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第1章――「サントドミンゴ篇 砂糖と疫病と未亡人」
第3話――「水車で搾る砂糖と銀貨」
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潮風に混じって、甘く焦げた匂いがした。
新任の砂糖工場支配人としてキューバ島に派遣されたアルバロ・デ・モリーナは、サン・クリストバル農園へ向かう馬の腹を軽く蹴って歩調を早めた。
丘を回り込んだところで、粗末な屋根と木の柱に囲まれた建物が見えた。半分は石、半分は土の壁の隙間から、鉄鍋の白い蒸気が流れ出している。
「あれが、うちの砂糖工場《トラピチェ》であります、ドン・アルバロ」
隣を歩く現地監督官が、誇らしげに胸を張った。
アルバロは黙って馬から降り、中へ入った。
巨大な木の円柱から伸びた横棒に、先住民の男たちと痩せたロバが繋がれ、ぐるぐると円を描いて歩いている。円柱の根元の木製ローラーが軋みながら回り、押し込まれたサトウキビから薄黄色の汁が溝を伝って流れ出していた。
「これが《トラピチェ》であります。人と獣の力で回すのです」
監督官が得意げに言う。
「午前中に刈り取ったものを、日暮れまでに搾り終える。夜のうちに煮詰めて、翌朝には型に流し込みます」
ロバがつまずくたびに柱の回転が止まり、ローラー前でキビ束が滞る。怒鳴り声と棒の音が飛ぶたびに、ようやく動きが戻る。
その繰り返しだった。
「一日でどれくらい搾れる?」
アルバロは淡々と尋ねた。
「畑ひと区画ぶんを、ぎりぎり、かと。嵐で折れたり、病人が出たり、ロバが倒れたりしますと、すぐ遅れます。最近は、ロバも何頭か……」
「倒れたロバの代わりに、人間を繋いでいるのか」
「ええ。奴らは丈夫ですから」
監督官は悪びれず笑った。
アルバロは冷ややかに視線を向けた。
「むやみに壊すな。奴隷もロバも、すぐには買い足せない」
それだけ言って、再び木の柱に目を戻した。
(この人数、この頭数、この時間……銀貨に換算すると、収穫の半分近くを、無駄な疲労と暇に捨てている)
頭の中で自然に数字が並ぶ。
ふと、父の村の風景が浮かんだ。
川沿いの小さな水車小屋。水路を通った水が車輪を回し、その力で石臼が回る。人間は袋を運び、粉になった小麦を袋に詰めるだけだった。
人が押さなくても、獣が歩かなくても、川の水は勝手に流れる。
(なぜ、ここでは水に働かせない?)
サン・クリストバル農園の近くにも細い川はあるが、乾季にはほとんど枯れるという。この場所では無理だ。だが、島全体を見れば、もっと水の多い土地はいくらでもあるはずだった。
◇ ◇ ◇
その夜、粗末な木造の館の一室で、アルバロは筆を取った。
机の上には帳簿とインク壺、その脇に真新しい紙が一枚。
宛先は、スペイン本国の王室財務官とインディアス評議会。
アルバロは敬虔な定型句で書き出し、キューバのサトウキビ栽培が王国にもたらす利益を、これでもかと持ち上げた。本国で高まる砂糖需要、国庫と教会に流れ込むはずの銀貨。
続いて《トラピチェ》の非効率を、現地の怠慢ではなく「構造の問題」として描く。嵐、病、獣の死、奴隷の逃亡が、収量を不安定にしていること。
そこで解決策を差し込んだ。
本国の粉挽き小屋や搾油所で使われる水車の技術を移せば、昼夜を問わず均一な力でローラーを回せること。人と獣の力を別の仕事に振り向け、同じ人数で倍以上の砂糖を作れること。
最後に、肝心の一文を書く。
王室の恩寵として、水力式砂糖工場《インヘニオ》建設のための資金貸付を請願すること。必要額は実際より少し控えめに書き、その代わり返済方法を詳しく示した。
増加分の砂糖から特別奉納を差し出し、税と十分の一税を今より多く、十年間欠かさず納めると約束する。
(王室は、銀貨の匂いには敏い)
アルバロは内心で笑い、謙遜と忠誠の文句を重ねて署名した。
カスティーリャ地方モリーナ家の次男、キューバ島サン・クリストバル農園支配人、アルバロ・デ・モリーナ。
封をし、兄フアンの名を添えて、サントドミンゴ経由で本国へ送る手配を書記に命じた。
