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第6章――「波の鎖、南の潮」
第11話――「湯気の卓、ほどける指先」
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(1521年6月30日、朝。ドミニカ島旗艦提督室)
ディエゴはここ十数日、妾たちの区画にばかり顔を出していた。旗艦の中は人の気配が濃く、夜ごと笑い声が壁越しにこぼれてくる。新任の侍女たちは、その声が途切れるのを待つようにして眠り、朝になれば何事もなかった顔で水を運び、布を洗い、針を動かした。
兵たちは彼女たちを粗末には扱わなかった。イサベルには子の分の乾パンが回り、ルイサには帳面の端が渡された。カタリナには炊事場の男が火を譲り、ベルナルダには傷薬の瓶が預けられた。年長のエレナは口論の芽を摘み、アナイラは水場の話をまとめ、シリマは周囲を見張った。
それでも胸の奥は乾いていった。ディエゴの冗談が飛んでこない。名を呼ばれることもない。褒められたいというより、見られていると確かめたかった。手を動かすたびに、自分が透明になっていく気がした。
今朝、ディエゴは廊下の端でその沈みを見た。ルイサは祈祷文を口の中でなぞり、イサベルは縫い目を指で押さえ、カタリナは塩加減を確かめる顔をしていた。誰も不満を言わない。だからこそ、黙り方が切実だった。
ディエゴは息を吐き、決めた。今日だけは妾たちの部屋へ行かない。新任の侍女たちと同じ卓につき、言葉を渡す。
提督室の隣の食卓は、朝から熱を帯びていた。窓を開けると潮の匂いが入り、帆布を打つ風の音が遠い波音に混じる。板の床は夜の湿りを残し、裸足で踏むとひやりとした。だが、空気はもう夏の重さだった。
誰も厚い衣を着ていられない。男も女も薄い麻布だけで、肌は風にさらされる。塩が乾いて白く残り、汗は首筋から鎖骨のあたりへ流れた。肩に掛けた布は、動くたびにずれて、指で直す仕草が増える。目を上げれば、そのたびに視線がぶつかる。ぶつかった方が先に逸らす。逸らした方が、あとで悔しくなる。
エレナが先に動いた。彼女は言った。「皆さん、手を洗ってください。将軍のお席も整えます」
声は落ち着いていたが、指先の動きが速い。机の布を引き、皿の位置を直し、湯気が逃げるよう窓を少しだけ開けた。
アナイラは壺の水を運び、シリマは果物籠の下に葉を敷いて傷みを隠した。ルイサは杯を並べ、イサベルは椅子の破れを縫い留める。カタリナは干し肉を薄く裂き、塩を落とす水にくぐらせた。ベルナルダは香草を砕き、粥へ落とす。匂いが立ち、潮気の重さが少しだけ軽くなる。
ディエゴが入ってきた瞬間、背中が一斉にこわばった。視線を上げたいのに上げられない。皿を置く音だけが妙に大きく聞こえた。
ディエゴは椅子を引き、笑って言った。「そんな顔をするな。今日は叱りに来たんじゃない。朝の匂いが良すぎて、俺の方が負けた」
彼は自分の上着の紐をほどき、肩から外した。濡れた髪が首筋に貼りつき、日焼けした肌に汗が光る。視線を落としたはずの女たちの目が、そこへ吸い寄せられ、すぐに慌てて戻った。
エレナが咳払いをして言った。「将軍、皆が緊張しております。どうかお許しを」
「許すも何もない」ディエゴは椅子へ腰を下ろし、「俺が緊張してる。お前たちの手際が良すぎてな。ここに座ると、俺だけがだらしなく見える」
その一言で、場が少し緩んだ。笑っていいのか迷って、笑いきれない。それがかえって可笑しい。
ディエゴはまずエレナを見た。
「エレナ、よくまとめてくれた。怒鳴らずに人を動かすのは難しい。お前はそれができる」
エレナは目を伏せ、「恐れ入ります」と言った。だが、肩の力がふっと抜けた。
次にアナイラへ。
「アナイラ、水の運び方が静かだ。音を立てない女は、家を壊さない」
