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第3章――「石の宮殿と皇后の賭け」
第5話――「湖の工房、舟と弩」
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翌朝のトチテペクは、まだ戦の匂いをまとっていた。
うさぎ山の斜面には薄く煙が残り、砲を据えた場所の黒い焼け跡から、焦げた土と火薬のにおいが、ひゅうと吹き抜ける風に乗って谷の底へ降りてくる。その一方で、倉庫(ポテチカ)の並ぶ一帯からは、とうもろこし粉や乾いた唐辛子、藁と木材の生臭い香りがむわりと立ち上り、血のにおいと入り混じって鼻を刺していた。
倉庫の前の広場には、2万名のイシュタパラパの若い戦士たちがぎっしりと集まっている。羽根飾りは泥と血で重くなり、頬にはまだ昨日の戦の筋が残っていた。それでも瞳の奥には、敗北から立ち直りきれない怯えと、これから何が起こるのかを探る好奇心が、落ち着きなく揺れている。
アルバロは、砲列を組んでいた場所から少し下った石段に立ち、彼らを見渡した。胸当てに乾いた血がこびりつき、革手袋には火薬と汗がしみ込んでいる。
「よく聞け」
スペイン語で短く告げると、隣に立つチャックニクが、張りのあるナワトル語に変えた。
「今日から、お前たち1人1人に、舟を1艘と弩を1丁持たせる」
ざわ、と列が揺れた。
「ここにある物を使う。木は、あの山だ」
谷を囲む斜面には、松と広葉樹の梢が朝日に濡れ、露の光を散らしていた。湿った土と樹皮の匂いが、冷えた空気の中から、細い筋になって鼻孔へ忍び込んでくる。
チャックニクの声が続く。
「この方は、お前たちを奴隷にはしない。自分の舟と、自分の武器を持った戦士にする」
最前列の青年の喉が、ごくりと鳴った。自分の舟、自分の武器。その言葉は、昨夜まで敵だった男たちの胸にも、ゆっくりと沈んだ。
少し離れた倉庫の軒下では、イザベラが帳面を広げていた。白い指に墨が少しつき、額には細い汗がにじむ。彼女の前には、ポテチカたちが運んできた荷が積まれている。乾いたマゲイ(竜舌蘭)の繊維の束、綿糸、鹿や犬の腱を干した束、獣皮、樹脂と蜂蜜の壺。
「これが全部、武器になるのね」
イザベラはスペイン語でつぶやき、軒の陰から広場を見やった。谷には既に、木を叩く音や叫び声が反響している。
「武器と舟と、逃げ道と、稼ぎにもなる」
ルシアが肩に槍を担いだまま笑った。黒人兵たちに短く命じ、斧や鋸を配っていく。彼女の背後の犬たちは、昨日の戦の血をまだ鼻先に残しながら、伏せた姿勢で周囲を見張っていた。
午前中は、山に木を取りに行く班と、倉庫で材料を整える班に分かれた。
山へ向かう道は、夜露で黒く光る土がぬかるんでいる。樹皮を切り込む石斧の音が、しん、とした森に規則正しく響いた。斧を振るうたび、松の内側から生きた汁の匂いが弾け、樹脂がきらりと光って幹を伝う。
「カヌーには、真っ直ぐで太く、節の少ない幹だ」
アルバロの弟マルティンは、木肌に手を当て、軽く拳で叩いた。低く澄んだ音が返ってくる。
「弩の台木には、こっちの締まったやつ。叩いた音が高い方だな」
イシュタパラパの青年たちは見よう見まねで幹を選び、汗で背中の布を濡らしながら木を倒していく。倒れた瞬間、地面が震え、枯葉と土の匂いがむわりと舞い上がった。
谷底ではその頃、別のリズムが生まれていた。
カヌー作りの場所には、切り出したばかりの丸太が並べられている。白い炭で描かれた線は、アルバロが刻んだ「ここまで削れ」の目印である。
「まずは腹だ。内側を食べるように削れ」
アルバロは、丸太の上に片膝をつき、石斧を振り下ろして見せた。刃が木に食い込むと、乾いた音とともに、白い削り屑がぱらぱらと飛ぶ。甘い木の香りが、汗臭さの中からひときわ鮮やかに立ち上る。
戦士たちは、彼にならって木を削った。
「力任せに叩くな。刃を滑らせるつもりで腕を使え」
アルバロがナワトル語の単語を混ぜながら身振りで教え、言葉の足りないところをチャックニクが補う。彼女は丸太の縁に腰を下ろし、青年の手首を軽くつかんで斧の角度を直した。布越しに伝わる手の震えと、固くなった掌の豆が、彼女の指先にはっきりと触れた。
