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王都の崩壊
第15話:隠しきれない腐敗の予兆
「美しい王国」の象徴であった王都シュトラール。しかし今、この街を訪れる者は皆、城門をくぐる前に激しい吐き気に襲われることになる。
かつてエルゼが一人で吸い込み、その小さな体の中に封じ込めていた「国の膿」――それは彼女という器を失ったことで、王宮の地下深くから溢れ出し、物理的な形を持って城内を侵食し始めていた。
「……何よ、この色は。拭いても拭いても、すぐに黒ずんでくるじゃない!」
王宮の廊下で、侍女たちが悲鳴に近い声を上げていた。
大理石の床や柱には、まるで血管のような不気味な黒い筋が浮き上がり、そこからドロリとした粘液が漏れ出している。それはエルゼが長年浄化し続けていた、民の怨嗟や貴族の嫉妬、そしてこの土地が抱える歴史的な瘴気そのものだった。
清掃員たちが必死に磨いても、その黒い筋は拭い去るそばから増殖し、さらに酷いのはその「音」だった。壁の向こう側で、何かが蠢くような、あるいは誰かがすすり泣くような湿った音が絶えず響いているのだ。
「イザベル様! 早く、早く新しい『浄化の香』を!」
すがりつく侍女たちを、イザベルは乱暴に突き飛ばした。
「うるさいわね! 今、作っている最中よ! お姉様にできたことが、私にできないはずがないのよ!」
イザベルは調香室に籠もり、最高級の香料を無造作に調合台へぶちまけていた。
だが、その手は小刻みに震えている。
彼女がどれほど高価な「白百合の精油」を混ぜても、出来上がるのは鼻を刺すようなアンモニア臭と、腐敗した生ごみを混ぜたような、悍ましい泥水でしかなかった。
(どうして……! レシピは、お姉様が残したものをそのまま使っているのに!)
彼女は気づかない。エルゼの香りは、材料の配合だけではなく、調香する瞬間に「瘴気を我が身に引き受ける」という聖女にも似た自己犠牲の魔力が込められていたことを。
自分の欲望と虚栄心を隠すことしか考えていないイザベルが作る香りは、逆に瘴気を呼び寄せ、肥大化させる「毒」でしかなかった。
「……っ、うげほっ、ごほっ!」
イザベルが激しく咳き込むと、口から黒い煤のようなものが吐き出された。
彼女の自慢だった金髪は艶を失い、パサパサに乾いて、まるで枯れ草のようになっている。
◇◇◇
一方、王太子カイルの執務室も、地獄と化していた。
彼が愛でていた純白のペルシャ猫は、原因不明の病で毛が抜け落ち、彼に近寄ろうともしない。窓から見える広大な庭園は、エルゼが去ってから一度も花を咲かせることなく、今は立ち枯れた木々が幽霊のように並ぶだけの死に地となっていた。
「……報告しろ。隣国の反応はどうだ」
カイルは顔を青白くさせ、香水を染み込ませたハンカチで鼻と口を覆ったまま尋ねた。
「は……。隣国の使節団からは、公式に抗議が届いております。『シュトラール王宮は、もはや人間が住める環境ではない。外交問題として、この異臭の原因を調査せよ』と。また……マルセル商会を通じて広まったエルゼ様の香水、『女神の雫』を手に入れられない貴族たちが、次々と辺境伯領へ移住を始めております」
「……何だと? 我が国の貴族が、あの死神の領地へ逃げ出しているというのか!」
「はい。あちらの領地は今、エルゼ様の力によって『地上で最も清らかな聖域』と呼ばれておりまして……。そこへ行けば病が治る、心が洗われると、平民たちの間でも聖女交代の噂が絶えません」
カイルは机を叩きつけた。
だが、その机の角からは、じわりと黒い脂のようなものが染み出し、彼の豪華な衣装を汚した。
「ふざけるな……! エルゼは私の婚約者だった女だ! あの女の才能は、すべてこのシュトラール王家のために捧げられるべきもの。それを、ジークヴァルトめ……あのアバズレ女と一緒になって、私を、この国を愚弄する気か!」
カイルの脳裏に、最後に見たエルゼの姿が浮かぶ。
ボロボロの服を着て、涙を流しながら「申し訳ありません」と謝っていた、あの「無価値な置物」。
今の彼には、その「置物」が放っていた微かな香りが、どれほど贅沢で、どれほど尊い防壁だったかが、骨身に染みて理解でき始めていた。
だが、プライドがそれを認めさせない。
「……イザベル。あの女はもう使い物にならん」
カイルは冷酷な眼差しを、隣の部屋で泣き叫ぶイザベルの方へ向けた。
「エルゼを連れ戻す。……あいつは私の『物』だ。無理やりにでも引きずり戻し、地下牢にでも繋いで、死ぬまでこの国の瘴気を吸わせ続けてやる」
カイルの瞳は、もはや正気の色を失っていた。
自分たちがエルゼからすべてを奪ったという事実は棚に上げ、今度は「奪い返して利用する」ことしか考えていない。
王宮の地下から、地鳴りのような音が響いた。
