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episode14
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それから暫くして、屋敷の中を歩いていると、前からシャロンさんが来る。俺は壁のほうを見て視線を反らしていた。
だがシャロンさんは立ち止まって俺に声をかけてきた。
「降参よ。どうすればローラや使用人にヒドイことをしないでくれるの?」
俺はニヤつきながら、シャロンさんの顔を見下ろす。
「へー、自分でこんな俺を作っておきながら? 元々一緒に他領に逃げてれば、ローラや他の連中はこんなに傷付かなくてすんだんじゃないですかねぇ?」
「ヒドイわ。あなたを信じてローラやモンテローズを託したのよ? あなたは私の中で一番大事な人だったから信用して……。ローラがあなたを好きならば、それなら自分が身を引けば、それで構わないと思ったのに」
「ローラ、ローラ、ローラ? あなたの中にはジョエルは人に譲れるほど、軽い存在だったわけだ。ホントにあなたを愛するべきじゃなかったと、心から思うよ」
「それは悪かったわよ。幻滅して貰って構わないわ。でもローラを愛してやって」
「それは出来ませんね。ローラなんて、あなたを間接的にいじめるための道具ですよ。あなたは、それを見て苦しむ。そうすれば俺の溜飲が下がるというものです。あなたたち姉妹に俺の人生は壊されたのですから、私もあなたたち姉妹を壊すだけです」
俺は足を揃えて通りすぎようとした。すると、少しの間を置いてシャロンさんは俺を呼び止めた。
「待って」
俺は足を止めて振り返る。シャロンさんは俺の顔を見ないようにしながら言う。
「分かったわ。だったら私に直接暴力を振るえばいいじゃない。だからローラのことは許して上げて」
「へえ……」
俺は彼女に近付いて、その胸を捻るように掴む。
「痛い……!」
「おやおや、このくらいで音を上げるんですか? ローラはね、もっともっと我慢しますよ。あれは俺のことを愛してますからね、あなたとは違う。どーせ我が身が可愛いんでしょう? 俺のことなどどうでもいいわけだ」
「くっ……! 分かったわ」
「何が分かったんです? いいことを思い付きました。領内の湖に別荘があるのです。そこであなたをいたぶってあげますよ。縄で縛って天井から吊るすんです。そしてさんざんになぶって差し上げましょう。あなたを細い棒で何度も打ち据えて、苦しい声を聞く──。考えるだけでたまりません」
「この、人でなし!」
「人でなしはどちらです。イヤならいいんですよ。それをローラにやって貰うだけです。彼女なら喜んで、ジョエルさま、ジョエルさまと言いますよ」
シャロンさんは、暫く黙っていた。そのうちに小さくうなずく。
「分かった……」
「ふ。それでいい。では明日の午後、私は友人のところにでも行くとローラに言って自分で馬車を御して行きます。あなたは元の家で静かに待っていてください。人に言ってはなりません。そしたらローラを倍打つだけですから」
「あなたって人は本当に……。分かったわ」
俺はそこにシャロンさんを置いて立ち去った。
そして、自身の部屋へと行って、箱にいろんなものを詰め込んだ。ロープにフックに滑車、棒や細い鞭、針や手枷に足枷。
次の日、ローラに久しぶりに町の友人のところに泊まりに行くと言うと、彼女は快く許してくれた。
荷車のような幌付きの一頭だての馬車へと箱を押し込み、モンテローズの門から出る。そして薔薇垣に添って西の外れにある、元のシャロンさんの家に向かった。