アナイラは静かに頷いた。頷き方に、長く家を切り盛りしてきた癖が出た。
シリマが果物を置くと、ディエゴは笑った。
「シリマ、その目だ。森の危ない場所も、人の嘘も見抜くだろう」
シリマは丁寧に答えた。「将軍、私の目はまだ若いです」
「若いのに鋭い。危ないな」
冗談の形をしているのに、言葉の端が熱い。シリマの喉が小さく鳴り、唇が一瞬だけ乾く。
ルイサが水差しを持って近づいた。杯へ注ぐとき、手がほんの少し震えた。水が縁で跳ね、ディエゴの指に落ちる。
ディエゴは杯を置かせず、そっと言った。「慌てるな。こぼしたのは水だ。罪じゃない」
ルイサが「申し訳ありません」と言いかけたとき、ディエゴの指が彼女の手首を軽く押さえた。止めただけの触れ方だ。だが、皮膚に伝わる熱がはっきりして、ルイサの息が詰まる。
ディエゴは、押さえたまま笑った。「ほら、震えが止まった。お前の手は正直だな」
ルイサはようやく言った。「……恐れ入ります」
声は整えたが、耳まで赤い。エレナが見ていないふりをし、カタリナが皿を直すふりをした。誰もが、見てしまっている。
イサベルが子の分を別皿にしているのを見て、ディエゴは低く言った。
「イサベル、お前の手は速い。だがそれ以上に、先に気づく。子を守れる女は、周りも守る」
イサベルは言葉を探し、「ありがとうございます」とだけ返した。涙は出ない。代わりに、胸の底に張りついていた冷えが剥がれる。
カタリナが干し肉を差し出すと、ディエゴは一口噛み、頷いた。
「カタリナ、塩が強すぎない。暑い朝に喉が怒らない加減だ」
カタリナは言った。「将軍のお口に合ってよかったです」
「俺の口は、塩で黙るほど素直じゃない」
「では、何で黙りますか」
カタリナの返しが早くて、ディエゴが笑った。女たちが一斉に息を吐く。その笑いが、部屋の空気をさらに温める。
ベルナルダが香草粥の椀を置くと、湯気が顔に当たった。草の青い匂いが鼻を抜け、舌に穏やかな苦味が乗る。
ディエゴは言った。「ベルナルダ、これがあると腹が落ち着く。薬草を知る女は、身体だけじゃなく気持ちの熱も冷ませる」
ベルナルダは「はい」と答えたが、胸元の布をそっと押さえた。冷ますと言われたのに、皮膚の内側は熱くなる。
食卓は次第に軽くなった。波が船腹を叩く音が一定の拍子になり、その上に皿が触れ合う乾いた音、匙が椀の縁を打つ小さな音が重なる。潮と香草と肉の脂、果物の甘い匂いが混ざり、部屋の空気が濃くなる。
薄い布一枚の肩が触れ合う。ひやりとした汗の湿りと、体温の熱が交互に伝わる。誰かが布を直すたび、指が鎖骨の近くをなぞり、目がそちらへ向きそうになって、慌てて皿へ戻る。戻したはずの目が、また戻ってしまう。
ディエゴが椀を持ち上げると、ルイサがもう一度水差しを近づけた。今度は震えない。だが、注ぎ終わっても手を引けず、杯の縁に指が残った。ディエゴの視線がそこへ落ち、ルイサの指先が熱を持つ。
ディエゴは小さく言った。「その指、冷たいな。船の水のせいか」
ルイサは答える前に、息を吸ってしまった。「……はい」
ディエゴは指先に落ちた水を自分の親指で拭い、さらりと言った。「なら、今は温めておけ。仕事が終わってから冷えるとつらい」
言葉は労いの形をしている。だが、温めるという音が、女たちの腹の奥をくすぐった。誰が笑うでもないのに、椅子のきしみが増えた。胸元の布を直す指が忙しくなり、息が浅くなる。
その沈黙に、カタリナが先に刃を入れた。彼女はわざと匙を落とした。金属が板を叩いて甲高く鳴り、全員の視線が音へ吸われる。
カタリナは素知らぬ顔で言った。「将軍、申し訳ありません。手が滑りました。海の湿りは厄介ですね」
その一瞬だった。ルイサは水差しを抱えたまま、ディエゴの横へ半歩踏み込んだ。背を丸め、耳元へ近づく。
