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第四章

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 てらてらと光る爪先を見つめながら、自分も綺麗な爪が手に入るんだと漠然と感動した。
 放課後の教室。金曜日だから明日は休みでしょ、と櫻井さんと前に約束していたネイルをしてもらうことになった。一応、これは卓球で負けたときの罰ゲームだ。
「櫻井さんの夢はネイリスト?」
 今度は私の左手の爪に透明な液体を塗っていく彼女。
「んー、どうだろう。ネイル塗るのは好きだよ。私、おしゃれするのも好きだけど、おしゃれしてる人も好きなんだよね」
「おしゃれしてる人?」
「自分を磨こうとしてる人っていうのかな。そういう人見てると、自分を好きになろうとしてるのかなって思って元気出るし。あと、恋してるのかなとも思う」
「恋かあ……」
「可愛くなりたいとか、綺麗になりたいとか、そういうのって自分のためでもあって、誰かのためにしてることも多いじゃん。あの人に振り向いてもらいたいとか。見てると、こっちも元気もらえる」
 ふと、十月様に呪われたと噂を流した須藤葵のことを思いだす。彼女もまた、彼氏に好きでいてもらうための努力として、今まで大事にしてきたバスケと天秤にかけ、彼氏を選び、自分に磨きをかけたのだろう。
 それは悪いことではない。あのときの彼女はそれだけ、彼氏が好きで好きで仕方がなかった。周りが見えなくなるほど誰かを好きになるというのは憧れる。そういう人を見るのが櫻井さんは好きなのかもしれない。
「なぐもんは? 将来のこと考えてるの?」
「あー……私は、まだ」
 この時期になると、どうしても考えなければいけなくなる。
 やりたいことがない私は、ひたすら他人の夢を聞き、自分だけが遅れていることを実感してしまう。祖母は「お金なら気にしなくていい」と背中を押してくれる。でも、お金は自分でなんとか返していくつもりだったし、自分でどうにかしなければとも思っている。でも、やりたいことも明確にないままなんとなく大学に進むというのは罪悪感を覚えてしまう。
 もったいないことだと非難されてもおかしくない。お金の無駄だと思われるだろう。
「まあ、やりたいものなんて無理して見つける必要はないからね。なぐもんは進学でしょ? 大学でやりたいこと見つかるかもしれないし、そもそも、それを仕事にしないといけないとか、そう気負わなくていいと思うけど」
「そういうものかな」
「そういうものだよ。私のママはやりたいことなくて、普通に働いて結婚したけど、不幸じゃないって言ってるよ」
「不幸じゃない……」
「やりたいことやれていたら、そりゃあいいかもしれないけど、そもそも生きてることに価値があるんだから。幸せの基準って人それぞれだから、自分が生きたいようにすればいいと思うよ。無理して夢を見つける必要もないって。あ、これママの受け売り」
 得意げに笑う彼女に、そっかと、自然と笑みがこぼれる。
 そんな風に、私の母親も言ってくれていたら、心は楽になれていたのかもしれない。
 ずっと、どうにかしないといけないと思ってきた。
 おばあちゃんに楽をさせたいとか、しっかりした大人にならないといけないとか。
 でも、どう進んでいけばいいのか分からなくて、目の前は閉ざされているような気分でいた。
「てか、いい加減、櫻井さんって呼び方やめてよね。いつまで他人行儀なの」
「え……あ、ちせちゃん?」
「それはそれでくすぐったい。やっぱりどっちでもいい」
 先のことなんて分かりはしないけれど、あれだけ私のことを嫌っていた彼女が、今こうして私に笑顔を向けてくれている今は、少しも悪くなかった。

