38 / 40
終幕 第三部 「雄牛の秘密」
しおりを挟む
鍋を囲んだ日から、数日が過ぎた。
まことは、あの喫茶店の二階、窓際の席に一人座っていた。かつて、由美の姿を盗み見ていた、彼の罪と欲望の原点ともいえる場所。
由美はもう、ここには現れない。アメリカに渡り、新しい生活を始めている。
それでも、会社での立場を最大限に利用し、リモートワークと称してはこの場所を訪れるのが、まことの新しい日常になっていた。由美を失った現実から目を背けるように、彼女の残り香が染みついたこの空間だけが、不思議と彼の心を鎮めてくれるのだった。
ノートパソコンの画面をなぞる。由美に関するSNSやニュースをチェックするのが、彼の日課であり、儀式だった。ほとんど更新されることのない彼女のアカウント。だが、今日は違った。
一枚の写真が、アップロードされている。
アメリカの乾いた光の中、少しはにかむように微笑む由美。その隣には、穏やかな表情の婚約者の姿があった。
胸が、ちくりと痛む。だが、それ以上に、彼女が幸せであるという事実に、安堵している自分もいた。
まことは慣れた手つきで写真をダウンロードすると、画像編集ソフトを立ち上げ、婚約者の部分を丁寧に切り取り、由美だけの姿にした。そして、ポケットから例の雄牛をかたどったUSBキーホルダーを取り出した。由美が彼の欲望の象徴として与えた、今では唯一の繋がりを示すお守りだ。
パソコンに差し込むと、OSが外部ドライブを認識する。しかし、フォルダは表示されない。代わりに現れたのは、アクセス権を求める無機質な認証画面だ。ドライブ名は、『YUMI』。
パスワードは、彼女の誕生日。寸分違わずキーを叩くと、ロックが解除され、これまで彼が集めてきた由美のすべてが姿を現す。今日クロップした一枚を、その神聖なコレクションに加えた。
その時だった。
フォルダの奥に、見慣れない一つのファイルがあることに、まことは気づいた。
『To my dearest friends.zip』
圧縮ファイルだ。そして、別の鍵のマークがついている。
(なんだ、これは……?)
由美の誕生日でロックされた、彼女だけの聖域《サンクチュアリ》であるはずのこの場所に、見知らぬファイルが存在する。しかも、自分たち三人に宛てて。その矛盾した事実に、思考が停止し、次いで全身の血が沸騰するような興奮が駆け巡った。由美だ。由美が、アメリカへ発つ前に、このUSBメモリに仕込んだのか。
心臓が、大きく脈打つのを感じた。まことは逸る気持ちを抑え、すぐにスマートフォンを手に取り、楓に電話をかけていた。
翌日、三人は再び楓の部屋に集まっていた。
まことから事情を聞いた楓と雛もまた、緊張と期待が入り混じった表情で、パソコンの画面を食い入るように見つめている。
「パスワード……なんだろう」
撮影会の日付、箱根の旅館の名前、由美の誕生日。思いつく限りの文字列は、無情にも弾かれていく。諦めかけたその時、腕を組んで黙って画面を睨んでいた楓が、ふと、何かに思い当たったように口を開いた。
「ねえ……あのルージュの名前、試してみてくれない?」
由美の仮面を砕く、最後の一撃となったあのルージュ。その最初の持ち主である楓の言葉に、まことは息を飲み、震える指でキーボードを叩く。
『Mise à mort』
エンターキーを押した瞬間、ロックが外れ、画面に隠されたフォルダの中身が表示された。
その瞬間、誰にも聞こえないほどの、小さな安堵のため息が、雛の唇から漏れた。
+++
次は明後日の夜20時頃更新します。
土曜日がグラントフィナーレとなります。
まことは、あの喫茶店の二階、窓際の席に一人座っていた。かつて、由美の姿を盗み見ていた、彼の罪と欲望の原点ともいえる場所。
由美はもう、ここには現れない。アメリカに渡り、新しい生活を始めている。
それでも、会社での立場を最大限に利用し、リモートワークと称してはこの場所を訪れるのが、まことの新しい日常になっていた。由美を失った現実から目を背けるように、彼女の残り香が染みついたこの空間だけが、不思議と彼の心を鎮めてくれるのだった。
ノートパソコンの画面をなぞる。由美に関するSNSやニュースをチェックするのが、彼の日課であり、儀式だった。ほとんど更新されることのない彼女のアカウント。だが、今日は違った。
一枚の写真が、アップロードされている。
アメリカの乾いた光の中、少しはにかむように微笑む由美。その隣には、穏やかな表情の婚約者の姿があった。
