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第三章
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なんの前触れもなく落とされた一文に、言葉の意味が受け入れらなかった。遠くで集合の合図である笛が聞こえる。わらわらと集まる人の形。
「……話が掴めないんだけど」
「掴めなくていい」
「え……その好きは、私のことを人間として好きって?」
「異性として」
「えええ」
「何」
「何ってこっちの台詞だよ。この流れで言うかな」
「ついでだから言っておこうと思って」
笛は、また鳴っている。みんな、集合してくれないらしい。わあ、と散らばったものを集めるのは大変だ。たとえ相手が高校生だろうと、人間をひとつにまとめるということは大変だ。
「……分らかないなあ」
「分からなくていい。分かってほしいとも思ってない。でも、あんな男に取られるぐらいなら、作戦変えようと思って」
あんな男とか、作戦とか。そんな言葉を聞くと、冴島透も男だったんだと改めて思い知らされたような気がした。ずっと、ずっと、私だけをやたら嫌う小さな男の子だったのに。
「……私のこと嫌いなんじゃ」
「憎いほどに嫌いなことには変わりない。でも好きだった」
それが、私に対するすべてなのだろうなと察した。もうそれだけが全部で、それだけしかないのだなと。
「南雲綺穂がいる世界は嫌いだ。とはいっても、好きになったもんをどうすればいいのかは答えが出ていない。都合よく消えることはない。そもそも消そうとさえ思っていないのかもしれない。南雲綺穂が孤独にならなかったら好きにはならなかった」
「私が孤独になったのは家族を失ったときだよ」
そんなときに好きになったのかと続ければ、冴島透は笑った。そうだ、と。最低だろ、と。
「俺は家族を失ったわけではないけどバラバラ。痛みは違うだろうけど、近いものはお互い持ってる」
「似た者同士ってこと?」
「環境は」
それはそうだ。私たちは、特別な親戚だったから。普通とは少しだけ違う、いろいろな糸が絡んだ親戚同士だったから。冴島透だって思うところはあっただろう。
「でもそれだけじゃない。それだけじゃ、なかった。南雲綺穂って人間を俺は好きになったんだって思った」
「どうして」
「言わない。そんなこと、言わない」
ただの親戚だったなら、その糸はこんなにもぐちゃぐちゃになることはなかったのかもしれない。「何も知る権利なんてないんだよ」そう力なく冴島透は笑った。私を好きだといった口で、嗤った。
体育は気付けば終わっていた。鐘が鳴ったことすら知らず、冴島透が消えていく廊下をぼんやりと眺めていただけ。
教室に戻ると加古と一瞬目があった。その視線は不自然なほど歪み、逸らされていく。
居心地が悪いと感じながら席へと座った途端、視界の端でペットボトルと弾き出されるように出た水が見える。
おかしな方角から飛んできたそれは、見事に私の制服へとかかり白シャツは肌に張り付いた。あまりにも突然で言葉を失い、濡れたシャツから目を動かせない。衝撃的なその光景に、周りも何人かが目を見張っていたように見える。
──水を、かけられた。
そう判断出来たのはそれから数秒後。驚きで声が出なかった。
ついさっきまで誰かさんに告白を受けてからの展開。これはもう、公開処刑に近い嫌がらせなんじゃないだろうか。
どくどくと呼吸が苦しくなり、上手く息が吸えない。
「かな、やり過ぎ」「だってなんか苛々したから」「南雲さん可哀想」
何がそんなにおかしいだろう。どうして、平然と笑っていられるのだろう。
彼女達を見ることができなくて、けれど水をかけた本人は私に心ない言葉を刺してきたあの彼女だということは分かる。でもこの状況をどうしたらいいのかということは分からない。
周りの目が怖くて、立ち去ることも出来ない自分はただ必死に酸素を求めて浅い呼吸ばかりを繰り返す。
さすがにこれは、もう立ち直れないかもしれない。
全てにおいて意味があるとそう思って生きてきた。
——ならこれも、意味があると思えということなのか。
蘇る苦い記憶。
サイレンが鳴る。父親が白い車に運ばれていく。そして黒い車にも運ばれていく。母親は消えた。いなくなった。あれだけ私を縛り付けていたものが、一気になくなった。
どうして、どうして。
私の人生をもぎとっていったのはそっちなのに、こんなにも自分勝手にいなくなるなんて。どこまでも自分のことしか考えないから、残された私はどうすればいいか今も迷子だ。
