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第5章――「湖の鎖、石の秤」
第23話(前編)――「乾いた高地、最初の影」
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(1520年9月1日。トラスカラ→ソコトラ)
朝の空気は乾いている。息は軽いが、鼻の奥が少し痛む。標高の冷えが石壁に残り、吐く息が薄く白い。鞍の革は夜露で硬く、指で押すと小さく鳴いた。
隊列が動き出すと、蹄が砂利を噛み、荷駄の鈴が遠くで揺れた。ラバの鼻息は短く、汗の匂いはまだ薄い。
アルバロは馬上で列を見渡し、命じた。
「斥候を前へ出せ。左右にも小隊を張れ。荷駄は中央に寄せる。遅れる者を出すな。置き去りが出た瞬間、そこが敵の狙いどころになる」
ショチトルは隊の端で、水袋の口を布で拭いた。拭き方が几帳面で、布の端が真っすぐそろう。水袋を結ぶ紐も、きつすぎず緩すぎず、同じ力で締める。
アヤウィトルは早い。鍋を抱えても歩調が乱れず、目だけで周りの兵の喉の乾きを数える。立ち止まらずに塩の袋を確かめ、足りないと見れば黙って誰かの腰から小袋を引き取る。奪うのではなく、交換の仕草で済ませる。
チマリは女と子の数を先に数え、足りない毛布を黙って引き寄せる。誰が寒がりかを覚えていて、毛布の厚さを配り替える。声を荒らげないのに、周りが従う。
マリナルは火の扱いが上手い。湿った薪でも芯を見つけ、煙を少なくして火を立てる。火種を守る手つきが、宝を守るみたいに慎重だ。
イトツィは産後の身体を隠すように腰布を締め直し、笑う練習みたいな顔で周りを安心させた。歩幅を小さくしても列の速度から落ちない位置を選び、誰かの背中が濡れていれば布をそっと差し出す。
女たちは皆、アルバロに忠誠を誓っている。忠誠は言葉だけで終わらず、指先の仕事に落ちる。湯の量、塩の匙、火の近さ、布の畳み方。列の中で起きる小さな不満が、顔に出る前に消える。消し方が、それぞれ違うだけだ。
昼、ソコトラへ向かう道の途中で、最初の影が動いた。岩場の上、松の陰から石が落ちてくる。狙いは人ではない。荷駄の足だ。
「止まるな」
アルバロの声が乾いた空気を割る。
弩兵が上を向き、短い矢が木の葉を裂く音がする。続けて火縄銃の破裂音が1度、山に跳ね返って、耳の奥に残った。
影は岩の陰へ引いた。連中の狙いは勝利ではなく、荷駄を止めさせて列を乱し、遅れた獲物だけを奪って逃げることだった。こちらが慌てて足を止め、上を見上げ、叫び声と混乱で隊形がほどける。その瞬間に石や矢を増やし、奪えるだけ奪って森へ消える。そういう段取りで動いていた。
だが火縄銃の破裂音が1発、山に跳ね返った。音は大きさだけで襲う。ここに鉄と火がある、撃ち返す準備が最初から整っている、合図ひとつで次が続く。そう悟らせる。
その直後、左右に張った小隊が動いた。左は尾根の鞍部へ走って出口を塞ぎ、右は谷へ回り込んで退き道の幅を奪う。逃げ足の速い者ほど、狭い口へ吸い込まれる。そこで矢が落ち、石を抱えた腕が止まった。
反射的に肩がすくみ、仲間の声が聞こえなくなり、次の投石の間合いも狂う。計算していたのは『こちらが鈍る時間』だったのに、あの音で逆に自分たちの手足が止まった。だから影は一瞬で散った。
追撃はしない。追えば列が伸びる。列が伸びれば、次の影が刺す。アルバロはそこを揺らがせない。
◇ ◇ ◇
夕刻、野営。焚き火の匂いに、焦げたトウモロコシの甘さが混じる。湯が沸く音は小さく、釜の縁に泡が薄く張る。女たちは湯を回し、塩を惜しまず入れる。汗の戻り方が変わるからだ。
カカオ飲料は小さな器で回った。泡の苦みが舌に張りつき、喉の奥が締まる。甘くはないのに、飲むと気持ちが静かになる。
アルバロは器を受け取るたび、女の名を呼んだ。短く、同じ調子でだ。誰かだけを長く見ない。誰かだけを冷たくしない。公平は情けではなく、隊列を揺らさないための技術だ。
夜、アルバロの天幕へ最初に入ったのはショチトルだった。誰も何も言わない。ただ、外の闇でアヤウィトルの爪が、腰布の端をきゅっとつまんでほどくのが見えた。火花は声にならない。
