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第3章
―3― ”船”はなかなか進まない
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朝日が昇った。
一面の銀世界を照らし出していくその輝きは、肌寒いアリスの城の一室の窓より外を眺めていたレイナの青い瞳をも輝かせていた。
今日の午後、レイナはこのアリスの城を発つ。
ジョセフ王子、そしてカールやダリオたちの魔導士は、アドリアナ王国の首都シャノンへと戻る。だが、レイナはこのアリスの町より南へと下るのだ。
アポストルより、やがて英雄になるとの啓示を受けた3人の青年――ルーク、ディラン、トレヴァーとともに。
彼らと行動をともにする。このことは命令などではなく、レイナ自らの意志によるものであった。
元の世界での元の肉体の滅び。元の世界の元の肉体に戻りたいという、諦めるしかない願い。この世界での様々な恐怖と混乱。そして、アンバーの死。アンバーがこの世を守る大きな存在となってから、まだ一週間もたっていなかった。彼女のことを思い出すたび、レイナの鼻奥はツンとし、今にも流しつくしたはずの涙が溢れ出しそうになる。
だが、ほんのわずかともいえるこの世界での時のなかで、自分を懸命に守ろうとしてくれたアンバーのことを思うと、自分が何もしないまま、ジョセフ王子たちと首都シャノンに戻るわけにはいかないのだと。
あの少年・ゲイブの手紙には、レイナ自身の名前も書かれていた。
名前が書かれていた以上、自分にも何かできることがあるのだ、そして何か意味があるのだと、レイナは自分自身を信じたかった。
――きっとこの世界に来る前の私だったら、こんな命の危険がそこかしこにちりばめられているようなことに自分から首を突っ込んでいかなかったと思うわ。でも、こんな平凡な私にも何か役目が与えられているのかもしれない……
レイナは豊かな胸の前で、白くすべすべとした両手をギュっと握りしめた。
陽はついに高く昇り、レイナは”マリア王女”として、昨晩ジョセフに教えられた通り、アリスの城の領主家族に恭しく頭を下げた。
このアリスの城の領主家族ならびに兵たちには、マリア王女の肉体の中にある魂が異世界からの誘われた少女のものであることは伝えてはいなかった。同じアドリアナ王国内の貴族であるとはいえ、今後の政治に差しさわりがあることが懸念されたためであった。
この極秘事項を知っているのは、首都シャノンより集いし魔導士たち、そしてルーク、ディラン、トレヴァーというあのフランシスとの決着に対峙した者のみであった。
やや赤らんだ顔に薄茶色の巻き毛で、年は40半ばの恰幅のいい領主、ヘンリー・ドグ・ホワイトと、母譲りの黒曜石のような髪と瞳の少年・サイモン・ラルフ・ホワイトは、礼を述べる”マリア王女”の美しさに息を呑み、立ちつくしてしまった。
ヘンリーの妻、そしてサイモンの母であるエヴァ・ジャクリーン・ホワイトは、艶やかな黒曜石のような黒髪を高く結上げ、肌の露出は少ないものの大人の女の色香がたっぷりと漂うドレス姿で、自信に満ちた(レイナにとっては挑戦的にも見えた)笑みで”マリア王女”に頭を下げた。
それぞれの馬車で南へと下っていく。
このアリスの城に来る時は、レイナはジョセフとアンバーと同じ馬車に乗っていた。だが、今日からはあの3人の青年たちと同じ馬車に乗るのだ。
ジョセフに挨拶をしようとしたレイナであったが、先に彼がレイナの元へとやって来ていた。
「レイナ……お前にこれを」
ジョセフの手には淡い桜の花びらを思わせるような薄いピンク色の紙包みがあった。
「?」
その紙包みに全く見覚えがなかったものの、ジョセフの手より「失礼します」と、レイナはそれを受け取った。紙包みの中身はペンとインク瓶、そしてずっしりと重みがある1冊の本であった。
いや、それは本ではなかった。中身は全て白紙で何も書かれてはいなかったのだから。ジョセフ王子やこのマリア王女の瞳、そしてこの世界の青き月を思わせるような美しい青を背景とし、アンティークのような模様が描かれている自由帳のようなノートであった。
「あ、あのこれは……?」
「アンバーの遺品の中にあった。これは、お前の手に渡るのが一番であると思ったのだ」
「い、いえ、いいえ、いただけません……!」
レイナは慌てて、ペンやノートを元通りに包みなおそうとした。
――遺品だなんて、そんな大切な物をいただけるわけがないわ! 私はアンバーさんの遺族でも何でもないし、そもそも私が足手まといだったがために、アンバーさんは殺されたようなものなのに……!
ジョセフは、俯いたレイナの両肩にそっと優しく手を置いた。
ハッとしてジョセフを見上げたレイナに、彼は優しく言う。
「……アンバーの遺品を整理していた時、カールとダリオがその紙包みに触れた。2人が言うには、アンバーがお前のことを思いながら、それらを用意していた”気”がまだしっかりと残っているとのことだ」
――アンバーさんが私のことを思って……?