「ずいぶん大胆なお願いをなさいますな、ドン・アルバロ」
「大胆ではないさ。計算ずくだ」
アルバロは肩をすくめた。
「王室が首を縦に振れば、この一帯の砂糖は、すべて私の『水車』を通ることになる」
「首を横に振れば?」
「そのときは紙とインクを少し無駄にしただけだ。試さないほうが、よほど損をする」
◇ ◇ ◇
数ヶ月後、サントドミンゴからの船が、小さな木箱を運んできた。
箱にはスペイン王室の封蝋。
アルバロが封を切ると、インヘニオ建設を認める許可状と、王室財務からの貸付条件が丁寧な文面で記されていた。返済は今後十年間、砂糖の生産分から優先的に差し引かれる。
同封の書簡には、こうも記してある。
この試みが成功すれば、インディアスの他の島々にも同様の設備を広げることを検討する、と。
(最初の一つがうまく回れば、次の相談もこちらへ来る)
アルバロは封蝋を指先で転がし、口の端をわずかに上げた。
◇ ◇ ◇
場所を選ぶ作業に、彼は時間を惜しまなかった。
水量に乏しいサン・クリストバル周辺を離れ、地図と案内人を連れて島の内陸へ入る。雨季でも枯れない川、適度な落差、サトウキビを植えられる平地、港へ出やすい道筋。
先住民の長《カシケ》たちから水の流れと土地の由来を聞き出し、候補地を回った末、岩を削って小さな滝になっている谷に行き着いた。
水は豊かで、音は低く重い。
「ここだな」
アルバロは短く言った。
「ここを全部、砂糖の畑に?」
「全部ではない」
谷と川と斜面を見渡しながら、彼は指でなぞる。
「川の上に堰を築き、水を横に逸らす。そこへ水車を置く。ここからあそこまでを工場にして、その周りを畑にする」
まだ何もない空間に、水路と建物と煙突の配置が、盤面のように並び始めていた。
「この土地の人間と、あのトラピチェにいる黒人奴隷を、まとめてここへ移す」
「奴らは逃げませんか?」
「逃げる先があると思うか」
アルバロは淡々と答えた。
「山の奥へ入れば飢え、海に出れば嵐か我々の船だ。どこへ行っても、汗を流さねば生きてはいけない。逃げる気を起こさせないようにするのが支配人の仕事だ」
「どうやって、でありますか?」
「腹を空かせすぎないことと、無意味な鞭を振らせないこと。働けば暮らせると、体で覚えさせればいい」
彼はごく簡単に言った。
「あの棒の代わりに水に働かせる。奴らには刃物と鍋と荷車を持たせる。壊すのは木とサトウキビだけでいい」
「ドン・アルバロは、お優しいのですな」
「違う」
アルバロは即座に否定した。
「私は数字に優しいだけだ。壊れた人間より、壊れない人間のほうが長く働く」
◇ ◇ ◇
工事が始まると、谷はあわただしくなった。
先住民が木を伐り、石を積み、土を運ぶ。黒人奴隷が丸太を担ぎ、水車小屋の骨組みを組み上げる。スペイン人の大工と鍛冶屋が、歯車とシャフトを作っては据え付けた。
古いトラピチェからは、使える鉄の部材と鍋だけを運び出し、軋む木の柱は打ち捨てた。
やがて堰ができ、水路が川から枝分かれすると、谷の音が変わる。水音と鳥の声に、木槌と掛け声と鍋の沸騰音が重なる。
水路の柵が外され、水が一気に走り出した。
水が大きな水車の板を叩き、車輪が回転する。その回転が軸と歯車を通じて工場の奥のローラーへ伝わり、サトウキビ束が唸りをあげて噛み砕かれていった。
「止めろ」
一度だけ試験的に水門を閉じさせ、歯車の噛み合わせや床の揺れを確かめてから、アルバロはうなずいた。
「よし。もう一度だ」
今度は本格的に搾りが始まる。
搾られた汁が溝を伝い、大鍋へ流れ込む。先住民の女たちがとろみを混ぜ、もとトラピチェの黒人奴隷が火加減を見る。
「どうだ?」
工場の入口で様子を眺めながら、アルバロは監督官に尋ねた。
「まだ半日も経っていないのに……畑ひと区画ぶんが、もう搾り終わりそうです」
「ロバはいくつ倒れた?」
「いえ、一頭も。人間も、誰も」
監督官は自分で答えながら戸惑った。
「これなら、もっと畑を増やしても……」
「その通りだ」
アルバロは静かに言った。
「畑を増やし、鍋を増やし、型を増やす。そのために、ここへ水車を持ってきた」
