ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ

ひまえび

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第4章――「アルバロ、石の王冠をかぶる」

第2話――「西南の砦、銅の軍勢迫る」

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 テノチティトランから西へ十数日の道のり。火山と松林の高地が連なり、その向こうに、深い湖を抱いた盆地がある。パツクァロ湖。その湖畔に都ツィンツンツァンを置き、森と金属の国土を支配しているのが、タラスコ王国だった。

 その東のはずれ、南の大河バルサスの上流を見下ろす険しい山地に、ひとつの砦がある。オストゥマ。アステカ帝国の西南の境を守る石の爪であり、タラスコとアステカが真正面から睨み合う最前線だった。

 1519年6月下旬、そのオストゥマの砦は、朝から煙に包まれていた。

 山腹を駆け上がってくるタラスコの戦士たちは、銅を鍛えた長槍と斧を振るい、黒く塗られた木盾を前に突き出していた。額には緑の羽根飾り、胸には金属板がきしみ、陽の光を鈍く反射する。彼らの足が乾いた斜面を踏みしめるたび、火山灰まじりの土がざらりと崩れ、白い埃が舞い上がった。

 オストゥマの石壁の上では、アステカの戦士たちが黒曜石をはめ込んだ剣と投槍で応戦していた。山の風が、汗と血と焦げた松の匂いを混ぜて吹きあげる。弓弦の鳴る高い音、槍が盾を打つ鈍い衝撃、砦の内側に転がり込む矢じりが石に当たって跳ねる乾いた音が、絶え間なく重なっていた。

「押し返せ! ここを越えられたら、谷の村々が燃えるぞ!」

 指揮官の喉は叫びすぎて焼けつき、声の端がかすれていた。視界の端では、すでにいくつかの櫓が炎に包まれている。樹脂を含んだ松材がぱちぱちと爆ぜ、その焦げた甘い匂いが、咳き込みたくなる煙となって肺の奥にまとわりついた。

 タラスコの銅の槍は重かった。石の刃よりも鈍いが、その分だけ押し出す力が違う。アステカの戦士が黒曜石の剣を振り下ろしても、刃が欠けて飛び、逆に槍の穂先に胸当てを押し砕かれて後ろに弾き飛ばされる。足下で、誰かの血がぬめりを増し、踏みしめたサンダルの裏にぬるりと絡みつく。

 砦の内側で、ひとりの伝令が走り出た。

 彼は松煙と焼けたとうもろこしの匂いが渦巻く中庭を駆け抜け、急な石段を一気に降りた。喉の奥は火を飲み込んだように熱く、息を吸うたびに焦げた空気が胸の内側を削る。腰に巻いた皮の帯は汗で張りつき、脚に巻いた布には、すでに別の兵の血が黒く染み込んでいた。

 背後で砦の門が閉まり、木の閂が太い音を立てる。その音を背中で聞きながら、伝令は東へ向かって山道を駆け下りた。道の両側には乾いたサボテンと低い灌木が続き、足元の石は日差しで熱されている。砂を噛んだような風が顔を打ち、舌先には血と煙と塩の味が滲んだ。

 ◇ ◇ ◇

 山をいくつも越え、大河の支流を渡り、翌日の夜明け近くになって、伝令はようやくテスココ湖のほとりにたどり着いた。西南の山から吹き下ろしていた乾いた熱気は、ここでは湿った冷気に変わっている。湖の上を渡ってくる風には、水草と泥の匂いが混じり、焼けた松ではなく湿った葦の香りが鼻をくすぐった。

 石の堤を走る足裏には、踏み固められた石畳の冷たさが伝わる。暗い湖面の向こうに、テノチティトランの灯が星のように散らばっていた。高い神殿と宮殿の輪郭が、うっすらと白み始める空に黒く浮かび上がる。水面を叩く小舟の櫂音、遠くの太鼓の低い響きが、伝令の耳にぼんやりと届いた。

 彼は堤を渡りきると、そのまま宮殿の門へ転がり込むように走り込んだ。胸の中で心臓が乱暴に暴れ、口の中は乾いているのに、唇に滲んだ血が鉄の味を広げていた。

 ◇ ◇ ◇

 宮殿の大広間は、外の湿った空気とは別の冷たさに満ちていた。

 白い石の床に敷かれた敷物は、裸足で触れるとかすかに湿り気を含んだ繊維のざらつきを伝えてくる。柱のあいだでは、香炉から立ちのぼるコパルの煙が白い筋になって漂い、その甘く重い香りが、喉の奥に薄い膜を張っていた。

 モクテスマ二世は、翡翠と黒曜石の細工を施した台座の上に座していた。肩を覆うマントには青緑の羽根が幾重にも縫い込まれ、少し動くだけで、柔らかい羽根の擦れ合う音が耳にさわさわと触れる。彼は黄金の杖の先で床をこん、と一度だけ叩き、その音が高い天井に跳ね返ってくるのを静かに聞いた。

