赤い糸も残ったままになる。


 お揃いになった指に歓喜した俺達。そこからまた夜まで、いいや次の朝まで休み休み盛り上がることになった。幸せな一日だった。


◇◇◇


 揺り椅子に座って編み物をしながら、大きな腹を撫でる。赤い毛糸で編まれているものは、子供用の小さなマフラーだ。産まれてくる男の子が、冬でも元気に育つようにと俺は祈りながら編む。大きくなった暁にはこれが記念となるだろう。

 出産はもう間際。あと暫く待てばこの子とお目見えできる。それを楽しみに二人で日数を数えていた。幸せな時だった。

「うっ……はぁ、うう……!」

 だが、急に陣痛が激しくなり、座っているのもやっとになる俺。今までに無い痛みと、早い間隔に俺は呻いた。異変を察知した紡が、食器を洗っていた手を止め、慌てて駆けつける。

「大丈夫か、おい、結人!」
「あんま……平気じゃ……な、ひゅっ、はー」
 
 呼吸さえ止まるんじゃないかという陣痛。俺の容態に変化が生じたことを受けて、慌てて車に乗せられる。その間も俺は陣痛と闘っていた。

 病院に着く頃には俺は脂汗をかいていた。

「んー、ふー! 紡、怖い……俺、俺……!」
「結人安心しろ。俺がついてる」
「ほんと……あああっ、あ、ああ!」
 
 声が抑えきれない。それでも紡は俺の手を握り支えてくれた。病院の中に入ると、すぐさま状態を調べられた。分かったのは、今日中には産まれるということだった。妊夫の俺は着替えさせられる。

 病室で苦しい陣痛をやり過ごす。隣にはずっと紡が付き添ってくれていた。

 紡が横にいるのがこんなにも安心出来るなんて……。この数年で頼りがいのある男に成長した紡を見て思った。

 その間に軽食や飲み物を摂ったりして本格的な出産に備える。紡は時折俺にマッサージを施したりしてくれた。それだけでも随分楽になる。

 そしてついに俺の陣痛もピークを迎え、俺の胎の中が開き、部屋を移動することになった。紡と別れる。それが不安になるが、紡のがんばれという声が耳に強く残った。

 分娩室。そこの分娩台で俺はいきんだ。助産師が言葉を投げ掛ける。お腹の赤子の為、必死に耐え抜いた。全身汗でびっしょりだった。そしていきみ続けて、ふっと意識が落ちそうになる瞬間が訪れた。


 そして――小さな赤ん坊が誕生した。へその緒が切られて、赤子が自分の胸元へ運ばれる。小さくて愛らしい命。俺の中で育まれて来た紡との愛の結晶が、目の前に現れた。


 力いっぱい握っていた手を解放し、そっと赤子に触れる。赤子は大声を上げて泣いていた。すこぶる元気そうだった。すると目敏く助産師が言葉を投げ掛けた。

「おめでとうございます。あなたの頑張りで、この子は誕生できましたよ」

 壮絶な陣痛から解放されて微笑んだ。

「はい!」

 俺は疲労困憊といった感じだった。そこへ扉が開き、紡が中へと入ってくる。歓喜に沸く紡。赤子に触れる姿はまだ父親らしくない。うっと涙を零す紡にそっと笑いかけた。

「ありがとう、結人。お前のおかげで……俺は……父親になることが出来た。感謝してもし尽くせない」
「それ、は……俺も、感謝してる。紡と……恋人に、伴侶になれたから。俺が妊娠してる、間も紡、家事とか頑張ってくれた、じゃん? ……だから紡のおかげでも、あるんだよ」

 弱弱しい声だった。それでも聞き耳を立てて紡は聞いてくれた。それが嬉しかった。

 子供が出来た。なによりの喜びだった。二度と味わえないんじゃないかという多幸多福に俺は破顔した。

 ふと、左薬指の痕が目に入る。これは自慢の印。運命同士を結ぶ絆。――俺と紡を結ぶ、魂の番、という確かな証。


◇◇◇


 出産から数日して結人と赤ん坊が帰宅した。俺達は新居に暮らしている。その仙川家に二人が戻ってきた。増えた家族の為になにかと準備はしてある。が、まだまだ入用なものはあるだろう。それを揃えていくのが今から楽しみでしょうがない。

 生まれた赤子は男の子で、累(るい)と名付けた。俺たちの可愛い可愛い愛息子だ。

 記念であるへその緒を箱ごと押入れへとしまう。いつかこれを息子に見せる時が来るだろう。その時、累はなんと言うだろうか。

「紡? こっち来て」
「あぁ、今いくよ」

 結人の声にリビングへと向かう。そこにはすやすやと眠る累を抱えた結人の姿が。

「寝ちゃったのか」
「そうみたい」
「そっか。ここが……お前のお家だぞ」

 そっと累の頬にキスをする。そんな俺を目元を柔らかく細めて見る結人。

 二人の姿にこみ上げるものがあり、そっと俺は累を抱く結人とそんな結人ごと抱き締める。これが新しい家族の形だと実感しながら目を閉じた。 


◇◇◇


 再び、二人に騒動を巻き起こした本格的な夏が近づく。突飛な奇跡の訪れと、巻き込まれるように成された祝福。受け入れたくない現実に失望した事実。若気の至りによる暴走と激しい喧嘩。そして――温もりの込められた愛の告白。

 色んな物事に、感情に、翻弄されたあの夏がやって来る。


 赤い糸で結ばれた二人の絆は、いつまでもどこまでも続くのだった。


〈おわり〉
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