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第二十章 大司教を追って
5-2 もう時間がありませんわ!~中編~
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どれくらいの時間が経過しただろうか。
アリツェはずっと黙りこくり、うつむいていた。たまにちらりと目線を上げるも、皆同じような姿勢で、口をつぐんでいる。
そのままアリツェが目線をラディムに移した時、一際大きな音でパチパチっと薪が爆ぜた。
「……捜索は打ち切りだ。下山しよう」
周囲に響き渡った破裂音に合わせるかのように、ラディムは顔を上げ、苦渋の決断を口にした。
再びの沈黙――。
重苦しく垂れこめる空気に、使い魔たちもいたたまれなくなったのだろうか、皆、目を閉じ、身を臥せっている。
時折風にあおられて揺らめく木々の葉が、カサカサと擦過音を響かせた。猛禽類のホォーッという鳴き声が、なぜだかアリツェの胸に、得も言われぬもの悲しさを湧き起こす。
アリツェはゆっくりと視線を移し、ドミニクやクリスティーナの様子を探った。ちょうどその時、クリスティーナも同じような行動をしており、偶然目が合った。アリツェはすぐさま目線をそらし、再びうつむいた。クリスティーナも、おそらくはアリツェと同じ動きを取ったに違いない。
お互いに牽制しあっていた。誰が最初に、ラディムに言葉をかけるのかを……。
アリツェは再度顔を上げ、ドミニクの様子を窺った。アリツェにシンクロするかのように、クリスティーナもドミニクへ顔を向けている。当のドミニクは、苦笑いを浮かべながらうなずいた。
「……いやな役回りを押し付けて悪かったね、ラディム」
ドミニクは重い口を開き、ラディムへ声をかけた。
ラディムは顔をこわばらせたままドミニクへ向き直り、「あぁ……」と低い声でつぶやいた。
一方で、クリスティーナは一度大きく息を吐きだすと、勢いよくグッと顔を上げた。
「皇帝なんだから、ラディム様も覚悟はしているでしょ? ま、でも、つらい決断を押し付けたのは間違いないし、私も謝るわ」
余勢を駆り、声高に、また、早口に、クリスティーナは一気にまくしたてた。決まりの悪さをごまかそうとする意図が、アリツェの目からもありありとわかった。このあたりは、クリスティーナもなかなかに不器用だとアリツェは思う。
ラディムは苦笑いを浮かべ、再び「あぁ……」とこぼした。
「この中で、一番に大司教を捕縛したいと願っていたのは、お兄様です。お兄様を支えるとはいいながら、わたくし、何もできませんでしたわ」
アリツェも覚悟を決め、ラディムに声を投げた。
大切な双子の片割れ同士、何があっても支え合う。アリツェはそう心に決めたはずだった。だが結局は、その大切な兄に、撤退という悲痛な決断を下させる結果となった。
悔しかった。恥ずかしかった。……胸が、張り裂けそうだった。
「いいや、そんなことはないさ。……この決断だって、アリツェがいなかったら、きっと下せなかった。もっとグダグダ悩み、行くも戻るもできなくなっていた可能性だってある」
ラディムは頭を振り、「そんなに自分を卑下しないでくれ」とアリツェに優しく返した。
「お兄様……」
アリツェはいたたまれなくなり、胸元でぎゅっと両手を握り締めた。
微妙な雰囲気が漂う中、ラディムは両ひざをポンっと叩くと、大きく息を吐きだしながら立ち上がった。
「とにかく、方針は決まった! キャンプを撤収し、早々に引き上げるぞ!」
ぐるりとアリツェたちを見遣り、ラディムは叫んだ。
アリツェたちはうなずいた。リーダーの決定だ。あとは尊重し、従うのみ。
お互い、内心ではいろいろと思うところもあるはずだ。アリツェも、当然ある。だが、今はあれこれと悩むときではない。まずは無事に下山をしなければいけなかった。今後を話し合うのは、ジュリヌの村に戻ってからだ。
誰一人欠けることなく、無事にジュリヌの村まで帰還する。それが、撤退を決めたアリツェたちの、これからの最優先事項だった。
一度決断をしてからは、アリツェたちの行動は早かった。
キャンプをすぐさま撤収し、即座に来た道を戻り始める。とりあえずは、温泉のあった分岐点までを目標にした。光の精霊術による明かりを頼りに、闇の中、獣道を登っていく。