今は亡きアンバーの気が、レイナの両手の中にある物にまだ残っていると……
ジョセフが続ける。
「もしかしたら、アンバーはフランシスとの決着が着いた後、お前がこの世界でこれから生きていくことに困らぬように、読み書きを教えるつもりでそれらを用意していたのかもしれないな……」
ジョセフは寂しげな笑みを見せた。
フランシスとの決着はつかず、アンバーは死し、アポストルとなった。生前のアンバーが何を思いながら、これを用意したのかという真実はもう永遠に知ることはできない。けれども……
「……分かりました。ありがとうございます。いただきます」
胸が熱くなってきた。レイナは、”アンバーの思い”を大切に両手で握りしめた。
またしても潤み始めた瞳で、周りを見渡した時、近くに控えていたカールとダリオもレイナに微笑み、頷いた。
南へ。リネットの町へと。
雪道をガタゴトと揺れる馬車。純白の雪に、茶色い土の轍が刻まれていく――
レイナの隣には、ディランが座り、正面にはルーク、そして斜め向かいにはトレヴァーがどっしりと座っていた。今、この馬車の中は沈黙に包まれていた。
レイナは考えていた。
3人の青年たちは互いに気心が知れているはずである。だから、それほど親しくはない自分に気を使って黙ったままであるのか、単に疲れ果てているのか、それとも彼ら自身もまたしても与えられた次なる”使命”について考えているのか……
次なる”使命”。
まるでRPGゲームのように、町から町へと移り、ともに船を漕ぎゆく英雄たちを探し出すのだ。アダム・ポール・タウンゼント、そしてヴィンセント・マクシミリアン・スクリムジョーという2人の男性を。
ジョセフたちの会話より、元魔導士らしきタウンゼントについての情報はわずかばかりにレイナたちの頭に残ってはいたものの、もう1人のスクリムジョーという者についての情報は全く得られていなかった。
次なるリネットの町で、自分たちの足で聞き込みをし、情報を集めなければならない。
そして、ジョセフたちとの事前の話し合いによって、その期限は1か月と決まっていた。
時間は有限である。いつまでもダラダラと探し続けるわけにはいかない。1か月たっても、何の手がかりもつかめないのなら、また別の方法を考えて、2人の男性を探すこととなる。
続く沈黙。
だが、レイナは気づいた。
ルーク、ディラン、トレヴァーが3人とも、チラチラと自分の方を盗み見ていることに。自分の存在が気になって仕方ないがないようであった。
レイナは彼らの視線に気づくとともに、すぐに理解した。
彼らは”レイナ自身”が気になっているのではなく、単にこのマリア王女の絶世の美貌に見惚れ、惹きつけられているだけだということを。
――そりゃあ、あのマリア王女は性格は極悪非道だったけど、これほどの美人だもの。どんなに真面目な男の人だって気にはなるよね。同じ女である私ですら、彼女の美しさには時が止まってしまうほどの衝撃を受けたんだもの……
アンバーを殺害した張本人である残酷で淫乱な悪魔のごとき、マリア王女の笑い声がレイナの脳裏に蘇ってきた。
彼女は、同じくいやらしい悪魔であるあのフランシスにその魂すら八つ裂きにされ、おそらく生まれ変わることができる魂すらもう永遠に消滅してしまっているはずだと……
――マリア王女はあんな人だったけど、正直、私はもともと他人のものであったこの肉体で生き続けることに罪悪感だって感じているわ……もし、マリア王女は真っ当な人間としての心を持ち合わせて、生を受けていたのだとしたら……アンバーさんは今というこの時もきっと生きていたはず。アンバーさんが生まれ育った首都より遠く離れた辺境の地で、短い一生を残酷に終えることはなかった。そして、私自身もこの世界に呼ばれることもなかったし、アンバーさんやジョセフ王子たちに出会うこともなかった……
レイナはゾッと震えあがってしまった。
様々な要因が、そうアンバーの死という悲劇すらも重なり合い、自分の魂は今ここにいて、馬車に揺られているのだ。
それに、悪しき者である魔導士・フランシスは、アドリアナ王国にちょっかいをかけるのは今は控えておくと自ら公言していたものの、”時が来たら”きっと彼とも再度、対峙しなければならない。
これから先、いつ何が起こるか、そして時という流れに乗って動き始めた、この”船”に乗って、最終的にはどこへ行くのか、真の意味で何を求められているは、まだ何一つ明確にはなっていないのだと。
「……大丈夫?」
レイナの様子に気づいたディランの心配そうな声。レイナがハッと顔を上げると、ルークもトレヴァーも心配そうな顔でレイナの様子をうかがっていた。
「え、あ、はいっ!」
3人の視線を一気に真っ直ぐに受け、姿勢を直したレイナの膝の上の荷物――アンバーからの贈り物、そしてジョセフ王子よりもらった当面のお金が音を立てた。
――そうだわ! 今のうちに…! 次のリネットの町に着くまではまだ少しだけ時間があるはずよね。
レイナは荷物よりお金――数種類の硬貨と金貨を取り出した。
「……あの、私にお金の使い方を教えてください」
レイナのいきなりの申し出にルークたちも面食らったようであった。
だが、レイナはこの世界のこと、特に世俗的なことはまだよく分かっていないし、市井の者たちの生活も把握できていなかった。
ここで恥をかいたとしても、これから先、彼らの足手まといになることは避けたかった。
事前に予習をしておきたいというレイナの思いに、彼らは丁寧に答えてくれた。
「あ、あの……いきなりだったのに、教えていただいてありがとうございました」
レイナは深々と頭を下げた。
「礼儀正しいなあ、レイナは」
トレヴァーが優しそうな目元をほころばせ、フフッと笑った。
レイナは、自分と同年代――例えば中学の同級生の男子生徒たちからは”河瀬さん”と呼び方でしか呼ばれたことがなかった。この世界に来て出会った、自分と同じ平民でもある、気のいい兄ちゃんたちといった3人の青年たちに、こうして”レイナ”という名前で呼ばれていることは何だかくすぐったかった。
「これから行く町の宿なんだけど、やっぱり皆同じ宿に泊まった方がいいよね?」
ディランが言う。
「そうだなあ……俺たちは別に宿のクオリティはそんなに求めていないし、雑魚寝でもいいけど……女の子がいるとなるとなあ、しかも……」
ルークは、”絶世の美人だし”という言葉は心の内に飲み込んだらしかった。
「まず、町に着いたらそこそこのクオリティの宿を先に探そうか? あの変な魔導士は俺たちにはもう興味はないみたいだけど、強盗やおかしな男はどこの町にもいるからね」
ディランの言葉に、ルークもトレヴァーも頷いた。
再び訪れた沈黙。
今度はレイナが、ルーク、ディラン、トレヴァーの顔を彼らに気づかれないように、そっと盗み見た。
彼らに、ジョセフ王子のように並々ならぬ研ぎ澄まされた高貴さや、カールやダリオのような選び抜かれた者が醸し出す優秀さなどといった雰囲気はなかったが、彼ら3人ともなかなかに整った顔立ちはしている。彼らの容貌を見て、レイナが最も強く思ったことは、全員とも緊張感があり引き締まった顔つきをしているということであった。
ルークとディランは18才、トレヴァーは20才とレイナは聞いていた。
自分は、15年以上もぬくぬくと両親や兄の庇護の元で暮らし、思い通りにならなかったこと(主に受験失敗)によって身勝手な程に周りを拒絶していたのにもかかわらず、義務教育でもない高校に通わせてもらい教育を受けさせてもらっていた。それを当たり前だと思っていた。
だが、彼らはこんな自分とは違い、幼き頃より家族や定住する家もなく、おそらく自分の身1つで周りの者たちと助け合いながら生きてきたのだろう。
男と女という体格や体力の差を差し引いたとしても、自分と彼らではその精神面において全く異なるスタート地点に立っていることを感じずにはいられなかった。
そして、やがて……
馬車は止まった。馬車より下りたレイナたちの前に、次なる町・リネットの町並が広がっていた。
春風を含んではいるが、まだ冷たい風がレイナの頬をフワッと撫で上げていく。
レイナの瞳に映るリネットの町の情景は、レイナが知っている2つの町、デブラそしてアリスの町とは全く趣きが異なっていた。
先の2つの町と比べると、首都シャノンに近い位置にあるためか、町の賑わいはやや勝っているように思われた。だが、その賑わいのなかに一種の落ち着きも見られた。
その落ち着きの一因となっているのは、町のなかでひときわ目立つ大きな建物であった。
――あの建物、一体何なの? お城には見えないし、まさかあれが宿の1つなのかしら?