水は流れ続け、人は交代しながら働き続ける。誰かが倒れても、水は止まらない。棒に繋がれたロバがいなくても、川は勝手に落ちてくる。
その水の力を数字に変える鍵を握っているのは、自分だ。
アルバロ・デ・モリーナは、胸の奥でかすかに笑った。
新任の砂糖工場支配人としてキューバ島に派遣されたアルバロ・デ・モリーナは、サン・クリストバル農園へ向かう馬の腹を軽く蹴って歩調を早めた。
丘を回り込んだところで、粗末な屋根と木の柱に囲まれた建物が見えた。半分は石、半分は土の壁の隙間から、鉄鍋の白い蒸気が流れ出している。
「あれが、うちの砂糖工場《トラピチェ》であります、ドン・アルバロ」
隣を歩く現地監督官が、誇らしげに胸を張った。
アルバロは黙って馬から降り、中へ入った。
巨大な木の円柱から伸びた横棒に、先住民の男たちと痩せたロバが繋がれ、ぐるぐると円を描いて歩いている。円柱の根元の木製ローラーが軋みながら回り、押し込まれたサトウキビから薄黄色の汁が溝を伝って流れ出していた。
「これが《トラピチェ》であります。人と獣の力で回すのです」
監督官が得意げに言う。
「午前中に刈り取ったものを、日暮れまでに搾り終える。夜のうちに煮詰めて、翌朝には型に流し込みます」
ロバがつまずくたびに柱の回転が止まり、ローラー前でキビ束が滞る。怒鳴り声と棒の音が飛ぶたびに、ようやく動きが戻る。
その繰り返しだった。
「一日でどれくらい搾れる?」
アルバロは淡々と尋ねた。
「畑ひと区画ぶんを、ぎりぎり、かと。嵐で折れたり、病人が出たり、ロバが倒れたりしますと、すぐ遅れます。最近は、ロバも何頭か……」
「倒れたロバの代わりに、人間を繋いでいるのか」
「ええ。奴らは丈夫ですから」
監督官は悪びれず笑った。
アルバロは冷ややかに視線を向けた。
「むやみに壊すな。奴隷もロバも、すぐには買い足せない」
それだけ言って、再び木の柱に目を戻した。
(この人数、この頭数、この時間……銀貨に換算すると、収穫の半分近くを、無駄な疲労と暇に捨てている)
頭の中で自然に数字が並ぶ。
ふと、父の村の風景が浮かんだ。
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人が押さなくても、獣が歩かなくても、川の水は勝手に流れる。
(なぜ、ここでは水に働かせない?)
サン・クリストバル農園の近くにも細い川はあるが、乾季にはほとんど枯れるという。この場所では無理だ。だが、島全体を見れば、もっと水の多い土地はいくらでもあるはずだった。
◇ ◇ ◇
その夜、粗末な木造の館の一室で、アルバロは筆を取った。
机の上には帳簿とインク壺、その脇に真新しい紙が一枚。
宛先は、スペイン本国の王室財務官とインディアス評議会。
アルバロは敬虔な定型句で書き出し、キューバのサトウキビ栽培が王国にもたらす利益を、これでもかと持ち上げた。本国で高まる砂糖需要、国庫と教会に流れ込むはずの銀貨。
続いて《トラピチェ》の非効率を、現地の怠慢ではなく「構造の問題」として描く。嵐、病、獣の死、奴隷の逃亡が、収量を不安定にしていること。
そこで解決策を差し込んだ。
本国の粉挽き小屋や搾油所で使われる水車の技術を移せば、昼夜を問わず均一な力でローラーを回せること。人と獣の力を別の仕事に振り向け、同じ人数で倍以上の砂糖を作れること。
最後に、肝心の一文を書く。
王室の恩寵として、水力式砂糖工場《インヘニオ》建設のための資金貸付を請願すること。必要額は実際より少し控えめに書き、その代わり返済方法を詳しく示した。
増加分の砂糖から特別奉納を差し出し、税と十分の一税を今より多く、十年間欠かさず納めると約束する。
(王室は、銀貨の匂いには敏い)
アルバロは内心で笑い、謙遜と忠誠の文句を重ねて署名した。
カスティーリャ地方モリーナ家の次男、キューバ島サン・クリストバル農園支配人、アルバロ・デ・モリーナ。
封をし、兄フアンの名を添えて、サントドミンゴ経由で本国へ送る手配を書記に命じた。
「ずいぶん大胆なお願いをなさいますな、ドン・アルバロ」
「大胆ではないさ。計算ずくだ」
アルバロは肩をすくめた。
「王室が首を縦に振れば、この一帯の砂糖は、すべて私の『水車』を通ることになる」
