釘が抜けない【なずみのホラー便 第85弾】

なずみ智子

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釘が抜けない(下)

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「……で、結局、沙羅ちゃんからは何も聞けなかったんだ?」
 声にも顔にも呆れがありありと浮かんでいる蘭に、沙知子は力無く頷くしかなかった。
 今日も報告と相談がてら、カフェでのランチに付き合ってもらっている。今日の蘭には、面接の予定は入っていないとのことだ。
「だって、あの後、話も出来ないぐらいに泣きじゃくっていたんだもの。一緒にお風呂にも入ったんだけど、お風呂でもずっとしゃくりあげていて、お風呂から出た後は泣き疲れたのかそのまま寝ちゃって……翌朝はいつも通りに学校に行ったけど……あの子が学校に行っている間、机の中とかお稽古用のバッグの中とか全部調べたんだけど、何も変わったものとかはなかったの」
 苛立たし気にフォークをカチリと噛んだ蘭は、沙知子を上目遣いでチロリと見た。
「沙知子は今日もこれから時間あるんでしょ? 今からちょっと、その女の家の近くに行ってみない? 何だったら直談判しようよ。『人の子どもに変な声かけするな』ってね」

 蘭に押し切られるような形で、隣町の公園――不審な声かけ女の棲家近くの公園――にまで来てしまった沙知子であったも、そう上手い具合に遭遇するわけがなかった。
 近くのコンビニでそれぞれ飲み物を買い、ベンチへと腰掛ける。
「……時間帯がちょっとまずかったかも。考えてみれば、小学生は今、学校だもんね」
 蘭が言う。
 今、この公園には、就学前の子どもと若い母親たち数組の姿があるばかりだ。
「ねえ、蘭、あの若いママたちってこの辺りの人よね? あの人たちは、その変な女の噂とか聞いたことないのかな? 自分たちがついているとはいえ、変な女が出没する場所で子どもたちを遊ばせて平気なのかな?」
「……さあ、私はあの人たちじゃないから分からないわよ」
 少し苛立たし気な蘭の声。
 しばし沈黙が続く。
 その沈黙は蘭のカバンの中から響いてきた着信音によって終わりが告げられた。
 弾かれたように立ち上がり、目を輝かせて電話に出た蘭であったも、彼女の両肩はみるみるうちにガックリと沈み込んでいく。
 不採用の連絡だ。
 聞いてしまわないように気を遣い、明後日の方向へと目を向けていた沙知子であったも、蘭の落ち込んだ空気は自分の所まで伝染してきた。
 考えてみれば、失業中の彼女は自分自身こそが今、大変な時期であるだろうに、沙羅のことをまるで自分の子どもであるかのように心配してくれているのだ。「ごめんね。ありがとう」という言葉が沙知子の口から出かけた時であった。
「――あ! あいつだ!」
 スマホを握りしめた蘭が道路を指差した。




 背の高い女であった。
 かといって、均整がとれているというわけでもなく、健康的ではない痩せ方のうえ、あり得ないほど下に腰の位置があることも遠目にも分かる。
 女はスーパーの袋をその手に提げて、歩いていた。スーパーの袋からは生活感の象徴――その女が紛れもない生者である象徴――のごとく、青々としたネギがのぞいていた。
「ほら、ボーッとしてないで行こう!」
 蘭が沙知子の腕を引っ張る。
 蘭は空いている方の手にあった空の紙製カップをゴミ箱に勢いよく投げ入れた。しかし、沙知子はまだ中身がなみなみと残っているそれを捨てざるを得なかった。
 蓋が外れ、ビシャッという音が背後から聞こえた。ゴミ箱から流れ出た液体が、地面へと染み込んでいくであろう音も。