「あの建物は図書館だよ」
レイナの不思議そうな視線に気づいたトレヴァーが教えてくれた。
「……図書館?」
――え? この世界って、私がいた元の世界みたいに、義務教育みたいなのはないみたいだし、識字率はそんなに高くないはずよね。このトレヴァーさんたちだって、字が読めないって言ってたし…………
「このリネットの町にある図書館は、首都シャノンの図書館と双璧の蔵書量だって言われているんだ。学問を究めたい人にとっては、絶好の町だよ。まあ、上流もしくは中流の上ぐらいの生まれの人に限るけど……」
親切に説明をしてくれるトレヴァーに、レイナはコクリと頷いた。
レイナがよくよく町を歩く人たちを見ると、デブラの町よりかは幾分身なりが良い人が多いようであった。
だが、自分も、そしてルーク、ディラン、トレヴァーがこの町を歩いても、悪い意味で目立つことはないだろうと思われた。
すぐに町の情景に溶け込んでいけると思っていたのは、レイナだけであったらしい。レイナがふと気づくと、道行く人の数人が口をぽかんと開けて、”レイナ”に見とれているのだ。その場に立ちつくしてしまった者、肩を寄せ合いながらヒソヒソと話を交わしている者たち、”レイナの美しさ”が集めてしまった、その人だかりは徐々に大きくなっていくようにも思われた。
ディランが慌てて、レイナを背に庇う。
「レイナ、やっぱり今の君は目立ちすぎるよ。なるべく顔を出さないようにした方がいい」
レイナは慌てて、手持ちの荷物の中より顔を隠せるようなものを探し出そうとした。
「……元の肉体にいた時は、こんなに注目を浴びることがなかったので、正直混乱しています」
けれども、不格好ながら顔に布を巻き、波打つ美しい金色の長い髪を隠し、宝石のようにきらめく青い瞳だけを出すこととなったレイナは、ますます目立ちながらリネットの町を歩くこととなった。
そして――
リネットの町の民たちも、今日、突如、北の方よりやってきた4人の男女について、水面下でヒソヒソと噂しあう状況になるには、数日もかからなかった。
くすんだ金髪で活発な印象の青年、栗色の髪の真面目そうな青年、この2人の青年よりわずかばかり年上に見える褐色の肌と鳶色の髪の大男と言っても過言ではない青年。
彼らが連れている――いや、おそらく護衛として付き添っているのは、流れる時すら止めてしまうほどの美貌である1人の少女。
顔を隠しているその少女の素顔を見た者の話によれば……絵画に描かれたような、そして物語のなかにしか登場しないような絶世の美少女であったと。少女と形容していたが、女としての色気も全身から醸し出され、並々ならぬ高貴さすら一目見ただけでも感じられたと。ひょっとしたら、この王国一の美貌と名高いあのマリア王女にすら並ぶのではないかとまで――
決して悪者には見えないが、ただ者にも見えない4人の男女。
何が目的であるのかは分からないが、彼らは”あの”ヴィンセント・マクシミリアン・スクリムジョーと、もう1人、ある男を探して歩いているようであると――
1日の終わり。
レイナたちが泊まっている宿は、高級ではないが相場より宿泊料がやや高い宿であった。
その宿の食堂の一角。
レイナは同じ宿に泊まっている客たちにも、なるべく顔を見られないように、壁に顔を向けて座っていた。レイナの隣の席にはトレヴァーが、そして向かい合う正面にはルーク、そのルークの隣にはディランが座っていた。
このリネットの町にやってきてから、まだ数日しかたっていないが、レイナは時間がもどかしいまでにゆっくりと流れているように感じられていた。それはルークたちもきっと同じであるだろう。
今から、ここ数日の地道な聞き込みによる人探しによる成果を報告し、明日からどうするのかを話し合っていく。
このリネットの町にあと数日だけ留まり2人の男を探し続けるか、それともさらに南の町――アレクシスの町へと下り、また一から聞き込みを始めるべきかと。
「さて……明日からどうする?」
トレヴァーがズイッと身を乗り出すと同時に、木製のテーブルがギシッと軋んだ。
夕食の時間よりやや外れた今のこの時間帯は、この食堂には人はまばらにしかいなかった。そのうえ、この宿に泊まる者たちは割と身なりと育ちがいい――というよりも単に他人に無関心なだけなのかもしれないが、レイナたちにあからさまな好奇の視線を向けたり、詮索してくるすることはなかった。
庶民的な宿に泊まることが多かったルークたちは、この宿は上品過ぎて落ち着かないなどとも呟いていたが、彼らが自分を気遣って(防犯のためもあったろうが)この宿を選んでくれたのだとレイナは思っていた。
今、自分たちの一番近くに座っているのは、ウェーブのかかった艶やかな黒髪をした1人の青年だけであった。
重たげな前髪で顔のほぼ上半分を覆い隠し、何年も日に当たっていないような青白く痩せた頬をしている青年は、おそらくルークたちと同じ年頃であるだろう。
レイナはあの青年が自分の隣の部屋に泊まっていることは知っていた。廊下ですれ違う時、彼もまた大多数の人と同じく、”レイナ”を見て「ハアッ!!」と大げさなまでに驚いて息を呑んでいたが、彼が話しかけてくることはなかった。
そして、今の彼はその瞳が完全に前髪に隠れているにもかかわらず、背を丸め、食い入らんばかりに自身のテーブルの上の分厚い本を一心不乱に読んでいるようであった。
ディランがテーブルの上の茶を一口飲み、言う。
「……この町で掴むことができたのは、スクリムジョーについての噂だけ。もう1人のタウンゼントについては、さっぱりだね」
ディランの溜息に同調するように、ルークもトレヴァーも溜息をついた。