マリナルは火を落とす前に、香油の栓を確かめた。匂いを強くしない。だが、残り香が髪に一筋残るくらいに留める。チマリは笑わないまま、他の女が冷えない位置へ毛布を押し込んだ。イトツィは遠い闇を見ないように、器を洗う水の音を聞いていた。
5人とも、呼ばれる夜を望んでいる。望みは同じでも、手段が違う。
―――――――――――――――――
(1520年9月2日。ソコトラ→ハラーパ方面の坂道)
―――――――――――――――――
朝は霧が出た。湿り気が髪にまとわりつき、鎧の金具に冷たい水滴が生まれる。昨日まで乾いていた世界が、急に肌へ寄ってくる。
霧は音を食う。馬の息づかいが近く、革の擦れがやけに大きい。湿った土は足を取る。列が乱れやすい朝だ。
女たちは霧の中で互いを見失わないよう、声を小さく交わす。ショチトルの声は丸い。アヤウィトルの声は鋭い。チマリの声は短い。マリナルの声は笑いを混ぜる。イトツィは一拍遅れてから、誰かの真似をするように同じ調子で返す。
昼前、襲撃が来た。今度は矢だ。草むらから、低い角度で飛んでくる。狙いが分かる。馬の腹、荷駄の首、人のふくらはぎ。
「前へ。追うな。囲え」
アルバロは追撃を切り、包囲だけを作らせた。逃げ道を1つ残す。残せば敵はそこへ走る。そこに火縄銃を待たせてある。
銃声が霧を裂き、矢が止まった。森が静かになる静けさが、逆に怖い。
捕えられた3人が引きずられてきた。若い。目が燃えている。言葉より先に唾を吐いた。
アルバロは馬上から降りない。視線だけで順番を決める。
「反乱は終わりだ。ここで終わらせる」
通訳が意味を運ぶ前に、兵の手が動く。短い叫びが2つ、すぐ消える。血の匂いが霧に混じって湿り、鼻の奥へ重く残った。
残った1人の膝が崩れ、土の匂いに顔を埋めた。
「恭順を誓え。誓うなら生きろ」
その男は泣き声を飲み込み、頷いた。アルバロは水を投げ与え、縄をほどかせた。『恭順』は見せる必要がある。斬るのも見せるが、赦すのも見せる。
夕刻、村から食い物が出た。蒸したタマルの湯気が甘く、唐辛子の香りが鼻の奥へ刺さる。アルバロは供出の量を増やさせない。代わりに布と塩を渡す。恐怖だけで支配すると、次の坂でまた刺されるのを知っている。
夜。天幕の外で、マリナルが香油を少しだけ髪に塗った。甘い匂いが火の煙に混じり、アヤウィトルが気づいて目だけで笑った。笑い方が、刃の形をしていた。
この夜、アルバロはアヤウィトルを呼んだ。呼ぶ前に、ショチトルの手に短く触れた。『明日』の約束を口にしないまま、指先だけで残す。
呼ばれない夜は、呼ばれた夜より長い。
―――――――――――――――――
(1520年9月3日。霧の森→ハラーパ外れ)
―――――――――――――――――
朝、鳥の声が近い。湿った森は音を抱え込み、槍の穂先が葉に触れるたび、しっとりした擦れ音がする。
イトツィは胸元を押さえてから、何もなかった顔を作った。乳の匂いが自分に残っているのを、彼女だけが知っている。置いてきた赤子の顔が、霧の中で何度も浮かぶ。それでも彼女は隊の水袋の残りを確認し、女たちに分ける役を引き受けた。生き残りたいからだ。生き残るなら、役に立つしかない。
昼、ハラーパの外れで、別の『抵抗』が来た。槍も矢もない。石と棒だけだ。背後には女と子がいる。男たちは、勇気ではなく絶望で前へ出ている。
アルバロは顔をしかめない。むしろ笑ってみせる。
「降ろせ。殺す必要があるのは、引き金を引くやつだけだ」
騎馬隊が前に出て、蹄の音を見せつける。土が跳ね、馬の汗の匂いが熱く立つ。人は匂いで負けを悟る。
男たちは棒を落とした。泣き声が出る前に、チマリが女と子を前へ導き、膝をつかせた。政治の匂いがする動きだ。
だが、ひとりだけが違った。群れの隙間から飛び出し、黒い刃を握って突っ込んできた。石の刃だ。狙いは馬ではなくアルバロの膝。
アルバロは身を捻らない。右手が上がるだけだ。兵の槍が、その男の胸を止めた。短い息が漏れ、刃が土へ落ちる。
「これが反乱だ」
アルバロは言い切り、男の遺体を道の脇へ転がさせた。逃げてきた者には刃を振らせない。刃を振った者は生かさない。線引きが曖昧だと、次の夜が腐る。