「――ちょっと、あんた!!」
 蘭の第一声は、もはや怒声であった。
 ビクッとして振り返った女は、蘭の声ばかりか、その剣幕に驚き後ずさっていた。
 女の顔には、困惑とそれを遥かに勝る恐怖がありありと浮かんでいる。
 真正面から推定年齢四十代とみられる女を見た沙知子であるも、不思議なことに蘭が言っていた「世の中の全てを呪っていそうな邪悪なオーラ」などは微塵も感じ取れない。
 それどころか、滑稽に見えた。
 この女なりの女性らしさのつもりなのか、恵まれているとは言い難い髪質の髪を長く伸ばしているも全く似合っておらず、面長な顔の輪郭を際立たせている。土気色の顔の中で、唇だけが生々しいまでの赤で塗られているが、こちらも全く似合っていない。暗い色のワードローブも着古したものであるのは一目瞭然で、滑稽なだけではなく、哀れさすら誘ってきた。
「……あ、あの、何か?」
 女の声は意外に落ち着きがあり、透き通っていた。
「何かじゃないわよ! あんた、子どもをジロジロ見たり、変な声かけしているんですってね!」
 しょっぱなからヒートアップし始めた蘭の腕を思わず、押さえてしまいそうになった沙知子。
 しかし、この女が沙羅の心に傷を負わせたのだ。沙知子は、あえて蘭を止めなかった。
「な、何のことですか? 人違いです……っ……」
 逃げ出そうとしている女の背中に、蘭はなおも怒声を突き刺した。そう、突き刺し続けた。
「あんたみたいなの、生きているだけで害悪なんだ! あんたみたいな気持ち悪い不細工、消えればいいんだ! 死んじゃえ! 死ね!!」
 女は駆け出した。
 近くの薄汚れたコンクリート建ての一軒家の扉に取り出した鍵を差し込んだものの、動転しているためか、うまく鍵を回すことができないようだ。
 やっと扉を開くことができた女は、ダッと中へと逃げ込んでいった。
「ちょ、ちょっと、蘭……さすがに言い過ぎじゃ……」
「なんで? 自分の子どもに変なことされそうになったんだよ! それでも、母親なの?! 本当に沙羅ちゃんを守る気あるの?!」

 蘭にあれほどまでに激しい一面があったとは驚きしかない。
 けれども、本来は沙羅の母親である自分が女に言わなければならなかったこと――さすがに「死ね」とまでは言う気はなかったが――を彼女が代わりに言ってくれたのだ。
 沙羅本人とは話ができていないも、加害者側に”釘を刺す”ことだけは親友の力を借りてできた。
 しかし、沙知子は再び星野先生から呼び出された。




 この短期間に二度にも渡る、小学校からの呼び出し。
 しかも、今度は星野先生一人だけではなく、白髪交じりの男性教諭――学年主任の渡辺先生――の姿まであった。
 彼女たちが待っていた机の上に置かれていたのは、沙羅の巾着袋だ。
 この巾着袋は市販のものではなく、沙知子が沙羅に作ってあげた手作り巾着である。
 数か月前、一緒に手芸屋さんに行った時、淡いピンクに色とりどりのお花が散りばめられた、極めて女の子らしいこの生地に沙羅は一目ぼれしてしまったらしく、おねだりしてきた。
 沙知子も、他とは一味違う巾着袋を沙羅に作りたかったため、開け口にフリルもつけてあげた。お友だちにも羨ましがられたらしく、沙羅はとても喜んで使ってくれていたはずであった。