相変わらず、猛禽類のホーッホーッと言う鳴き声と、わずかに騒めく木々の葉音だけが聞こえる。
足元は十分に乾いているため、しっかりとした足取りで一歩、また一歩と、アリツェたちは順調に坂道を攻略していった。行きの行軍で足元の草々はすっかり踏みつぶされており、躓く原因となるようなものもない。夜間であっても歩きやすかった。
夜明け過ぎには温泉地にたどり着き、アリツェたちはそこでいったん休息をとった。この温泉地周辺が、アリツェたちのたどった道程でもっとも標高の高い場所だ。ここがまだ雪に埋もれていない状況を鑑みれば、どうやら下山までは雪に降られずに済みそうな気配だった。
再び交代で温泉に浸かったが、さすがに作戦失敗の状況下では、クリスティーナもアリツェをからかってくることはなかった。静かに体を温め、清め、英気を注入した。
半日温泉地で休息をとった後、アリツェたちは行軍を再開した。今度は麓までの下り道だ。気温が上がっていくのはよいが、足腰にくるダメージは馬鹿にできない。これまた適度に休息を入れつつ、速く、しかし慎重に獣道を降った。
かつて登ってきた獣道を、数日かけて降りた。標高が下がるごとに、気温もぐんぐんと上昇してきた。完全に雪の不安はなくなっている。ずんずんと降り続け、アリツェたちはとうとう麓までたどり着いた。
「どうにか雪に巻かれる前に、無事麓まで戻れたね」
ドミニクは額に浮かんだ汗を布で拭いながら、周囲を見回した。
平地に降りたことに加え、しばらくの間上空を厚く垂れこめ続けていた黒い雲も、すっかり消えさっていた。このため、体感の気温はだいぶ高い。すでに冬服から秋服に換装をしているが、ひたすら動き続けていたこともあって、身体にだいぶ熱がこもっていた。
「もっとも、標高の高い温泉地周辺では、少々ヒヤッといたしましたが」
アリツェはちらりと山頂を見上げた。
温泉地で温泉に浸かっていたころは、まだ雪は降っていなかった。だが、休憩を済ませて温泉を発った翌日、どうやら一帯に初雪が降ったようだと、ルゥが報告を上げていた。少しの差で、面倒な行軍を強いられるところだった。
アリツェは視線を戻すと、ドミニクに倣って体内の熱を逃がすため、ローブの胸元を指で何度か摘まんだ。指を動かすたびに、すぅっと涼やかな風がローブ内へ入り込み、アリツェは思わず「ほぅっ」と吐息を漏らした。
「ちょっとの差で、初雪に巻き込まれていたわね。雪道で降るのは、さすがに労力が……」
クリスティーナはため息をつきながら、傍にある岩に腰を下ろした。
ただでさえ下り道は膝に負担がかかるのに、雪で地面がぬかるみ、滑りやすくなっては、その労力はどれほど増したであろうか。あまり考えたくはなかった。
「早々に撤収の決断をしてよかった。まだ十月の下旬、麓まで来てしまえば、もう雪の不安は一切ないな」
ラディムは柔らかな表情を浮かべていた。下した決断は決して間違ってはいなかった。そう確認できて、ほっとしているのだろう。
「さぁ、ジュリヌの村まで戻ろうか。帰りは馬がないけれど、時間制限ももう気にする必要はなくなったし、問題ないな」
騎馬は街道から外れた段階で解き放っていた。だが、馬で二日程度の距離だ。歩けないこともない。
ラディムの言葉に、アリツェたちはうなずきあった。
街道に戻ったアリツェたちは、ジュリヌの村に向かって道なりに歩き出した。徒歩ではおそらく四日程度の距離だ。タイムリミットの問題はなくなったので、それほど急がず、ゆっくりと歩を進めた。
そのまま二日、何ごともなく過ぎた。ただ、魔獣騒ぎがあったため、旅人の姿は皆無だった。
「主要街道がこれほどさびれていては、少々まずいな」
街道のあまりの人気のなさに、ラディムは嘆いた。
帝国皇帝としては、物流、経済が滞るのは見過ごせないだろう。かといって、小手先の振興策を取ろうとも、魔獣の噂が消えない限り、結局は無意味なものになりかねない。
だが、その根本原因の魔獣をどうにかしようにも、その魔獣自体が、今どこに潜んでいるのかわからなかった。
とその時、突然クリスティーナが立ち止まった。
「シッ! みんな静かに!」
クリスティーナは立てた人差し指を唇に当てた。
「ど、どうしましたの、クリスティーナ」
険しい表情を浮かべるクリスティーナに、アリツェは小声で尋ねた。
「マズい奴に遭遇ね。……たぶん、噂の魔獣様のお出ましよ」