ルイサは小声で言った。「将軍、ここは狭いので……動かないでください」
言葉の終わりが、吐息に溶けた。彼女は自分でも驚くほど速く、ディエゴの口元へ顔を寄せた。潮の匂いと汗の匂いが混じり、胸がきゅっと縮む。唇が触れる寸前、船腹を打つ波の音が遠のき、耳の中が熱で満ちる。
だが、イサベルの子が咳き込み、椅子ががたついた。イサベルが慌てて背をさすり、ルイサの体がわずかに揺れた。唇は届かない。代わりに、熱い息だけがディエゴの唇を撫でて消えた。
ルイサは顔を離し、笑う形を作った。「……水が跳ねました。失礼しました」
ディエゴは低く言った。「逃げ足が速いな」
ルイサの耳が赤くなる。成功しなかった悔しさが、そのまま次の火になる。
次に動いたのはイサベルだった。子を落ち着かせ、布で口元を拭ったあと、彼女は椀を差し出すふりでディエゴへ近づいた。指先が慎重すぎるほど慎重で、逆に危うい。
イサベルは落ち着いた声で言った。「将軍、唇に塩が残っています。荒れますから」
彼女は布を持ち上げ、口元を拭うふりをした。布の影に隠れる角度ができる。そこでイサベルは、唇をまっすぐ差し出した。逃げない。迷わない。布の陰で、ディエゴの唇に自分の唇を押し当てた。
短い。だが確かだ。塩気と体温が混ざり、胸の奥が熱くなる。離れるとき、イサベルの睫毛が震えた。
エレナが皿の数を確かめるために顔を上げた。年長の目が一瞬だけこちらを切る。イサベルは即座に布をずらし、何事もなかったように言った。
イサベルは言った。「ほら、取れました。海の塩はしつこいですね」
エレナは何も言わず、視線を外した。見たのか見ていないのか分からない。その曖昧さが、場をさらに熱くした。
勝負が始まったと、女たちは理解した。誰も口に出さない。だが、椅子のきしみが増え、息が浅くなる。ルイサは悔しさで唇を湿らせ、カタリナは笑いを噛み殺し、ベルナルダは香草の匂いを嗅ぐふりをして胸元の布を押さえた。
その熱の中心へ、シリマが音もなく入ってきた。彼女は椅子の後ろへ回り込み、ディエゴの背へ影のように寄った。先住民の身のこなしは音が少ない。床板が鳴る前に、気配だけが来る。
シリマは静かに言った。「将軍、背に塩が残っています。痒くなります」
ディエゴが振り向こうとしたとき、シリマは片手で彼の顎のあたりをそっと押さえ、視線を前へ戻させた。押さえ方は乱暴ではない。だが、ためらいがない。
シリマは囁いた。「今、皆が見ています。だから、動かないでください」
皆が見ている。だからこそ、盗む価値がある。シリマはディエゴの肩の上へ身を乗せ、耳元へ顔を寄せた。濡れた髪が首筋に触れ、汗の塩が近くで匂う。
シリマは言った。「あなたは、私たちを見てくれました」
その言葉の終わりで、彼女は唇を動かした。狙いはごまかさない。ディエゴの唇へ、まっすぐ重ねる。短いが、ためらいがない。触れた瞬間だけ息が止まり、離れた瞬間に波の音が戻ってくる。
キスは短かった。盗むように、確かめるように、唇を奪って、すぐに離れる。だが、部屋の空気はその一瞬で変わった。
カタリナが落とした匙を拾う手が止まり、ルイサが水差しを持ったまま固まり、イサベルの指が子の肩で止まった。ベルナルダは香草の匂いを嗅ぐふりをし、アナイラは目を伏せ、エレナだけが机の布を直し続けた。布を直す指が、ほんの少しだけ早い。
ディエゴは笑わなかった。笑えば冗談になる。冗談にされることが、今は一番残酷だと分かっていた。
ディエゴは低く言った。「大胆だな」
「森では、迷うと死にます」シリマは平然と答えた。「だから、迷いません」
ディエゴは椅子から立ち上がらず、ただ片手を伸ばしてシリマの手首をつかんだ。温度が確かめられるほどの力で、逃げ道をふさぐほどではない。
ディエゴは言った。「次は、俺の許しを取れ。だが、今の勝負は……お前が先だ」