夕刻、ハラーパ近くの水は冷たい。手を入れると指先が痺れるほどだ。アヤウィトルがその水で布を濡らし、アルバロの首筋を拭いた。拭きながら、ちらりとショチトルを見る。
ショチトルは笑って返す。だが笑いは口だけで、目は笑っていない。
夜。アルバロは順番を崩さない。呼ぶ相手を変えても、扱いを変えない。だから女たちの火花は、消えないまま形だけ整う。整った火花は、余計に熱い。
この夜、アルバロはマリナルを呼んだ。彼女は入る前に火の番の位置を直し、灰を均し、煙が天幕へ流れない角度を作った。自分の匂いが、男の匂いより先に残るのを嫌ったからだ。
――――――――――――――――――
『ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ』
第5章――「湖の鎖、石の秤」
第23話(後編)――「湿り気の噂、潮へ降りる」
―――――――――――――――――
―――――――――――――――――
(1520年9月4日。ハラーパ→下り坂の始まり)
―――――――――――――――――
空気が変わる。冷えが薄れ、皮膚に湿り気が貼りつく。虫の羽音が増え、草の匂いが甘くなる。山から海へ、世界が滑っていく。
この日、襲撃はなかった。その代わり、視線があった。畑の端、木の陰、川向こう。見られている。だが出てこない。
アルバロは笑って手を振る。敵意ではなく、余裕を見せるためだ。
昼、村の長が出てきた。贈り物は小さな籠。中身は唐辛子と乾いた魚。海が近い証拠だ。
アルバロは長の前で、昨日の『誓った男』を呼び出した。手首の縄はもうない。顔の泥も落ちている。
「帰れ。村へ戻って言え。刃を捨てて膝をつけば、生きる。刃を振れば、死ぬ」
男は何度も頷き、土を蹴って走り出した。背中が小さくなっていく。その背中が、村々に先に届く。恐怖と同じ速度で。いや、恐怖より速い。恐怖は足を止めるが、逃げる噂は足を使う。
夜、カカオ飲料の泡がいつもより立つ。マリナルが泡をうまく作ったからだ。ショチトルが気づき、器の持ち方を少しだけ変えて『自分の方が先に渡せる』角度を作る。
アヤウィトルは、その器の縁に指を添えて、わざと泡をこぼした。
「すみません」
声は可愛い。だが目は挑戦だ。
チマリは何も言わず、こぼれた泡を布で拭き取り、床に染みを残さない。争いの跡も残さない。イトツィは器を取り替え、アルバロの手が濡れないように差し出す。
女同士の戦は、血が出ない場所で始まる。
この夜、アルバロはイトツィを呼んだ。呼ぶ前に、彼女の足元の冷えを見て、毛布をもう1枚投げた。イトツィは泣かないで受け取った。泣けば弱みになる。笑えば嘘になる。だから黙って頷いた。
―――――――――――――――――
(1520年9月5日。低地の道→センポアラ街道)
―――――――――――――――――
朝、土の匂いが重い。湿った黒土に、腐った葉の甘さが混じる。汗が乾かない。鎧の下がぬるく、気持ちが悪い。
ここで襲撃が来た。今度は『道』そのものだ。倒木で狭め、脇の茂みから一斉に矢。
アルバロは最初の矢が飛ぶ前に気づいていた。鳥が黙り、虫の音が急に遠のいた。静かすぎる静けさがあった。
「火を入れろ」
火縄銃の音が連なり、茂みの中で悲鳴が跳ねる。次に、騎馬隊が横から回り込み、蹄で地面を叩いて逃げ道を潰す。
その『潰し方』が早い。左翼は倒木の外側へ走って谷口を押さえ、右翼は逆側の藪を踏み割って退路の幅を奪う。騎馬は斜めに切り込んで逃げる群れを道へ押し戻し、歩兵が槍で受け止める。逃げ足が折れた瞬間に、残りは石も矢も投げ捨てて散る。
戦は短い。短く終わらせるから、列は崩れない。列が崩れないから、次の襲撃も育たない。
捕えた者の中に『扇動役』がいた。飾り羽の多い男だ。声が大きく、目が落ち着かず、周りを煽る癖が顔に出ている。
アルバロは迷わず、その場で処した。刃が入る瞬間、羽が風に散った。色だけが派手で、命は軽い。反乱は見せしめが要る。『反乱を起こす者は皆殺し』という言葉を、血の匂いに変えて残す。
だが、同じ集団の中で膝をつき、額を土に押しつけた者には、水を与えた。
「今日からは俺の言葉で生きろ」
水は喉を潤すだけではない。赦しの味が混じる。赦しを受けた者は、次の村で『赦された話』をする。恐怖は消えず、形を変えて広がる。