 最近、この巾着袋を見かけないなと思った沙知子が聞くと「学校のロッカーでの小物入れに使ってるよ」と沙羅は言っていた。
 この沙羅のお気に入りの巾着袋より出てきたのは、ファンデーション、アイライナー、アイシャドウ、マスカラ、チーク、グロス、リップなどというコスメだった。
 大人の女が使うコスメだ。しかも、美容情報には疎い沙知子ですら名前を知っているほどの数々の有名ブランドのコスメだ。
「あ、あの、これはいったい……?」
「やはり、これらはお母さんの持ち物ではないということですね? もちろん、お母さんが沙羅ちゃんに買い与えた物でもないと」
 当たり前だ。
 なぜ沙羅の巾着袋から、こんなものが?
「沙羅ちゃんがロッカーに入れていたんです。近くにいたお友だちがこれらに気付いて『それ、どうしたの?』って聞いたら、沙羅ちゃんが『こんなの、いらないからみんなにあげるよ』って言ったらしく……それで、女の子たちが群がって騒ぎになったんです」
 星野先生から話を聞かされただけで、その光景が沙知子の脳裏に浮かぶようであった。
 値段も使い方も理解していないのに、キラキラとしたコスメに我先に手を伸ばさんとする女の子たち。そんな彼女たちの輪から外れ、手に空となった巾着袋を握りしめたままポツンと立っている沙羅の姿が……
 沙知子は、ギュッと目をつぶった。胸が痛くなるとは、まさにこのことだ。
 渡辺先生が白髪交じりの頭を掻きながら言う。
「最初は万引きしたんじゃないかって思ったんです」
「ま、万引きだなんて、うちの子はそんなこと……!」
 沙羅が万引きというか、窃盗などするはずがない。
 そもそも、これらは小学生たちでも気軽に行けるお店――コンビニやドラッグストア――の棚に並んでいるラインナップではない。
 そしてよくよく見れば、これらは新品同様というわけではなく、チークやアイシャドウなどは明らかに使用した形跡が見られる。沙羅が使ったというわけではないだろう。
 星野先生が「渡辺先生、それは言う必要は……」と諌める。
 なんだか立場関係が逆転しているような気がしないでもないが、星野先生は沙羅を信じてくれていた。
「私が話を聞いたところ、沙羅ちゃんはこれらがとても気持ち悪くて怖かったと言いました。だから、お母さんが作ってくれた巾着袋に入れていたと。『ママがこいつらを封じ込めて、私を守ってくれる気がした』とも……それから、堰を切ったかのように泣き出して、これらを”誰に”もらったかも話してくれました」
 沙知子の胸に、また別の痛みが鋭く突き刺さる。
 母親の私には話せなかったのに、星野先生には話せたのか?
  生まれてからずっと側にいた母親には話せなかったのに、出会ってまだ一年と少しの星野先生には話せたというのか?
 渡辺先生と一瞬だけ目線を合わせた星野先生が、苦虫を噛み潰したような顔で続けた。
「沙羅ちゃんは、学校帰りに”派手で気持ち悪いおばさん”に声をかけられて、これらを無理やり押し付けられたらしいんです。『あたしが”沙羅ちゃんのママ”になったら、素敵なコスメをいっぱいあげるからね。いっぱいメイクしてお洒落しようね。沙羅ちゃんも、あたしみたいな美魔女がママになるなんてうれしいでしょ』と……」