エルゼが去って、ちょうど一ヶ月。
この国を守っていた最後の「香りの結界」が、ついに完全に崩壊しようとしていた。
かつてエルゼが一人で吸い込み、その小さな体の中に封じ込めていた「国の膿」――それは彼女という器を失ったことで、王宮の地下深くから溢れ出し、物理的な形を持って城内を侵食し始めていた。
「……何よ、この色は。拭いても拭いても、すぐに黒ずんでくるじゃない!」
王宮の廊下で、侍女たちが悲鳴に近い声を上げていた。
大理石の床や柱には、まるで血管のような不気味な黒い筋が浮き上がり、そこからドロリとした粘液が漏れ出している。それはエルゼが長年浄化し続けていた、民の怨嗟や貴族の嫉妬、そしてこの土地が抱える歴史的な瘴気そのものだった。
清掃員たちが必死に磨いても、その黒い筋は拭い去るそばから増殖し、さらに酷いのはその「音」だった。壁の向こう側で、何かが蠢くような、あるいは誰かがすすり泣くような湿った音が絶えず響いているのだ。
「イザベル様! 早く、早く新しい『浄化の香』を!」
すがりつく侍女たちを、イザベルは乱暴に突き飛ばした。
「うるさいわね! 今、作っている最中よ! お姉様にできたことが、私にできないはずがないのよ!」
イザベルは調香室に籠もり、最高級の香料を無造作に調合台へぶちまけていた。
だが、その手は小刻みに震えている。
彼女がどれほど高価な「白百合の精油」を混ぜても、出来上がるのは鼻を刺すようなアンモニア臭と、腐敗した生ごみを混ぜたような、悍ましい泥水でしかなかった。
(どうして……! レシピは、お姉様が残したものをそのまま使っているのに!)
彼女は気づかない。エルゼの香りは、材料の配合だけではなく、調香する瞬間に「瘴気を我が身に引き受ける」という聖女にも似た自己犠牲の魔力が込められていたことを。
自分の欲望と虚栄心を隠すことしか考えていないイザベルが作る香りは、逆に瘴気を呼び寄せ、肥大化させる「毒」でしかなかった。
「……っ、うげほっ、ごほっ!」
イザベルが激しく咳き込むと、口から黒い煤のようなものが吐き出された。
彼女の自慢だった金髪は艶を失い、パサパサに乾いて、まるで枯れ草のようになっている。
◇◇◇
一方、王太子カイルの執務室も、地獄と化していた。
彼が愛でていた純白のペルシャ猫は、原因不明の病で毛が抜け落ち、彼に近寄ろうともしない。窓から見える広大な庭園は、エルゼが去ってから一度も花を咲かせることなく、今は立ち枯れた木々が幽霊のように並ぶだけの死に地となっていた。
「……報告しろ。隣国の反応はどうだ」
カイルは顔を青白くさせ、香水を染み込ませたハンカチで鼻と口を覆ったまま尋ねた。
「は……。隣国の使節団からは、公式に抗議が届いております。『シュトラール王宮は、もはや人間が住める環境ではない。外交問題として、この異臭の原因を調査せよ』と。また……マルセル商会を通じて広まったエルゼ様の香水、『女神の雫』を手に入れられない貴族たちが、次々と辺境伯領へ移住を始めております」
「……何だと? 我が国の貴族が、あの死神の領地へ逃げ出しているというのか!」
「はい。あちらの領地は今、エルゼ様の力によって『地上で最も清らかな聖域』と呼ばれておりまして……。そこへ行けば病が治る、心が洗われると、平民たちの間でも聖女交代の噂が絶えません」
カイルは机を叩きつけた。
だが、その机の角からは、じわりと黒い脂のようなものが染み出し、彼の豪華な衣装を汚した。
「ふざけるな……! エルゼは私の婚約者だった女だ! あの女の才能は、すべてこのシュトラール王家のために捧げられるべきもの。それを、ジークヴァルトめ……あのアバズレ女と一緒になって、私を、この国を愚弄する気か!」
カイルの脳裏に、最後に見たエルゼの姿が浮かぶ。
ボロボロの服を着て、涙を流しながら「申し訳ありません」と謝っていた、あの「無価値な置物」。
今の彼には、その「置物」が放っていた微かな香りが、どれほど贅沢で、どれほど尊い防壁だったかが、骨身に染みて理解でき始めていた。
だが、プライドがそれを認めさせない。
「……イザベル。あの女はもう使い物にならん」
カイルは冷酷な眼差しを、隣の部屋で泣き叫ぶイザベルの方へ向けた。
「エルゼを連れ戻す。……あいつは私の『物』だ。無理やりにでも引きずり戻し、地下牢にでも繋いで、死ぬまでこの国の瘴気を吸わせ続けてやる」
カイルの瞳は、もはや正気の色を失っていた。
自分たちがエルゼからすべてを奪ったという事実は棚に上げ、今度は「奪い返して利用する」ことしか考えていない。
王宮の地下から、地鳴りのような音が響いた。
エルゼが去って、ちょうど一ヶ月。
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