胸が、ちくりと痛む。だが、それ以上に、彼女が幸せであるという事実に、安堵している自分もいた。
まことは慣れた手つきで写真をダウンロードすると、画像編集ソフトを立ち上げ、婚約者の部分を丁寧に切り取り、由美だけの姿にした。そして、ポケットから例の雄牛をかたどったUSBキーホルダーを取り出した。由美が彼の欲望の象徴として与えた、今では唯一の繋がりを示すお守りだ。
パソコンに差し込むと、OSが外部ドライブを認識する。しかし、フォルダは表示されない。代わりに現れたのは、アクセス権を求める無機質な認証画面だ。ドライブ名は、『YUMI』。
パスワードは、彼女の誕生日。寸分違わずキーを叩くと、ロックが解除され、これまで彼が集めてきた由美のすべてが姿を現す。今日クロップした一枚を、その神聖なコレクションに加えた。
その時だった。
フォルダの奥に、見慣れない一つのファイルがあることに、まことは気づいた。
『To my dearest friends.zip』
圧縮ファイルだ。そして、別の鍵のマークがついている。
(なんだ、これは……?)
由美の誕生日でロックされた、彼女だけの聖域《サンクチュアリ》であるはずのこの場所に、見知らぬファイルが存在する。しかも、自分たち三人に宛てて。その矛盾した事実に、思考が停止し、次いで全身の血が沸騰するような興奮が駆け巡った。由美だ。由美が、アメリカへ発つ前に、このUSBメモリに仕込んだのか。
心臓が、大きく脈打つのを感じた。まことは逸る気持ちを抑え、すぐにスマートフォンを手に取り、楓に電話をかけていた。
翌日、三人は再び楓の部屋に集まっていた。
まことから事情を聞いた楓と雛もまた、緊張と期待が入り混じった表情で、パソコンの画面を食い入るように見つめている。
「パスワード……なんだろう」
撮影会の日付、箱根の旅館の名前、由美の誕生日。思いつく限りの文字列は、無情にも弾かれていく。諦めかけたその時、腕を組んで黙って画面を睨んでいた楓が、ふと、何かに思い当たったように口を開いた。
「ねえ……あのルージュの名前、試してみてくれない?」
由美の仮面を砕く、最後の一撃となったあのルージュ。その最初の持ち主である楓の言葉に、まことは息を飲み、震える指でキーボードを叩く。
『Mise à mort』
エンターキーを押した瞬間、ロックが外れ、画面に隠されたフォルダの中身が表示された。
その瞬間、誰にも聞こえないほどの、小さな安堵のため息が、雛の唇から漏れた。
+++
次は明後日の夜20時頃更新します。
土曜日がグラントフィナーレとなります。
0
あなたにおすすめの小説
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
女の子がほとんど産まれない国に転生しました。
さくらもち
恋愛
何番煎じかのお話です。
100人に3~5人しか産まれない女の子は大切にされ一妻多夫制の国に産まれたのは前世の記憶、日本で亭主関白の旦那に嫁いびりと男尊女卑な家に嫁いで挙句栄養失調と過労死と言う令和になってもまだ昭和な家庭!でありえない最後を迎えてしまった清水 理央、享年44歳
そんな彼女を不憫に思った女神が自身の世界の女性至上主義な国に転生させたお話。
当面は2日に1話更新予定!
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。
すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。
そこで私は一人の男の人と出会う。
「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」
そんな言葉をかけてきた彼。
でも私には秘密があった。
「キミ・・・目が・・?」
「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」
ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。
「お願いだから俺を好きになって・・・。」
その言葉を聞いてお付き合いが始まる。
「やぁぁっ・・!」
「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」
激しくなっていく夜の生活。
私の身はもつの!?
※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる