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見えない愛

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「お父さん、お母さん……私、子供が出来たの。だから、この人と結婚するわ」

 ”2つ並んだ座布団”の1つにきちんと正座したヨウコは、そう言った。
 まだまだ子供だと思っていたヨウコが、いつの間にやら恋をして、子供までをもすでに胎内に宿していることに、私は驚き、私の傍らに座る妻も驚いたようであった。

 思えば、私たちがヨウコを、自分たちの娘として、この集落に連れてきた”あの夜”から、もう20年以上の歳月が経っている。

 私たち夫婦の唯一無二の愛しい子供となったヨウコ。
 ヨウコと私たちが初めて出会った日の光景は、私だけでなく妻の心のアルバムの中でも、まるでつい先刻のことのように、”痛みとともに”思い出せた。


※※※


 青空の下、今を盛りとばかりに咲き誇る桜。
 5才のヨウコは、当時の彼女の両親に連れられ、そして1才違いの兄と妹とともに、お花見に来ていた。

 こうして、単に言葉で表したなら「家族みんなでのお花見」といった幸せな光景を思い浮かべる者が大半であるだろう。
 しかし、私と妻が見た光景は、そうではなかった。

 ヨウコの兄はヨウコの父親と手を繋ぎ、ヨウコの妹はヨウコの母親と手を繋いでいた。だが、ヨウコはただ一人、彼らの後ろを遅れまいと、見失うまいと必死でついていっていた。

 ヨウコの両親は、他のお花見客たちと同様、自分たちのお花見席を確保し、レジャーシートを広げた。
 父親はヨウコの兄の手を、母親はヨウコの妹の手を、おしぼりで優しく拭いてやっていた。
 しかし、彼らはヨウコの手を拭いてやるどころか、彼女には彼女用のおしぼりを差し出すことすらしなかった。

 ヨウコの両手は汚れたままで、ヨウコの爪の間には垢がたまっていることが、やや離れたところから彼女を見ている私たち夫婦にもはっきりと分かった。
 いや、ヨウコの兄と妹が毎日きちんと入浴させてもらい、清潔な状態を保たれているのだと仮定したなら、ヨウコが入浴させてもらったのは、おおよそ数日前であると予測できた。まだ肌寒さがわずかばかり残る、この春先とはいえ、本来はサラサラしているはずのヨウコの髪の毛は、油でギトギトとなっていたのだから。


 この異様な光景に気づき始めたのは、私たち夫婦だけではなかったらしい。
 他の花見客たちも、眉を顰め、ヒソヒソしながら、ヨウコたち家族の方をチラチラと見ていた。

 いかにも裕福そうで身綺麗な家族。
 その家族の輪から外された異分子のごとく、痩せこけて薄汚れた女児がレジャーシートの片隅に肩を縮こまらせて座っている。

 異様なだけじゃなく、胸が悪くなるような光景だ。
 しかし、他の花見客たちは皆、見ないふりを決め込んだらしかった。なぜなら、自分たちの家族が、子供が、守るべき者が傍らにいるのだから。関わり合いになりたくないというのが、本音であったのだろう。


 楽しそうにキャッキャッと笑ったヨウコの妹が、小さな手よりお茶をうっかりこぼしてしまった。
 すると、ヨウコの母親は……
「ほら、駄目じゃないの。でも、仕方ないわね。あなたは悪くないのよ。ぜーんぶ、ヨウコが悪いのよ」
 片隅で1人、かろうじて与えられた塩むすびを、汚れた両手でモソモソと口に運んでいたヨウコを振り返った。

「ホントだな。ヨウコは本当にダメな子だ。妹がお茶を飲む邪魔をするなんてなぁ」
 同じくヨウコを振り返った父親が笑う。

 ヨウコはただ座っていただけだ。
 妹がお茶を飲むことを邪魔するなど物理的に不可能でしかない。これは私たち夫婦だけでなく、誰が見ても分かることだ。ヨウコに一切の非などなかった。

「えーと、じゃあ、お父さん、お母さん、僕が昨日、一人で遊んでいてプラモデルを壊しちゃったのも、ヨウコのせいってことなの?」
 ツヤツヤのウィンナーを齧りながら、ヨウコの兄が問う。
「うん、そうよ。あれも、ヨウコが悪いのよ。あなたたちは何も悪くないの。家で起こる全ての悪いことは、全部ヨウコが引き起こしているの」
 母親がにっこりと笑い、父親も「その通りだ」とにっこりと頷く。

 その言葉を聞いたヨウコの妹は、ツヤツヤのいちごを口に運びながらあどけない顔で言う。
「そうなんだね。ぜーんぶ、ヨウコお姉ちゃんがいけないんだね。ヨウコお姉ちゃんはいけない子なんだね」

 まるで”透明人間のようであった”ヨウコは、彼女に一切の責任のない非を問われる時だけ、家族に振り返られていた。

 
 何と言う、胸糞の悪い光景であるのか?!
 私の傍らで、涙をこらえ切れなかったらしい妻が鼻を啜る音が聞こえた。

 この家族は、ヨウコを生贄にして、ストレス解消ならびに家族間のバランスを保っているのだ。
 そして、まだヨウコと同じく子供である彼女の兄や妹も、親となる資格などないのに親となってしまった畜生のごとき者たちに洗脳されつつあるのだ。いや、まだ畜生たちの方が、自分の血を分けた子供を愛し守ろうとするだろう。