夜、女たちは負傷者の手当てをする。チマリの手は迷いがない。布の裂き方、結び方、火の近づけ方が、家の運営そのものだ。
ショチトルは水の配分を崩さない。アヤウィトルは痛みで暴れる兵の肩を、笑いながら押さえつける。マリナルは火を弱くし、煙を減らして目を守る。イトツィは傷の洗い水を何度も替え、誰にも言わずに自分の腰の痛みを飲み込んだ。役に立つことが、彼女の命綱だ。
天幕の外で、ショチトルとアヤウィトルが同時に同じ器へ手を伸ばし、指先が触れた。触れた瞬間だけ、互いの温度が分かる。次の瞬間、2人とも笑って手を引く。
笑いは明るい。だがその明るさは、刃を隠すための布だ。
―――――――――――――――――
(1520年9月6日。センポアラ到着)
―――――――――――――――――
朝、潮の匂いが混じる。まだ海は見えないのに、風が塩を運んでくる。鳥の声が変わり、虫の鳴き方が軽くなる。
道端の草が濃く、葉が大きい。踏めば水が出る。高原の乾いた世界が、もう遠い。
センポアラの手前で、使者が来た。白い布を掲げ、籠を捧げ、言葉を低く並べる。
使者の唇は乾いて割れ、喉が鳴るのを堪えるみたいに何度も唾を飲み込んだ。籠の縁を持つ指が震えて、籠の中の乾いた魚がかすかに擦れる音がする。背後の護衛は2人だけで、槍の穂先を上げたまま、視線だけは森と隊列の数を往復している。逃げる算段を残した目だ。
アルバロは頷き、兵に合図した。列の緊張を解かせる合図だ。
「賢いな。生き残り方を知っている」
その声に、使者の肩がわずかに落ちた。だが安堵が全部ではない。門の向こうで誰がこの籠を用意し、どれだけの量なら通るのかを計っている。通すなら通すで、今度は『見返り』をどう小さく済ませるかを考えている。恐怖は消えず、形を変えて計算に収まる。
アルバロは笑って、その計算ごと包む。兵の視線が硬いままでも、声だけは明るい。馬上の男が笑うと、周りも笑っていいのだと錯覚する。錯覚は統治の道具になる。
女たちも笑う。ショチトルが先に笑い、アヤウィトルが負けじと笑い、マリナルが大きく笑い、チマリは口元だけで笑い、イトツィは遅れて笑う。笑いの順番にすら、小さな争いが潜む。
町に入る直前、アルバロは馬上から女たちを見た。
「ここから先は、敵も味方も増える。お前たちはよくやっている。俺のそばで、同じ顔をしていろ」
女たちは頷く。忠誠の頷きだ。
ただし同時に、それぞれが胸の中で別の計算もしている。今夜、名を呼ばれるのは誰か。名を呼ばれない夜を、どう耐えるか。
センポアラの湿った風が、焚き火の匂いと、カカオの苦みと、女たちの香油をひとつに混ぜた。甘さは、戦の後にだけ残る。
―――――――――――――――――
挿絵は、『アステカ王国』です。
出典は、『小学館 日本大百科全書「ニッポニカ」』です。
挿絵は、『メソアメリカ』です。
出典は、『大陸書房「コルテス征略誌」モーリス・コリス著、金森誠也訳。P10』です。
挿絵は、『テノチティトラン侵攻「コルテス」』です。
出典は、『大陸書房「コルテス征略誌」モーリス・コリス著、金森誠也訳。P115』です。
挿絵は、『スペイン軍進路』です。
出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P103』です。
挿絵は、『テスココ湖周辺図』です。
出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P121』です。
挿絵は、『メソアメリカのカカオの産地』です。
出典は、『河出文庫「チョコレートの歴史」ソフィー・D・コウ:マイケル・D・コウ著。樋口幸子訳。P111』です。
挿絵は、『テノチティトラン地図』です。
出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P137」増田義郎著。P137』です。
―――――――――――――――――
朝の空気は乾いている。息は軽いが、鼻の奥が少し痛む。標高の冷えが石壁に残り、吐く息が薄く白い。鞍の革は夜露で硬く、指で押すと小さく鳴いた。