「首を横に振れば?」
「そのときは紙とインクを少し無駄にしただけだ。試さないほうが、よほど損をする」
◇ ◇ ◇
数ヶ月後、サントドミンゴからの船が、小さな木箱を運んできた。
箱にはスペイン王室の封蝋。
アルバロが封を切ると、インヘニオ建設を認める許可状と、王室財務からの貸付条件が丁寧な文面で記されていた。返済は今後十年間、砂糖の生産分から優先的に差し引かれる。
同封の書簡には、こうも記してある。
この試みが成功すれば、インディアスの他の島々にも同様の設備を広げることを検討する、と。
(最初の一つがうまく回れば、次の相談もこちらへ来る)
アルバロは封蝋を指先で転がし、口の端をわずかに上げた。
◇ ◇ ◇
場所を選ぶ作業に、彼は時間を惜しまなかった。
水量に乏しいサン・クリストバル周辺を離れ、地図と案内人を連れて島の内陸へ入る。雨季でも枯れない川、適度な落差、サトウキビを植えられる平地、港へ出やすい道筋。
先住民の長《カシケ》たちから水の流れと土地の由来を聞き出し、候補地を回った末、岩を削って小さな滝になっている谷に行き着いた。
水は豊かで、音は低く重い。
「ここだな」
アルバロは短く言った。
「ここを全部、砂糖の畑に?」
「全部ではない」
谷と川と斜面を見渡しながら、彼は指でなぞる。
「川の上に堰を築き、水を横に逸らす。そこへ水車を置く。ここからあそこまでを工場にして、その周りを畑にする」
まだ何もない空間に、水路と建物と煙突の配置が、盤面のように並び始めていた。
「この土地の人間と、あのトラピチェにいる黒人奴隷を、まとめてここへ移す」
「奴らは逃げませんか?」
「逃げる先があると思うか」
アルバロは淡々と答えた。
「山の奥へ入れば飢え、海に出れば嵐か我々の船だ。どこへ行っても、汗を流さねば生きてはいけない。逃げる気を起こさせないようにするのが支配人の仕事だ」
「どうやって、でありますか?」
「腹を空かせすぎないことと、無意味な鞭を振らせないこと。働けば暮らせると、体で覚えさせればいい」
彼はごく簡単に言った。
「あの棒の代わりに水に働かせる。奴らには刃物と鍋と荷車を持たせる。壊すのは木とサトウキビだけでいい」
「ドン・アルバロは、お優しいのですな」
「違う」
アルバロは即座に否定した。
「私は数字に優しいだけだ。壊れた人間より、壊れない人間のほうが長く働く」
◇ ◇ ◇
工事が始まると、谷はあわただしくなった。
先住民が木を伐り、石を積み、土を運ぶ。黒人奴隷が丸太を担ぎ、水車小屋の骨組みを組み上げる。スペイン人の大工と鍛冶屋が、歯車とシャフトを作っては据え付けた。
古いトラピチェからは、使える鉄の部材と鍋だけを運び出し、軋む木の柱は打ち捨てた。
やがて堰ができ、水路が川から枝分かれすると、谷の音が変わる。水音と鳥の声に、木槌と掛け声と鍋の沸騰音が重なる。
水路の柵が外され、水が一気に走り出した。
水が大きな水車の板を叩き、車輪が回転する。その回転が軸と歯車を通じて工場の奥のローラーへ伝わり、サトウキビ束が唸りをあげて噛み砕かれていった。
「止めろ」
一度だけ試験的に水門を閉じさせ、歯車の噛み合わせや床の揺れを確かめてから、アルバロはうなずいた。
「よし。もう一度だ」
今度は本格的に搾りが始まる。
搾られた汁が溝を伝い、大鍋へ流れ込む。先住民の女たちがとろみを混ぜ、もとトラピチェの黒人奴隷が火加減を見る。
「どうだ?」
工場の入口で様子を眺めながら、アルバロは監督官に尋ねた。
「まだ半日も経っていないのに……畑ひと区画ぶんが、もう搾り終わりそうです」
「ロバはいくつ倒れた?」
「いえ、一頭も。人間も、誰も」
監督官は自分で答えながら戸惑った。
「これなら、もっと畑を増やしても……」
「その通りだ」
アルバロは静かに言った。
「畑を増やし、鍋を増やし、型を増やす。そのために、ここへ水車を持ってきた」
水は流れ続け、人は交代しながら働き続ける。誰かが倒れても、水は止まらない。棒に繋がれたロバがいなくても、川は勝手に落ちてくる。
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