 原因は夫の達之にあった。
 まさか、とは思ったも、心当たりが皆無なわけではない。
 月一回のみの夫婦生活。それに、沙知子自身も女としてはそう魅力的でないし、魅力的になろうと努力をしていなかったことは自覚していた。
 達之を問い詰めるとあっさり認めた。
 だが、当の達之も相手の女が沙羅に声かけをしていたこと、いや、声かけだけに留まらず使いさしのコスメまでをも無理やり小さな手に握らせていたことには、顔色を変えていた。
 女は電話口で沙知子に言った。
「やっと、この時がやってきたんですねぇ、でもあたし、奥さんには負けませんからぁ」と胸やけするほどに甘くねっとりとした声の女。
 達之が独身だと偽って近づいたのではない。相手の女も、不倫だと分かっていたのだ。
 女の声は若かった。
 でも、沙羅は女を「派手で気持ち悪いおばさん」と言っていたらしい。
 沙羅から見れば、たとえ二十代の女でもおばさんに見えるのかもしれないが……
 一瞬だけ、あの”隣町の声かけ女”が不倫相手ではないかと思わないでもなかった。
 けれども、あの女は達之のみならず、他の男性だって相手にされるとは思えないし、”貧乏くさい”ならまだしも”派手”とは形容できない。
 話し合いは、我が家で行うことになった。
 沙羅は、近くに住む沙知子の姉に預かってもらう。沙羅が女と絶対に顔を合わせることのないように。
 達之は自分と女、いいや、自分と沙羅、そして女のどちらを選ぶのであろうか?
 修羅場となるのは確実なこの話し合いの場に、誰か第三者を入れた方がいいのではと沙知子は考えた。
 真っ先に蘭の顔が浮かんだも、先日の隣町でのこともあってか、結局は当事者三人だけでの話し合いとなった。