その言葉が落ちた瞬間、空気が一段熱くなった。勝った者がいる。負けた者がいる。まだ終わっていない者がいる。女たちはそれぞれ、同じ卓に座ったまま、心だけを前へ出した。
ルイサは水差しを置き直し、目を上げた。涙ではない。悔しさでもない。次の一手を考える顔だ。
イサベルは子の頭を撫でながら、唇を結び直した。守る手で奪う。彼女の中で、その順番が入れ替わった。
カタリナは拾った匙を指先で軽く回し、口元だけで笑った。勝負なら、次は言葉で切るつもりだ。
エレナは淡々と言った。「将軍、そろそろ本日の見回りのお時間です」
彼女の声は揺れない。だが、その言葉が助け舟にも聞こえた。これ以上、朝食の卓で熱を上げれば、場が崩れる。
ディエゴは頷き、上着を取り上げた。肩へ掛けるとき、シリマの目を一度だけ見た。
「続きは、昼ではない」ディエゴは小さく言った。「お前たちが仕事を終えたあとだ。俺は逃げない」
朝の潮風が窓から入り、湯気を押して散らした。だが、部屋の中の熱は、散らなかった。椅子のきしみと、薄布の擦れる音と、乾いた唇を湿らせる小さな息だけが、しばらく残った。
―――――――――――――――――
挿絵は、『アステカ王国』です。
出典は、『小学館 日本大百科全書「ニッポニカ」』です。
挿絵は、『メソアメリカ』です。
出典は、『大陸書房「コルテス征略誌」モーリス・コリス著、金森誠也訳。P10』です。
挿絵は、『17世紀初めのカリブ海地域』です。
出典は、『中公新書「物語ラテン・アメリカの歴史」増田義郎著P139』です。
挿絵は、『テノチティトラン侵攻「コルテス」』です。
出典は、『大陸書房「コルテス征略誌」モーリス・コリス著、金森誠也訳。P115』です。
挿絵は、『スペイン軍進路』です。
出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P103』です。
挿絵は、『テスココ湖周辺図』です。
出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P121』です。
挿絵は、『メソアメリカのカカオの産地』です。
出典は、『河出文庫「チョコレートの歴史」ソフィー・D・コウ:マイケル・D・コウ著。樋口幸子訳。P111』です。
挿絵は、『テノチティトラン地図』です。
出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P137」増田義郎著。P137』です。
―――――――――――――――――
ディエゴはここ十数日、妾たちの区画にばかり顔を出していた。旗艦の中は人の気配が濃く、夜ごと笑い声が壁越しにこぼれてくる。新任の侍女たちは、その声が途切れるのを待つようにして眠り、朝になれば何事もなかった顔で水を運び、布を洗い、針を動かした。
兵たちは彼女たちを粗末には扱わなかった。イサベルには子の分の乾パンが回り、ルイサには帳面の端が渡された。カタリナには炊事場の男が火を譲り、ベルナルダには傷薬の瓶が預けられた。年長のエレナは口論の芽を摘み、アナイラは水場の話をまとめ、シリマは周囲を見張った。
それでも胸の奥は乾いていった。ディエゴの冗談が飛んでこない。名を呼ばれることもない。褒められたいというより、見られていると確かめたかった。手を動かすたびに、自分が透明になっていく気がした。
今朝、ディエゴは廊下の端でその沈みを見た。ルイサは祈祷文を口の中でなぞり、イサベルは縫い目を指で押さえ、カタリナは塩加減を確かめる顔をしていた。誰も不満を言わない。だからこそ、黙り方が切実だった。
ディエゴは息を吐き、決めた。今日だけは妾たちの部屋へ行かない。新任の侍女たちと同じ卓につき、言葉を渡す。
