「君は有能すぎて可愛げがない」と婚約破棄されたので、一晩で全ての魔法結界を撤去して隣国へ行きます。あ、維持マニュアルは燃やしました。

しょくぱん

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第30話:終わりなき研究

バルドゥール帝国が、大陸の歴史において「黄金の千年」と呼ばれる時代の第一歩を踏み出してから、数年の歳月が流れた。
かつて魔物の咆哮と、崩壊する結界の悲鳴に満ちていた大地は今、エルゼ・ラザリスが敷設した『広域魔力供給網マナ・グリッド』によって、隅々まで豊かな緑と活気に満たされている。帝都ベルンシュタインの空には、物資を運ぶ魔導飛空艇が整然とした航路を描き、地上の人々はもはや、明日の魔力不足に怯えることなく、穏やかな眠りについていた。
その帝都の中心、かつてエルゼが孤独に演算を続けた魔導管理塔の最上階。
そこは今や、帝国魔導学の聖地『ラザリス研究所』となっており、今日もまた、一人の女性が放つ鋭い知性の熱量に包まれていた。
「……誤差、〇・〇〇三。……第十二管区の流体振動、許容範囲内です。……カイル、貴方の提出した報告書、……第三項の変数計算に甘さが見られます。……やり直し。……私の検閲をパスしたければ、……感情ではなく、……事実の記述を優先しなさい」
銀色の髪を後ろで緩く束ね、洗練された銀縁の眼鏡を指で押し上げる女性。エルゼ・ラザリス――否、今は帝国の皇后であり、全大陸の魔導を統括する「至高の検閲官」となった彼女は、数年前と変わらぬ冷徹な筆致で、後進の指導に当たっていた。
「は、はい! 申し訳ありません、エルゼ様! すぐに修正します!」
かつての若き魔導師、カイルは今や帝国魔導師団の師範代として、多くの門下生を抱える身だ。それでも、エルゼの前に立つと、背筋が凍るような緊張感と、それ以上の深い敬意に背筋を伸ばさずにはいられない。エルゼの「可愛くない」正論こそが、この数年で数百万の命を救ってきたことを、彼は誰よりも知っているからだ。
カイルが慌てて退室した後、エルゼはふぅ、と小さく溜息をつき、手元の膨大な書類――世界中に散らばる「バグ」の報告書に目を戻そうとした。
その時。
「……きゃっ。……あ……」
エルゼの足元で、何かが彼女のスカートの裾を力強く、そして「非論理的」なリズムで引っ張った。
エルゼが視線を落とすと、そこには銀色の髪を逆立たせ、琥珀色の瞳をキラキラと輝かせた、三歳ほどの小さな少年が立っていた。ヴィクトールの覇道を受け継ぐ力強い面差しと、エルゼの繊細な魔力適性を併せ持った、第一皇子・レオ。
「……レオ。……今、私は、……大陸全体の魔力分配における、……非線形方程式の最適化を行っています。……遊ぶというタスクの割り込みは、……現時点では、……スケジュールに含まれていません」
エルゼは、精一杯「厳しい検閲官」の顔を作って見せた。
だが、レオはそんな母の言葉など気にする様子もなく、彼女の机の上にある「世界に一つしかない超高精度魔導ペン」をひょいと掴み、あろうことか、エルゼが今朝から書き上げていた重要な数式の上に、大きな、丸い、意味不明な「円」を描き加えた。
「……っ!? レオ! それは、……多重次元結界の……制御コード……!」
「あう! おはな! かか、おはなー!」
レオは満面の笑みで、書き殴った円を指差した。彼にとっては、複雑な数式も、ただの「お花」を描くためのキャンバスに過ぎないらしい。
エルゼは、数週間の努力が無残に書き換えられた惨状を前に、愕然とした。
「(……エラー。エラー。……予測不可能性、一〇〇%。……修正、不可能。……この『レオ』という個体の行動原理は、……因果律を無視し、……私の論理体系を、……根本から破壊し続けている……)」
エルゼは頭を抱え、眼鏡を外して眉間を揉んだ。
かつて、魔王の極大魔法さえも「計算通り」と一蹴した彼女が、たった一人の子供が描いた「お花」の落書きを前に、完全にフリーズしていた。

その時、部屋の重厚な扉が開き、戦場から帰還したばかりのヴィクトールが、豪快な笑い声を上げながら入ってきた。
「ははは! どうした、エルゼ。……世界最強の検閲官が、……小さなバグ一人に、……完膚なきまでに敗北しているようだな」
「……陛下。……笑い事ではありません。……この子の成長曲線は、……統計学上の外れ値アウトライヤーです。……食事、睡眠、……そしてこの、……意味不明な落書き。……すべてが、……私の計算を嘲笑っています……」
ヴィクトールは、レオをひょいと抱き上げ、困惑するエルゼの腰に手を回した。

「それでいいのだ、エルゼ。……計算できないからこそ、……明日は今日よりも面白くなる。……貴様が完璧に整えたこの世界を、……この小さな『カオス』たちが、……さらに新しく、……より美しく書き換えていく。……それが、生命という名の、……終わりなき研究ではないか」
ヴィクトールの温かな体温と、レオの屈託のない笑い声。
エルゼは、自分の足元で、そして腕の中で、世界が「数式」以外の色で溢れていることを再認識した。
彼女は、レオが描いた「お花」の落書きをもう一度見つめた。
それは、歪で、非効率で、美しさに欠ける記号だった。

だが、その記号の向こう側に、エルゼは見たこともないほど「正しい未来」の予感を感じていた。
「(……了解、しました。……『予測不可能』を、……『無限の可能性』と置換。……私の研究テーマに、……『家族の幸福の最大化』を追加します……)」
エルゼは、ヴィクトールの胸に寄り添い、レオの柔らかい頬を指でなぞった。

夕暮れ時の庭園。
家族三人で歩くその影は、エルゼがかつて捨てた「可愛げ」という言葉では到底足りないほど、豊かで、愛おしい輝きに満ちていた。

かつて、「可愛げがない」と婚約破棄され、雪の夜に一人で国を去った少女。
彼女の「可愛くない」知性は、世界を救い、一人の英雄を変え、そして今、誰もが笑える未来という名の「究極の術式」を完成させた。
エルゼ・ラザリスの物語。
それは、数字を愛した少女が、数字では測れない「愛」という名の解に辿り着くまでの、長く、美しい、証明の記録。
「……陛下。……明日の朝食のメニュー、……栄養バランスを計算しておきました。……ですが、……レオが食べ散らかす確率、……九五%を考慮して、……少し多めに用意しておきます」
「ふん。……貴様のその『可愛くない』予測、……的中することを願っているぞ、我が愛しき検閲官」
エルゼの眼鏡が、沈みゆく夕日を反射して、一瞬だけ黄金色に輝いた。
そのレンズの奥で、彼女は「計算外の幸せ」に満ちた笑顔を、確かに浮かべていた。
――全術式、正常。
――世界、永続的な幸福を確認。
――研究は、永遠に続く。
感想 7

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みんなの感想(7件)

薄井ぺら汚
2026.04.18 薄井ぺら汚

まだ5話までしか読んでないんだが、王国には王は居ないのかしら?
王子が好き放題やってるし全ての決定権を持ってるような感じだが、
もしかして王子が国のトップで王は居ないのかしら?

解除
リリアン
2026.04.17 リリアン

や、ヤバ…
このおじいちゃん何者????

解除
緋色
2026.04.10 緋色

王子が悪いのは明らかだが可愛げがないのだけは間違いなかったなw

解除

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