「まだあの男と一緒にいんの?」
 しっかりと除光液で落とされた爪はもう光らなくなっていた。
 月曜日、移動教室で廊下を歩いていれば、前方からこちらを気に食わなさそうに見つめる男の登場。この前私を好きだと言ってきたことが何度寝たところで信じられない。
「冴島透、君には友達がいないのかい?」
「は?」
「休み時間にわざわざ私に会いに来るなんて」
「あんたと違って友達はいるよ」
「会いに来たことは認めるんだ」
「まあ」
 告白を受けてからというもの素直になり過ぎて、こっちのペースを簡単に崩されてしまう。
「あ、もしかしてヤキモチ?」
「……」
「否定してよ」
「否定はしない」
 ここまで態度が一変されては困ってしまう。
 この男は私を心の底から恨んでいるはずなのに。ずっと嫌っていると思っていたのに。
「南雲綺穂、あの男のこと好きなのか?」
「え?」
「逢坂先輩。よく一緒にいるじゃん」
 そんなような台詞を以前にも投げかけられた気がする。
 逢坂くんのことが好きなのか、と、問われた時は私どう返していたのだろうか。
「好きだよ、人として」
「ふーん」
「なに」
「いや、よく分からないなと思って」
 私からしてみれば、冴島透のことの方がよっぽどよく分からない。
 例え頭の中を覗いたとしても理解できないかもしれない。もしかしたら好きだと言っておいて、いつか盛大に裏切られるようなとんでもないドッキリが仕掛けられているのかも。そんなことがあれば私はもう人間を信じて生きてはいけない。
「そういえば、返事」
「返事?」
「告白の返事。別にいらないから」
 彼の話はいつも直球で、前置きもないので、私はその都度対応に困ってしまうわけで。
「そうだったね……普通、告白をされたら返事をするんだっけ」
「世間一般では。でも、別にいらない。南雲綺穂が俺を好きじゃなくてもいいから」
「それは……」
 ——それは、果たして本当にいいと言えるのだろうか。
 恋愛なんてしたことがない、未経験者の私がこんなことを思うのもおかしな話かもしれないけれど、それって報われなくてもいいってことになってしまうのではないか。
 それでも好きを続ける力は、一体どこからくるのだろう。
 自分に矢印が向かなくてもいいと思える冴島透の恋は、果たして幸せだと思えるようなものなのだろうか。
 恋や愛は私の中では未知の世界で、ある意味真っ白で、こんなときどうするのが最善なんだろう。
「またあんたが壊れたら困るし」
 壊れたら。きっと、お父さんが亡くなって、お母さんもいなくなったときのことを言っているのだろうか。あのときの記憶は正直覚えていない。冴島透だって一番辛いときだったはずだ。

 十一月が終わろうとしている。彩り豊かだった街は全体的に霞んでいるような印象を受けた。地べたに落ちていた楓の葉。それを拾ってはじっと見つめる。
 秋はこうして消えていくのだなと実感し、逢坂くんと重ねてしまう。
「逢坂くん、なんか変わったよね」
 放課後、櫻井さんと一緒に帰るようになった。
 消えていく秋の中を二人で歩きながら、櫻井さんが言う。
「……そうかな」
「そうでしょ、なんかボーっとしてること増えたもん。話しかけても応答がないときもあるし」
 べったりとくっついてみんなが一緒にいるわけではない。私も櫻井さんも一緒にいる時間は増えたけれど、だからといって毎回休み時間、一緒にいるわけではないし、逢坂くんだって無理やり誘ってお昼を一緒に食べるぐらい。たまに冴島透が入ってくるときもあるけれど、そんな時間が増えてきた。
「でも、実際に逢坂くんって変わったよね」
「変わった?」
「前はずっと笑ってたもん」
 気持ち悪いほどに笑っていた。いつでも、どんなときでも。
 誰にでもいい顔をして、誰にでも優しかった。そんな彼が今はいない。
「なぐもんと一緒になり始めてからじゃない? 逢坂くんが変わったの。あ、もちろんいい意味で」
「……そんなことないよ」
 もともと、ああいう人だっただけ。言葉は悪く、どこか人を見下しているような顔を持っていただけ。そういう一面を誰にも見せなかっただけだ。私がどうこうしたわけではない。
「そうかなあ、なぐもんといる逢坂くんは、なんか素でいるような気がするんだけどね」 
 櫻井さんはまだ知らない。逢坂くんが抱えているものを。櫻井さんにも逢坂くんの一面が見えてきたということは、きっと、逢坂くんが逢坂くんではなくなっている瞬間の流れだ。
『ここ最近、雨とか関係なく、意識が飛ばされるんだ』
 前に、そう教えてくれたことを思い出す。
 どこかに消えてしまうらしい。逢坂くんの意識は。それがすごく怖い。
「なんか天気悪いね。嵐でもきそう」
 どこまでも広がっていく雲は灰色に染まっている。嵐が、きてしまう。
 それは、目に見える雲だけではなく、なんとなく嫌な胸騒ぎを覚えてしまう。目に見えない不安にじわじわと襲われるような、そんな不穏さが。
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