クリスティーナは目線を前方に送った。アリツェもその視線の先を見遣る。
(あっ……)
街道の左側の森の様子が、明らかにおかしかった。背の高い木々で構成されたはずの森を貫くように、何やら茶色い物体が顔をのぞかせていた。その物体は、ゆっくりとではあるが移動している。
アリツェたちが慎重にその森のほうへと進むと、次第にバキバキッと木をなぎ倒すような音が聞こえてきた。間違いなく、魔獣だった。大きさ的に、件の魔獣の可能性が非常に高い。
「運がいいんだか悪いんだか。……ま、せっかくお会いできたんだし、丁重におもてなしといこうじゃないか」
ドミニクはニヤリと笑うと、腰に下げた剣を引き抜き、右手に持った。
「帝国国民の安全のためだ。たとえ皆が反対したとしても、私はこの場で魔獣を切って捨てるぞ」
ラディムも剣を抜き、魔獣の姿を睨みつけた。主人の意を汲んだのか、ミアとラースも、いつでも精霊具現化ができるよう態勢を整え始めた。
無論、アリツェも反対するつもりはさらさらない。
「大丈夫ですわ、お兄様。この場で反対する者なんて、いないですわ」
アリツェはそう口にするや、ペスとルゥを傍に呼び、戦闘に備えさせた。
「民の安寧を護るのは王族や貴族の役目。国は違えど、民が苦しむ姿を見たくないのは同じね」
クリスティーナもうなずくと、三匹の使い魔に素早く臨戦態勢を取らせた。
「クリスティーナは、『聖女』でもありますしね」
アリツェはクリスティーナに目線を送り、ぱちりと片目をつむった。
クリスティーナはヤゲル王国の王女であると同時に、精霊教の聖女としての尊敬も集めている。精霊たちの敵である魔獣を倒すことは、聖女の使命でもあると言えた。
「ふふっ、そういうこと。さっ、先手を取って、有利に進めましょう。スパッと三枚に下ろしてあげるわ」
クリスティーナは含み笑いを漏らしながら、腰から愛用のショートソードを抜きさった。前世のクリスティーナ――ミリアも、ショートソードの扱いがうまかった。言葉のとおり、本当に魔獣を綺麗にさばいたとしても、アリツェは驚かない自信がある。
「魚じゃないんだから……。ま、クリスティーナ様らしいな。ボクも、剣を振るうチャンスをもらえて、腕が鳴るよ」
ドミニクはその場で数度素振りをし、久しぶりの実戦に感覚を慣らそうとしている。
「いきましょう!」
皆の準備が整ったのを確認し、アリツェは声高に叫んだ。
アリツェはずっと黙りこくり、うつむいていた。たまにちらりと目線を上げるも、皆同じような姿勢で、口をつぐんでいる。
そのままアリツェが目線をラディムに移した時、一際大きな音でパチパチっと薪が爆ぜた。
「……捜索は打ち切りだ。下山しよう」
周囲に響き渡った破裂音に合わせるかのように、ラディムは顔を上げ、苦渋の決断を口にした。
再びの沈黙――。
重苦しく垂れこめる空気に、使い魔たちもいたたまれなくなったのだろうか、皆、目を閉じ、身を臥せっている。
時折風にあおられて揺らめく木々の葉が、カサカサと擦過音を響かせた。猛禽類のホォーッという鳴き声が、なぜだかアリツェの胸に、得も言われぬもの悲しさを湧き起こす。
アリツェはゆっくりと視線を移し、ドミニクやクリスティーナの様子を探った。ちょうどその時、クリスティーナも同じような行動をしており、偶然目が合った。アリツェはすぐさま目線をそらし、再びうつむいた。クリスティーナも、おそらくはアリツェと同じ動きを取ったに違いない。
お互いに牽制しあっていた。誰が最初に、ラディムに言葉をかけるのかを……。
アリツェは再度顔を上げ、ドミニクの様子を窺った。アリツェにシンクロするかのように、クリスティーナもドミニクへ顔を向けている。当のドミニクは、苦笑いを浮かべながらうなずいた。
「……いやな役回りを押し付けて悪かったね、ラディム」
ドミニクは重い口を開き、ラディムへ声をかけた。
ラディムは顔をこわばらせたままドミニクへ向き直り、「あぁ……」と低い声でつぶやいた。
一方で、クリスティーナは一度大きく息を吐きだすと、勢いよくグッと顔を上げた。
「皇帝なんだから、ラディム様も覚悟はしているでしょ? ま、でも、つらい決断を押し付けたのは間違いないし、私も謝るわ」
余勢を駆り、声高に、また、早口に、クリスティーナは一気にまくしたてた。決まりの悪さをごまかそうとする意図が、アリツェの目からもありありとわかった。このあたりは、クリスティーナもなかなかに不器用だとアリツェは思う。
