金20時更新「人生は彼女の物語のなかに」生真面目JKの魂が異世界の絶世の美人王女の肉体に?!運命の恋?逆ハーレム?それどころじゃありません!

なずみ智子

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第1章

―7― そして、アリスの町へと……

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 ”必ず最後には悪しき者たちに勝つ。だから今は守るべきものを思って心強く進め”

 突如現れた、蜂蜜色の巻き毛の愛らしい少年から告げられた言葉を誰もが、心の中で反芻していた。自分たちの勝利が名言されし言葉を。
 少年と同じ目線に腰をかがめていたアンバーは、少年を驚かせたり怖がらせたりしないように、そっと優しく彼の両肩に手を置いた。瞬間、電流が走り抜けたように、彼女はビクッとした。
 少年は黄金にきらめく瞳で、「なあに?」とアンバーに問う。
「わ……私たちに、あなたのお名前を教えていただけますか?」
「僕はみんなに、ゲイブって呼ばれているんだ」
 つっかえながら聞いたアンバーに、少年――ゲイブはうれしそうに答えた。
「……その”みんな”とは、あなたにあの手紙を渡したお兄さんもですか?」
「ううん、あのお兄さんは僕のことを名前で呼んでくれたことはないよ。時々、”クソガキ”なんて、呼ぶけど……」
 その答えに部屋にいた誰もがギョッとしたが、かのゲイブ自身は”クソガキ”という言葉の意味を深くは分かっていないのか、無邪気なままであった。
「あ、そうだ、お姉さん。アンバーさんだっけ? 僕、手紙を届けるのと、アンバーさんへの伝言が終わったら、すぐに帰って来いってお兄さんに言われているんだ」
 途端、ゲイブが言い終わるのをどこかで見ていたかのように、再びあのまばゆい光がパアッと彼の周りに戻ってきた。
 美しく輝き、懐かしい切なさと荘厳な思いを抱かせる光は、まだ何か言いたげな少年・ゲイブをその内につつみこみ――そして、瞬く間に消失した。

 瞬く間に目の前で繰り広げられた今の光景に、誰もが言葉を失っていた。
 アドリアナ王国の最北の町・デブラのごく庶民的な宿の一室で――それも、悪しき者たちの襲撃を受けた後、自分たちの勝利を名言する存在が突如現れた。
 静まり返った部屋の中で、一番最初に口を開いたのはジョセフであった。
「アポストルからの啓示か……だがアンバー、これはもしや、フランシスやまた別の悪しき者たちからの謀である可能性はないか?」
 フランシスとの決着の場を指定し、たまたまこの場に居合わせてしまっただけの平民である3人の青年を「英雄になる」などおだてあげ、また何かよからぬことを引き起こそうとしている存在がいるのでは、とジョセフは考えているのだ。
「ジョセフ王子のお考えには一理あると思います……けれども、私があのゲイブと名乗った少年の体に触れた時、なぜか自分が何かに行き着いたような、あるべきところに戻ったかのような不思議な感覚に全身を貫かれました」
 アンバーは続ける。
「私はあの手紙と少年の存在を、アポストルからの啓示として信じて進みたいのです……これは理屈では説明できることではありませんし、危険な掛けでもあることは充分に承知しております」
 そうジョセフに答えたアンバーの賢げな唇と茶色の瞳は、いつも以上に彼女の意志の強さを感じさせた。
 ジョセフが物心ついた頃、すでにこのアンバーは彼の側に仕えていた。その昔も、それから幾月もたった今も、ジョセフにとって彼女は最も信頼できうる存在であった。同じ父と母から生まれ、血を分けた妹であるマリアよりも――

 しばし、ジョセフは考える。異世界からの魂・レイナがこの町へと飛んだのは、フランシスや彼女自身も想像していなかった。あのアポストルからの手紙には、この宿に偶然居合わせた平民の青年3人の名前がフルネームで書かれていた。もし、フランシスたちや別の悪しき存在が自分たちをたばかるというのなら、もっと名や身分がある者をそそのかし、ひっかきまわすのだろう。特にあの謙虚なふりをしつつも、派手なことが好きなそうなあのフランシスなどは。
「分かった。私はお前を信じる。だが、アポストルには随分と口の悪い者もいるのだな。あんな頑是ない子供を、名前ではなくてあんな呼び方をするなど……」
 骨の髄まで上品であることを教育されているジョセフには、あの呼び名を口に出すことはできなかった。
「ありがとうございます。それでは、フランシスとの決着の日までに、城で控えている魔導士を私たちの元へと呼び寄せます。城をがら空きにするわけには参りませんので、動くことができる者に限られますが」
 アンバーの言葉を聞いたカールとダリオも頷いた。
「よろしく頼むぞ」と言ったジョセフは、床に膝をついたままのルーク、ディラン、トレヴァーへと向き直った。
 