ジョセフ王子、そしてカールやダリオは、元魔導士であるらしいアダム・ポール・タウンゼントについては知っていた。だが、平民であるルークたちが自らの足で歩き、聞き込みにより掴むことができた情報は、ヴィンセント・マクシミリアン・スクリムジョーについてだけであった。
ヴィンセント・マクシミリアン・スクリムジョー。
彼もまた、ルーク、ディラン、トレヴァー、そしてレイナと同じく平民であった。
だが、彼のことを知っている者は大勢いた。つまりは、この界隈では有名人ということだ。
彼――スクリムジョーが人々の注目を集めている理由の1つは、彼のその容貌にあった。
「噂によると……スクリムジョーって奴は、超絶美形らしい」
ルークが言う。
「うん。彼のことを知っている人は皆、口を揃えて言っていたね。均整のとれた長身と、燃えるような赤毛、情熱的な瞳をしたまるで彫刻のように美しい男だって……」
ディランの言葉を継ぐように、今度はトレヴァーが言う。
「……全身より強烈な色気が溢れ出ていて、年はおそらく20代後半ぐらいではないかとも聞いた。とにかく、首都シャノンみたいな都会でも滅多にお目にかかれないかもしれないほどのいい男だと……」
スクリムジョーとやらは、レイナの魂が入っているこのマリア王女と同じく、「大変な美に恵まれた者」であるらしかった。
大多数の者が認める際だった美貌の男。
だが、レイナたちが知り得た限りの彼の内面については――
「……なんだか、性格については悪口ってわけではないけど、それほどいい噂は聞かなかったな。一言で言えば、”すけこまし”って感じの奴だ」
ディランがルークに相槌を打つように頷いた。
「俺もよく似たようなことを聞いたよ。まあ、何もしなくても女が花に吸い寄せられる蜜蜂のように寄ってくるほどの美形らしいから、モテるのは当然だろうけど、まさに来る者拒まぬ、去る者追わずって感じらしいね」
うんうん、と相槌を打ったトレヴァーが、苦い顔で言う。
「まあ……俺が聞いた話もお前らと似たり寄ったりっていったとこだ。スクリムジョーは、女癖が良くないみたいだな」
レイナはルークの口から出た、”すけこまし”という言葉の意味が良く分からなかったため、黙って彼らの話を聞いてるだけであった。だが、話の流れよりヴィンセント・マクシミリアン・スクリムジョーは、修道士のように清廉高潔といった人物でないことだけは理解できた。
――今聞いた話が全て真実だとすると、スクリムジョーさんって人はいわゆるプレイボーイなのよね……私、男の人と付き合ったことなんて一度もないし、告白されたことだってないから、こんな話を聞くとちょっと引いてしまうわ。自分とは別の世界にいる人みたいに思えてしまって……いや、その言葉通り”別の世界”にいた人だったんだけど……
トレヴァーが「それに……」と声を落としたため、レイナは我に返った。
「ある1人の人が……この人はお年寄りだったんだけど、よく分からないことを言っていたんだ。あのヴィンセント・マクシミリアン・スクリムジョーは普通ではないって」
「普通ではない……?」
ルークとディランが同時に声を出した。
「まあ、そのお年寄り自身も俺にうまく説明できなかったみたいだけど、いい意味で彼は普通ではないと。容貌も抜きん出ているけど、自信に満ち溢れ、何でもそつなくこなせ、まだ20代であるはずなのに、人生というものを達観しているようで……自分などよりもずっと年上のようにも思えるんだと……」
レイナも思わず、ルークたちと顔を見合わせてしまった。
今のトレヴァーの話を聞いたレイナたちは、ある1人の男を思い出さずにはいられなかった。
魔導士・フランシス。年は30代そこそこに見えるのに、落ち着き払い、その外見から予測できる以上の年月を生きていると思われる、神の化身のように美しいがそれ以上に不気味な妖しさを放っているあの男のことを。
「あ、あの……そのスクリムジョーさんって人も魔導士としての力を持っている人なんでしょうか?」
おずおずと聞くレイナに、トレヴァーは首を振った。
「いいや、そういった話は聞いてはいない。でも、あのお年寄りみたいに長く生きている人は、今まで沢山の人を見てきたわけだから、まだ若い俺たちには分からないことも分かるんだろう」
美しく謎めいた男、ヴィンセント・マクリミリアン・スクリムジョー。
ルークがフーッと息を吐き、テーブルの上の茶をゴクリと飲んだ。
「とにかく、スクリムジョーって奴のことをいろいろ聞いたとしてもだ、本人に直接会って話さないことには、本当はどんな奴かなんて分からねえよ」
百聞は一見に如かずであるのだ。
「そうだね、まさに問題はそれ。様々な噂だけを種のように残して、肝心の本人の居場所は全くつかめそうにないからね。このリネットの町や他の複数の町を行ったり来たりして、まさに神出鬼没らしいし」
「……この町では何の手がかりもつかめない、もう1人のアダム・ポール・タウンゼントって奴は、魔導士である可能性が高いんだよな」
ルークが声をわずかに落としたため、全員が前かがみになってしまった。
「でもよ、ジョセフ王子たちの話を聞いた限りではもう80を超えたじいさんなんだろ。ゆっくり隠居生活してるところだよな」
「うーん、単に同じ名前の息子か、もしくは孫ってこともあるんじゃない? それか同姓同名の全くの別人ってことも……」
トレヴァーがディランの言葉に頷いた。
「なんだか、もどかしいよな。どちらか一方だけでも、いやどちらかに関わりがある人だけでも、俺たちの前に現れてくれたらなあ」
「そんな旨い話があるわけないって」
ディランの言葉に、皆――ディラン自身も苦笑いをした。
自分たちが乗った”船”は、時という流れに乗ってゆっくりではあるも動き出してはいた。けれども、漕ぎゆく先に濃い霧がかかっているかのようにもどかしく、確実に進んでいるという実感が湧かないのだ。そのうえ、期限内に必ず行き先(2人の尋ね人)に辿り着けるかという確証も持てない。