隊列が動き出すと、蹄が砂利を噛み、荷駄の鈴が遠くで揺れた。ラバの鼻息は短く、汗の匂いはまだ薄い。
アルバロは馬上で列を見渡し、命じた。
「斥候を前へ出せ。左右にも小隊を張れ。荷駄は中央に寄せる。遅れる者を出すな。置き去りが出た瞬間、そこが敵の狙いどころになる」
ショチトルは隊の端で、水袋の口を布で拭いた。拭き方が几帳面で、布の端が真っすぐそろう。水袋を結ぶ紐も、きつすぎず緩すぎず、同じ力で締める。
アヤウィトルは早い。鍋を抱えても歩調が乱れず、目だけで周りの兵の喉の乾きを数える。立ち止まらずに塩の袋を確かめ、足りないと見れば黙って誰かの腰から小袋を引き取る。奪うのではなく、交換の仕草で済ませる。
チマリは女と子の数を先に数え、足りない毛布を黙って引き寄せる。誰が寒がりかを覚えていて、毛布の厚さを配り替える。声を荒らげないのに、周りが従う。
マリナルは火の扱いが上手い。湿った薪でも芯を見つけ、煙を少なくして火を立てる。火種を守る手つきが、宝を守るみたいに慎重だ。
イトツィは産後の身体を隠すように腰布を締め直し、笑う練習みたいな顔で周りを安心させた。歩幅を小さくしても列の速度から落ちない位置を選び、誰かの背中が濡れていれば布をそっと差し出す。
女たちは皆、アルバロに忠誠を誓っている。忠誠は言葉だけで終わらず、指先の仕事に落ちる。湯の量、塩の匙、火の近さ、布の畳み方。列の中で起きる小さな不満が、顔に出る前に消える。消し方が、それぞれ違うだけだ。
昼、ソコトラへ向かう道の途中で、最初の影が動いた。岩場の上、松の陰から石が落ちてくる。狙いは人ではない。荷駄の足だ。
「止まるな」
アルバロの声が乾いた空気を割る。
弩兵が上を向き、短い矢が木の葉を裂く音がする。続けて火縄銃の破裂音が1度、山に跳ね返って、耳の奥に残った。
影は岩の陰へ引いた。連中の狙いは勝利ではなく、荷駄を止めさせて列を乱し、遅れた獲物だけを奪って逃げることだった。こちらが慌てて足を止め、上を見上げ、叫び声と混乱で隊形がほどける。その瞬間に石や矢を増やし、奪えるだけ奪って森へ消える。そういう段取りで動いていた。
だが火縄銃の破裂音が1発、山に跳ね返った。音は大きさだけで襲う。ここに鉄と火がある、撃ち返す準備が最初から整っている、合図ひとつで次が続く。そう悟らせる。
その直後、左右に張った小隊が動いた。左は尾根の鞍部へ走って出口を塞ぎ、右は谷へ回り込んで退き道の幅を奪う。逃げ足の速い者ほど、狭い口へ吸い込まれる。そこで矢が落ち、石を抱えた腕が止まった。
反射的に肩がすくみ、仲間の声が聞こえなくなり、次の投石の間合いも狂う。計算していたのは『こちらが鈍る時間』だったのに、あの音で逆に自分たちの手足が止まった。だから影は一瞬で散った。
追撃はしない。追えば列が伸びる。列が伸びれば、次の影が刺す。アルバロはそこを揺らがせない。
◇ ◇ ◇
夕刻、野営。焚き火の匂いに、焦げたトウモロコシの甘さが混じる。湯が沸く音は小さく、釜の縁に泡が薄く張る。女たちは湯を回し、塩を惜しまず入れる。汗の戻り方が変わるからだ。
カカオ飲料は小さな器で回った。泡の苦みが舌に張りつき、喉の奥が締まる。甘くはないのに、飲むと気持ちが静かになる。
アルバロは器を受け取るたび、女の名を呼んだ。短く、同じ調子でだ。誰かだけを長く見ない。誰かだけを冷たくしない。公平は情けではなく、隊列を揺らさないための技術だ。
夜、アルバロの天幕へ最初に入ったのはショチトルだった。誰も何も言わない。ただ、外の闇でアヤウィトルの爪が、腰布の端をきゅっとつまんでほどくのが見えた。火花は声にならない。
マリナルは火を落とす前に、香油の栓を確かめた。匂いを強くしない。だが、残り香が髪に一筋残るくらいに留める。チマリは笑わないまま、他の女が冷えない位置へ毛布を押し込んだ。イトツィは遠い闇を見ないように、器を洗う水の音を聞いていた。
5人とも、呼ばれる夜を望んでいる。望みは同じでも、手段が違う。
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(1520年9月2日。ソコトラ→ハラーパ方面の坂道)