サイレンが鳴る。私を引き戻しに。ずるりと戻しに。
「はは、笑える」
「——なにが? 全然笑えないんだけど」
絶望の淵に立たされた状況で、事態は大きく傾いた。
甲高く笑っていた彼女達に割って入ったのはただの野次馬でもなければ、正義のヒーロー逢坂くんでもなく、
「櫻井……さん?」
緩やかに巻かれた髪を揺らす、あの彼女だった。
「え……、ちせ?」
「なにこれ、やりすぎでしょ」
困惑気味の彼女達にただ一人、楯突いた櫻井さんは冷たい視線を送っている。ぱちくりと瞬きを繰り返す彼女達はまるで櫻井さんが怒っている理由が理解出来ないとばかりに反応に困っている。
あの櫻井さんが、私を庇った。
「こんなことして恥ずかしくないの? 南雲さんが羨ましいからって醜い嫉妬心曝け出し過ぎじゃない?」
「っ……は? 何、それ」
「嫌がらせしてるあんたらの方がよっぽど笑えるけど」
「あのねえ!」
「そもそも、加古って南雲さんの友達じゃなかったの?」
鋭い眼光が、加古へと無遠慮にぶつけられる。加古は青ざめた顔で、身動き一つしないまま硬直していた。
「別に加古が悪いとは言わないけど。でも、何もかもうやむやにするって、それ一番質が悪い」
綿菓子のような女の子だった。櫻井さんは、ふわふわしていて、かわいくて、特に男子から人気があって。でも、今の彼女はちがう。私が、皆が、知っている櫻井さんじゃない。
「はい、ストーップ」
それを制止したのは、今度こそ現れてくれた正義のヒーロ逢坂くん。
「何この修羅場、うわ、すげえ濡れてる」
引くわ、と顔を顰めた彼は、両手を何度か叩き「はい、解散解散」と野次馬を散り散りにする。
「で、なんで濡れてんの」
「……え? あ、水がかかって」
「上履きは?」
「あ、なんかなくなってまして」
「典型的なイジメだな」
そう言って、面白そうにけたけたと笑う。笑い飛ばしてくれる。同情でも、憐れみでもない。彼なりに、私に寄り添おうとしてくれる。
「綺穂」
懐かしい声が私を呼んだ。いつからだろう、加古が私に対して、怯えたような顔をするようになったのは。心から、笑えなくなったのは。いつからだっけ。
「加古、行こ」
私に近づこうとした過去を、いつもの取り巻き立ちが連れていく。それを振りほどかない過去は、ただ一言、
「……ごめん、綺穂」
小さく呟いただけだった。
加古が今、表立って行動できないことを知っている。全ては次回作の主役オーディションのため。ここに全てを懸けているからこそ、日常生活で問題になるようなことは避けたい。
それが、私との距離を引き裂くことが起こったとしても、加古が何もできないことは致し方ないことなんだ。
あの謝罪に、一体何が込められていたのだろう。何に対してのごめんだったのだろうか。今こうして、私に背中を向け、私に水をかけた彼女たちの元へと歩いていくことに対して謝っていたのだろうか。
もう、どうすればいいのか。
「南雲さん」
櫻井さん特有の優しい口調ではない。今はもう、厳しくて、どこか周りと一線を引いているような印象を受ける。
「あ、あの、ありがとう。助けてくれて」
「違う、助けたわけじゃない。私のためにしたことだから」
「櫻井さんのため?」
野次馬はまだすこし残っていた。私たちの経過観測を見守るみたいに。でも、逢坂くんが引き剝がしてくれているのが見える。
「……これで、チャラになるとは思ってないけど」
ぽつぽつ、彼女は小さく言葉を滑らせていく。
「前の半目写真。あれ貼ったの……私だから」
はっとした。彼女からその話が出てくることに、胸がずきりと痛む。
いつか向き合わなければいけないと思っていた。あのまま流されてしまうかもしれないと思っていたけれど、いざ直面してしまうと、逃げたくなってしまいそうになる。それでも櫻井さんの顔を見たら、その逃げはするするとどこかへ消えていく。強張った表情は、重たいものを吐き出そうとしているようにも見えた。
「なんで、今なの?」
こうして彼女を動かすきっかけはどこにあったのだろう。
「……逢坂くんと一緒にいるのをよく見て腹が立った。隣にいるのがどうして私ではだめだったんだろう。私では許してもらえなかったんだろう。それが、どんどん憎悪に変わっていったことは認める」
数人の生徒は、まだ私たちへと視線を向けている。それでも櫻井さんは言葉を閉ざすことはしない。
「だから嫌がらせをした。南雲さんに近づいたのも、目的があったから」
はっきりと、悪意があったことを証明される。本人の口から。