馬車を止めると、馬は一つだけいななく。それを聞いてか、シャロンさんは、おずおずと現れて、薔薇垣の破れからこちらへと向かってきた。
「ぐずぐずせんでください。誰かに見られたら、それこそあなたと不倫旅行にでも行くと思われるでしょうに」
「ご、ごめんなさい」
「では身を低くして幌の中に。あなたは荷物です。声を出してはなりませんよ」
「え、ええ。分かったわ」
シャロンさんを馬車に乗せ、そのまま湖の別荘のほうに。つく頃には太陽は沈み、真っ暗になっていた。
別荘には人っ子一人おらずひっそりとしている。俺はランプに灯をともし、彼女に箱を担ぐように命じた。
「こ、これは……」
「なーに、つまらないものです」
そのまま入り口へと行って、鍵を外す。そして自分が先導して中に入った。
「シャロン、こっちだ。さっさとしろ。ローラならもっと機敏に動くぞ」
「え、ええ」
「口の聞き方に気を付けろ。俺は昔の何も持たないジョエルじゃない。モンテローズ伯爵だ。分かるか? 貴様の父と同じ。お前はモンテローズ伯という者に何度も踏みつけられる運命なのだよ」
そう言うとシャロンさんは、大粒の涙を流しながら箱を運ぶ。俺は箱を大きなテーブルの上に置かせて、中を開けるように命じた。
そして、一つ一つ道具の説明をする。彼女は恐怖で膝をつき、泣き伏してしまった。
だがすぐに立つように命じた。立たなくてはローラにさせるだけと言えば、彼女は立つ。泣くなと言えば泣くのを止め、声を出すなと言えば嗚咽を引っ込めた。
俺はテーブルの上の道具から細い木の棒だけ掴んだ。そしてこれからこれで身を打ち付けることを宣言し、彼女を見る。
彼女は、恐怖でしゃくりながら泣いていた。泣いて──。二人で泣いて──。
愛し合った二人がなぜ今こんなことを。
俺はテーブルの上にある残りの道具に腕を滑らせて全て床に叩き下ろした。続いてテーブルは蹴り上げ、落ちた道具は踏みつけてあらかた壊してしまったのだ。
ただ彼女は、俺の荒っぽい行動に怯えたまま。
そんな彼女を泣きながら睨むと、直立不動でしゃくりあげていたので、その喉元に、細い棒の先を当てる。そして言う。
「シャロン! どうしてこうなったか分かるか? あの時、ローラさえ来なければ、今頃君と二人、小さな小屋でその日の少ない食事を神に感謝しながら食べていた。分かるか? それは貧しい、貧しいものだ」
「は、はい」
「伯爵家には豪華な食事があるな、皿の数もたくさん。灯りなど朝まで絶えない。俺の小屋では一本のロウソクですら節約しなくてはならない」
「はい……」
「食事が終わると君は言うんだ。ジョエル、灯りがもったいないから消すわね。と、俺はそんな君に聞く。シャロン、暗くなったら何をする? 君ははしゃいでこう答えるんだ。ジョエル、あなたの好きなようになさい、とね……」
「ええ……」
「使用人の多さがなんだ。領地があるからなんだと言うのだ。シャロン。俺の小屋にはな、幸せしかない。一皿の僅かな食事と小さな灯り、薪数本の燃料。冬は凍え死んでしまう不安がある。だけどね、そこに、君が、君だけがいれば、俺は幸せだった。幸せだったんだよ……」
「そう、ね……」
「君は、君は、俺の兄が君に恋したとする。俺は兄を思って、君に兄と結婚して欲しいと言えば、喜んでそうしてくれたのかい?」
彼女は、シャロンは、そこに泣き崩れてしまった。俺も彼女に覆い被さるようにして泣く。泣く、泣く。
この暗い別荘の中で、二人は声が枯れるまで泣きあった。俺は手に持っていたものをその辺に放り、彼女を抱いた。久しぶりに彼女の温もりを味わった。
シャロンはそれを受け入れてくれたのだった。
◇
俺たちはベッドの上にいた。俺は彼女の火傷の痕を撫で回していた。
「これを一生をかけて治してやりたかったな……」