”船”はなかなか進まない。だが、旅とはえてしてそういうものなのかもしれない。
あともう1日だけ、このリネットの町で聞き込みを続けることを決めたレイナたちは気がつかなかった。
レイナたちのすぐ近くで本を熱心に読み込んでいたはずのあの青年――彼が濡れた黒曜石のような黒髪で顔の上半分を覆い隠していなければ、レイナたちが今まで出会ったうちの1人の高貴な身分の女性と一目で親族であることが分かる青年が、自分たちの話をしっかりと盗み聞きしていたことを。
彼は重たげな前髪の隙間より、その黒髪と同じ色の瞳をキョロキョロとせわしく動かし、何か言いたげに口を開きかけたが、言葉をグッと飲み込んでしまった。
彼が自分の内に抑え込んだ勇気を奮い起こし、レイナたちの前に再び現れるのは、また後日のこととなる。
一面の銀世界を照らし出していくその輝きは、肌寒いアリスの城の一室の窓より外を眺めていたレイナの青い瞳をも輝かせていた。
今日の午後、レイナはこのアリスの城を発つ。
ジョセフ王子、そしてカールやダリオたちの魔導士は、アドリアナ王国の首都シャノンへと戻る。だが、レイナはこのアリスの町より南へと下るのだ。
アポストルより、やがて英雄になるとの啓示を受けた3人の青年――ルーク、ディラン、トレヴァーとともに。
彼らと行動をともにする。このことは命令などではなく、レイナ自らの意志によるものであった。
元の世界での元の肉体の滅び。元の世界の元の肉体に戻りたいという、諦めるしかない願い。この世界での様々な恐怖と混乱。そして、アンバーの死。アンバーがこの世を守る大きな存在となってから、まだ一週間もたっていなかった。彼女のことを思い出すたび、レイナの鼻奥はツンとし、今にも流しつくしたはずの涙が溢れ出しそうになる。
だが、ほんのわずかともいえるこの世界での時のなかで、自分を懸命に守ろうとしてくれたアンバーのことを思うと、自分が何もしないまま、ジョセフ王子たちと首都シャノンに戻るわけにはいかないのだと。
あの少年・ゲイブの手紙には、レイナ自身の名前も書かれていた。
名前が書かれていた以上、自分にも何かできることがあるのだ、そして何か意味があるのだと、レイナは自分自身を信じたかった。
――きっとこの世界に来る前の私だったら、こんな命の危険がそこかしこにちりばめられているようなことに自分から首を突っ込んでいかなかったと思うわ。でも、こんな平凡な私にも何か役目が与えられているのかもしれない……
レイナは豊かな胸の前で、白くすべすべとした両手をギュっと握りしめた。
陽はついに高く昇り、レイナは”マリア王女”として、昨晩ジョセフに教えられた通り、アリスの城の領主家族に恭しく頭を下げた。
このアリスの城の領主家族ならびに兵たちには、マリア王女の肉体の中にある魂が異世界からの誘われた少女のものであることは伝えてはいなかった。同じアドリアナ王国内の貴族であるとはいえ、今後の政治に差しさわりがあることが懸念されたためであった。
この極秘事項を知っているのは、首都シャノンより集いし魔導士たち、そしてルーク、ディラン、トレヴァーというあのフランシスとの決着に対峙した者のみであった。
やや赤らんだ顔に薄茶色の巻き毛で、年は40半ばの恰幅のいい領主、ヘンリー・ドグ・ホワイトと、母譲りの黒曜石のような髪と瞳の少年・サイモン・ラルフ・ホワイトは、礼を述べる”マリア王女”の美しさに息を呑み、立ちつくしてしまった。
ヘンリーの妻、そしてサイモンの母であるエヴァ・ジャクリーン・ホワイトは、艶やかな黒曜石のような黒髪を高く結上げ、肌の露出は少ないものの大人の女の色香がたっぷりと漂うドレス姿で、自信に満ちた(レイナにとっては挑戦的にも見えた)笑みで”マリア王女”に頭を下げた。
それぞれの馬車で南へと下っていく。
このアリスの城に来る時は、レイナはジョセフとアンバーと同じ馬車に乗っていた。だが、今日からはあの3人の青年たちと同じ馬車に乗るのだ。
ジョセフに挨拶をしようとしたレイナであったが、先に彼がレイナの元へとやって来ていた。
「レイナ……お前にこれを」
ジョセフの手には淡い桜の花びらを思わせるような薄いピンク色の紙包みがあった。
「?」
その紙包みに全く見覚えがなかったものの、ジョセフの手より「失礼します」と、レイナはそれを受け取った。紙包みの中身はペンとインク瓶、そしてずっしりと重みがある1冊の本であった。
いや、それは本ではなかった。中身は全て白紙で何も書かれてはいなかったのだから。ジョセフ王子やこのマリア王女の瞳、そしてこの世界の青き月を思わせるような美しい青を背景とし、アンティークのような模様が描かれている自由帳のようなノートであった。
「あ、あのこれは……?」
「アンバーの遺品の中にあった。これは、お前の手に渡るのが一番であると思ったのだ」
「い、いえ、いいえ、いただけません……!」
レイナは慌てて、ペンやノートを元通りに包みなおそうとした。
――遺品だなんて、そんな大切な物をいただけるわけがないわ! 私はアンバーさんの遺族でも何でもないし、そもそも私が足手まといだったがために、アンバーさんは殺されたようなものなのに……!
ジョセフは、俯いたレイナの両肩にそっと優しく手を置いた。
ハッとしてジョセフを見上げたレイナに、彼は優しく言う。
「……アンバーの遺品を整理していた時、カールとダリオがその紙包みに触れた。2人が言うには、アンバーがお前のことを思いながら、それらを用意していた”気”がまだしっかりと残っているとのことだ」
――アンバーさんが私のことを思って……?