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朝は霧が出た。湿り気が髪にまとわりつき、鎧の金具に冷たい水滴が生まれる。昨日まで乾いていた世界が、急に肌へ寄ってくる。
霧は音を食う。馬の息づかいが近く、革の擦れがやけに大きい。湿った土は足を取る。列が乱れやすい朝だ。
女たちは霧の中で互いを見失わないよう、声を小さく交わす。ショチトルの声は丸い。アヤウィトルの声は鋭い。チマリの声は短い。マリナルの声は笑いを混ぜる。イトツィは一拍遅れてから、誰かの真似をするように同じ調子で返す。
昼前、襲撃が来た。今度は矢だ。草むらから、低い角度で飛んでくる。狙いが分かる。馬の腹、荷駄の首、人のふくらはぎ。
「前へ。追うな。囲え」
アルバロは追撃を切り、包囲だけを作らせた。逃げ道を1つ残す。残せば敵はそこへ走る。そこに火縄銃を待たせてある。
銃声が霧を裂き、矢が止まった。森が静かになる静けさが、逆に怖い。
捕えられた3人が引きずられてきた。若い。目が燃えている。言葉より先に唾を吐いた。
アルバロは馬上から降りない。視線だけで順番を決める。
「反乱は終わりだ。ここで終わらせる」
通訳が意味を運ぶ前に、兵の手が動く。短い叫びが2つ、すぐ消える。血の匂いが霧に混じって湿り、鼻の奥へ重く残った。
残った1人の膝が崩れ、土の匂いに顔を埋めた。
「恭順を誓え。誓うなら生きろ」
その男は泣き声を飲み込み、頷いた。アルバロは水を投げ与え、縄をほどかせた。『恭順』は見せる必要がある。斬るのも見せるが、赦すのも見せる。
夕刻、村から食い物が出た。蒸したタマルの湯気が甘く、唐辛子の香りが鼻の奥へ刺さる。アルバロは供出の量を増やさせない。代わりに布と塩を渡す。恐怖だけで支配すると、次の坂でまた刺されるのを知っている。
夜。天幕の外で、マリナルが香油を少しだけ髪に塗った。甘い匂いが火の煙に混じり、アヤウィトルが気づいて目だけで笑った。笑い方が、刃の形をしていた。
この夜、アルバロはアヤウィトルを呼んだ。呼ぶ前に、ショチトルの手に短く触れた。『明日』の約束を口にしないまま、指先だけで残す。
呼ばれない夜は、呼ばれた夜より長い。
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(1520年9月3日。霧の森→ハラーパ外れ)
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朝、鳥の声が近い。湿った森は音を抱え込み、槍の穂先が葉に触れるたび、しっとりした擦れ音がする。
イトツィは胸元を押さえてから、何もなかった顔を作った。乳の匂いが自分に残っているのを、彼女だけが知っている。置いてきた赤子の顔が、霧の中で何度も浮かぶ。それでも彼女は隊の水袋の残りを確認し、女たちに分ける役を引き受けた。生き残りたいからだ。生き残るなら、役に立つしかない。
昼、ハラーパの外れで、別の『抵抗』が来た。槍も矢もない。石と棒だけだ。背後には女と子がいる。男たちは、勇気ではなく絶望で前へ出ている。
アルバロは顔をしかめない。むしろ笑ってみせる。
「降ろせ。殺す必要があるのは、引き金を引くやつだけだ」
騎馬隊が前に出て、蹄の音を見せつける。土が跳ね、馬の汗の匂いが熱く立つ。人は匂いで負けを悟る。
男たちは棒を落とした。泣き声が出る前に、チマリが女と子を前へ導き、膝をつかせた。政治の匂いがする動きだ。
だが、ひとりだけが違った。群れの隙間から飛び出し、黒い刃を握って突っ込んできた。石の刃だ。狙いは馬ではなくアルバロの膝。
アルバロは身を捻らない。右手が上がるだけだ。兵の槍が、その男の胸を止めた。短い息が漏れ、刃が土へ落ちる。
「これが反乱だ」
アルバロは言い切り、男の遺体を道の脇へ転がさせた。逃げてきた者には刃を振らせない。刃を振った者は生かさない。線引きが曖昧だと、次の夜が腐る。
夕刻、ハラーパ近くの水は冷たい。手を入れると指先が痺れるほどだ。アヤウィトルがその水で布を濡らし、アルバロの首筋を拭いた。拭きながら、ちらりとショチトルを見る。
ショチトルは笑って返す。だが笑いは口だけで、目は笑っていない。