提督室の隣の食卓は、朝から熱を帯びていた。窓を開けると潮の匂いが入り、帆布を打つ風の音が遠い波音に混じる。板の床は夜の湿りを残し、裸足で踏むとひやりとした。だが、空気はもう夏の重さだった。
誰も厚い衣を着ていられない。男も女も薄い麻布だけで、肌は風にさらされる。塩が乾いて白く残り、汗は首筋から鎖骨のあたりへ流れた。肩に掛けた布は、動くたびにずれて、指で直す仕草が増える。目を上げれば、そのたびに視線がぶつかる。ぶつかった方が先に逸らす。逸らした方が、あとで悔しくなる。
エレナが先に動いた。彼女は言った。「皆さん、手を洗ってください。将軍のお席も整えます」
声は落ち着いていたが、指先の動きが速い。机の布を引き、皿の位置を直し、湯気が逃げるよう窓を少しだけ開けた。
アナイラは壺の水を運び、シリマは果物籠の下に葉を敷いて傷みを隠した。ルイサは杯を並べ、イサベルは椅子の破れを縫い留める。カタリナは干し肉を薄く裂き、塩を落とす水にくぐらせた。ベルナルダは香草を砕き、粥へ落とす。匂いが立ち、潮気の重さが少しだけ軽くなる。
ディエゴが入ってきた瞬間、背中が一斉にこわばった。視線を上げたいのに上げられない。皿を置く音だけが妙に大きく聞こえた。
ディエゴは椅子を引き、笑って言った。「そんな顔をするな。今日は叱りに来たんじゃない。朝の匂いが良すぎて、俺の方が負けた」
彼は自分の上着の紐をほどき、肩から外した。濡れた髪が首筋に貼りつき、日焼けした肌に汗が光る。視線を落としたはずの女たちの目が、そこへ吸い寄せられ、すぐに慌てて戻った。
エレナが咳払いをして言った。「将軍、皆が緊張しております。どうかお許しを」
「許すも何もない」ディエゴは椅子へ腰を下ろし、「俺が緊張してる。お前たちの手際が良すぎてな。ここに座ると、俺だけがだらしなく見える」
その一言で、場が少し緩んだ。笑っていいのか迷って、笑いきれない。それがかえって可笑しい。
ディエゴはまずエレナを見た。
「エレナ、よくまとめてくれた。怒鳴らずに人を動かすのは難しい。お前はそれができる」
エレナは目を伏せ、「恐れ入ります」と言った。だが、肩の力がふっと抜けた。
次にアナイラへ。
「アナイラ、水の運び方が静かだ。音を立てない女は、家を壊さない」
アナイラは静かに頷いた。頷き方に、長く家を切り盛りしてきた癖が出た。
シリマが果物を置くと、ディエゴは笑った。
「シリマ、その目だ。森の危ない場所も、人の嘘も見抜くだろう」
シリマは丁寧に答えた。「将軍、私の目はまだ若いです」
「若いのに鋭い。危ないな」
冗談の形をしているのに、言葉の端が熱い。シリマの喉が小さく鳴り、唇が一瞬だけ乾く。
ルイサが水差しを持って近づいた。杯へ注ぐとき、手がほんの少し震えた。水が縁で跳ね、ディエゴの指に落ちる。
ディエゴは杯を置かせず、そっと言った。「慌てるな。こぼしたのは水だ。罪じゃない」
ルイサが「申し訳ありません」と言いかけたとき、ディエゴの指が彼女の手首を軽く押さえた。止めただけの触れ方だ。だが、皮膚に伝わる熱がはっきりして、ルイサの息が詰まる。
ディエゴは、押さえたまま笑った。「ほら、震えが止まった。お前の手は正直だな」
ルイサはようやく言った。「……恐れ入ります」
声は整えたが、耳まで赤い。エレナが見ていないふりをし、カタリナが皿を直すふりをした。誰もが、見てしまっている。
イサベルが子の分を別皿にしているのを見て、ディエゴは低く言った。
「イサベル、お前の手は速い。だがそれ以上に、先に気づく。子を守れる女は、周りも守る」
イサベルは言葉を探し、「ありがとうございます」とだけ返した。涙は出ない。代わりに、胸の底に張りついていた冷えが剥がれる。
カタリナが干し肉を差し出すと、ディエゴは一口噛み、頷いた。
「カタリナ、塩が強すぎない。暑い朝に喉が怒らない加減だ」
カタリナは言った。「将軍のお口に合ってよかったです」
