王佐の人、死す

家紋武範

文字の大きさ
1 / 1

王佐の人、死す

しおりを挟む
 王佐とは、読んで字のごとし。王をたすけるである。
 左と右があるように、佐があるから、佑もある。佑もまたたすけると読む。
 王の左と右には意味があり、左には文官が位置し、右には武官が位置する。当然左のほうが官位が上となる。

 この王の左に侍る人を即ち『王佐』と言う。後漢末期に、その『王佐の才』と呼ばれた人がいた。

 曹操の旗下にいた、軍師で荀彧じゅんいく、字を文若ぶんじゃくと言った。

 彼は、曹操を助け、知恵を授けた。曹操は彼がいなかったら一諸侯として、他の勢力に飲まれていたとして不思議ではなかった。
 曹操はこの賢人を友として厚遇したのだ。





 その荀彧は空の食盒しょくごうをじっと見つめていた。食盒とは、食べ物を運ぶ箱である。
 それを手にとってひっくり返しても豆一つ落ちてこない。
 その箱を丁寧に両手を沿えて机の上に置くと、泣きながら笑って椅子に寄りかかった。

「はは……。空だ。空だ。なにも入ってなどない」

 しばらくそのまま、箱を見つめていたが、やがて立ち上がり杯を用意する。それに並々と酒を注いだ後に、引き出しを探って黒い鳥の羽を取り出し、酒に浸けた。これぞ鴆酒ちんしゅという毒酒である。

 酒はみるみる黒い液体となる。その頃になると、荀彧の顔の穴という穴から液体がこぼれ、両手でそれを思い切り拭った。

 これは上司の曹操より贈られた食盒である。荀彧は曹操の軍師であり、友であった。
 共に戦を、政治を、この国の未来を語りあい、曹操にはなくてはならない参謀だったのだ。

 しかしただの一点──。

 荀彧は曹操が公爵となることに反対した。家臣のほぼ全てが賛成しても、一人反対したのだ。
 それは、漢を興した高祖劉邦りゅうほうは、『劉姓以外のものを王公としてはならない』と遺言していたからである。
 家臣が公となるなど、許されることではないという主張だった。

 だが時の漢の皇帝は、家臣たちの詰め寄りにかなわず、曹操を『魏公』に封じた。

 荀彧は憤った。曹操の家臣たちは恐れて誰も荀彧のそばによることなどできない。そこに曹操は近づいて笑いかけた。

「荀彧。足下のいいたいことは分かる。しかしこれは余のやりかただ。天下はもはや漢には服さぬ。足下は余の旗本ではないか。そして余の友だ。足下がそれを反対してどうする?」
「閣下。私は漢の臣でございます。閣下のしようとしていることは、王莽おうもう董卓とうたくと同じことです」

「ぬ……。余を簒奪さんだつ者と同じと申すか。はは。漢の下で魏が漢の代わりに政治まつりごとを行って何が悪いか」
「よろしいわけがございますまい。後世の史家は魏公曹操を決して英雄とは記さないでしょう」

 曹操を目の前にしても恐れずに諫言を続ける荀彧の肩を優しく叩く。

「分かった、分かった。荀彧よ。足下と余の話は平行線で決して妥協案がない。しかし余は足下の今までの功績を忘れたりしない。ただの一点で今までの友情が破談になるなどと思ってはないぞ?」
「それは──。私も同じ気持ちです」

「左様か。では今までと同じように付き合ってくれると思って良いのだな?」
「当然でございます」

 それから数日後。荀彧の元に曹操からの食盒が届いた。荀彧はそれを開けて曹操の意思を悟り、鴆酒をあおって自殺したのだ。



 つまりこういうことだ。曹操は後に荀彧に訪ねる。「食盒の中身はどうだったか?」と。それに「美味しかった」と答えれば「中には何も入れていなかった。この語りものめ!」といい、「中には何も入ってなかった」と言えば「ウソをつくな!」と言って罷免、悪ければ処刑される。
 もはや自分のいる場所はどこにもないと、自殺する道を選んだのだ。

 実際、曹操の廟には当時の侍臣たちが祀られているのだが──、一番の友であった荀彧だけは祀られていないのだ。





 曹操のやり方は、全て正しいとは言えない。しかしこの大政治家でなくては、天下は大いに乱れただろう。
 自分の生きている間にどうにかしなくてはならないと、急ぎ、どうしても粗い部分があったことは確かだ。

 言い方は悪いが、曹操から見れば『重箱の隅を楊枝でほじくる』ような人間がたくさんいた。
 まるでこちらが正義だと声高らかに裏切るものが大勢いたのだ。

 曹操は生きている間に悲しい裏切りを何度も受けた。それは友と呼べる人ばかりだ。
 だから曹操は裏切りを許さない。裏切りだけは曹操にとっては悪。


 それが大事な友であっても──。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

大好きな幼なじみが超イケメンの彼女になったので諦めたって話

家紋武範
青春
大好きな幼なじみの奈都(なつ)。 高校に入ったら告白してラブラブカップルになる予定だったのに、超イケメンのサッカー部の柊斗(シュート)の彼女になっちまった。 全く勝ち目がないこの恋。 潔く諦めることにした。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

今更気付いてももう遅い。

ユウキ
恋愛
ある晴れた日、卒業の季節に集まる面々は、一様に暗く。 今更真相に気付いても、後悔してももう遅い。何もかも、取り戻せないのです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

処理中です...