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第五章 帝国の皇子

5 帝国の覇権と安寧のために

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 ラディムは皇宮のテラスに立っていた。

 冬の寒さに加えて、激しい風が吹きつけ顔を叩く。いつもはふんわりとしているおかっぱ頭の金髪も、今は風に任せるがままにしていた。手で押さえようにも、風が少々強すぎる。

 ラディムは両腕で体を抱き、身震いした。もう少し厚手のマントを着てくるべきだったと後悔した。

 だが、冬の乾いた空気のおかげで、ミュニホフの街並みはきれいに一望でき、目を凝らせば、雪化粧をした大陸中央のエウロペ山脈の姿も視界にとらえられた。その景色を見て美しいと言っても、誰も咎めはしないだろう。冬の時期しか見られない見事なものだった。

 隣には皇帝ベルナルドの姿がある。

 風にあおられて、肩甲骨のあたりまで伸ばされた黒髪が千々に乱れているが、ラディム同様に風のなすがままにしていた。

「ラディムよ、しかと見よ。この帝都の姿を」

 ベルナルドは左腕を大きく広げ、ミュニホフの街をラディムに示す。上げた腕に合わせて、身につけている漆黒のマントが激しくはためいていた。

「はい、陛下」

 ラディムはベルナルドの腕の動きに合わせ、視線をミュニホフの街へと移す。

 昼時のため、あちらこちらの煙突から煙が出ていた。道行く人も昼食を求め、足早に自宅やレストランなどに向かっているようだ。平和な街の一コマに映る。

 ラディムは少し緊張していた。こうしてベルナルドと一対一で向き合う機会は、そうそう多くはない。食事もたいていは席が離れており、また、母や皇后の姿もあるからだ。

「我々はこの光景を護っていかねばならない」

 威厳のある低い声で、ベルナルドはラディムに話す。

「乱そうとする者は、我々が自らの血を流してでも打ち倒さねばならない」

 ベルナルドは力こぶを作るように左腕を曲げると、力強く手を握り締めた。

「それが、我がギーゼブレヒト家に生まれた者の使命、ですね?」

 統治者として果たさねばならない役目。国民から期待されている皇家の役割。常々ザハリアーシュたち教育係にも、口を酸っぱくして言われている。

 今の何不自由ない生活も、この高貴なるものの義務を必要な時にきちんと果たすことを条件に、国民から与えられているものだ。務めを果たさぬ支配者は、いずれ民に滅ぼされる。過去幾度となく起こった『革命』……。

 まだザハリアーシュの授業では深くまで学んでいない『中央大陸史』だが、ラディムは先行して関連する歴史書を読み進めていた。

 だから、ラディムはよく知っていた。革命を起こされた支配者たちの末路を。そのような悲劇に見舞われた国の行く末を……。

「そうだ。……お前は私の実子ではないが、私にはいまだ子がおらん。お前が次の皇帝になる可能性は高い。もうすぐ十歳、徐々に様々な政治の場に連れていくことになろう。覚悟して過ごすように」

 ベルナルドは目を細めて鋭くラディムを見据えた。まるで値踏みをするかのように。

 釣り目気味の目から発せられる威圧感に、ラディムは思わず身震いした。

「承知いたしました、陛下。このラディム、精いっぱい務めさせていただきます」

 ベルナルドの実の子ではないという負い目を、ラディムは抱いていた。なので、絶対にベルナルドの期待には応えなければいけない、と心に誓う。応えられなければ、きっと、この皇宮に居場所がなくなる。

 臣下の中には、傍系のラディムが皇帝位につくことを良しとしない者も多いと聞く。将来の即位時に禍根を残さないためにも、周囲にはっきりと自分の力を見せつけなければいけないと、幼いラディムにもよくわかっていた。

 ベルナルドがいくら次期皇帝はラディムだと強く主張したとしても、有力家臣が納得しなければ、いずれは破綻するのが目に見えている。だから、ラディムは結果を出し続けなければいけなかった。

 ザハリアーシュたち教育係が熱心に帝王教育を施しているのも、ラディムを早く一人前にし、自らの手で後継者たり得る手柄を立てられるように、との配慮だと理解していた。

 ……理解はしていたが、子供としての心が、教育漬けに拒否反応も示していた。

「うむ……」

 ラディムの返事に満足げにうなずくと、ベルナルドは執務室へと戻っていった。

 テラスに残ったラディムは、しばらくの間ミュニホフの街を眺めた。

 護るべき街、護るべき国民。そして、その秩序を乱そうと画策している精霊教。世界を崩壊させかねない精霊術。

「自らの血を流してでも、打ち倒さねばならない、か……」

 ベルナルドの言葉を反芻する。

「精霊教……。もしかしたら、私の生涯はこの精霊教との戦いに費やされることに、なるのかもしれないな」

 世界を滅ぼしうる存在の精霊、その精霊を信奉する精霊教。この帝国内に、存在させていてはいけない。帝国の安寧を護れるのは、皇帝一族たるギーゼブレヒトの家名を背負う自分たちだけだ。ラディムは手を握り締め、決意を新たにした。






 中央大陸歴八〇九年冬――。

 ラディムの決意とは裏腹に、帝国の裏では様々な欲望が渦巻き、様々に蠢き始めていた。
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