 兵に支えられた伝令が、膝をついた。オストゥマの煙をまとった男からは、汗と血と焦げた松脂の匂いが立ちのぼり、コパルの香りとぶつかり合うように広がった。

「西の砦からの報せか」

 モクテスマの声は低かったが、その奥には固く張り詰めたものがあった。

「はい、陛下。オストゥマの砦が、タラスコの軍勢に押し包まれております。パツクァロ湖の向こう、ツィンツンツァンから送り出された軍でしょう。銅の槍と斧を持つ戦士が何重もの列をなし、我らの黒曜石の剣が砕けるほどの力で押してきます。砦の外の村々は焼かれ、山の空気まで煙で黒くなっております」

 伝令の声は途中でかすれ、乾いた唇がひび割れて、また血の味が滲んだ。

 モクテスマは目を閉じ、頭の中に広がる地図を思い浮かべた。湖上の都から西へ、乾いた山地を越え、バルサスの谷をまたぎ、その先に広がるタラスコの高地。そこから牙を剥いている、銅と森の王国。

(西南の爪が折れれば、タラスコの炎は、やがてこの湖の水面をも赤く染める)

 奥歯を噛みしめると、舌の上にさっき飲んだ苦いカカオの余韻が広がった。

「よい。下がれ」

 彼は伝令を退けると、側近に視線を向けた。

「アルバロ・デ・モリーナを呼べ。すぐにだ」

 ◇ ◇ ◇

 アルバロは、宮殿の中庭で火縄銃の手入れをさせていた黒人兵たちを眺めていた。油を染み込ませた布で銃身を拭うたび、金属の表面に光の筋が走り、焦げた火薬と油の匂いがむっと立ちのぼる。昨夜仕上げさせた小型砲の砲身には、まだ新しい鉄の冷たさがあり、指先で触れると、磨き粉の粒がかすかにざらりと残った。

 そこへ、侍従が駆け込んできた。

「アルバロ様。モクテスマ陛下がお呼びです。西方の戦のことで、急ぎとのこと」

 アルバロは砲身から手を離し、布で指先の油を拭った。鉄と油の匂いを鼻先で確かめ、口の端をわずかに持ち上げる。

「西から、ようやくまともな客が来たか」

 彼は肩のマントを整え、石畳の回廊を歩きながら、遠くの山並みを思い浮かべた。乾いた松の匂い、黒い煙、銅の刃が石の盾を軋ませる音。それらが、まだ見ぬ戦場の匂いとして、舌の上で静かに転がる。

 謁見の間に入ると、コパルの香りが鼻を打った。アルバロがひざまずくと、モクテスマ二世は手を上げて顔を上げるよう促した。

「アルバロ」

 王の声は普段よりも低く、重かった。

「タラスコ王国が、オストゥマの砦を攻めておる。パツクァロ湖の向こうの王が、銅の軍勢を東へ送り込んできた。西南の守りは、今、揺らいでいる。黒曜石の剣だけでは、あの銅の槍を押し返すのは難しい。私は、そなたの雷と鉄を、西の山へ向けたい」

 アルバロはモクテスマの瞳の奥を見た。その中には焦りだけでなく、自分の前にある一枚の盤面をどう動かすか測っている、支配者の冷たい光も宿っていた。

(タラスコ。湖と銅と森の国。そこに至る山々の道と、谷の村々。その前線に、俺の砲と銃を持ち込めというわけか)

 胸の内で何かが静かに高鳴った。新しい戦場の匂いを嗅ぎつけた獣のように、心が前へと傾く。

「喜んでお引き受けしましょう、陛下」

 アルバロはゆっくりと口元に笑みを浮かべた。

「オストゥマの砦を守り、その先のタラスコの軍勢を叩きます。西の山で、あなたの戦士たちに新しい戦い方を見せてきましょう」

 モクテスマの肩が、わずかに緩んだ。

「必要なものは与える。戦士、食糧、山道を進むための担ぎ手、そしてバルサス川を渡る舟もだ」

「ならば、黒人兵と選りすぐりの戦士をまとめ、火薬と弾丸を山の上まで運ばせます。西の空がタラスコの煙で覆われきる前に、こちらの煙を混ぜに行きましょう」

 アルバロは立ち上がり、胸に手を当てて礼をした。踵を返して歩き出すと、石の床に靴の音がこん、と短く鳴る。その響きが不思議と胸の奥まで届き、これから向かう西方の山々の輪郭を、よりはっきりと浮かび上がらせた。

 宮殿の門を出ると、湖の風が一気に吹きつけた。水草と泥の匂いの奥に、遠い山から運ばれてきた松煙の気配が、ほんのかすかに混じっているように感じられた。

「さあ、西の料理に取りかかるとしようか」

 アルバロは低く呟き、西南の前線オストゥマへ向けて歩き出した。湖上の都のざわめきが背後で遠のき、かわりに、まだ見ぬ山の太鼓と金属の響きが、心の中で鳴り始めていた。
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