 女がやって来た。
 やはり、隣町の声かけ女ではなかった。
 それに電話口での女の声は甘く若かったも、実際の女は若くはなかった。明らかに沙知子より年上だ。
 うんと贔屓目に年齢当てをしても、四十代後半ぐらいだろう。
 分厚く塗りこめられたファンデーションの奥の質感が女の年齢を物語っていた。それにガニ股のうえ姿勢も悪く、ちょっとした動作にすら年季を感じさせる。
 何より女の顔立ちはビックリするほどに沙知子に似ていた。沙知子の実の姉よりも、この女の方が姉だと言われてもしっくりくるほどに。
 女の顔は沙知子の目鼻立ちを崩して、少しばかり下品さを加えたみたいだ。その下品さを際立たせるかのように、女はテカテカとした顔のところどころをギラギラならびにヌルヌルと光らせている。
 そもそもバーに飲みに行くならまだしも、こんな話し合いに来る時に、弾力を無くし萎び始めた胸の谷間ががっつりと見せ、同じく萎び始めていることがありありと分かる太腿をがっつり出した服を着てくるとは、どういう神経なのだ?
 女性というよりメスとしての嫌な圧力に感じさせる女の全身を眺め回さずにはいられなかった沙知子同様、女も沙知子の全身をジロジロと眺め回していた。
「やだぁ、奥さんって本当にあたしに似てる。でも、完全にあたしの劣化版っていうかぁ」
 それはこっちの台詞だ。
 四十代の女の皮を被った十代の女みたいな喋り方は、品性の欠片もない。語尾を伸ばすうえに、いい年して自分のことを私ではなく、あたしと呼ぶこともそれに輪をかけている。
「確かにおっぱいだけは無駄に大きいけど色気皆無だしぃ。普通、地味顔でおっぱいが大きい人って妙な色気があるもんだけど、奥さんは例外なんだぁ。タヌポンがこんな奥さんじゃなくて、”美魔女なあたし”に夢中なのも無理ないっていうかぁ」
 タヌポンとは、達之のことか?
 由来はおそらく、名前が「た」から始まることと、信楽焼のタヌキっぽいお腹なのだろうが、よくもふざけた呼び方で挑発してくるものだ。
 話し合いに突入する前から勝ち誇りまくっている自称美魔女とは対照的に、達之は縮こまっていた。
 一刻も早くこの話し合いを終わらせたい。ううん、話し合いが終わる前であっても、この場から逃げ出したいのがありありと分かった。
「もう頼りないんだからぁ。タヌポンはぁ、でもそんなところが可愛いんだけどねぇ。母性本能をくすぐるっていうかぁ」
 女と達之に対する怒りもあった。何より悲しみもあった。
 しかし、情けなさがより強くなってくる。
 あまりにも現実離れした女を目の当たりにした沙知子は自分でも驚くほど冷静に言葉を発していた。
「……主人とのことはともかく、なぜ、娘に声をかけ、無理やりコスメを押し付けたりしたんですか? なぜ、何の罪もないあの子を大人の話に巻き込んで傷つけたんですか?」
 女はフフンと鼻を鳴らす。
「だってぇ、あたしは沙羅ちゃんのママになるんだし、今のうちに沙羅ちゃんに女の子の必需品をプレゼントしておきたかったのぉ。あたしがちょっと使って合わないなって思ったコスメたちだけどぉ。あたしのパパとママってお金持ちだから、ブランドコスメなんていくらでも買えるしぃ……ねえ、奥さん、知ってるぅ? 最近の小学生の女の子たちってすっごくお洒落なんだからぁ。あたしも女として負けていられないって思ってるんだけど、あたしの娘になる予定の沙羅ちゃんだけは特別っていうかぁ」
 女子小学生を女としてライバル視している中年女。
 女は再び、沙知子の全身をジロジロと……どっぷりジロジロと眺め回してきた。その顔にあるのは、優越感であることは沙知子も見て取れた。
「こんな”あらゆる意味で乾ききった奥さん”の元で育ったら、沙羅ちゃんだって、ダッサダサの喪女一直線よぉ」
 女はさらに続ける。それはそれは得意げに続ける。
「女は常に潤っていないとダメなのよぉ。メイクやヘアスタイルに気を抜いちゃダメなのはもちろん、セックスにこそ、女が女として生まれたきた喜びの全てが詰まっているのよぉ。聞いた話じゃ、奥さんってタヌポン一人しか”知らない”んでしょお? 今の時代にあり得ないっていうかぁ。女の価値と幸せは、どれだけ男の人に愛されたかで決まるのよん。あたしは奥さんと違って、すっごくモテるんだからぁ。中学生の時から、いろんな男の人から声をかけられて”愛され続けて”きたんだもぉん。でも、あたしもそろそろウエディングドレスを着たいしぃ。あたしが沙羅ちゃんのママになったら、沙羅ちゃんにあたしの魔性のテクニックを教えてあげるつもりよぉ。沙羅ちゃんとはセックスの話だって、あけすけにできるぐらいの”友だち親子”に……」
 呆れによって乾ききっていたはずの沙知子の心に、ゴオッと炎が巻き上がった。
 達之はともかく、沙羅を……!
 沙羅を巻き込んで傷つけたばかりか、まだあどけない子どものあの子に、この下品で気持ち悪い女はセックスをねっとりと絡ませようとしてきている!
 立ち上がった沙知子の腕を達之がガッと押さえた。
 まさか、こんな女をかばうのか?
「すまない! こいつとは金輪際、会わない! 俺が愛しているのは、お前だけ……いや、お前と沙羅だけだ!」
 沙知子へと向って土下座した達之。
 「愛している」なんて言葉など、普段の生活どころか、新婚時代にすら彼の口から紡ぎ出されたことなどなかったというのに。
 女の顔色がサアッと変わる。
「……酷い! タヌポン、あたしのことを魅力的だって言ってくれたじゃない! あたしのことを”五回も愛してくれた”じゃない!?」
「お、俺はただヤりたかっただけだ! 誰でもいいから! ちょうど、そこにあんたがいて……」
「じゃ、じゃあ……タヌポンはあたしと結婚なんてする気はなくて、甘い言葉を耳元で囁いて、”美魔女なあたし”の美貌と体を堪能しただけだったの?! タヌポンは……タヌポンだけは他の男の人とは違うと思ってたのにぃぃ!!」
 女はわああっと泣き出した。まるで子どものように。
 黒いマスカラが滝のように、塗りこめられたファンデーションの上を流れていく。
 言葉になっていない何かを叫びながら、女は飛び出していった。
 その後には涙に濡れたつけまつげがポツンと残されているだけであった。
 