削り屑がふくらはぎにまとわりつき、足元は木の香りでいっぱいになる。昼近くになると、陽射しで温められた松脂の甘い匂いがそこに加わり、喉の奥が少し渇いた。
別の一角では、弩の台木を削る作業が始まっていた。
長い板を台木の形に切り出し、鉋代わりの石刃で角を落としていく。削られた木の粉が手の甲に刺さるようなざらつきでまとわりつき、鼻の中には細かい粉の匂いがたまった。
「ここが弦を受けるところだ。硬い木と骨を使う」
アルバロは土の上に簡略化した弩の図を描き、そこに指で印をつけた。鹿の大腿骨を割って削っている男の手元からは、白い骨粉がほろほろと落ち、乾いた骨の匂いが立つ。肉の匂いは既に薄れ、石粉と混じった乾いたにおいだけが舌の裏に残った。
鉄の釘と船から外した小さな金具は、ルシアが黒人兵に守らせながら運んできた。
「全部は木で済ませる。どうしても潰れてしまうところだけ、鉄を噛ませる」
アルバロは、自分の弩の弦座に鉄板を当てて見せた。弦が戻るたびにそこへ叩きつけられ、金属と繊維がぶつかって、歯の根に響くような高い音がした。
弦には、マゲイの繊維と鹿の腱を束ねて使った。
大鍋の湯気に、煮た腱の匂いと脂の匂いが重なる。鼻の奥にこもるような重たい匂いで、しばらく嗅いでいると頭がぼうっとする。煮えた腱を取り上げて伸ばし、乾かしてから細く裂き、マゲイの繊維と合わせて撚り合わせると、指先にぬるりとした感触が残った。
「ねじる方向を揃えろ。ほら、こうだ」
アルバロは、ひとりの青年の背後に回り、彼の両手を包むように持って一緒に弦を撚った。汗で滑る掌がぶつかり合い、ふたりの体温が一瞬重なる。
「揃っていると、指で撫でたときに1本の筋みたいに感じる」
青年は恐る恐る弦を撫で、目を見開いた。硬く締まった繊維が、一本の生き物の背骨のようにしなやかに指の下を動く。チャックニクがその様子を見て、喉の奥で小さく笑った。
「もうお前の弦だな」
昼過ぎには、谷全体が一つの工房になっていた。
カヌーの腹を焼いて固める火からは、焦げる木と樹脂の煙が立ちのぼる。煙が風に押されて作業場全体に流れ込み、目がしみて涙がにじんだ。咳き込むたび、喉の奥には炙った唐辛子に似た熱さが残る。
「水を掛け過ぎるな、割れるぞ」
マルティンが怒鳴り、桶の水を慎重に木肌へ振りかけさせる。じゅっと音を立てて蒸気が上がり、顔にかかった水滴が熱と一緒に肌を撫でた。
弩の方では、最初の数丁が組み上がっている。
アルバロは、そのうち1丁を手に取った。台木を撫でると、樹脂と油で磨き上げた木の表面が、しっとりと指に吸いついた。頬に当てると、木の芯に残ったわずかなぬくもりが皮膚に移る。
「こいつは、誰のだ」
問いかけると、少し離れたところで木屑まみれになっている青年が、おずおずと手を挙げた。昨日、砲声に腰を抜かしていた若者である。
「お前の舟と一緒に、覚えておけ」
アルバロが弩を差し出すと、青年は両手でそれを受け取った。指が震え、握りの木に食い込んだ爪の隙間に樹脂が白く残る。
夕刻にかかる頃、川辺には、形になりかけたカヌーが列をなし始めていた。
ひっくり返して並べられた船底を指で押すと、焼き固めた木が叩いたときとは違う、鈍く落ち着いた音を返す。樹脂で塞いだ継ぎ目は、まだ柔らかく光り、指で触れると細い筋を残した。
その横に、弩が立てかけられている。まだ数は少ない。1万という数には遠いが、それでも、土に刺さった台木の列は、川辺に生えた細い木立のように見えた。
ルシアが、その列を眺めながら槍の石突きを地面に突き立てた。犬たちがその足元であくびをし、湿った鼻先で新しい木のにおいを嗅いでいる。
イザベラは軒下から出てきて、川辺の光景を一度だけ見渡した。帳面の上の数字が、目の前の舟と武器の列に変わっている。
「数が足りないわ」
スペイン語でそう言いながらも、その声にはわずかな誇らしさが混じっていた。
「足りないからこそ、明日も働ける」
アルバロは笑い、谷を満たすにおいを深く吸い込んだ。
木と樹脂と汗と煙。血の匂いは、まだ消えていない。その上に、新しい仕事の匂いが重なっている。