「そんなこと……、出来るわけない」
「君はすぐにそう言う。簡単に諦めてしまう。そんなこと分からないじゃないか。黙って俺の手を取ってついてこれば良かったんだ。ローラならそうしてくれるよ」
彼女は笑顔で答えた。
「ふふ、そうね。私、あなたを全然分かってなかった」
「だろうね。愛ってものは、どんな時でも、その人を信用することだよ。君のやり方は違ってた。ローラのことも分かってない」
「え?」
「いや、俺も驚いた。ローラを散々いじめてやれば、君は傷付いて音を上げると思ってた。まあそれは当たっていたけど、ローラは全然傷付いてないよ。あれは生まれついての君主なのだ。高貴な人なのだよ。たとえいじめられたとて、自身を失わない。俺を愛し過ぎちゃってるから、疑うことを知らない。なんでも受け入れて、それ以上のことをしてしまう。俺が喜ぶと思ってね」
「まあ……」
「だから正直、俺のほうが降参間近だったよ。ローラの聖母のような愛に身を委ねてしまったほうが楽かも知れないってね。君が折れてくれて助かった」
「うふふふふ」
「まあ、君の言った通りだ。ローラは良い子だ。きっと好きになると言っていたが、本当に好きになってしまったよ」
「ふふ、そう……」
寂しげに笑う彼女を引き寄せて抱き締めた。彼女も俺の背中に手を回す。
「あの時は突然で、俺たちはなにもちゃんと出来なかった。話し合いも、罵り合いも、けじめも、さようならの言葉さえも。だから混乱したままだったんだよ」
「そう、か……」
「だから、さ……」
「うん」
「俺たち、ちゃんと別れよう」
「うん」
「別な人を好きになってゴメン」
「………………グス」
「ここには、別れの儀式をするために来たんだ」
「……別れの儀式?」
朝焼けが始まる頃、俺とシャロンさんは服を着て湖畔に立っていた。
俺の手には銀の指輪が握られている。それをシャロンさんへと見せてから、湖のほうへと投げた。
とぷん──。
小さな聞き逃してしまいそうな音。俺たちのリングの片割れ。誓いの破れる音。果たされぬ約束の僅かな声。俺は涙を拭いてシャロンさんへと促した。
「さあ、シャロンも──」
「ええ」
シャロンさんも、俺に手のひらに置かれたリングを見せてから湖へとリングを放る。誓いが破られた小さな音が聞こえた。
俺たちは、涙を拭いた。個人、個人で。もう隣にいる人はお互いに頼るべき人ではない。涙を拭いてやる人ではないのだ。
「ねえ義姉上」
「はい、閣下」
「あなたのために、領内に屋敷を与えます。ですから、俺とローラの屋敷から出ていって欲しいのです」
「はい……」
「同じ屋根の下に、二人も好きな人を置いては置けないでしょう?」
「その通りです。私も毎日嫉妬しておれませんもの」
俺たちは湖のほうを見たまま、視線も合わせずに、互いに笑った。
「もしも俺たちが、ただの時計屋の息子と花屋の娘だったら、きっと二人は幸せな結婚生活を送っていたでしょう」
「はい、私もそれが良かったです」
「もしも、もしもね……」
「はい」
「来世でそうなったら、あなたは俺のプロポーズを受けてくださいますか?」
「そんな来世だなんて……、あり得るわけ──」
「ほら、また」
「あ。すいません」
「どうなんです。その時、私は意地悪くあなたをいじめるかも知れませんが」
「まあ。私は強いんですよ。そんなことには負けません。閣下が求婚してくださるなら、喜んでお受けします」
「本当ですね。もう聞いてしまいましたよ」
「ええ。今度こそ本当ですとも」
「ですが今回は、我々は別々の道を行かねばなりませんよ」
「その通りです」
「私は先に馬車に乗って帰ります。あなたは寄合い馬車にでも乗って帰ってきてください」