今は亡きアンバーの気が、レイナの両手の中にある物にまだ残っていると……
ジョセフが続ける。
「もしかしたら、アンバーはフランシスとの決着が着いた後、お前がこの世界でこれから生きていくことに困らぬように、読み書きを教えるつもりでそれらを用意していたのかもしれないな……」
ジョセフは寂しげな笑みを見せた。
フランシスとの決着はつかず、アンバーは死し、アポストルとなった。生前のアンバーが何を思いながら、これを用意したのかという真実はもう永遠に知ることはできない。けれども……
「……分かりました。ありがとうございます。いただきます」
胸が熱くなってきた。レイナは、”アンバーの思い”を大切に両手で握りしめた。
またしても潤み始めた瞳で、周りを見渡した時、近くに控えていたカールとダリオもレイナに微笑み、頷いた。
南へ。リネットの町へと。
雪道をガタゴトと揺れる馬車。純白の雪に、茶色い土の轍が刻まれていく――
レイナの隣には、ディランが座り、正面にはルーク、そして斜め向かいにはトレヴァーがどっしりと座っていた。今、この馬車の中は沈黙に包まれていた。
レイナは考えていた。
3人の青年たちは互いに気心が知れているはずである。だから、それほど親しくはない自分に気を使って黙ったままであるのか、単に疲れ果てているのか、それとも彼ら自身もまたしても与えられた次なる”使命”について考えているのか……
次なる”使命”。
まるでRPGゲームのように、町から町へと移り、ともに船を漕ぎゆく英雄たちを探し出すのだ。アダム・ポール・タウンゼント、そしてヴィンセント・マクシミリアン・スクリムジョーという2人の男性を。
ジョセフたちの会話より、元魔導士らしきタウンゼントについての情報はわずかばかりにレイナたちの頭に残ってはいたものの、もう1人のスクリムジョーという者についての情報は全く得られていなかった。
次なるリネットの町で、自分たちの足で聞き込みをし、情報を集めなければならない。
そして、ジョセフたちとの事前の話し合いによって、その期限は1か月と決まっていた。
時間は有限である。いつまでもダラダラと探し続けるわけにはいかない。1か月たっても、何の手がかりもつかめないのなら、また別の方法を考えて、2人の男性を探すこととなる。
続く沈黙。
だが、レイナは気づいた。
ルーク、ディラン、トレヴァーが3人とも、チラチラと自分の方を盗み見ていることに。自分の存在が気になって仕方ないがないようであった。
レイナは彼らの視線に気づくとともに、すぐに理解した。
彼らは”レイナ自身”が気になっているのではなく、単にこのマリア王女の絶世の美貌に見惚れ、惹きつけられているだけだということを。
――そりゃあ、あのマリア王女は性格は極悪非道だったけど、これほどの美人だもの。どんなに真面目な男の人だって気にはなるよね。同じ女である私ですら、彼女の美しさには時が止まってしまうほどの衝撃を受けたんだもの……
アンバーを殺害した張本人である残酷で淫乱な悪魔のごとき、マリア王女の笑い声がレイナの脳裏に蘇ってきた。
彼女は、同じくいやらしい悪魔であるあのフランシスにその魂すら八つ裂きにされ、おそらく生まれ変わることができる魂すらもう永遠に消滅してしまっているはずだと……
――マリア王女はあんな人だったけど、正直、私はもともと他人のものであったこの肉体で生き続けることに罪悪感だって感じているわ……もし、マリア王女は真っ当な人間としての心を持ち合わせて、生を受けていたのだとしたら……アンバーさんは今というこの時もきっと生きていたはず。アンバーさんが生まれ育った首都より遠く離れた辺境の地で、短い一生を残酷に終えることはなかった。そして、私自身もこの世界に呼ばれることもなかったし、アンバーさんやジョセフ王子たちに出会うこともなかった……
レイナはゾッと震えあがってしまった。
様々な要因が、そうアンバーの死という悲劇すらも重なり合い、自分の魂は今ここにいて、馬車に揺られているのだ。
それに、悪しき者である魔導士・フランシスは、アドリアナ王国にちょっかいをかけるのは今は控えておくと自ら公言していたものの、”時が来たら”きっと彼とも再度、対峙しなければならない。
これから先、いつ何が起こるか、そして時という流れに乗って動き始めた、この”船”に乗って、最終的にはどこへ行くのか、真の意味で何を求められているは、まだ何一つ明確にはなっていないのだと。
「……大丈夫?」
レイナの様子に気づいたディランの心配そうな声。レイナがハッと顔を上げると、ルークもトレヴァーも心配そうな顔でレイナの様子をうかがっていた。
「え、あ、はいっ!」
3人の視線を一気に真っ直ぐに受け、姿勢を直したレイナの膝の上の荷物――アンバーからの贈り物、そしてジョセフ王子よりもらった当面のお金が音を立てた。
――そうだわ! 今のうちに…! 次のリネットの町に着くまではまだ少しだけ時間があるはずよね。
レイナは荷物よりお金――数種類の硬貨と金貨を取り出した。
「……あの、私にお金の使い方を教えてください」
レイナのいきなりの申し出にルークたちも面食らったようであった。
だが、レイナはこの世界のこと、特に世俗的なことはまだよく分かっていないし、市井の者たちの生活も把握できていなかった。
ここで恥をかいたとしても、これから先、彼らの足手まといになることは避けたかった。
事前に予習をしておきたいというレイナの思いに、彼らは丁寧に答えてくれた。
「あ、あの……いきなりだったのに、教えていただいてありがとうございました」
レイナは深々と頭を下げた。
「礼儀正しいなあ、レイナは」
トレヴァーが優しそうな目元をほころばせ、フフッと笑った。
レイナは、自分と同年代――例えば中学の同級生の男子生徒たちからは”河瀬さん”と呼び方でしか呼ばれたことがなかった。この世界に来て出会った、自分と同じ平民でもある、気のいい兄ちゃんたちといった3人の青年たちに、こうして”レイナ”という名前で呼ばれていることは何だかくすぐったかった。
「これから行く町の宿なんだけど、やっぱり皆同じ宿に泊まった方がいいよね?」
ディランが言う。
「そうだなあ……俺たちは別に宿のクオリティはそんなに求めていないし、雑魚寝でもいいけど……女の子がいるとなるとなあ、しかも……」
ルークは、”絶世の美人だし”という言葉は心の内に飲み込んだらしかった。
「まず、町に着いたらそこそこのクオリティの宿を先に探そうか? あの変な魔導士は俺たちにはもう興味はないみたいだけど、強盗やおかしな男はどこの町にもいるからね」
ディランの言葉に、ルークもトレヴァーも頷いた。
再び訪れた沈黙。
今度はレイナが、ルーク、ディラン、トレヴァーの顔を彼らに気づかれないように、そっと盗み見た。
彼らに、ジョセフ王子のように並々ならぬ研ぎ澄まされた高貴さや、カールやダリオのような選び抜かれた者が醸し出す優秀さなどといった雰囲気はなかったが、彼ら3人ともなかなかに整った顔立ちはしている。彼らの容貌を見て、レイナが最も強く思ったことは、全員とも緊張感があり引き締まった顔つきをしているということであった。
ルークとディランは18才、トレヴァーは20才とレイナは聞いていた。
自分は、15年以上もぬくぬくと両親や兄の庇護の元で暮らし、思い通りにならなかったこと(主に受験失敗)によって身勝手な程に周りを拒絶していたのにもかかわらず、義務教育でもない高校に通わせてもらい教育を受けさせてもらっていた。それを当たり前だと思っていた。
だが、彼らはこんな自分とは違い、幼き頃より家族や定住する家もなく、おそらく自分の身1つで周りの者たちと助け合いながら生きてきたのだろう。
男と女という体格や体力の差を差し引いたとしても、自分と彼らではその精神面において全く異なるスタート地点に立っていることを感じずにはいられなかった。
そして、やがて……
馬車は止まった。馬車より下りたレイナたちの前に、次なる町・リネットの町並が広がっていた。
春風を含んではいるが、まだ冷たい風がレイナの頬をフワッと撫で上げていく。
レイナの瞳に映るリネットの町の情景は、レイナが知っている2つの町、デブラそしてアリスの町とは全く趣きが異なっていた。
先の2つの町と比べると、首都シャノンに近い位置にあるためか、町の賑わいはやや勝っているように思われた。だが、その賑わいのなかに一種の落ち着きも見られた。
その落ち着きの一因となっているのは、町のなかでひときわ目立つ大きな建物であった。
――あの建物、一体何なの? お城には見えないし、まさかあれが宿の1つなのかしら?