昨日まで敵だった若者たちの手のひらには、斧と弦の跡から新しい豆が浮かび始めていた。その掌で握る舟と弩が、これから彼らをどこへ連れて行くのか。
アルバロは、その行き先を知っている者の目で、川面に映る夕焼けをじっと見ていた。
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倉庫の前の広場には、2万名のイシュタパラパの若い戦士たちがぎっしりと集まっている。羽根飾りは泥と血で重くなり、頬にはまだ昨日の戦の筋が残っていた。それでも瞳の奥には、敗北から立ち直りきれない怯えと、これから何が起こるのかを探る好奇心が、落ち着きなく揺れている。
アルバロは、砲列を組んでいた場所から少し下った石段に立ち、彼らを見渡した。胸当てに乾いた血がこびりつき、革手袋には火薬と汗がしみ込んでいる。
「よく聞け」
スペイン語で短く告げると、隣に立つチャックニクが、張りのあるナワトル語に変えた。
「今日から、お前たち1人1人に、舟を1艘と弩を1丁持たせる」
ざわ、と列が揺れた。
「ここにある物を使う。木は、あの山だ」
谷を囲む斜面には、松と広葉樹の梢が朝日に濡れ、露の光を散らしていた。湿った土と樹皮の匂いが、冷えた空気の中から、細い筋になって鼻孔へ忍び込んでくる。
チャックニクの声が続く。
「この方は、お前たちを奴隷にはしない。自分の舟と、自分の武器を持った戦士にする」
最前列の青年の喉が、ごくりと鳴った。自分の舟、自分の武器。その言葉は、昨夜まで敵だった男たちの胸にも、ゆっくりと沈んだ。
少し離れた倉庫の軒下では、イザベラが帳面を広げていた。白い指に墨が少しつき、額には細い汗がにじむ。彼女の前には、ポテチカたちが運んできた荷が積まれている。乾いたマゲイ(竜舌蘭)の繊維の束、綿糸、鹿や犬の腱を干した束、獣皮、樹脂と蜂蜜の壺。
「これが全部、武器になるのね」
イザベラはスペイン語でつぶやき、軒の陰から広場を見やった。谷には既に、木を叩く音や叫び声が反響している。
「武器と舟と、逃げ道と、稼ぎにもなる」
ルシアが肩に槍を担いだまま笑った。黒人兵たちに短く命じ、斧や鋸を配っていく。彼女の背後の犬たちは、昨日の戦の血をまだ鼻先に残しながら、伏せた姿勢で周囲を見張っていた。
午前中は、山に木を取りに行く班と、倉庫で材料を整える班に分かれた。
山へ向かう道は、夜露で黒く光る土がぬかるんでいる。樹皮を切り込む石斧の音が、しん、とした森に規則正しく響いた。斧を振るうたび、松の内側から生きた汁の匂いが弾け、樹脂がきらりと光って幹を伝う。
「カヌーには、真っ直ぐで太く、節の少ない幹だ」
アルバロの弟マルティンは、木肌に手を当て、軽く拳で叩いた。低く澄んだ音が返ってくる。
「弩の台木には、こっちの締まったやつ。叩いた音が高い方だな」
イシュタパラパの青年たちは見よう見まねで幹を選び、汗で背中の布を濡らしながら木を倒していく。倒れた瞬間、地面が震え、枯葉と土の匂いがむわりと舞い上がった。
谷底ではその頃、別のリズムが生まれていた。
カヌー作りの場所には、切り出したばかりの丸太が並べられている。白い炭で描かれた線は、アルバロが刻んだ「ここまで削れ」の目印である。
「まずは腹だ。内側を食べるように削れ」
アルバロは、丸太の上に片膝をつき、石斧を振り下ろして見せた。刃が木に食い込むと、乾いた音とともに、白い削り屑がぱらぱらと飛ぶ。甘い木の香りが、汗臭さの中からひときわ鮮やかに立ち上る。
戦士たちは、彼にならって木を削った。
「力任せに叩くな。刃を滑らせるつもりで腕を使え」
アルバロがナワトル語の単語を混ぜながら身振りで教え、言葉の足りないところをチャックニクが補う。彼女は丸太の縁に腰を下ろし、青年の手首を軽くつかんで斧の角度を直した。布越しに伝わる手の震えと、固くなった掌の豆が、彼女の指先にはっきりと触れた。
削り屑がふくらはぎにまとわりつき、足元は木の香りでいっぱいになる。昼近くになると、陽射しで温められた松脂の甘い匂いがそこに加わり、喉の奥が少し渇いた。
別の一角では、弩の台木を削る作業が始まっていた。