 床に膝をついたまま、顔をあげていたルークたちは、ジョセフの視線を受け、慌てて再び揃って頭をガバッと下げた。
「……面をあげよ」
 ジョセフの声に、彼らは恐る恐る顔を上げた。
 くすんだような金髪に情熱的な榛色の瞳のルーク・ノア・ロビンソン。彼とは対照的に、落ち着いた印象の栗色の髪と瞳のディラン・ニール・ハドソン。筋肉隆々の逞しい肉体をし、褐色に光る肌と鳶色の髪と瞳のトレヴァー・モーリス・ガルシア。
 アポストルからの手紙に、その名を記されていた3人の青年。
 ジョセフは、彼らをまっすぐに見る。
「お前たち……私は今ここで正式にお前たちを雇おう。この娘の護衛を頼みたい」
 床に尻餅をついたままの体勢であったレイナをジョセフは手で示した。
 ルークたちは、うすうす想像していた言葉をジョセフよりかけられたが、やはり目を丸くして驚かずにはいられなかった。
「えっ?! おっ、俺たちが……いや、私たちがでございますか?!」
「でも、俺た……いや、私たちは、何の訓練も受けておらず、とても護衛などのお役に立つことは……」
 即座に答えるルークとディラン。
「それは充分承知のうえだ。フランシスとの戦いは私と魔導士たちが受ける。お前たちは、ただこの娘の側に控えていればよい。もちろん、お前たちの護衛もするつもりだ」
 それを聞いたトレヴァーが、恐る恐る切り出す。
「ジョセフ王子、僭越ながら申し上げます。やはり、お……私どもはマリア王女をお守りするには力不足でございます」
 魔導士・フランシスに、この部屋に再び入ることを妨害されていたトレヴァーは、マリア王女の肉体に入っているのがレイナの魂であることは知らなかった。
 渋い顔をしているトレヴァーに、アンバーがすっと一歩進み出た。

 トレヴァーだけでなく、ルークやディランも、こうして改めて見るアンバーの美しさに見惚れ一瞬息を飲む。
 一国の王子の側近――服装や今までの話の流れからすると魔導士である女性(女性といっても、自分たちとそれほど変わらない年頃ではあろうが)のいかにも理知的で賢そうな顔立ちと、黒衣に身を包んでいても都会的で垢抜けた雰囲気は、このような状況にあっても、彼らをドギマギさせるほどのものであった。
「こちらの方は、マリア王女ではありません。確かにこの肉体はマリア王女のものでありますが、全くの別人の少女の魂が入っているのです」
 アンバーの口から告げられた真実。だが、”はい、そうですか”とすんなりと信じられそうにはない真実。

 トレヴァーたち3人からの視線をサッと一気に受けたレイナは、自分が床に尻をついた体勢のままであることにやっと気づき、慌てて立ち上がった。重たげなバイオレットのドレスの裾が足元にからみついた。
「……それは確かなことでございますか?」
「ええ、この少女――レイナの魂を異世界からいざなったのは、他ならぬこの私です」
 アンバーの近くで、レイナの魂が異世界へと誘われた”あの日”も彼女の側にいたカールとダリオが頷いた。
 ジョセフが軽く咳払いし、ルークたちに向かって右手の5本指を広げて合図をした。それが何を示すのか分かったルークたちの目は驚愕により、さらに見開かれてしまった。
「これだけの報酬を出そう。大変に危険な任務であるから、私としてもそれなりの保証はする」
「……承知いたしました」
 ルークたちはそれぞれ、この無謀で危険な護衛の任務に対しての承知の意を言葉に出し、ジョセフに向かって再び深く頭を垂れた。
 だが、彼ら全員が胸の内では「高報酬でも、無報酬でも、この王国の王子の言うことに、これ以上俺たち平民が逆らえるわけないだろ……」とも思わずにはいられなかった。