「はい、おおせのままに致します」
それが俺とシャロンさんの別れのけじめだった。俺は一人で馬車を御して屋敷を指して帰っていった。
だがシャロンさんは立ち止まって俺に声をかけてきた。
「降参よ。どうすればローラや使用人にヒドイことをしないでくれるの?」
俺はニヤつきながら、シャロンさんの顔を見下ろす。
「へー、自分でこんな俺を作っておきながら? 元々一緒に他領に逃げてれば、ローラや他の連中はこんなに傷付かなくてすんだんじゃないですかねぇ?」
「ヒドイわ。あなたを信じてローラやモンテローズを託したのよ? あなたは私の中で一番大事な人だったから信用して……。ローラがあなたを好きならば、それなら自分が身を引けば、それで構わないと思ったのに」
「ローラ、ローラ、ローラ? あなたの中にはジョエルは人に譲れるほど、軽い存在だったわけだ。ホントにあなたを愛するべきじゃなかったと、心から思うよ」
「それは悪かったわよ。幻滅して貰って構わないわ。でもローラを愛してやって」
「それは出来ませんね。ローラなんて、あなたを間接的にいじめるための道具ですよ。あなたは、それを見て苦しむ。そうすれば俺の溜飲が下がるというものです。あなたたち姉妹に俺の人生は壊されたのですから、私もあなたたち姉妹を壊すだけです」
俺は足を揃えて通りすぎようとした。すると、少しの間を置いてシャロンさんは俺を呼び止めた。
「待って」
俺は足を止めて振り返る。シャロンさんは俺の顔を見ないようにしながら言う。
「分かったわ。だったら私に直接暴力を振るえばいいじゃない。だからローラのことは許して上げて」
「へえ……」
俺は彼女に近付いて、その胸を捻るように掴む。
「痛い……!」
「おやおや、このくらいで音を上げるんですか? ローラはね、もっともっと我慢しますよ。あれは俺のことを愛してますからね、あなたとは違う。どーせ我が身が可愛いんでしょう? 俺のことなどどうでもいいわけだ」
「くっ……! 分かったわ」
「何が分かったんです? いいことを思い付きました。領内の湖に別荘があるのです。そこであなたをいたぶってあげますよ。縄で縛って天井から吊るすんです。そしてさんざんになぶって差し上げましょう。あなたを細い棒で何度も打ち据えて、苦しい声を聞く──。考えるだけでたまりません」
「この、人でなし!」
「人でなしはどちらです。イヤならいいんですよ。それをローラにやって貰うだけです。彼女なら喜んで、ジョエルさま、ジョエルさまと言いますよ」
シャロンさんは、暫く黙っていた。そのうちに小さくうなずく。
「分かった……」
「ふ。それでいい。では明日の午後、私は友人のところにでも行くとローラに言って自分で馬車を御して行きます。あなたは元の家で静かに待っていてください。人に言ってはなりません。そしたらローラを倍打つだけですから」
「あなたって人は本当に……。分かったわ」
俺はそこにシャロンさんを置いて立ち去った。
そして、自身の部屋へと行って、箱にいろんなものを詰め込んだ。ロープにフックに滑車、棒や細い鞭、針や手枷に足枷。
次の日、ローラに久しぶりに町の友人のところに泊まりに行くと言うと、彼女は快く許してくれた。
荷車のような幌付きの一頭だての馬車へと箱を押し込み、モンテローズの門から出る。そして薔薇垣に添って西の外れにある、元のシャロンさんの家に向かった。
馬車を止めると、馬は一つだけいななく。それを聞いてか、シャロンさんは、おずおずと現れて、薔薇垣の破れからこちらへと向かってきた。
「ぐずぐずせんでください。誰かに見られたら、それこそあなたと不倫旅行にでも行くと思われるでしょうに」
「ご、ごめんなさい」