 陰鬱な静寂に包まれた家の中で、達之は再び沙知子に向かって土下座した。
 彼の両肩は震えていた。おそらく、ポコンと出たお腹の肉も震えているだろう。
 顔を上げた達之の目は潤んでいた。
「お前がなかなかさせてくれなくて、そんな時にダチと飲みに行った店で、同じ客だった”あいつ”からグイグイ来られて……あいつ、店の客たちの間じゃ有名人みたいで……他の男どもが言うにはテクニックもなかなか凄いってことで……」
 心からの謝罪よりも先に言い訳なのか?
 それに今の話をまとめるなら、他にも穴兄弟が多数いる股のユルい女の誘いに乗ったということだ。
 他の男たちはあの女からの”次へと続く誘い”をかわしたのだろうけど、遊び慣れていないこのバカはかわしきれずに、結婚という夢を持たせてしまったのだと。


10

「……でも結局、許したってわけか」
 今日もランチがてら沙知子からの一連の報告を受けた蘭は、呆れていた。
「しっかし、よく許したよねぇ」
 蘭の声には、呆れと軽蔑しか滲んでいなかった。
 それは沙知子自身も思う。よく達之を許したものだと。
 達之の涙にほだされたというわけではない。
 実際に離婚となると、そう簡単にはいかないのだ。急に母親だけになってしまったら、ただでさえ怯えきって情緒不安定になっている沙羅のメンタルにもさらなる悪影響が出るだろう。
 美魔女だと思っているのは本人ので気持ち悪いだけの年増女に「タヌポン」などと呼ばれていたうえに、実際に五回もセックスをしていた達之。
 あの女の顔が沙知子に似ていることが気持ち悪さに拍車をかけ、”双方に対する”ぬぐいさることのできぬ嫌悪感を今も増長させていた。
 不倫したにしても沙知子とは全く系統が違う、単に若くて可愛いだけの女の子が相手であった方が遥かにマシであった。
 あれほどの”勘違い美魔女”が実在していたとは。
 だが、達之も達之であの女を性欲処理に使っていたことには変わりはない。弄ばれた女を気の毒に思う気持ちが、沙知子にひとかけらもないわけではなかったものの……
「あんな強烈な女が実在していたなんて、やっぱり独身こじらせると、あんな風になっちゃうのかな?」
 沙知子の言葉に、蘭のストローを掻き回す手が止まった。
「それってどういう意味? 私だって独身なんだけど……好きで独身のままいるわけでもないんだけど」
「ご、ごめっ……別に蘭のことを言っているわけじゃなくて……」
 何も答えず俯いた蘭。俯いたまま彼女は肩を震わせていた。
 泣いてるの? と思ったが、低い笑い声が聞こえてきた。
 クックックッと喉を鳴らしながら蘭は笑っていた。
 顔をあげた蘭は、何とも言えない嫌な笑顔をしていた。
「あんたに本当のこと言ったげる。声かけ女は一人だけよ」
「え……? どういうこと……?」
「どういうことも何も言った通りなんだけど。隣町の”あいつ”の方は、全くの無実」
 まだ喉を鳴らして笑っている蘭の唇の片方が上がっていた。こんな気味の悪い笑い方をする蘭なんて初めてだ。
「あんたって勘が鋭いんだか、鈍いんだか分からないよね。ま、私の話を微塵も疑わず、頭から信じるぐらいだから、やっぱり鈍いか。前ね、面接の帰りにね、”あいつ”を偶然、見かけたんだ。すっごい不細工だし、見るからに不幸そうだって思って、ちょっと興味半分で後をつけたのよ。そしたら、案の定、あんな笑えるほどのボロッボロの一軒家に住んでてさぁ。ほんと、不幸の寄せ集めみたいな女って実在するんだっていうかぁ」
 ドリンクの氷をストローでカラカラと回しながら、その速度に比例するかのように蘭は饒舌になっていく。
「なんか、こうも荒みきった思い通りにならない日々を送ってるとさぁ、誰かにぶつけずにはいられない時ってあるじゃない。そんな時に自分より女としてだけでなく人間としてもランク下の奴を見たら、ホッとしちゃってさぁ。あんたから沙羅ちゃんのことで電話貰った時、咄嗟に作り話を思いついたんだよね。あんたの旦那の不倫相手が実際に沙羅ちゃんに声かけしていたのは、ほんと偶然だったけど……ネットで毒吐くのもいいけど、やっぱり直接、ぶつけた方がすっきりするよね。相手の反応も生(なま)で見えるし。それにあいつなら、今まで散々不幸な人生を送ってきただろうことは見るからに分かるし、私が”多少”ぶつけても構わない相手かなって……あの時は私も不採用の電話もらってイラついてたし、タイミングが悪かったよね、”お互いに”」
「じゃ、じゃあ……何もしていないあの人に、あんな酷いこと……」
「は? 酷いって何? あんたはあんたで私に酷いことしているでしょ? あんたの場合、自覚がないから余計にタチ悪いわ。あんたの旦那は、不倫相手のことをヤるだけの女扱いしていたけど、あんたにとっても私は愚痴や悩みを吐き出すだけの相手でしかないのよね?」
「そ、そんなつもり……」
「あんたは自分のこと、どこにでもいる平凡な専業主婦って思ってるんだろうけど、充分恵まれているのよ。クズだけどそこそこ稼ぐ旦那に、子ども、戸建ての一軒家と全部手に入れているくせに。ま、どうせ、その胸で釣り上げたんだろうけど。結婚どころか恋愛すらする余裕もなくなっている失業中の私に、自分の話ばかりクドクド聞かせてきてさぁ。私に子どもの相談をされても分かるかっての。あんたにランチに呼び出されて、その分のランチ代を払ってくれるならまだしも、自分の分は自分できっちり割り勘だし。失業中のこっちは、あんたと違って家賃も食費も厳しいってのに…………それに、まだまだ若いって必死で自分に言い聞かせていても、何もできないまま、何にもなれないまま、年だけ取っていくしさあ! あんたは結局、何も持っていないうえに失っていくだけの私を見て優越感に浸ってたんでしょ?!」
 そんなつもりなどなかった。本当になかった。
 ただ大学時代からの親友とのランチができるひと時ががうれしかっただけだ。
 それに、そんなに私のことが嫌でランチ代のお金を出すのも嫌だったなら、なぜ幾度も付き合ってくれたのか?
「あんたがクズ旦那と別れて、苦労も覚悟のうえで沙羅ちゃんを一人で育てていこうとしたなら、まだあんたのこと見直したわよ。これ以上、嫌いになったりしなかった。結局、あんたは手に入れているものを何一つ手放したくなかっただけじゃないの」
 ガタンと乱暴に音をさせ椅子から立ち上がった蘭。
「私、そろそろ帰るから。最後のランチ代ぐらいは払っといてよね」