夜。アルバロは順番を崩さない。呼ぶ相手を変えても、扱いを変えない。だから女たちの火花は、消えないまま形だけ整う。整った火花は、余計に熱い。
この夜、アルバロはマリナルを呼んだ。彼女は入る前に火の番の位置を直し、灰を均し、煙が天幕へ流れない角度を作った。自分の匂いが、男の匂いより先に残るのを嫌ったからだ。
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『ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ』
第5章――「湖の鎖、石の秤」
第23話(後編)――「湿り気の噂、潮へ降りる」
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(1520年9月4日。ハラーパ→下り坂の始まり)
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空気が変わる。冷えが薄れ、皮膚に湿り気が貼りつく。虫の羽音が増え、草の匂いが甘くなる。山から海へ、世界が滑っていく。
この日、襲撃はなかった。その代わり、視線があった。畑の端、木の陰、川向こう。見られている。だが出てこない。
アルバロは笑って手を振る。敵意ではなく、余裕を見せるためだ。
昼、村の長が出てきた。贈り物は小さな籠。中身は唐辛子と乾いた魚。海が近い証拠だ。
アルバロは長の前で、昨日の『誓った男』を呼び出した。手首の縄はもうない。顔の泥も落ちている。
「帰れ。村へ戻って言え。刃を捨てて膝をつけば、生きる。刃を振れば、死ぬ」
男は何度も頷き、土を蹴って走り出した。背中が小さくなっていく。その背中が、村々に先に届く。恐怖と同じ速度で。いや、恐怖より速い。恐怖は足を止めるが、逃げる噂は足を使う。
夜、カカオ飲料の泡がいつもより立つ。マリナルが泡をうまく作ったからだ。ショチトルが気づき、器の持ち方を少しだけ変えて『自分の方が先に渡せる』角度を作る。
アヤウィトルは、その器の縁に指を添えて、わざと泡をこぼした。
「すみません」
声は可愛い。だが目は挑戦だ。
チマリは何も言わず、こぼれた泡を布で拭き取り、床に染みを残さない。争いの跡も残さない。イトツィは器を取り替え、アルバロの手が濡れないように差し出す。
女同士の戦は、血が出ない場所で始まる。
この夜、アルバロはイトツィを呼んだ。呼ぶ前に、彼女の足元の冷えを見て、毛布をもう1枚投げた。イトツィは泣かないで受け取った。泣けば弱みになる。笑えば嘘になる。だから黙って頷いた。
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(1520年9月5日。低地の道→センポアラ街道)
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朝、土の匂いが重い。湿った黒土に、腐った葉の甘さが混じる。汗が乾かない。鎧の下がぬるく、気持ちが悪い。
ここで襲撃が来た。今度は『道』そのものだ。倒木で狭め、脇の茂みから一斉に矢。
アルバロは最初の矢が飛ぶ前に気づいていた。鳥が黙り、虫の音が急に遠のいた。静かすぎる静けさがあった。
「火を入れろ」
火縄銃の音が連なり、茂みの中で悲鳴が跳ねる。次に、騎馬隊が横から回り込み、蹄で地面を叩いて逃げ道を潰す。
その『潰し方』が早い。左翼は倒木の外側へ走って谷口を押さえ、右翼は逆側の藪を踏み割って退路の幅を奪う。騎馬は斜めに切り込んで逃げる群れを道へ押し戻し、歩兵が槍で受け止める。逃げ足が折れた瞬間に、残りは石も矢も投げ捨てて散る。
戦は短い。短く終わらせるから、列は崩れない。列が崩れないから、次の襲撃も育たない。
捕えた者の中に『扇動役』がいた。飾り羽の多い男だ。声が大きく、目が落ち着かず、周りを煽る癖が顔に出ている。
アルバロは迷わず、その場で処した。刃が入る瞬間、羽が風に散った。色だけが派手で、命は軽い。反乱は見せしめが要る。『反乱を起こす者は皆殺し』という言葉を、血の匂いに変えて残す。
だが、同じ集団の中で膝をつき、額を土に押しつけた者には、水を与えた。