「では身を低くして幌の中に。あなたは荷物です。声を出してはなりませんよ」
「え、ええ。分かったわ」
シャロンさんを馬車に乗せ、そのまま湖の別荘のほうに。つく頃には太陽は沈み、真っ暗になっていた。
別荘には人っ子一人おらずひっそりとしている。俺はランプに灯をともし、彼女に箱を担ぐように命じた。
「こ、これは……」
「なーに、つまらないものです」
そのまま入り口へと行って、鍵を外す。そして自分が先導して中に入った。
「シャロン、こっちだ。さっさとしろ。ローラならもっと機敏に動くぞ」
「え、ええ」
「口の聞き方に気を付けろ。俺は昔の何も持たないジョエルじゃない。モンテローズ伯爵だ。分かるか? 貴様の父と同じ。お前はモンテローズ伯という者に何度も踏みつけられる運命なのだよ」
そう言うとシャロンさんは、大粒の涙を流しながら箱を運ぶ。俺は箱を大きなテーブルの上に置かせて、中を開けるように命じた。
そして、一つ一つ道具の説明をする。彼女は恐怖で膝をつき、泣き伏してしまった。
だがすぐに立つように命じた。立たなくてはローラにさせるだけと言えば、彼女は立つ。泣くなと言えば泣くのを止め、声を出すなと言えば嗚咽を引っ込めた。
俺はテーブルの上の道具から細い木の棒だけ掴んだ。そしてこれからこれで身を打ち付けることを宣言し、彼女を見る。
彼女は、恐怖でしゃくりながら泣いていた。泣いて──。二人で泣いて──。
愛し合った二人がなぜ今こんなことを。
俺はテーブルの上にある残りの道具に腕を滑らせて全て床に叩き下ろした。続いてテーブルは蹴り上げ、落ちた道具は踏みつけてあらかた壊してしまったのだ。
ただ彼女は、俺の荒っぽい行動に怯えたまま。
そんな彼女を泣きながら睨むと、直立不動でしゃくりあげていたので、その喉元に、細い棒の先を当てる。そして言う。
「シャロン! どうしてこうなったか分かるか? あの時、ローラさえ来なければ、今頃君と二人、小さな小屋でその日の少ない食事を神に感謝しながら食べていた。分かるか? それは貧しい、貧しいものだ」
「は、はい」
「伯爵家には豪華な食事があるな、皿の数もたくさん。灯りなど朝まで絶えない。俺の小屋では一本のロウソクですら節約しなくてはならない」
「はい……」
「食事が終わると君は言うんだ。ジョエル、灯りがもったいないから消すわね。と、俺はそんな君に聞く。シャロン、暗くなったら何をする? 君ははしゃいでこう答えるんだ。ジョエル、あなたの好きなようになさい、とね……」
「ええ……」
「使用人の多さがなんだ。領地があるからなんだと言うのだ。シャロン。俺の小屋にはな、幸せしかない。一皿の僅かな食事と小さな灯り、薪数本の燃料。冬は凍え死んでしまう不安がある。だけどね、そこに、君が、君だけがいれば、俺は幸せだった。幸せだったんだよ……」
「そう、ね……」
「君は、君は、俺の兄が君に恋したとする。俺は兄を思って、君に兄と結婚して欲しいと言えば、喜んでそうしてくれたのかい?」
彼女は、シャロンは、そこに泣き崩れてしまった。俺も彼女に覆い被さるようにして泣く。泣く、泣く。
この暗い別荘の中で、二人は声が枯れるまで泣きあった。俺は手に持っていたものをその辺に放り、彼女を抱いた。久しぶりに彼女の温もりを味わった。
シャロンはそれを受け入れてくれたのだった。
◇
俺たちはベッドの上にいた。俺は彼女の火傷の痕を撫で回していた。
「これを一生をかけて治してやりたかったな……」
「そんなこと……、出来るわけない」
「君はすぐにそう言う。簡単に諦めてしまう。そんなこと分からないじゃないか。黙って俺の手を取ってついてこれば良かったんだ。ローラならそうしてくれるよ」
彼女は笑顔で答えた。