 一夜が明けた。
 レイナは馬車に揺られていた。太陽が高く昇り、チラホラと雪が降るなか、馬車は敏捷な馬たちに引かれ、あのアポストルの手紙に書かれていた通り、アリスの町の城への道を進んでいる最中であるのだ。
 同じ馬車の中には、ジョセフとアンバーがいる。彼らは黙り込んだまま、小さな窓の外に目をやり、何かを考えているようであった。
 なぜかいたたまれない気持ちになってしまったレイナは、思わず身を縮こまらせていた。いや、それだけではない。睡眠不足であるが王子の前で居眠りなどできないと、眠けを押さえ必死で目を開いていることと、初めて乗る馬車のガタゴトという揺れが落ち着かなくひどく気持ちが悪かった。

 デブラの町の宿を去る前、レイナはジェニーと女将に挨拶をしたことを思い出す。自分がこの町に飛んでしまったせいでとんでもない迷惑をかけたこと、そして「ありがとう」という感謝を伝えた。
 あの悪しき者たちの襲撃によりまだ青い顔をしていた女将もジェニーと一緒に、馬車へと乗り込むレイナに向かって手を振ってくれた。レイナは、馬車に乗る前に見た、ジェニーの菫のように可愛い笑顔を見ていると、彼女とまたどこかで会えるような気がせずにはいられなかった。
 そして、自分が乗っている馬車に続く、後ろの馬車には宿にいたあの3人の青年が乗っている。
 自分とジェニーを悪しき者たちより助けるために、煙突に入ったため煤だらけであったルークとディランは、あの騒動の後、宿の者の計らいですぐに体を清めたらしく、若々しいハリを持つ青年の皮膚に戻っていた。
――私自身もこれからどうなるのか全く分からない。怖いけど、私は何もできない。抵抗できる力もない。だから、ジョセフ王子やアンバーさんたちに従うしかないけど……後ろの馬車に乗っているあの3人の男の人たちも、きっと何がなんやらといった状態だと思うわ。あのゲイブって名乗った男の子(アポストル?)からの啓示なんて……
 グルグルと考え事をしていたレイナは、ジョセフの「レイナとやら」という声に我に返り、ハッと顔を上げた。ジョセフが自分を見ていた。それも、怒ったような表情で。
「フランシスとの決着までにまだ少し日がある。その間、私たちはアリスの町にある城で過ごすこととなる。そこでお前は私たちの話を聞く気はあるか?」
「……はい」
 ジョセフに怒鳴られ罵倒されるのではと思っていたレイナは、拍子抜けし頷いてしまった。
「そうか……では、アリスの城できちんと話をしよう」
 そう言ったジョセフは、再び窓の外に視線をやった。ジョセフの横顔の高い鼻梁はキリリと引き締まっており、彼の長い睫は瞼の下に影を落としていた。
「今はしばし、休ませてくれ」
 そう言って、ゆっくりと瞼を閉じジョセフに、ずっと黙って彼の隣に座っていたアンバーは目を細めた。


 アンバーに手を引かれ、馬車より雪の上に足を下ろしたレイナの前には、雪化粧をほどこされた豪奢なアリスの町の領主の城がそびえ立っていた。
 美しくすこぶる風情のあるその光景に、レイナは中世ヨーロッパを舞台にした映画のワンシーンを見ている錯覚にとらわれてしまう。けれども、靴の裏より肌に浸み込んできた雪の冷たさが現実であると証明していた。