ラディムは苦笑いを浮かべ、再び「あぁ……」とこぼした。
「この中で、一番に大司教を捕縛したいと願っていたのは、お兄様です。お兄様を支えるとはいいながら、わたくし、何もできませんでしたわ」
アリツェも覚悟を決め、ラディムに声を投げた。
大切な双子の片割れ同士、何があっても支え合う。アリツェはそう心に決めたはずだった。だが結局は、その大切な兄に、撤退という悲痛な決断を下させる結果となった。
悔しかった。恥ずかしかった。……胸が、張り裂けそうだった。
「いいや、そんなことはないさ。……この決断だって、アリツェがいなかったら、きっと下せなかった。もっとグダグダ悩み、行くも戻るもできなくなっていた可能性だってある」
ラディムは頭を振り、「そんなに自分を卑下しないでくれ」とアリツェに優しく返した。
「お兄様……」
アリツェはいたたまれなくなり、胸元でぎゅっと両手を握り締めた。
微妙な雰囲気が漂う中、ラディムは両ひざをポンっと叩くと、大きく息を吐きだしながら立ち上がった。
「とにかく、方針は決まった! キャンプを撤収し、早々に引き上げるぞ!」
ぐるりとアリツェたちを見遣り、ラディムは叫んだ。
アリツェたちはうなずいた。リーダーの決定だ。あとは尊重し、従うのみ。
お互い、内心ではいろいろと思うところもあるはずだ。アリツェも、当然ある。だが、今はあれこれと悩むときではない。まずは無事に下山をしなければいけなかった。今後を話し合うのは、ジュリヌの村に戻ってからだ。
誰一人欠けることなく、無事にジュリヌの村まで帰還する。それが、撤退を決めたアリツェたちの、これからの最優先事項だった。
一度決断をしてからは、アリツェたちの行動は早かった。
キャンプをすぐさま撤収し、即座に来た道を戻り始める。とりあえずは、温泉のあった分岐点までを目標にした。光の精霊術による明かりを頼りに、闇の中、獣道を登っていく。
相変わらず、猛禽類のホーッホーッと言う鳴き声と、わずかに騒めく木々の葉音だけが聞こえる。
足元は十分に乾いているため、しっかりとした足取りで一歩、また一歩と、アリツェたちは順調に坂道を攻略していった。行きの行軍で足元の草々はすっかり踏みつぶされており、躓く原因となるようなものもない。夜間であっても歩きやすかった。
夜明け過ぎには温泉地にたどり着き、アリツェたちはそこでいったん休息をとった。この温泉地周辺が、アリツェたちのたどった道程でもっとも標高の高い場所だ。ここがまだ雪に埋もれていない状況を鑑みれば、どうやら下山までは雪に降られずに済みそうな気配だった。
再び交代で温泉に浸かったが、さすがに作戦失敗の状況下では、クリスティーナもアリツェをからかってくることはなかった。静かに体を温め、清め、英気を注入した。
半日温泉地で休息をとった後、アリツェたちは行軍を再開した。今度は麓までの下り道だ。気温が上がっていくのはよいが、足腰にくるダメージは馬鹿にできない。これまた適度に休息を入れつつ、速く、しかし慎重に獣道を降った。
かつて登ってきた獣道を、数日かけて降りた。標高が下がるごとに、気温もぐんぐんと上昇してきた。完全に雪の不安はなくなっている。ずんずんと降り続け、アリツェたちはとうとう麓までたどり着いた。
「どうにか雪に巻かれる前に、無事麓まで戻れたね」
ドミニクは額に浮かんだ汗を布で拭いながら、周囲を見回した。
平地に降りたことに加え、しばらくの間上空を厚く垂れこめ続けていた黒い雲も、すっかり消えさっていた。このため、体感の気温はだいぶ高い。すでに冬服から秋服に換装をしているが、ひたすら動き続けていたこともあって、身体にだいぶ熱がこもっていた。
「もっとも、標高の高い温泉地周辺では、少々ヒヤッといたしましたが」
アリツェはちらりと山頂を見上げた。
温泉地で温泉に浸かっていたころは、まだ雪は降っていなかった。だが、休憩を済ませて温泉を発った翌日、どうやら一帯に初雪が降ったようだと、ルゥが報告を上げていた。少しの差で、面倒な行軍を強いられるところだった。
アリツェは視線を戻すと、ドミニクに倣って体内の熱を逃がすため、ローブの胸元を指で何度か摘まんだ。指を動かすたびに、すぅっと涼やかな風がローブ内へ入り込み、アリツェは思わず「ほぅっ」と吐息を漏らした。
