ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ

ひまえび

文字の大きさ
69 / 137
第5章――「湖の鎖、石の秤」

第25話(後編)――「湯気の卓、ほどける棘」

しおりを挟む
―――――――――――――――――
 (1520年9月14日正午。センポアラ砦)
―――――――――――――――――

 砦の中庭には、海の匂いと火薬の匂いがまだ半分ずつ残っていた。焼けた縄の甘い焦げ、濡れた木の酸っぱい匂い、潮で硬くなった布の匂いが、昼の熱に押されてゆっくり立ち上がる。石畳の隙間には朝のしぶきが残り、踏むと靴底がきゅっと鳴った。

 捕虜の区画から女が2人だけ連れ出された。縄はほどかれているが、手首には麻の跡が赤い筋になって残っている。マリア・デ・クエリャル〈27〉と、カタリナ・スアレス・マルカイダ〈23〉だ。2人は歩幅を小さくし、周囲の視線を避けるように顎を引いた。鎧の擦れる音が、息づかいよりも大きく聞こえた。

 アルバロは中庭の陰に立っていた。胸当ては外し、白いシャツの袖を肘までまくっている。陽を受けた前腕は太く、指の節には砂と火薬の粉が薄く残っていた。彼は2人を見て言った。
「昼の食事を作ってほしい。ここで」

 2人の目が同時に上がった。命乞いの言葉が喉までせり上がり、そこで止まる。マリアが先にうなずき、カタリナも遅れてうなずいた。声を絞るように、カタリナが答えた。
「作ります」

 炊事小屋は砦の隅にあり、石のかまどが3つ並んでいた。薪の匂いが強く、鍋は黒く煤けている。桶には豆、乾燥肉、玉ねぎ、唐辛子、塩、見慣れない香草が少し。小麦粉も油も十分ではない。カタリナは棚を見て、顔を一瞬だけ曇らせた。

 マリアは深く息を吸い、手を動かし始めた。玉ねぎを刻む刃が、まな板を小刻みに打つ。白い汁が飛び、目が熱くなる。彼女は袖で拭い、泣いていると見られないよう顔を横へ向けた。

 カタリナは鍋に水を張り、豆を洗った。指の間から砂が落ちる。乾燥肉を指で裂くと、塩の匂いが立ち、舌の奥に海の味が戻った。彼女は小声で言った。
「キューバの味じゃなくて、スペインの味に寄せたいわ」
「寄せよう。あるもので」
 マリアも小さく返した。

 2人は、今あるものから故郷の形を作ろうとした。豆を煮て、玉ねぎを炒め、香草を刻む。唐辛子はほんの少しに抑え、辛さが先に立たないよう加減する。油が足りないぶん、肉の脂を丁寧に出す。湯気が上がると、塩と脂と玉ねぎが混ざった匂いが小屋いっぱいに広がり、胃が反射で動いた。

 アルバロは戸口に立ち、距離を詰めすぎずに見ていた。護衛は2人、槍を床へ立てている。石畳に穂先が触れ、かすかに擦れる音がした。アルバロは鍋の匂いを吸い、にこりと笑った。
「いい匂いだ。手際がいい」

 マリアの肩が一瞬だけ固くなった。包丁の動きがわずかに遅れ、次の刻みで取り戻す。アルバロの声には荒さがなく、言葉が丁寧に落ちてくる。彼は続けた。
「それに、お前たちは美しい。肌が透けるほど白い。久しぶりに見る色だ」

 カタリナは眉をひそめ、反射で返した。
「肌の色に感激するなんて、あなたも変わってる」
 アルバロは笑った。
「ここでは砂も煙も肌に残る。だからだ」

 マリアは包丁を置かずに言った。
「お願いです。夫を……夫を助けてください」
 言葉が途中で詰まり、喉が鳴った。鍋の湯気が目にしみるふりをして、彼女は顔を伏せた。

 アルバロはすぐ答えなかった。代わりに、マリアの手首を見た。麻の跡が赤く盛り上がっている。彼は護衛へ目を向け、布切れを持ってこさせた。布を彼女の前へ置く。
「巻け。熱い鍋に触る前に」

 マリアは驚いた顔のまま布を受け取った。触れた布は乾いていて、汗の匂いがしない。彼女は一度だけ息を整え、布を手首へ巻いた。顔を上げる。
「あなたは、もっと乱暴な人だと思ってた」
「乱暴は後でいくらでもできる。今は腹を満たす」
 アルバロはそう言って、同じ調子でうなずいた。

 鍋が煮立ち、泡が縁を叩く。カタリナが木杓子で混ぜると、豆が底から持ち上がり、香草が湯気に乗って広がる。マリアは乾燥肉を薄く切り、炙って皿に並べた。脂が落ち、火がぱちっと鳴る。焦げの匂いが一瞬だけ強くなり、鼻の奥をくすぐった。

 昼食は中庭の陰に置いた粗い木の卓で出された。豆の煮込みはとろみがつき、玉ねぎの甘みが立っている。肉は塩気が強いが、脂が口の中でほどける。カタリナが最後に香草を散らし、色を整えた。マリアは木皿を拭き、湯気で曇った指先を何度も擦った。

 アルバロは一口食べ、うなずいた。
「いい。懐かしい味だ。腹が落ち着く」
 マリアは恐る恐る言った。
「戦場の食事じゃありません。でも……私たちにできることは、これしか」
「十分だ」
 アルバロは首を振った。
「火を怖がらずに扱った。刃も鍋も。強い手だ」

 カタリナは半歩だけ姿勢をほどき、卓の端へ指を置いた。
「あなた、どんな言葉で育ったの。礼儀みたいに聞こえるのに、どこか違う」
「拾って生きてきた。礼儀は使いどころがある」
 アルバロはそう言い、椀を置く音を小さくした。