 私たち夫婦は、ヨウコを救い出す決意をした。

 ヨウコたちが住んでいる家を尾行して突き止めた私たちは、最初はヨウコだけをこっそり連れ去ろうかと考えていた。
 しかし、ヨウコがいなくなった後は、残された兄か妹のどちらかが”第2のヨウコ”となるかもしれない。
 それに、ヨウコの両親はそれぞれの見た目から推測するに、まだ充分に子作り可能な年齢だ。新たな子供を”第2のヨウコ”とするために、誕生させてしまう可能性だってある。


 私たち夫婦も、いかなる理由があろうと”殺人”は許されないことであると、理解はしているし、理性だって働く。
 けれども、家族間での虐待という地獄の中にいるヨウコを救い出すだけでなく、あの狂った親たちの被害者となる子供をこれ以上出さないために、そうすることが最善の策であると判断したのだ。
 この判断は、ヨウコが無事に20才を超えることができた今でも、間違ってはいなかったと正直なところ、思っている。


 夜、ヨウコの家へと忍び込んだ私は、リビングにいたヨウコの父親の首を背後から絞めた。
 そして、私の妻は、同じくリビングにいたヨウコの母親の首を背後から絞めた。

 奴らの殺し方については、妻ともいろいろ話し合ったが、絞殺が一番いいという結論が出た。なぜなら、血が出ないからだ。返り血を浴びないことは、私たち夫婦にとって、何よりも大切なのだ。

 ヨウコの両親を、それぞれ殺害した私たち夫婦。
 掃除が行き届いたリビングの床は、口から舌をはみ出させてだらしなく転がっているヨウコの両親の尿や便、口だけでなく耳や鼻から流れる液体で、みるみるうちに汚れていっていた。

 そして、ただらなぬ物音や呻きを聞いてしまったのか、就寝中であったらしいヨウコの兄と妹が、”私たちの足元で”事切れたばかりの両親が転がっているリビングへとやってきたのだ。

 しかし、私も妻も、ヨウコの兄と妹は殺さなかった。
 彼らはまだ子供なのだ。
 彼らも、歪んだ両親に洗脳されつつあったのは間違いないが、彼らのこれから先の人生において、良識と思いやりのある大人との”暮らし”や出会いによって、更生する余地があることを、私も妻も願わずにはいられなかったからだ。


 それから、私たち夫婦は、使い古されペタンコとなっている薄いタオルケットにくるまり、”2階の廊下で”目を固く閉じて眠っていたヨウコの元へと向かった。
 妻がヨウコを抱き上げ、胸の中で抱きしめた時、ヨウコは驚いた顔をしていた。だが、ヨウコは何よりも求めていた”ぬくもり”を感じたのか、妻の胸の中で声をあげて泣いた。
 それは私たちが血のつながりは無くとも、家族となった瞬間であった。目には見えなくても、確かな愛を感じた瞬間であった。


 私たちは、ヨウコを自分たちの娘として、この集落に連れてきた。
 最初は戸惑うことが多かったヨウコであったが、次第に私たちの集落での掟や生活の仕方を飲み込んでいったようであった。
 それは、私たちの集落にも数人はヨウコと同じ者がいたためであるだろう。
 さすがに、ヨウコを学校に行かせることはできなかったため、私たちは読み書きを教え、ヨウコはこの集落で20年以上の歳月を健やかに重ねていった。


 そして、ヨウコの両親を殺害し、ヨウコを現場から連れ去った私たちは夫婦の元には、警察の捜査の手すら伸びてくることはなかった。捜査の手が伸びてくるはずがないと存分に理解していたからこそ、私たちは凶行に及んだのだ。
 永遠の未解決事件となった”あの事件”の夜、現場付近で不審な者たちを見たという目撃情報も皆無であれば、殺害されたばかりの両親の元へと駆け付けてきたヨウコの兄や妹だって、私たち夫婦の姿を”見てはいない”のだ。見えるわけがないのだ。

 そう、私たち夫婦は”透明人間”なのだから。

 私たちの集落は、透明人間たちが集まり、自給自足で生活をしている。
 集落の中には、透明人間ではなく、自ら望んでこの集落に骨を埋めることを選択した”見える者”もいれば、ヨウコのように幼い頃に救い出されて、ここへとやってきた者もいたのだ。


※※※


 私たち夫婦の唯一無二の愛しい子供となったヨウコ。
 そのヨウコの傍らには、ヨウコのお腹の子供の父親であり、私たちの義理の息子となる同じ集落の若者が、きちんと正座して座っていることが”2つ並んだ座布団”の1つのへこみで分かった。

「お父さん、お母さん……私、本当に幸せだったよ。お父さんやお母さんの姿は見えなくても、2人のぬくもりを、優しい眼差しを、いつも感じていた。この目に見えなくても、2人からの愛を感じていた」

 ヨウコの目に涙が光る。
 私の傍らの妻がすすり泣く。なんと、義理の息子となる青年も、もらい泣きしているらしい音が聞こえた。

「これから、もっともっと幸せになるんだよ。ヨウコ……」

 何とか声を絞り出すことができた私の瞳からも、ついに涙が溢れ出した。
 私たち夫婦の”孫”が、ヨウコと同じく”見える者”であるのか、それとも私たち夫婦や義理の息子同様に透明人間であるのかは分からない。
 でも、私たちは愛し続けよう。愛は見えなくとも、言葉や眼差しで示すことができるのがから。


 滲んだ私の瞳に、窓の外に広がる青空が映った。
 その青空の下、この世のものも思えぬほど 絶佳な桜たちが、見えない愛に包まれた私たち家族を祝福するかのごとく咲き誇っていた。



―――完―――
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