「でも、さっきのあれ見てたら、私ってあんなことしてたのかなって。手段は違えど、あんなひどいこと人にしてたんだって思ったら、自分にも、さっきの光景にも腹立たしいって思った。自分も同じようなことしといて、あの場に出ていける立場じゃないことは分かってるけど」
歯切れの悪い言葉は今にも消え入りそうな声で紡がれた。
「ごめん、傷つけて」
あのとき受けた傷が、膿んでいたようにじゅくじゅくと煮える。言い知れぬ不快感。好奇の目。黒板の写真。動けなくなる体。浅くなっていく呼吸。そのどれもが鮮明に思い出せてしまう。
「……知ってたよ」
何度か小さくうなずき、それから静かに切り出した。
受け止めるように、傷に絆創膏を貼るように。
弾かれたように上げられた綺麗な顔。ようやくこちらを見てくれた彼女はとても驚いた表情を滲ませる。
「私だって知ってたの?」
「うん」
「……なんで」
「あの時は、話し合いをするべきじゃないって思ったから」
「だからなんで」
「あれは、あのとき流すって決めたから。櫻井さんがどう思ってても、私の中では解決させたんだ。私の問題だったから」
悪意をぶつけられたのは、水をかけられたのは、たしかに誰かの意思から放たれたものなのかもしれない。でも、私は悪くなかっただろうか。本当に悪くなかったと言えるのだろうか。
人のせいにすることもできる。私はあのときあんな写真を校内にばら撒かれて、とか。大勢の前で水をかけられてショックだったとか。泣きたい。泣いてしまいたい。でも、それは本当に私だけが悪かったことなのだろうか。
「だから、前のことは関係なく、ただ助けてくれてありがとうって、そう伝えたいから」
正解なんてこの世界にはないのかも。櫻井さんの根本にあったのは逢坂くんが好きだってことで、一方通行になってしまった好意が、行き場をなくして歪んでいっただけ。
ひとつだけ分かっていることは、あのとき櫻井さんを問い詰めなくてよかった、ということ。感情任せの行動は、決していい結果を生んではくれない。こうして彼女に助けてもらえることなんてなかったはず。
言わなければ変に埃がたつわけでもないし、散らばることもない。
この選択が正しいかどうかなんて分からないけれど、それでも私はあの時の選択を間違えていなかったと心から思う。
「変わってる──なぐもんって」
そう言った櫻井さんは、初めて私のことを「目的」とは関係なく、呼んでくれたような気がした。
「……話が掴めないんだけど」
「掴めなくていい」
「え……その好きは、私のことを人間として好きって?」
「異性として」
「えええ」
「何」
「何ってこっちの台詞だよ。この流れで言うかな」
「ついでだから言っておこうと思って」
笛は、また鳴っている。みんな、集合してくれないらしい。わあ、と散らばったものを集めるのは大変だ。たとえ相手が高校生だろうと、人間をひとつにまとめるということは大変だ。
「……分らかないなあ」
「分からなくていい。分かってほしいとも思ってない。でも、あんな男に取られるぐらいなら、作戦変えようと思って」
あんな男とか、作戦とか。そんな言葉を聞くと、冴島透も男だったんだと改めて思い知らされたような気がした。ずっと、ずっと、私だけをやたら嫌う小さな男の子だったのに。
「……私のこと嫌いなんじゃ」
「憎いほどに嫌いなことには変わりない。でも好きだった」
それが、私に対するすべてなのだろうなと察した。もうそれだけが全部で、それだけしかないのだなと。
「南雲綺穂がいる世界は嫌いだ。とはいっても、好きになったもんをどうすればいいのかは答えが出ていない。都合よく消えることはない。そもそも消そうとさえ思っていないのかもしれない。南雲綺穂が孤独にならなかったら好きにはならなかった」
「私が孤独になったのは家族を失ったときだよ」
そんなときに好きになったのかと続ければ、冴島透は笑った。そうだ、と。最低だろ、と。
「俺は家族を失ったわけではないけどバラバラ。痛みは違うだろうけど、近いものはお互い持ってる」
「似た者同士ってこと?」
「環境は」
それはそうだ。私たちは、特別な親戚だったから。普通とは少しだけ違う、いろいろな糸が絡んだ親戚同士だったから。冴島透だって思うところはあっただろう。
「でもそれだけじゃない。それだけじゃ、なかった。南雲綺穂って人間を俺は好きになったんだって思った」
「どうして」
「言わない。そんなこと、言わない」
ただの親戚だったなら、その糸はこんなにもぐちゃぐちゃになることはなかったのかもしれない。「何も知る権利なんてないんだよ」そう力なく冴島透は笑った。私を好きだといった口で、嗤った。