「あの建物は図書館だよ」
レイナの不思議そうな視線に気づいたトレヴァーが教えてくれた。
「……図書館?」
――え? この世界って、私がいた元の世界みたいに、義務教育みたいなのはないみたいだし、識字率はそんなに高くないはずよね。このトレヴァーさんたちだって、字が読めないって言ってたし…………
「このリネットの町にある図書館は、首都シャノンの図書館と双璧の蔵書量だって言われているんだ。学問を究めたい人にとっては、絶好の町だよ。まあ、上流もしくは中流の上ぐらいの生まれの人に限るけど……」
親切に説明をしてくれるトレヴァーに、レイナはコクリと頷いた。
レイナがよくよく町を歩く人たちを見ると、デブラの町よりかは幾分身なりが良い人が多いようであった。
だが、自分も、そしてルーク、ディラン、トレヴァーがこの町を歩いても、悪い意味で目立つことはないだろうと思われた。
すぐに町の情景に溶け込んでいけると思っていたのは、レイナだけであったらしい。レイナがふと気づくと、道行く人の数人が口をぽかんと開けて、”レイナ”に見とれているのだ。その場に立ちつくしてしまった者、肩を寄せ合いながらヒソヒソと話を交わしている者たち、”レイナの美しさ”が集めてしまった、その人だかりは徐々に大きくなっていくようにも思われた。
ディランが慌てて、レイナを背に庇う。
「レイナ、やっぱり今の君は目立ちすぎるよ。なるべく顔を出さないようにした方がいい」
レイナは慌てて、手持ちの荷物の中より顔を隠せるようなものを探し出そうとした。
「……元の肉体にいた時は、こんなに注目を浴びることがなかったので、正直混乱しています」
けれども、不格好ながら顔に布を巻き、波打つ美しい金色の長い髪を隠し、宝石のようにきらめく青い瞳だけを出すこととなったレイナは、ますます目立ちながらリネットの町を歩くこととなった。
そして――
リネットの町の民たちも、今日、突如、北の方よりやってきた4人の男女について、水面下でヒソヒソと噂しあう状況になるには、数日もかからなかった。
くすんだ金髪で活発な印象の青年、栗色の髪の真面目そうな青年、この2人の青年よりわずかばかり年上に見える褐色の肌と鳶色の髪の大男と言っても過言ではない青年。
彼らが連れている――いや、おそらく護衛として付き添っているのは、流れる時すら止めてしまうほどの美貌である1人の少女。
顔を隠しているその少女の素顔を見た者の話によれば……絵画に描かれたような、そして物語のなかにしか登場しないような絶世の美少女であったと。少女と形容していたが、女としての色気も全身から醸し出され、並々ならぬ高貴さすら一目見ただけでも感じられたと。ひょっとしたら、この王国一の美貌と名高いあのマリア王女にすら並ぶのではないかとまで――
決して悪者には見えないが、ただ者にも見えない4人の男女。
何が目的であるのかは分からないが、彼らは”あの”ヴィンセント・マクシミリアン・スクリムジョーと、もう1人、ある男を探して歩いているようであると――
1日の終わり。
レイナたちが泊まっている宿は、高級ではないが相場より宿泊料がやや高い宿であった。
その宿の食堂の一角。
レイナは同じ宿に泊まっている客たちにも、なるべく顔を見られないように、壁に顔を向けて座っていた。レイナの隣の席にはトレヴァーが、そして向かい合う正面にはルーク、そのルークの隣にはディランが座っていた。
このリネットの町にやってきてから、まだ数日しかたっていないが、レイナは時間がもどかしいまでにゆっくりと流れているように感じられていた。それはルークたちもきっと同じであるだろう。
今から、ここ数日の地道な聞き込みによる人探しによる成果を報告し、明日からどうするのかを話し合っていく。
このリネットの町にあと数日だけ留まり2人の男を探し続けるか、それともさらに南の町――アレクシスの町へと下り、また一から聞き込みを始めるべきかと。
「さて……明日からどうする?」
トレヴァーがズイッと身を乗り出すと同時に、木製のテーブルがギシッと軋んだ。
夕食の時間よりやや外れた今のこの時間帯は、この食堂には人はまばらにしかいなかった。そのうえ、この宿に泊まる者たちは割と身なりと育ちがいい――というよりも単に他人に無関心なだけなのかもしれないが、レイナたちにあからさまな好奇の視線を向けたり、詮索してくるすることはなかった。
庶民的な宿に泊まることが多かったルークたちは、この宿は上品過ぎて落ち着かないなどとも呟いていたが、彼らが自分を気遣って(防犯のためもあったろうが)この宿を選んでくれたのだとレイナは思っていた。
今、自分たちの一番近くに座っているのは、ウェーブのかかった艶やかな黒髪をした1人の青年だけであった。
重たげな前髪で顔のほぼ上半分を覆い隠し、何年も日に当たっていないような青白く痩せた頬をしている青年は、おそらくルークたちと同じ年頃であるだろう。
レイナはあの青年が自分の隣の部屋に泊まっていることは知っていた。廊下ですれ違う時、彼もまた大多数の人と同じく、”レイナ”を見て「ハアッ!!」と大げさなまでに驚いて息を呑んでいたが、彼が話しかけてくることはなかった。
そして、今の彼はその瞳が完全に前髪に隠れているにもかかわらず、背を丸め、食い入らんばかりに自身のテーブルの上の分厚い本を一心不乱に読んでいるようであった。
ディランがテーブルの上の茶を一口飲み、言う。
「……この町で掴むことができたのは、スクリムジョーについての噂だけ。もう1人のタウンゼントについては、さっぱりだね」
ディランの溜息に同調するように、ルークもトレヴァーも溜息をついた。
ジョセフ王子、そしてカールやダリオは、元魔導士であるらしいアダム・ポール・タウンゼントについては知っていた。だが、平民であるルークたちが自らの足で歩き、聞き込みにより掴むことができた情報は、ヴィンセント・マクシミリアン・スクリムジョーについてだけであった。
ヴィンセント・マクシミリアン・スクリムジョー。
彼もまた、ルーク、ディラン、トレヴァー、そしてレイナと同じく平民であった。
だが、彼のことを知っている者は大勢いた。つまりは、この界隈では有名人ということだ。
彼――スクリムジョーが人々の注目を集めている理由の1つは、彼のその容貌にあった。