11

 親友を失った。
 ”今も”親友だと思っていたのは沙知子一人だけだった。
 大学時代から十年以上にもわたる蘭との思い出が蘇ってくるとともに、沙知子の目からは涙が零れ落ちそうになる。
 永遠に抜けることのない釘を打ち込まれたがごとく膿んだ心はズキズキと痛み続けていたが、沙知子はそれを堪え立ち上がった。
 完全に元通りになることはないが、この家で沙羅の母としてはもちろん、達之の妻として暮らし続けることを選択したのだから。

「沙羅。ママ、今からお買い物に行くんだけど一緒に行く?」
「…………行かないよ。でもね、ママがお菓子二つ買ってくれるなら、一緒に行ってもいいかなって」
 そう言った沙羅はえへへ、と悪戯っぽく笑っていた。
 回復途中にあるその笑顔はどこかまだ硬く、痛々しさを感じずにはいられない。
 そうだ、まだ幼いこの子の心にこそ抜けない釘が打ち込まれてしまったのだ。
 沙知子はあの不倫女のことを「頭のおかしいおばさんだったのよ。あのおばさんはもう二度と沙羅の前に現れないからね」と言い聞かせ、「怖かったろうに、ママが気付いてあげられなくてごめんね」と沙羅を抱きしめた。
 これが正しかったのかどうか分からない。
 まだ幼いこの子もこれから成長していくうえで”真実”を悟るだろうし、すでに”真実”を悟っているかもしれない。

 沙羅と手を繋いで歩道を歩く沙知子。
 小さくて温かい手が沙知子の手をギュッと握りしめ、沙知子もその手を離すまいと握り返す。
 沙知子は沙羅に聞く。
「ねえ、沙羅。人に酷いことを言ってしまった人は、謝らなければならないよね?」
 キョトンとして、母を見上げる沙知子。 
 当たり前だが、母が何のことを言っているのか沙羅には分からない。
「うん、そうだね。私も前にお友だちの美保ちゃんと喧嘩しちゃった時はちゃんと謝ったし、美保ちゃんも謝ってくれたよ」
 だが、沙知子の場合は喧嘩などではない。謝る相手もお友だち――蘭――ではない。
 もう修復は不可能であろうし、これ以上、彼女に関わらないことが知らずと傷つけてしまっていた彼女への最後の思いやりなのだろうから。
 謝る相手は、名前も知らない隣町のあの女性だ。
 言い訳でしかないが、実際にあの女性に暴言を、いや、暴言など遥かに超えた”彼女がこの世に生まれてきたことそのものを否定する言葉”を吐いたのは蘭である。
 しかし、蘭を止めることもせず詰め寄っていった自分も同罪だ。
 見知らぬ二人の女に詰め寄られた挙句、いきなり怒鳴られ侮辱され、あの女性はどれだけ傷ついたうえに恐ろしかったことだろう。
 いくら蘭が心に余裕を無くし……蘭こそが、この世の全てを呪わずにはいられないほど荒んだ精神状態であり、自分より弱そうな者に八つ当たりせずにいられなかったとしても、そんなことはあの女性には何の関係もない。
 あの女性は悪意の釘を打ち込むための藁人形なんかじゃない。心を持った生身の人間だ。

 翌日、沙知子は菓子折りを手に女性の家へと向かっていた。
 こんなもので誤魔化して馬鹿にしているのか、と言われるだろう。その場で菓子折りを投げつけられ、水や塩を撒かれてたとしても文句など言えやしない。
 何より、沙知子は自分のこの行動が自己満足でしかないことは理解していた。
 けれども、このままじゃ”後味が悪すぎる”。

 だが結局、沙知子は女性に謝罪することはできなかった。
 彼女がいなくなった家には、忌中札が掲げられていたのだから。


(了)
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