体育は気付けば終わっていた。鐘が鳴ったことすら知らず、冴島透が消えていく廊下をぼんやりと眺めていただけ。
教室に戻ると加古と一瞬目があった。その視線は不自然なほど歪み、逸らされていく。
居心地が悪いと感じながら席へと座った途端、視界の端でペットボトルと弾き出されるように出た水が見える。
おかしな方角から飛んできたそれは、見事に私の制服へとかかり白シャツは肌に張り付いた。あまりにも突然で言葉を失い、濡れたシャツから目を動かせない。衝撃的なその光景に、周りも何人かが目を見張っていたように見える。
──水を、かけられた。
そう判断出来たのはそれから数秒後。驚きで声が出なかった。
ついさっきまで誰かさんに告白を受けてからの展開。これはもう、公開処刑に近い嫌がらせなんじゃないだろうか。
どくどくと呼吸が苦しくなり、上手く息が吸えない。
「かな、やり過ぎ」「だってなんか苛々したから」「南雲さん可哀想」
何がそんなにおかしいだろう。どうして、平然と笑っていられるのだろう。
彼女達を見ることができなくて、けれど水をかけた本人は私に心ない言葉を刺してきたあの彼女だということは分かる。でもこの状況をどうしたらいいのかということは分からない。
周りの目が怖くて、立ち去ることも出来ない自分はただ必死に酸素を求めて浅い呼吸ばかりを繰り返す。
さすがにこれは、もう立ち直れないかもしれない。
全てにおいて意味があるとそう思って生きてきた。
——ならこれも、意味があると思えということなのか。
蘇る苦い記憶。
サイレンが鳴る。父親が白い車に運ばれていく。そして黒い車にも運ばれていく。母親は消えた。いなくなった。あれだけ私を縛り付けていたものが、一気になくなった。
どうして、どうして。
私の人生をもぎとっていったのはそっちなのに、こんなにも自分勝手にいなくなるなんて。どこまでも自分のことしか考えないから、残された私はどうすればいいか今も迷子だ。
サイレンが鳴る。私を引き戻しに。ずるりと戻しに。
「はは、笑える」
「——なにが? 全然笑えないんだけど」
絶望の淵に立たされた状況で、事態は大きく傾いた。
甲高く笑っていた彼女達に割って入ったのはただの野次馬でもなければ、正義のヒーロー逢坂くんでもなく、
「櫻井……さん?」
緩やかに巻かれた髪を揺らす、あの彼女だった。
「え……、ちせ?」
「なにこれ、やりすぎでしょ」
困惑気味の彼女達にただ一人、楯突いた櫻井さんは冷たい視線を送っている。ぱちくりと瞬きを繰り返す彼女達はまるで櫻井さんが怒っている理由が理解出来ないとばかりに反応に困っている。
あの櫻井さんが、私を庇った。
「こんなことして恥ずかしくないの? 南雲さんが羨ましいからって醜い嫉妬心曝け出し過ぎじゃない?」
「っ……は? 何、それ」
「嫌がらせしてるあんたらの方がよっぽど笑えるけど」
「あのねえ!」
「そもそも、加古って南雲さんの友達じゃなかったの?」
鋭い眼光が、加古へと無遠慮にぶつけられる。加古は青ざめた顔で、身動き一つしないまま硬直していた。
「別に加古が悪いとは言わないけど。でも、何もかもうやむやにするって、それ一番質が悪い」
綿菓子のような女の子だった。櫻井さんは、ふわふわしていて、かわいくて、特に男子から人気があって。でも、今の彼女はちがう。私が、皆が、知っている櫻井さんじゃない。
「はい、ストーップ」
それを制止したのは、今度こそ現れてくれた正義のヒーロ逢坂くん。
「何この修羅場、うわ、すげえ濡れてる」
引くわ、と顔を顰めた彼は、両手を何度か叩き「はい、解散解散」と野次馬を散り散りにする。
「で、なんで濡れてんの」
「……え? あ、水がかかって」
「上履きは?」
「あ、なんかなくなってまして」
「典型的なイジメだな」
そう言って、面白そうにけたけたと笑う。笑い飛ばしてくれる。同情でも、憐れみでもない。彼なりに、私に寄り添おうとしてくれる。
「綺穂」
懐かしい声が私を呼んだ。いつからだろう、加古が私に対して、怯えたような顔をするようになったのは。心から、笑えなくなったのは。いつからだっけ。
「加古、行こ」
私に近づこうとした過去を、いつもの取り巻き立ちが連れていく。それを振りほどかない過去は、ただ一言、
「……ごめん、綺穂」
小さく呟いただけだった。
加古が今、表立って行動できないことを知っている。全ては次回作の主役オーディションのため。ここに全てを懸けているからこそ、日常生活で問題になるようなことは避けたい。