 そして、今――
 椅子に腰を下ろしているレイナの眼前のテーブルには、銀の食器に盛り付けられた食事が使用人の手により並べられていく。
 彼女の隣にはジョセフが、正面には領主家族3人が勢ぞろいしていた。
 やや赤らんだ顔に薄茶色の巻き毛で、年は40半ばの恰幅のいい領主、ヘンリー・ドグ・ホワイト。その妻で、濡れた黒曜石のような艶のある髪と瞳の持ち、年は40手前の、エヴァ・ジャクリーン・ホワイト。そして、彼らの子息であり、母譲りの髪と瞳のサイモン・ラルフ・ホワイト。
 まだ12、13才ばかりだと思われるサイモンは、レイナに目が釘付けとなったままであった。いや正確に描写すると「レイナの魂が入っているマリアの美しさに」となるが。
 口を半開きにしたままレイナから目をそらすことのできないサイモンであったが、彼の隣に座る母・エヴァに「サイモン」と小声で諭されたため、ようやく彼は我に返ることができた。
 目の前で並べられていく食事を見たレイナの胸がドクドクと脈打つ。それは恐怖などではなく、困惑と緊張による胸の鼓動であった。
――この場では、好き勝手に食べることなんてしちゃいけないわよね。でも、私、この世界のテーブルマナーなんて分からないわよ。目の前の領主家族は私のことをマリア王女だと思っているし、現にこの城についた時、私も”マリア王女”として頭を下げて挨拶したわ。もし、この場でとちったりしたら、私だけが恥ずかしい思いをするだけじゃなくて、ジョセフ王子にも恥をかかすことに……
 レイナは気づかれないよう横目でそっとアンバーの姿を探すも、彼女の姿はない。ジョセフがそんなレイナの心の内に気づいたのか、「私の真似をしろ」とそっと囁いた。
 ジョセフの真似をして、どうにか一口サイズに切ることのできた肉をレイナは口に運んだが、緊張と恥ずかしさのため、味も碌に分からなかった。
 1人取り残されたようなレイナの目の前で、ジョセフの話(あたりさわりのない世間話のようにレイナには思えた)にエヴァが時折「ホホホ」とそのほっそりとした身をくねらせるように笑う。
 だが、領主・ヘンリーが、黙って食事を口にしているレイナに気をつかったのか、話題を変えた。
「いやしかし、マリア王女の美しさは年月とともに輝きを増しておりまするな。私が以前、首都シャノンでお会いした時も、世にこれほどの美しい方がいるものかと思わずにはいられなかったものです」
 ヘンリーのその言葉に、レイナは彼に失礼にならないようにニッコリとするしかできなかった。その”レイナ”の笑顔を見たヘンリーが息を呑み、彼の息子・サイモンの目はまたしても”レイナ”に釘づけとなった。そして、彼の妻・エヴァは「ほんとうに何とお美しい方」と”レイナ”に悠然と微笑みかけた。
 研ぎ澄まされた上品な笑顔を見せたそのエヴァの瞳が、一瞬だけ”嫉妬であるか悔しさであるか分からない何か”が宿ったことが分かったレイナは、思わず手のナイフをテーブルの上に落としそうになった。
――この女性って、宿の女将さんが言っていた「お綺麗だけど性格は相当きつく、2人の息子のうち1人を家から追い出した」って人よね? 確かに白黒のサイレント映画に出てきそうな物凄い美人だけど、何だか威圧感があって怖い……やや吊り気味の目元と濃いお化粧がそう思わせているだけかもしれないけど……

 エヴァ・ジャクリーン・ホワイトは、宿の女将からの話に聞いていた以上の大変な美人ではあった。
 だが、彼女の美貌には、例えを出すなら少女・ジェニーが持っていた「親しみやすさ」などという成分は全く含まれてはいなかった。この世界の女性をまだ数えるほどしか見ていないレイナにとっても、このエヴァは明らかに貴族階級であることが感じ取れるほどの高貴で近寄りがたいオーラを放ち、立ち振る舞いにも全く隙はなかった。

 曖昧に笑顔を保つしかできないレイナに、ジョセフが助け船を出した。
「今、妹は降り続く雪により喉を大変に痛めており、なかなか声を出すことができず……」
「それは大変なことでございますな。我が領内にも腕の良い医師や薬師はおります。よろしければお申し付けくださいませ」
 ジョセフの言葉を遮ったヘンリーを、エヴァが「ご無礼ですわよ」と言いたげに目で諌めた。妻のその視線を受けたヘンリーは、またしても話題を変えた。
「して、ジョセフ王子……新月の晩に、わが領地である山の麓を貸し切りたいとのことでございますが……」
「大変に急な申し出であり、貴殿たちにも多大な迷惑をかけることは承知している。だが、この国に害なす悪しき者との決着をつけるためにあの場所が必要なのだ。そして、使える兵を貴殿より借りたい」
「兵をでございますか?」
 ヘンリーの声にわずかに困惑が感じられた。
 ジョセフは口元をナプキンでそっとぬぐう。
「貴殿の兵たちに戦わせるつもりはない。悪しき者とは強大な力を持つ魔導士なのだ。それゆえ、その悪しき者との決着は、私と私が連れてきたあの魔導士たちがつける。だが、もしも戦いが長引いた場合、このアリスの町の民に被害が及ぶようなことがないように守ってくれればそれでよい。もし、首都シャノンに使いを出したとしても、この地に兵が揃うまでに新月の晩を迎えてしまうこととなる」
「いやはや、そうでございましたか。私どもに魔術の心得があれば、直接お役に立てるところでしたが、何せ我が家は代々軍人系の家系でございまして……」
 ヘンリーの言葉を継ぐように、エヴァが食事中にも関わらず艶々とした赤い紅を保っている唇を開いた。
「ジョセフ王子、私どものこの息子、サイモン”は”我が子ながら本当に出来の良い子でございますの。近い将来に必ずやこのアドリアナ王国のお役に立てるかと、今後とも何卒お引き立てくださいませ」

