新・三国志 

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第1章 雌伏編

 第1章 第2節 雌伏編 その1

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新・三国志 第1章 雌伏編 その1

西暦161年(延熹4年)劉備は琢県(現在の河北省保定市琢州市)楼桑里の出身。祖父は劉雄、父は劉弘である。

祖父は孝廉に推され、郎中となり、最終的には琢州東郡范県の令となった。

父も州郡の官吏を勤めたが、劉備がまだ幼い頃に死んだために土豪(現地の小豪族)の身分でありながら劉備の家は貧しくなり、母と共に筵を織って生計を立てていた。

劉備は9歳になると長安で勢力を持つ秦王劉星玄の招聘によって 、長安に行くことになった。

第4代和帝の政策で劉氏に生まれたものは10歳になると幼年学校に進み学問・武芸に勤しむべきという詔に従い幽州の学校に行く予定だったが秦王の招聘で長安に行くようになる。

幼年学校を3年、高校を2年、大学を3年で卒業し18歳で琢郡の令印(郡太守)に赴任した。

秦王は生前劉備の父劉弘と親交があり、秦王は劉備を引取ると言ってきた。劉備の母も含め長安で御世話させて欲しいとも言ってきた。

だが母親の劉氏は夫の墓を守って暮らしたいという言葉に母親の招聘を諦め、劉弘の墓のある慈或寺に離れを築き劉氏を住まわせた。

僧兵100名の守る慈或寺であり警備の心配は無い。尼寺も併設されているので、5名の男女を選んで警護と身辺の世話を命じた。

母は劉備が長安に行くとき必ず一人前の身分になるまで帰って来てはいけませんと諭され、互いに涙して別れたのだった。

秦王は劉備が18歳になり知り合いであった芙蓉家の娘と結ばれ嫁とした時に、琢郡の令印(郡太守)に赴任させ旧実家を改装して、故郷に錦を諮り親子ともども住める様にさせた。

2年後劉備は幽州太守となり5万の兵を持ち北辺に警戒の目を向け、特に鮮卑族と高句麗国、朝鮮の百済国・新羅国の動向を間者を送りよく調べていた。

ここで幽州太守となった彼の配下を紹介しておこう。

武官としては父劉弘の義兄弟であった趙角(禁軍棒術総師範)の調子趙勇と趙角の弟趙雄(禁軍槍術師範)の第3子趙雲、同じく関長の第3子関羽と張信の第4子張飛があった。

関張と張新の両名も元禁軍棒術師範であり、今は引退して故郷で後進の育成に当たっている。

後趙勇は趙角・趙雄が引退した後の後継者となる為洛陽に戻った。この時代は平均寿命も短く40歳になると引退して後輩に道を譲る事が専らであった。

趙勇の代わりに3男の趙令が派遣されてきた。趙令は武勇よりも陣法を得意とし、将軍職として有能な一人だった。ただ趙角の息子だ、武勇においても張飛や関羽に引けは取らない。

彼らは大体同年齢で高校や大学で同期生や先輩、後輩であった者達で秦王が選んだ武官である。

この他にも涼州武威の太守馬騰の配下馬竜と配下の猛将龐徳と華雄、閻行がやって来た。龐徳は馬騰の長男馬超の様な猛将なので劉備も喜んだ。

この他幽州の武芸大会で優勝した顔良とその弟分文醜、冀州の上将張洽や高覧、張遼、徐晃らが劉備の名声を聞いて集まって来た。

併州からも呂布や高順、宋憲や魏続、候成らが選ばれてきた。

劉備は彼ら数十名の武将達から武勇、作戦、補給、構築、間諜等のテストを行い優れた者10名を選んだ。

趙勇、関羽、張飛、張洽、張遼の5将は劉備の直臣であり代わることは無い。

その他に徐晃、華雄、顔良、文醜、鵬徳、許著、馬竜、高覧、高順、閻行らが選ばれた!

10将には10金と編将軍の位が送られ無位無官の若い彼らは大いに喜び忠誠を誓った。

成人したばかりの趙雲、馬休らは15歳になったばかりで、体がまだ小さく20歳前後の選ばれた10名に及ばなかった。彼ら10名は河北10星将と呼ばれた。

これは4年年毎に選ばれる恒例行事でり、現代版オリンピックと言った所である。

併州、涼州、冀州、幽州の4州の武芸大会から選ばれた上位10名の名が河北10星将となるのだ。

是は河南地方でも行われて、河南10真将となる。更にその他の4州でも江南10清将の名で賞されていた。

文官でも同じで秦王に選ばれた5名麋竺、陳羣、沮授、陳登、陳宮は直臣として劉備に仕える。

河北から選ばれた10名は武官と同じく10金と各地の丞(太守の副官)に選ばれる。

審配、郭図、関清、魏脩、陳琳、荀甚、尚郎、辛評、廉記、南鳴で一癖も二癖がある者も入っていた。









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