それが、私との距離を引き裂くことが起こったとしても、加古が何もできないことは致し方ないことなんだ。
あの謝罪に、一体何が込められていたのだろう。何に対してのごめんだったのだろうか。今こうして、私に背中を向け、私に水をかけた彼女たちの元へと歩いていくことに対して謝っていたのだろうか。
もう、どうすればいいのか。
「南雲さん」
櫻井さん特有の優しい口調ではない。今はもう、厳しくて、どこか周りと一線を引いているような印象を受ける。
「あ、あの、ありがとう。助けてくれて」
「違う、助けたわけじゃない。私のためにしたことだから」
「櫻井さんのため?」
野次馬はまだすこし残っていた。私たちの経過観測を見守るみたいに。でも、逢坂くんが引き剝がしてくれているのが見える。
「……これで、チャラになるとは思ってないけど」
ぽつぽつ、彼女は小さく言葉を滑らせていく。
「前の半目写真。あれ貼ったの……私だから」
はっとした。彼女からその話が出てくることに、胸がずきりと痛む。
いつか向き合わなければいけないと思っていた。あのまま流されてしまうかもしれないと思っていたけれど、いざ直面してしまうと、逃げたくなってしまいそうになる。それでも櫻井さんの顔を見たら、その逃げはするするとどこかへ消えていく。強張った表情は、重たいものを吐き出そうとしているようにも見えた。
「なんで、今なの?」
こうして彼女を動かすきっかけはどこにあったのだろう。
「……逢坂くんと一緒にいるのをよく見て腹が立った。隣にいるのがどうして私ではだめだったんだろう。私では許してもらえなかったんだろう。それが、どんどん憎悪に変わっていったことは認める」
数人の生徒は、まだ私たちへと視線を向けている。それでも櫻井さんは言葉を閉ざすことはしない。
「だから嫌がらせをした。南雲さんに近づいたのも、目的があったから」
はっきりと、悪意があったことを証明される。本人の口から。
「でも、さっきのあれ見てたら、私ってあんなことしてたのかなって。手段は違えど、あんなひどいこと人にしてたんだって思ったら、自分にも、さっきの光景にも腹立たしいって思った。自分も同じようなことしといて、あの場に出ていける立場じゃないことは分かってるけど」
歯切れの悪い言葉は今にも消え入りそうな声で紡がれた。
「ごめん、傷つけて」
あのとき受けた傷が、膿んでいたようにじゅくじゅくと煮える。言い知れぬ不快感。好奇の目。黒板の写真。動けなくなる体。浅くなっていく呼吸。そのどれもが鮮明に思い出せてしまう。
「……知ってたよ」
何度か小さくうなずき、それから静かに切り出した。
受け止めるように、傷に絆創膏を貼るように。
弾かれたように上げられた綺麗な顔。ようやくこちらを見てくれた彼女はとても驚いた表情を滲ませる。
「私だって知ってたの?」
「うん」
「……なんで」
「あの時は、話し合いをするべきじゃないって思ったから」
「だからなんで」
「あれは、あのとき流すって決めたから。櫻井さんがどう思ってても、私の中では解決させたんだ。私の問題だったから」
悪意をぶつけられたのは、水をかけられたのは、たしかに誰かの意思から放たれたものなのかもしれない。でも、私は悪くなかっただろうか。本当に悪くなかったと言えるのだろうか。
人のせいにすることもできる。私はあのときあんな写真を校内にばら撒かれて、とか。大勢の前で水をかけられてショックだったとか。泣きたい。泣いてしまいたい。でも、それは本当に私だけが悪かったことなのだろうか。
「だから、前のことは関係なく、ただ助けてくれてありがとうって、そう伝えたいから」
正解なんてこの世界にはないのかも。櫻井さんの根本にあったのは逢坂くんが好きだってことで、一方通行になってしまった好意が、行き場をなくして歪んでいっただけ。
ひとつだけ分かっていることは、あのとき櫻井さんを問い詰めなくてよかった、ということ。感情任せの行動は、決していい結果を生んではくれない。こうして彼女に助けてもらえることなんてなかったはず。
言わなければ変に埃がたつわけでもないし、散らばることもない。
この選択が正しいかどうかなんて分からないけれど、それでも私はあの時の選択を間違えていなかったと心から思う。
「変わってる──なぐもんって」
そう言った櫻井さんは、初めて私のことを「目的」とは関係なく、呼んでくれたような気がした。
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