「俺の口は、塩で黙るほど素直じゃない」
「では、何で黙りますか」
カタリナの返しが早くて、ディエゴが笑った。女たちが一斉に息を吐く。その笑いが、部屋の空気をさらに温める。
ベルナルダが香草粥の椀を置くと、湯気が顔に当たった。草の青い匂いが鼻を抜け、舌に穏やかな苦味が乗る。
ディエゴは言った。「ベルナルダ、これがあると腹が落ち着く。薬草を知る女は、身体だけじゃなく気持ちの熱も冷ませる」
ベルナルダは「はい」と答えたが、胸元の布をそっと押さえた。冷ますと言われたのに、皮膚の内側は熱くなる。
食卓は次第に軽くなった。波が船腹を叩く音が一定の拍子になり、その上に皿が触れ合う乾いた音、匙が椀の縁を打つ小さな音が重なる。潮と香草と肉の脂、果物の甘い匂いが混ざり、部屋の空気が濃くなる。
薄い布一枚の肩が触れ合う。ひやりとした汗の湿りと、体温の熱が交互に伝わる。誰かが布を直すたび、指が鎖骨の近くをなぞり、目がそちらへ向きそうになって、慌てて皿へ戻る。戻したはずの目が、また戻ってしまう。
ディエゴが椀を持ち上げると、ルイサがもう一度水差しを近づけた。今度は震えない。だが、注ぎ終わっても手を引けず、杯の縁に指が残った。ディエゴの視線がそこへ落ち、ルイサの指先が熱を持つ。
ディエゴは小さく言った。「その指、冷たいな。船の水のせいか」
ルイサは答える前に、息を吸ってしまった。「……はい」
ディエゴは指先に落ちた水を自分の親指で拭い、さらりと言った。「なら、今は温めておけ。仕事が終わってから冷えるとつらい」
言葉は労いの形をしている。だが、温めるという音が、女たちの腹の奥をくすぐった。誰が笑うでもないのに、椅子のきしみが増えた。胸元の布を直す指が忙しくなり、息が浅くなる。
その沈黙に、カタリナが先に刃を入れた。彼女はわざと匙を落とした。金属が板を叩いて甲高く鳴り、全員の視線が音へ吸われる。
カタリナは素知らぬ顔で言った。「将軍、申し訳ありません。手が滑りました。海の湿りは厄介ですね」
その一瞬だった。ルイサは水差しを抱えたまま、ディエゴの横へ半歩踏み込んだ。背を丸め、耳元へ近づく。
ルイサは小声で言った。「将軍、ここは狭いので……動かないでください」
言葉の終わりが、吐息に溶けた。彼女は自分でも驚くほど速く、ディエゴの口元へ顔を寄せた。潮の匂いと汗の匂いが混じり、胸がきゅっと縮む。唇が触れる寸前、船腹を打つ波の音が遠のき、耳の中が熱で満ちる。
だが、イサベルの子が咳き込み、椅子ががたついた。イサベルが慌てて背をさすり、ルイサの体がわずかに揺れた。唇は届かない。代わりに、熱い息だけがディエゴの唇を撫でて消えた。
ルイサは顔を離し、笑う形を作った。「……水が跳ねました。失礼しました」
ディエゴは低く言った。「逃げ足が速いな」
ルイサの耳が赤くなる。成功しなかった悔しさが、そのまま次の火になる。
次に動いたのはイサベルだった。子を落ち着かせ、布で口元を拭ったあと、彼女は椀を差し出すふりでディエゴへ近づいた。指先が慎重すぎるほど慎重で、逆に危うい。
イサベルは落ち着いた声で言った。「将軍、唇に塩が残っています。荒れますから」
彼女は布を持ち上げ、口元を拭うふりをした。布の影に隠れる角度ができる。そこでイサベルは、唇をまっすぐ差し出した。逃げない。迷わない。布の陰で、ディエゴの唇に自分の唇を押し当てた。
短い。だが確かだ。塩気と体温が混ざり、胸の奥が熱くなる。離れるとき、イサベルの睫毛が震えた。
エレナが皿の数を確かめるために顔を上げた。年長の目が一瞬だけこちらを切る。イサベルは即座に布をずらし、何事もなかったように言った。
イサベルは言った。「ほら、取れました。海の塩はしつこいですね」
エレナは何も言わず、視線を外した。見たのか見ていないのか分からない。その曖昧さが、場をさらに熱くした。
