新・三国志 

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第1章 雌伏編

 第1章 第2節 雌伏編 その7

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新・三国志 第1章 雌伏編 その7 

西暦182年1月
漸く話は元の流れに戻る。劉備は幽州太守となり、この国の政治家の一翼として自身の道を歩み始めた。 

配下には一騎当千の勇将や智謀の士を多く抱え本国以上の力を得たと誰もが噂していた。 

本国は雍州にあり何も動くことは無かった。現在は霊帝の御代になっていたが、先の順帝より、本国は他の諸国に一切干渉すべからずという詔を給い、一切動くことは無かった。 

西暦100年に和帝が引退し安帝が即位した(在位~125年)。順帝~144)。 
恒帝~167)。霊帝~189)。と30年以上在位で来た皇帝は居ない。 

和帝は引退後105年で亡くなっている。和帝と安帝が25年で一番長かった。歴代の皇帝は食事の仕方が悪かったのか? 

おそらくかなりカロリーの高い者ばかり食べていたのだろう。現在では分からない事も多いが、栄養のバランス等も良くなかったと推定するしかない。 

話が脱線したが、霊帝が着任した167年には国内は乱れ、4王国など分国制度は存在の欠片も無い有様となっていた。 

120年にタイムスリープから覚醒する予定だった秦王劉星玄は緊急事態が起きたので100年の1月10日に目覚める事になる。 

覚醒後彼は和帝の改革は素晴らしいが未来人が歴史をこの様に大幅に変革すると必ず歴史の大きなリバウンドが起こる事を、長く改変の事業に係わった経験則から良く知っていた。 

配下の部下や一族に説明し、雍州の一部分の狭い地域なら影響は少ないと銀河PCマザーの意見も取り入れて、残念だが和帝の改革を他の地域ではほぼ中断させる事にし、ただ学校制度のみは存続させた。

この為現在いる4王や23名の補佐官、5省の大臣、その配下で有能な者、各地に配備された常備軍や8州の州都にいる州護軍の騎馬隊、匈奴に備えた辺境軍や鮮卑に備えた国境軍も本国に引かせた。 

本国に戻った大半の人材は秦王の命でシェルターで眠りにつく、新たなる再建の時を信じて。 

こうして秦王による漢帝国崩壊への舵が100年に切られたのだった。ただ彼も再び眠りに就く。 

それ以降僅かに残った秦王の配下達は国内にいるあらゆる有能な人材を長安に集めては眠りに就かせた。 

この為妙な噂も立ったが、配下の諜報部隊が誤魔化していった。又雍州全土は皇帝の直轄地となり、農民も豊かな南の村へ移住が奨励され、50年余りで無人の街が殆どなる。 

更に州境に強力な結界を張らせて、人の行き来も制限し、洛陽や長安などの街の周辺にしか人は居なくなり、空いた農場は纏められカカシの様な服を着たアンドロイドが耕作していた。 

街道も道の両端を鉄の屏で覆い、洛陽を襲った魔獣がいるので警備の為と納得させ、又街道の宿場街には数百の武装した重装歩兵が常に警戒態勢を取っていた。 

街道には100騎程の騎馬の警羅隊が巡回し通行する商人や旅人に注意を与えていた。更に月1~2回は魔獣が発見され警羅隊と交戦し宿場町でその肉を食べる者も多くいた。 

西暦183年劉備は幽州太守となり1年が経った。劉備は順調に勢力を伸ばしていた。

精兵4万余と歩兵6万を率い多くの勇将を抱える彼を危険視し妬む者も多かった。 

霊帝の元にも讒言が多く届き、余りに苦情が多いので彼は田舎町の徐州太守に3月転出させられた。格から言えば徐州太守は下になる。

秦王は155年より覚醒し、長安を中心に武力で雍州を収め、涼州・荊州・益州の異民族の反乱等を鎮圧し、匈奴や鮮卑、姜族から神威王と恐れられ、彼の地元では反乱は善政にもよるが起きなかった。

又秦王から各地が魔獣や政治的な混乱で有能な人材が居ないとして。劉備の元にいた歴史に影響を与えそうな武官では呂布、徐晃、張洽、高順、許著等が長安へ赴任することになる。 

又文官では荀彧、荀攸、審配、郭図、逢紀らが同じ様に長安へ転出していった。 

秦王の使いが現在各地は混乱に陥っている止むを得ず貴下の配下にある武・文官の拠出せよとの命が下った。素直な劉備は従ったが配下の者は意見を言う者もいた。 

皆様の心境も判るが今は国家存亡の時、徐州のみが安泰で良いのですかな?と言われれば誰もが黙ってしまった。 

壮大な送別会が開かれ配下の者は転出していった。 

歴史は元の道を辿るらしい。 

河北では冀州を乗っ取った袁紹が力をつけ幽州代郡の公孫瓚と争っていた。兗州の曹操は徐州の陶謙と争っていたが、劉備が183年に徐州太守に赴任したのでこれと争う事になる? 

荊州は南陽の劉表が力をつけ、涼州は武威の馬騰、金城の韓遂、揚州は江南の孫策、豫洲は淮南の袁術が勢力を広げ、ほぼ歴史通りの展開になりつつあった。 



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