「今日からは俺の言葉で生きろ」
水は喉を潤すだけではない。赦しの味が混じる。赦しを受けた者は、次の村で『赦された話』をする。恐怖は消えず、形を変えて広がる。
夜、女たちは負傷者の手当てをする。チマリの手は迷いがない。布の裂き方、結び方、火の近づけ方が、家の運営そのものだ。
ショチトルは水の配分を崩さない。アヤウィトルは痛みで暴れる兵の肩を、笑いながら押さえつける。マリナルは火を弱くし、煙を減らして目を守る。イトツィは傷の洗い水を何度も替え、誰にも言わずに自分の腰の痛みを飲み込んだ。役に立つことが、彼女の命綱だ。
天幕の外で、ショチトルとアヤウィトルが同時に同じ器へ手を伸ばし、指先が触れた。触れた瞬間だけ、互いの温度が分かる。次の瞬間、2人とも笑って手を引く。
笑いは明るい。だがその明るさは、刃を隠すための布だ。
―――――――――――――――――
(1520年9月6日。センポアラ到着)
―――――――――――――――――
朝、潮の匂いが混じる。まだ海は見えないのに、風が塩を運んでくる。鳥の声が変わり、虫の鳴き方が軽くなる。
道端の草が濃く、葉が大きい。踏めば水が出る。高原の乾いた世界が、もう遠い。
センポアラの手前で、使者が来た。白い布を掲げ、籠を捧げ、言葉を低く並べる。
使者の唇は乾いて割れ、喉が鳴るのを堪えるみたいに何度も唾を飲み込んだ。籠の縁を持つ指が震えて、籠の中の乾いた魚がかすかに擦れる音がする。背後の護衛は2人だけで、槍の穂先を上げたまま、視線だけは森と隊列の数を往復している。逃げる算段を残した目だ。
アルバロは頷き、兵に合図した。列の緊張を解かせる合図だ。
「賢いな。生き残り方を知っている」
その声に、使者の肩がわずかに落ちた。だが安堵が全部ではない。門の向こうで誰がこの籠を用意し、どれだけの量なら通るのかを計っている。通すなら通すで、今度は『見返り』をどう小さく済ませるかを考えている。恐怖は消えず、形を変えて計算に収まる。
アルバロは笑って、その計算ごと包む。兵の視線が硬いままでも、声だけは明るい。馬上の男が笑うと、周りも笑っていいのだと錯覚する。錯覚は統治の道具になる。
女たちも笑う。ショチトルが先に笑い、アヤウィトルが負けじと笑い、マリナルが大きく笑い、チマリは口元だけで笑い、イトツィは遅れて笑う。笑いの順番にすら、小さな争いが潜む。
町に入る直前、アルバロは馬上から女たちを見た。
「ここから先は、敵も味方も増える。お前たちはよくやっている。俺のそばで、同じ顔をしていろ」
女たちは頷く。忠誠の頷きだ。
ただし同時に、それぞれが胸の中で別の計算もしている。今夜、名を呼ばれるのは誰か。名を呼ばれない夜を、どう耐えるか。
センポアラの湿った風が、焚き火の匂いと、カカオの苦みと、女たちの香油をひとつに混ぜた。甘さは、戦の後にだけ残る。
―――――――――――――――――
挿絵は、『アステカ王国』です。
出典は、『小学館 日本大百科全書「ニッポニカ」』です。
挿絵は、『メソアメリカ』です。
出典は、『大陸書房「コルテス征略誌」モーリス・コリス著、金森誠也訳。P10』です。
挿絵は、『テノチティトラン侵攻「コルテス」』です。
出典は、『大陸書房「コルテス征略誌」モーリス・コリス著、金森誠也訳。P115』です。
挿絵は、『スペイン軍進路』です。
出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P103』です。
挿絵は、『テスココ湖周辺図』です。
出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P121』です。
挿絵は、『メソアメリカのカカオの産地』です。
出典は、『河出文庫「チョコレートの歴史」ソフィー・D・コウ:マイケル・D・コウ著。樋口幸子訳。P111』です。
挿絵は、『テノチティトラン地図』です。
出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P137」増田義郎著。P137』です。
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