 
 その頃、ルーク、ディラン、トレヴァーも、アリスの城の一室の窓際にて欠けゆく青い月を見つめていた。
 今宵は、彼らが物心ついてからというもの、物質的には一番恵まれた夜であった。食事はレイナやジョセフが食したものほどではなかったが、貴族の城で出される食事というものを始めて口にした。自分たちの前に差し出された酒はまろやかで美味であった。そして、もうすぐ自分たちが横たわる寝台ならびその寝具は、このうえなく柔らかく清潔で心地よいものであることを理解していた。
 けれども――彼らの表情は一様にして浮かないものであった。
 酒に酔い赤い顔をしたルークが大きな溜息をつく。
 そして、自身のくすんだようなその金髪をワシャワシャと掻き毟った。
「……一体、なんだって、こんなことになっちまったんだよ。何なんだよ、あのアポストルからの啓示って……」
 ディランも彼と同じく溜息を吐き出した。ルークと同じく、混乱と諦めの混じり合った溜息を。
「どのみち、俺たち平民はこの王国の王族、それも王子の言うことには絶対に逆らえっこないよ。まさに”心強く進む”しか道はないよね」
 彼らの話を黙って聞いていたトレヴァーも頷いた。
 しばしの沈黙。彼らは皆、心の中で同じことを考えずにはいられなかった。
 いきなり現れたあのゲイブと名乗った少年。そして、彼が持ってきた手紙の一節――

「彼らには使命がある。
 彼らはやがて英雄となる」

 使命を持っている自分たちは、やがて英雄となる。
 それをすんなりと信じることはできなかった。あのデブラの宿での出来事は、彼らにとって、起きたまま夢を見ているようなものであったのだから。
 それに彼ら全員とも、親も身分も何もなく、武術の訓練も受けたこともなければ、正式な教育すら受けたこともない。体を使う仕事で町を転々としながら、その日暮らしを続け、身一つで一日一日を生きていくということに必死であったのだ。
 こうして、このアドリアナ王国の王子の命を受け、悪しき魔導士たちとの戦いに赴くなど、正直自分たちの腕に抱えきれる仕事ではない。当然のこと、命がかかっているから、ジョセフ王子から賜わる報酬は法外なものではあった。そして「やがて英雄になる」というあのアポストルからの”言葉どおり”に受け取るとしたら、”今回は”死ぬことはないのだろうと――
「やっべえ、かっこ悪ぃな。なんだが、手が震えてきちまって……」
 ルークが宙を仰いでハハッと笑った。
「俺もだよ、ルーク。正直、俺たちに何ができるんだって、思っちまうよな」
 トレヴァーの言葉に、ディランが頷く。
「……あのフランシスって、不気味の権化みたいな魔導士が言ってたことは、ごく最もなことであると思うしね」
 ルークとディランの脳裏には、フランシスに刻み込まれたあの言葉が蘇ってくる。


「ネズミさんたち……あなたたちは本当に命拾いをしましたね。王子の前で、手柄を立てようなどといった分不相応な望みなどは持たない方がよろしいですよ。英雄などになれる者は歴史のなかで生まれ死んでいく幾多の命のうちのほんの一握りですからね。馬小屋で生まれた者は、馬小屋で生まれた者なりの人生を全うしてください」


 ディランたちは、あの時、外にいたトレヴァーにもフランシスのことを話していた。
 フランシスの言葉を思い出したルークが、イラついたのか声を荒げた。
「別に俺たちは、英雄になりたいとかそんなこと全く思っちゃいないかったんだよ。ただ、あの時、”助けたい”と思った……それだけだったんだよ……」
 そう、彼らはそれだけの思いで、煤と蜘蛛の巣にまみれた煙突の中に入り、また吹き荒れる雪のなかでレイナとジェニーがいる部屋の様子をうかがっていたのだ。
 ディランがルークの言葉を継ぐように言う。
「でも、俺たちが今ここでこうして生きているのは、運が良かっただけよね。あの魔導士の気が変わらなかったら、今ごろきっと……」
 ルークとディランの脳裏には、フランシスの幻惑的で透きとおった美しい瞳を思い出す。そして、静かな憤怒をたたえた彼が、自分たちを「始末」するためにその腕を振り上げようと――
 あのフランシスにとっては、自分たちなどネズミよりも、もっと小さな虫けらを始末するのと変わらないだろう。それは、これから先もそうであるに違いない。