「噂によると……スクリムジョーって奴は、超絶美形らしい」
ルークが言う。
「うん。彼のことを知っている人は皆、口を揃えて言っていたね。均整のとれた長身と、燃えるような赤毛、情熱的な瞳をしたまるで彫刻のように美しい男だって……」
ディランの言葉を継ぐように、今度はトレヴァーが言う。
「……全身より強烈な色気が溢れ出ていて、年はおそらく20代後半ぐらいではないかとも聞いた。とにかく、首都シャノンみたいな都会でも滅多にお目にかかれないかもしれないほどのいい男だと……」
スクリムジョーとやらは、レイナの魂が入っているこのマリア王女と同じく、「大変な美に恵まれた者」であるらしかった。
大多数の者が認める際だった美貌の男。
だが、レイナたちが知り得た限りの彼の内面については――
「……なんだか、性格については悪口ってわけではないけど、それほどいい噂は聞かなかったな。一言で言えば、”すけこまし”って感じの奴だ」
ディランがルークに相槌を打つように頷いた。
「俺もよく似たようなことを聞いたよ。まあ、何もしなくても女が花に吸い寄せられる蜜蜂のように寄ってくるほどの美形らしいから、モテるのは当然だろうけど、まさに来る者拒まぬ、去る者追わずって感じらしいね」
うんうん、と相槌を打ったトレヴァーが、苦い顔で言う。
「まあ……俺が聞いた話もお前らと似たり寄ったりっていったとこだ。スクリムジョーは、女癖が良くないみたいだな」
レイナはルークの口から出た、”すけこまし”という言葉の意味が良く分からなかったため、黙って彼らの話を聞いてるだけであった。だが、話の流れよりヴィンセント・マクシミリアン・スクリムジョーは、修道士のように清廉高潔といった人物でないことだけは理解できた。
――今聞いた話が全て真実だとすると、スクリムジョーさんって人はいわゆるプレイボーイなのよね……私、男の人と付き合ったことなんて一度もないし、告白されたことだってないから、こんな話を聞くとちょっと引いてしまうわ。自分とは別の世界にいる人みたいに思えてしまって……いや、その言葉通り”別の世界”にいた人だったんだけど……
トレヴァーが「それに……」と声を落としたため、レイナは我に返った。
「ある1人の人が……この人はお年寄りだったんだけど、よく分からないことを言っていたんだ。あのヴィンセント・マクシミリアン・スクリムジョーは普通ではないって」
「普通ではない……?」
ルークとディランが同時に声を出した。
「まあ、そのお年寄り自身も俺にうまく説明できなかったみたいだけど、いい意味で彼は普通ではないと。容貌も抜きん出ているけど、自信に満ち溢れ、何でもそつなくこなせ、まだ20代であるはずなのに、人生というものを達観しているようで……自分などよりもずっと年上のようにも思えるんだと……」
レイナも思わず、ルークたちと顔を見合わせてしまった。
今のトレヴァーの話を聞いたレイナたちは、ある1人の男を思い出さずにはいられなかった。
魔導士・フランシス。年は30代そこそこに見えるのに、落ち着き払い、その外見から予測できる以上の年月を生きていると思われる、神の化身のように美しいがそれ以上に不気味な妖しさを放っているあの男のことを。
「あ、あの……そのスクリムジョーさんって人も魔導士としての力を持っている人なんでしょうか?」
おずおずと聞くレイナに、トレヴァーは首を振った。
「いいや、そういった話は聞いてはいない。でも、あのお年寄りみたいに長く生きている人は、今まで沢山の人を見てきたわけだから、まだ若い俺たちには分からないことも分かるんだろう」
美しく謎めいた男、ヴィンセント・マクリミリアン・スクリムジョー。
ルークがフーッと息を吐き、テーブルの上の茶をゴクリと飲んだ。
「とにかく、スクリムジョーって奴のことをいろいろ聞いたとしてもだ、本人に直接会って話さないことには、本当はどんな奴かなんて分からねえよ」
百聞は一見に如かずであるのだ。
「そうだね、まさに問題はそれ。様々な噂だけを種のように残して、肝心の本人の居場所は全くつかめそうにないからね。このリネットの町や他の複数の町を行ったり来たりして、まさに神出鬼没らしいし」
「……この町では何の手がかりもつかめない、もう1人のアダム・ポール・タウンゼントって奴は、魔導士である可能性が高いんだよな」
ルークが声をわずかに落としたため、全員が前かがみになってしまった。
「でもよ、ジョセフ王子たちの話を聞いた限りではもう80を超えたじいさんなんだろ。ゆっくり隠居生活してるところだよな」
「うーん、単に同じ名前の息子か、もしくは孫ってこともあるんじゃない? それか同姓同名の全くの別人ってことも……」
トレヴァーがディランの言葉に頷いた。
「なんだか、もどかしいよな。どちらか一方だけでも、いやどちらかに関わりがある人だけでも、俺たちの前に現れてくれたらなあ」
「そんな旨い話があるわけないって」
ディランの言葉に、皆――ディラン自身も苦笑いをした。
自分たちが乗った”船”は、時という流れに乗ってゆっくりではあるも動き出してはいた。けれども、漕ぎゆく先に濃い霧がかかっているかのようにもどかしく、確実に進んでいるという実感が湧かないのだ。そのうえ、期限内に必ず行き先(2人の尋ね人)に辿り着けるかという確証も持てない。
”船”はなかなか進まない。だが、旅とはえてしてそういうものなのかもしれない。
あともう1日だけ、このリネットの町で聞き込みを続けることを決めたレイナたちは気がつかなかった。
レイナたちのすぐ近くで本を熱心に読み込んでいたはずのあの青年――彼が濡れた黒曜石のような黒髪で顔の上半分を覆い隠していなければ、レイナたちが今まで出会ったうちの1人の高貴な身分の女性と一目で親族であることが分かる青年が、自分たちの話をしっかりと盗み聞きしていたことを。
彼は重たげな前髪の隙間より、その黒髪と同じ色の瞳をキョロキョロとせわしく動かし、何か言いたげに口を開きかけたが、言葉をグッと飲み込んでしまった。
彼が自分の内に抑え込んだ勇気を奮い起こし、レイナたちの前に再び現れるのは、また後日のこととなる。
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