「ちょっとの差で、初雪に巻き込まれていたわね。雪道で降るのは、さすがに労力が……」
クリスティーナはため息をつきながら、傍にある岩に腰を下ろした。
ただでさえ下り道は膝に負担がかかるのに、雪で地面がぬかるみ、滑りやすくなっては、その労力はどれほど増したであろうか。あまり考えたくはなかった。
「早々に撤収の決断をしてよかった。まだ十月の下旬、麓まで来てしまえば、もう雪の不安は一切ないな」
ラディムは柔らかな表情を浮かべていた。下した決断は決して間違ってはいなかった。そう確認できて、ほっとしているのだろう。
「さぁ、ジュリヌの村まで戻ろうか。帰りは馬がないけれど、時間制限ももう気にする必要はなくなったし、問題ないな」
騎馬は街道から外れた段階で解き放っていた。だが、馬で二日程度の距離だ。歩けないこともない。
ラディムの言葉に、アリツェたちはうなずきあった。
街道に戻ったアリツェたちは、ジュリヌの村に向かって道なりに歩き出した。徒歩ではおそらく四日程度の距離だ。タイムリミットの問題はなくなったので、それほど急がず、ゆっくりと歩を進めた。
そのまま二日、何ごともなく過ぎた。ただ、魔獣騒ぎがあったため、旅人の姿は皆無だった。
「主要街道がこれほどさびれていては、少々まずいな」
街道のあまりの人気のなさに、ラディムは嘆いた。
帝国皇帝としては、物流、経済が滞るのは見過ごせないだろう。かといって、小手先の振興策を取ろうとも、魔獣の噂が消えない限り、結局は無意味なものになりかねない。
だが、その根本原因の魔獣をどうにかしようにも、その魔獣自体が、今どこに潜んでいるのかわからなかった。
とその時、突然クリスティーナが立ち止まった。
「シッ! みんな静かに!」
クリスティーナは立てた人差し指を唇に当てた。
「ど、どうしましたの、クリスティーナ」
険しい表情を浮かべるクリスティーナに、アリツェは小声で尋ねた。
「マズい奴に遭遇ね。……たぶん、噂の魔獣様のお出ましよ」
クリスティーナは目線を前方に送った。アリツェもその視線の先を見遣る。
(あっ……)
街道の左側の森の様子が、明らかにおかしかった。背の高い木々で構成されたはずの森を貫くように、何やら茶色い物体が顔をのぞかせていた。その物体は、ゆっくりとではあるが移動している。
アリツェたちが慎重にその森のほうへと進むと、次第にバキバキッと木をなぎ倒すような音が聞こえてきた。間違いなく、魔獣だった。大きさ的に、件の魔獣の可能性が非常に高い。
「運がいいんだか悪いんだか。……ま、せっかくお会いできたんだし、丁重におもてなしといこうじゃないか」
ドミニクはニヤリと笑うと、腰に下げた剣を引き抜き、右手に持った。
「帝国国民の安全のためだ。たとえ皆が反対したとしても、私はこの場で魔獣を切って捨てるぞ」
ラディムも剣を抜き、魔獣の姿を睨みつけた。主人の意を汲んだのか、ミアとラースも、いつでも精霊具現化ができるよう態勢を整え始めた。
無論、アリツェも反対するつもりはさらさらない。
「大丈夫ですわ、お兄様。この場で反対する者なんて、いないですわ」
アリツェはそう口にするや、ペスとルゥを傍に呼び、戦闘に備えさせた。
「民の安寧を護るのは王族や貴族の役目。国は違えど、民が苦しむ姿を見たくないのは同じね」
クリスティーナもうなずくと、三匹の使い魔に素早く臨戦態勢を取らせた。
「クリスティーナは、『聖女』でもありますしね」
アリツェはクリスティーナに目線を送り、ぱちりと片目をつむった。
クリスティーナはヤゲル王国の王女であると同時に、精霊教の聖女としての尊敬も集めている。精霊たちの敵である魔獣を倒すことは、聖女の使命でもあると言えた。
「ふふっ、そういうこと。さっ、先手を取って、有利に進めましょう。スパッと三枚に下ろしてあげるわ」
クリスティーナは含み笑いを漏らしながら、腰から愛用のショートソードを抜きさった。前世のクリスティーナ――ミリアも、ショートソードの扱いがうまかった。言葉のとおり、本当に魔獣を綺麗にさばいたとしても、アリツェは驚かない自信がある。
「魚じゃないんだから……。ま、クリスティーナ様らしいな。ボクも、剣を振るうチャンスをもらえて、腕が鳴るよ」
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