勝負が始まったと、女たちは理解した。誰も口に出さない。だが、椅子のきしみが増え、息が浅くなる。ルイサは悔しさで唇を湿らせ、カタリナは笑いを噛み殺し、ベルナルダは香草の匂いを嗅ぐふりをして胸元の布を押さえた。
その熱の中心へ、シリマが音もなく入ってきた。彼女は椅子の後ろへ回り込み、ディエゴの背へ影のように寄った。先住民の身のこなしは音が少ない。床板が鳴る前に、気配だけが来る。
シリマは静かに言った。「将軍、背に塩が残っています。痒くなります」
ディエゴが振り向こうとしたとき、シリマは片手で彼の顎のあたりをそっと押さえ、視線を前へ戻させた。押さえ方は乱暴ではない。だが、ためらいがない。
シリマは囁いた。「今、皆が見ています。だから、動かないでください」
皆が見ている。だからこそ、盗む価値がある。シリマはディエゴの肩の上へ身を乗せ、耳元へ顔を寄せた。濡れた髪が首筋に触れ、汗の塩が近くで匂う。
シリマは言った。「あなたは、私たちを見てくれました」
その言葉の終わりで、彼女は唇を動かした。狙いはごまかさない。ディエゴの唇へ、まっすぐ重ねる。短いが、ためらいがない。触れた瞬間だけ息が止まり、離れた瞬間に波の音が戻ってくる。
キスは短かった。盗むように、確かめるように、唇を奪って、すぐに離れる。だが、部屋の空気はその一瞬で変わった。
カタリナが落とした匙を拾う手が止まり、ルイサが水差しを持ったまま固まり、イサベルの指が子の肩で止まった。ベルナルダは香草の匂いを嗅ぐふりをし、アナイラは目を伏せ、エレナだけが机の布を直し続けた。布を直す指が、ほんの少しだけ早い。
ディエゴは笑わなかった。笑えば冗談になる。冗談にされることが、今は一番残酷だと分かっていた。
ディエゴは低く言った。「大胆だな」
「森では、迷うと死にます」シリマは平然と答えた。「だから、迷いません」
ディエゴは椅子から立ち上がらず、ただ片手を伸ばしてシリマの手首をつかんだ。温度が確かめられるほどの力で、逃げ道をふさぐほどではない。
ディエゴは言った。「次は、俺の許しを取れ。だが、今の勝負は……お前が先だ」
その言葉が落ちた瞬間、空気が一段熱くなった。勝った者がいる。負けた者がいる。まだ終わっていない者がいる。女たちはそれぞれ、同じ卓に座ったまま、心だけを前へ出した。
ルイサは水差しを置き直し、目を上げた。涙ではない。悔しさでもない。次の一手を考える顔だ。
イサベルは子の頭を撫でながら、唇を結び直した。守る手で奪う。彼女の中で、その順番が入れ替わった。
カタリナは拾った匙を指先で軽く回し、口元だけで笑った。勝負なら、次は言葉で切るつもりだ。
エレナは淡々と言った。「将軍、そろそろ本日の見回りのお時間です」
彼女の声は揺れない。だが、その言葉が助け舟にも聞こえた。これ以上、朝食の卓で熱を上げれば、場が崩れる。
ディエゴは頷き、上着を取り上げた。肩へ掛けるとき、シリマの目を一度だけ見た。
「続きは、昼ではない」ディエゴは小さく言った。「お前たちが仕事を終えたあとだ。俺は逃げない」
朝の潮風が窓から入り、湯気を押して散らした。だが、部屋の中の熱は、散らなかった。椅子のきしみと、薄布の擦れる音と、乾いた唇を湿らせる小さな息だけが、しばらく残った。
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挿絵は、『アステカ王国』です。
出典は、『小学館 日本大百科全書「ニッポニカ」』です。
挿絵は、『メソアメリカ』です。
出典は、『大陸書房「コルテス征略誌」モーリス・コリス著、金森誠也訳。P10』です。
挿絵は、『17世紀初めのカリブ海地域』です。
出典は、『中公新書「物語ラテン・アメリカの歴史」増田義郎著P139』です。
挿絵は、『テノチティトラン侵攻「コルテス」』です。