長い板を台木の形に切り出し、鉋代わりの石刃で角を落としていく。削られた木の粉が手の甲に刺さるようなざらつきでまとわりつき、鼻の中には細かい粉の匂いがたまった。
「ここが弦を受けるところだ。硬い木と骨を使う」
アルバロは土の上に簡略化した弩の図を描き、そこに指で印をつけた。鹿の大腿骨を割って削っている男の手元からは、白い骨粉がほろほろと落ち、乾いた骨の匂いが立つ。肉の匂いは既に薄れ、石粉と混じった乾いたにおいだけが舌の裏に残った。
鉄の釘と船から外した小さな金具は、ルシアが黒人兵に守らせながら運んできた。
「全部は木で済ませる。どうしても潰れてしまうところだけ、鉄を噛ませる」
アルバロは、自分の弩の弦座に鉄板を当てて見せた。弦が戻るたびにそこへ叩きつけられ、金属と繊維がぶつかって、歯の根に響くような高い音がした。
弦には、マゲイの繊維と鹿の腱を束ねて使った。
大鍋の湯気に、煮た腱の匂いと脂の匂いが重なる。鼻の奥にこもるような重たい匂いで、しばらく嗅いでいると頭がぼうっとする。煮えた腱を取り上げて伸ばし、乾かしてから細く裂き、マゲイの繊維と合わせて撚り合わせると、指先にぬるりとした感触が残った。
「ねじる方向を揃えろ。ほら、こうだ」
アルバロは、ひとりの青年の背後に回り、彼の両手を包むように持って一緒に弦を撚った。汗で滑る掌がぶつかり合い、ふたりの体温が一瞬重なる。
「揃っていると、指で撫でたときに1本の筋みたいに感じる」
青年は恐る恐る弦を撫で、目を見開いた。硬く締まった繊維が、一本の生き物の背骨のようにしなやかに指の下を動く。チャックニクがその様子を見て、喉の奥で小さく笑った。
「もうお前の弦だな」
昼過ぎには、谷全体が一つの工房になっていた。
カヌーの腹を焼いて固める火からは、焦げる木と樹脂の煙が立ちのぼる。煙が風に押されて作業場全体に流れ込み、目がしみて涙がにじんだ。咳き込むたび、喉の奥には炙った唐辛子に似た熱さが残る。
「水を掛け過ぎるな、割れるぞ」
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弩の方では、最初の数丁が組み上がっている。
アルバロは、そのうち1丁を手に取った。台木を撫でると、樹脂と油で磨き上げた木の表面が、しっとりと指に吸いついた。頬に当てると、木の芯に残ったわずかなぬくもりが皮膚に移る。
「こいつは、誰のだ」
問いかけると、少し離れたところで木屑まみれになっている青年が、おずおずと手を挙げた。昨日、砲声に腰を抜かしていた若者である。
「お前の舟と一緒に、覚えておけ」
アルバロが弩を差し出すと、青年は両手でそれを受け取った。指が震え、握りの木に食い込んだ爪の隙間に樹脂が白く残る。
夕刻にかかる頃、川辺には、形になりかけたカヌーが列をなし始めていた。
ひっくり返して並べられた船底を指で押すと、焼き固めた木が叩いたときとは違う、鈍く落ち着いた音を返す。樹脂で塞いだ継ぎ目は、まだ柔らかく光り、指で触れると細い筋を残した。
その横に、弩が立てかけられている。まだ数は少ない。1万という数には遠いが、それでも、土に刺さった台木の列は、川辺に生えた細い木立のように見えた。
ルシアが、その列を眺めながら槍の石突きを地面に突き立てた。犬たちがその足元であくびをし、湿った鼻先で新しい木のにおいを嗅いでいる。
イザベラは軒下から出てきて、川辺の光景を一度だけ見渡した。帳面の上の数字が、目の前の舟と武器の列に変わっている。
「数が足りないわ」
スペイン語でそう言いながらも、その声にはわずかな誇らしさが混じっていた。
「足りないからこそ、明日も働ける」
アルバロは笑い、谷を満たすにおいを深く吸い込んだ。
木と樹脂と汗と煙。血の匂いは、まだ消えていない。その上に、新しい仕事の匂いが重なっている。
昨日まで敵だった若者たちの手のひらには、斧と弦の跡から新しい豆が浮かび始めていた。その掌で握る舟と弩が、これから彼らをどこへ連れて行くのか。
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