 沈黙が流れる。何も言わなくても、彼らは皆、同じことを考えているのが分かっていた。
 予測のつかない未来への恐怖と希望。
 だが、それらは表裏一体のものではなく、恐怖という果てなき海のなかに、たった1つの希望の花が咲いている島を目指しているように思えた。
 トレヴァーが自らを奮い立たせるように、近くのテーブルの上の酒に手を伸ばした。だが、彼ら自身がつい先ほどまで、この状態を紛らわすかのように杯を傾けていたため、ほんの数滴しか残っていなかった。
「そういえば……トレヴァー、お前、あの宿で何か言いかけていなかったか? マリア王女がデメトラの町でどうとか……ほら、ちょうど、あのいけすかない野郎に酒をぶっかけられる前……」
 トレヴァーは、ルークを、そして彼の傍らのディランを見る。
「……いや、今、話すようなことじゃないんだ。忘れてくれ。それに、今現在、マリア王女の肉体に入っている人は、本物のマリア王女ではなく全くの別人らしいし……異世界からやってきた女の子の魂が入ってるって」
「異世界か……異世界って一体どんなところなんだろうね。全く想像できないや……」
 溜息をついたディランが窓の外に目をやる。
 夜の闇に、冴え冴えと白く輝く雪が舞っている。
 アポストルからの啓示を受けた3人の青年の前で――冬の宵闇に輝く青き月は、灰色の雲に今にも飲み込まれんとしていた。


 緊張し碌に味も分からなかったが何とか取り繕うことのできた晩餐が終わったレイナは、城の一室へと案内され、灰色の雲に飲み込まれるがごとき、青き月を見ていた。
 冬の冷気だけがもたらしているわけではない、この肌寒さ、心細さにレイナは自分の身を震わせた。
 1人きり。とうに枯れたと思っていた涙はまたしても盛り上がってきそうであった。この世界に呼び込まれてからというものの、もっぱら泣くか震えるだけであったことにレイナは気づく。
 レイナの鼻の奥がツンとし始めた時――
 ジョセフがレイナのいる部屋の中に、足を踏み入れてきたのだ。
 レイナがジョセフと2人っきりとなったこの部屋は、おそらくこのアリスの城内で一番上等な部屋であり、部屋のやや中央には、綺麗な刺繍がほどこされた白いシーツがかかった、日本でいうキングサイズだと思われる寝台まである。
 ビクッと身を震わせ、部屋の隅にタタタッと逃げ込んだレイナの様子を見たジョセフが呆れた声を出す。
「何を考えている……私たちの魂は他人同士でも、この肉体は血のつながった兄妹だ。お前が想像しているようなことにはならない。そもそも、アンバーももうじきここにやってくる」
 ジョセフは、なおも部屋の隅で顔と体をこわばらせつづけているレイナに問う。
「レイナ、お前には兄がいるのだろう? 始めて、この世界に来た時、お前は確か兄を呼んでいた」
 自分の頬がカアッと熱くなるのがレイナは分かった。
 あの暗く冷たい城の一角で、レイナがマリア王女の肉体に入って初めて目をあけ、周りの状況も飲み込めないまま、ジョセフに強く腕を掴まれ、思わず兄・政明に助けを求めてしまったのだ。
「……はい、4つ年上の兄が……」
「私やマリアと同じ年の差だな。仲のいい兄妹なのだろうな。他に兄妹はいるのか?」
「おりません……」
「そうか、それも同じだな……」
 ジョセフの顔に一瞬だけ、翳りがさした。
――え? こういった王族の人たちって、第2夫人やら側室やらで、子孫をたくさん残そうとするのかと思ってたけど、この国は私の生まれた日本と同じく一夫一妻制なのね。
 その時、扉の向こうより、コンコンという音と「ジョセフ王子、レイナ、失礼いたします」とのアンバーの声が聞こえてきた。
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