「ふふ、そうね。私、あなたを全然分かってなかった」
「だろうね。愛ってものは、どんな時でも、その人を信用することだよ。君のやり方は違ってた。ローラのことも分かってない」
「え?」
「いや、俺も驚いた。ローラを散々いじめてやれば、君は傷付いて音を上げると思ってた。まあそれは当たっていたけど、ローラは全然傷付いてないよ。あれは生まれついての君主なのだ。高貴な人なのだよ。たとえいじめられたとて、自身を失わない。俺を愛し過ぎちゃってるから、疑うことを知らない。なんでも受け入れて、それ以上のことをしてしまう。俺が喜ぶと思ってね」
「まあ……」
「だから正直、俺のほうが降参間近だったよ。ローラの聖母のような愛に身を委ねてしまったほうが楽かも知れないってね。君が折れてくれて助かった」
「うふふふふ」
「まあ、君の言った通りだ。ローラは良い子だ。きっと好きになると言っていたが、本当に好きになってしまったよ」
「ふふ、そう……」
寂しげに笑う彼女を引き寄せて抱き締めた。彼女も俺の背中に手を回す。
「あの時は突然で、俺たちはなにもちゃんと出来なかった。話し合いも、罵り合いも、けじめも、さようならの言葉さえも。だから混乱したままだったんだよ」
「そう、か……」
「だから、さ……」
「うん」
「俺たち、ちゃんと別れよう」
「うん」
「別な人を好きになってゴメン」
「………………グス」
「ここには、別れの儀式をするために来たんだ」
「……別れの儀式?」
朝焼けが始まる頃、俺とシャロンさんは服を着て湖畔に立っていた。
俺の手には銀の指輪が握られている。それをシャロンさんへと見せてから、湖のほうへと投げた。
とぷん──。
小さな聞き逃してしまいそうな音。俺たちのリングの片割れ。誓いの破れる音。果たされぬ約束の僅かな声。俺は涙を拭いてシャロンさんへと促した。
「さあ、シャロンも──」
「ええ」
シャロンさんも、俺に手のひらに置かれたリングを見せてから湖へとリングを放る。誓いが破られた小さな音が聞こえた。
俺たちは、涙を拭いた。個人、個人で。もう隣にいる人はお互いに頼るべき人ではない。涙を拭いてやる人ではないのだ。
「ねえ義姉上」
「はい、閣下」
「あなたのために、領内に屋敷を与えます。ですから、俺とローラの屋敷から出ていって欲しいのです」
「はい……」
「同じ屋根の下に、二人も好きな人を置いては置けないでしょう?」
「その通りです。私も毎日嫉妬しておれませんもの」
俺たちは湖のほうを見たまま、視線も合わせずに、互いに笑った。
「もしも俺たちが、ただの時計屋の息子と花屋の娘だったら、きっと二人は幸せな結婚生活を送っていたでしょう」
「はい、私もそれが良かったです」
「もしも、もしもね……」
「はい」
「来世でそうなったら、あなたは俺のプロポーズを受けてくださいますか?」
「そんな来世だなんて……、あり得るわけ──」
「ほら、また」
「あ。すいません」
「どうなんです。その時、私は意地悪くあなたをいじめるかも知れませんが」
「まあ。私は強いんですよ。そんなことには負けません。閣下が求婚してくださるなら、喜んでお受けします」
「本当ですね。もう聞いてしまいましたよ」
「ええ。今度こそ本当ですとも」
「ですが今回は、我々は別々の道を行かねばなりませんよ」
「その通りです」
「私は先に馬車に乗って帰ります。あなたは寄合い馬車にでも乗って帰ってきてください」
「はい、おおせのままに致します」
それが俺とシャロンさんの別れのけじめだった。俺は一人で馬車を御して屋敷を指して帰っていった。
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