 マリアがもう一度、言葉を押し出した。
「夫は助かりますか」
 アルバロは硬い乾物を折り、噛んだ。噛む音が短く響く。
「助かるかどうかは、夫が何を差し出すかで決まる。だが、お前たちに恥をかかせるつもりはない」

 マリアの肩が、さっきより低く落ちた。息が長く吐けるようになり、布を巻いた手首を一度だけ撫でる。カタリナは鼻で短く笑った。
「泣き叫ぶ必要がないなんて、意外と分かってる」
「お前たちも分かってる。だから手が先に動いた」

 昼が進むにつれ、砦の外の音が遠のいた。鎖の擦れる音も、槍が石畳を打つ音も、日差しに薄まっていく。卓の上には湯気が残り、豆の匂いが衣へ染みた。マリアは一度だけアルバロの顔をまじまじ見た。若い。肩幅が広く、目が明るい。目つきが、相手を追い詰める角度を取らない。

 カタリナが口を尖らせて言った。
「そんなに褒めるなら、次は砂糖も出して。甘いものがないと、あなたの言葉だけが甘くて胸焼けする」
 マリアが思わず笑い、すぐ口を押さえた。笑った自分に驚いている。

 アルバロは楽しそうに目を細めた。
「胸焼けは困るな。褒め方を控えろと言うのか」
「控えられるなら、最初からしてるでしょう」
 カタリナは肩をすくめた。

 マリアの視線が、ほんの少しだけ逃げなくなった。カタリナの声にも、刺のある硬さが減る。捕虜であることは変わらない。それでも、昼の匂いが恐怖の匂いを押し返し、若くたくましい男の態度が、刃の代わりに場を整えていった。

 マリアは布を巻いた手首をそっと撫で、言った。
「あなたが私たちを道具みたいに扱わないのなら。私たちも、あなたを怪物みたいには扱わない」
 アルバロはうなずいた。
「それでいい。まずは昼を終える。次は話をする」

 食器を下げるころ、2人の目から最初の濁りが薄くなっていた。湯気の向こうで、アルバロの影が少しやわらかく見えた。

―――――――――――――――――
挿絵は、『アステカ王国』です。

出典は、『小学館 日本大百科全書「ニッポニカ」』です。
挿絵は、『メソアメリカ』です。

出典は、『大陸書房「コルテス征略誌」モーリス・コリス著、金森誠也訳。P10』です。
挿絵は、『テノチティトラン侵攻「コルテス」』です。

出典は、『大陸書房「コルテス征略誌」モーリス・コリス著、金森誠也訳。P115』です。
挿絵は、『スペイン軍進路』です。

出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P103』です。
挿絵は、『テスココ湖周辺図』です。

出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P121』です。
挿絵は、『メソアメリカのカカオの産地』です。

出典は、『河出文庫「チョコレートの歴史」ソフィー・D・コウ:マイケル・D・コウ著。樋口幸子訳。P111』です。
挿絵は、『テノチティトラン地図』です。

出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P137」増田義郎著。P137』です。
―――――――――――――――――
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【アラウコの叫び 】第4巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日21:40投稿】 4巻は、序盤は「推理もの」、中盤から後半は「ロマンスもの」が展開されます。 ・サンティアゴで起こる「事件」と「裁き」 ・「アンデスの悪魔」として悪名を轟かせた狂気の老人カルバハルの存在感 ・ニドス家の兄妹の「行く末」 ・イネスとバルディビアとの「出逢い」と「結末」 大きく分けてこの様な展開になってます。 ------------------- 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

江戸の夕映え

大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。 「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三) そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。 同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。 しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。

楽将伝

九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語 織田信長の親衛隊は 気楽な稼業と きたもんだ(嘘) 戦国史上、最もブラックな職場 「織田信長の親衛隊」 そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた 金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか) 天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!

対米戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。 そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。 3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。 小説家になろうで、先行配信中!

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 美濃の戦国大名、斎藤道三の娘・帰蝶(きちょう)は、隣国尾張の織田信長に嫁ぐことになった。信長の父・信秀、信長の傅役(もりやく)・平手政秀など、さまざまな人々と出会い、別れ……やがて信長と帰蝶は尾張の国盗りに成功する。しかし、道三は嫡男の義龍に殺され、義龍は「一色」と称して、織田の敵に回る。一方、三河の方からは、駿河の国主・今川義元が、大軍を率いて尾張へと向かって来ていた……。 【登場人物】 帰蝶(きちょう):美濃の戦国大名、斎藤道三の娘。通称、濃姫(のうひめ)。 織田信長:尾張の戦国大名。父・信秀の跡を継いで、尾張を制した。通称、三郎(さぶろう)。 斎藤道三:下剋上(げこくじょう)により美濃の国主にのし上がった男。俗名、利政。 一色義龍:道三の息子。帰蝶の兄。道三を倒して、美濃の国主になる。幕府から、名門「一色家」を名乗る許しを得る。 今川義元:駿河の戦国大名。名門「今川家」の当主であるが、国盗りによって駿河の国主となり、「海道一の弓取り」の異名を持つ。 斯波義銀(しばよしかね):尾張の国主の家系、名門「斯波家」の当主。ただし、実力はなく、形だけの国主として、信長が「臣従」している。 【参考資料】 「国盗り物語」 司馬遼太郎 新潮社 「地図と読む 現代語訳 信長公記」 太田 牛一 (著) 中川太古 (翻訳)  KADOKAWA 東浦町観光協会ホームページ Wikipedia 【表紙画像】 歌川豊宣, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

処理中です...