出典は、『大陸書房「コルテス征略誌」モーリス・コリス著、金森誠也訳。P115』です。
挿絵は、『スペイン軍進路』です。
出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P103』です。
挿絵は、『テスココ湖周辺図』です。
出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P121』です。
挿絵は、『メソアメリカのカカオの産地』です。
出典は、『河出文庫「チョコレートの歴史」ソフィー・D・コウ:マイケル・D・コウ著。樋口幸子訳。P111』です。
挿絵は、『テノチティトラン地図』です。
出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P137」増田義郎著。P137』です。
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1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
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tiktok:herohero_agency
江戸の夕映え
大麦 ふみ
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江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
対米戦、準備せよ!
湖灯
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大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
楽将伝
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隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
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JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
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帰蝶(きちょう):美濃の戦国大名、斎藤道三の娘。通称、濃姫(のうひめ)。
織田信長:尾張の戦国大名。父・信秀の跡を継いで、尾張を制した。通称、三郎(さぶろう)。
斎藤道三:下剋上(げこくじょう)により美濃の国主にのし上がった男。俗名、利政。
一色義龍:道三の息子。帰蝶の兄。道三を倒して、美濃の国主になる。幕府から、名門「一色家」を名乗る許しを得る。
今川義元:駿河の戦国大名。名門「今川家」の当主であるが、国盗りによって駿河の国主となり、「海道一の弓取り」の異名を持つ。
斯波義銀(しばよしかね):尾張の国主の家系、名門「斯波家」の当主。ただし、実力はなく、形だけの国主として、信長が「臣従」している。
【参考資料】
「国盗り物語」 司馬遼太郎 新潮社
「地図と読む 現代語訳 信長公記」 太田 牛一 (著) 中川太古 (翻訳) KADOKAWA
東浦町観光協会ホームページ
Wikipedia
【表紙画像】
歌川豊宣, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
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