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第1話:愛の損益分岐点――本日、公爵夫人を廃業します
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白磁の皿に載った鴨のローストが、完璧な温度で湯気を立てている。
だが、その香りを愉しむ者はこの食卓にはいない。
結婚三周年。記念日のディナーを彩るはずの最高級のワインは、注がれることもなく、冷えた空気の中で静かに酸化を続けていた。
「――聞こえなかったのかい? アデライド。君とは今日限りで離縁する」
耳を打つのは、夫であるレオポルド公爵の、酷く薄っぺらな声だ。
彼は隣に座る小柄な女性――カトリーヌの腰を、見せしめるように強く抱き寄せた。
カトリーヌは桃色の瞳を潤ませ、勝ち誇ったような嘲笑を隠しもせず、私の顔を窺っている。
「ごめんなさい、奥様……。レオ様を愛してしまったのは、私の罪ですわ。でも、愛のない家庭に縛り付けられるレオ様が、あまりにもお労しくて……」
カトリーヌの指先が、レオポルドの胸元でくねり、甘えるように震える。
その光景を視界の端に捉えながら、私は手にしたカトラリーを静かに置いた。
カチャリ、と硬質な音が響く。
(――ノイズがうるさいわね)
私は、前世の記憶を持っていた。
かつて巨大企業の不採算部門を次々と切り捨て、再生させてきた経営コンサルタントとしての記憶。
その視点から見れば、目の前の光景は「痴話喧嘩」などではない。
ただの『不良債権の処理案』の提示だった。
私は脳内で、パチンと音を立てて帳簿を閉じた。
この三年間の家計、領地経営、魔導具商会の利益、そして、この「夫」という個体への投資額。
「君は強いから、僕がいなくても生きていけるだろう?」
レオポルドは、どこかの安っぽい演劇の台詞のような言葉を吐く。
自分は「弱きを助ける騎士」にでもなったつもりなのだろうか。
彼の指に嵌められたカフスボタン。
その魔石を磨かせたのも、私の資産だ。
彼が口にしている最高級の食材も、その輸送ルートを確立したのは私の手腕だ。
「……本日をもって、愛の損益分岐点を下回りました」
私の唇から漏れた呟きに、レオポルドが眉をひそめた。
「何をブツブツ言っているんだ。ショックで頭が沸いたのか? とにかく、この離縁届にサインしろ。カトリーヌのような守ってあげたくなる女性こそが、公爵夫人に相応しい。君のような冷血な女は、今日限りでこの屋敷から出て行ってもらう」
私はゆっくりと、彼らの正面を見据えた。
瞳に映るのは、無能な夫と、寄生することしか能のない愛人。
投資価値、ゼロ。
リターン、マイナス。
感情的な怒りよりも先に、合理的な「納得」が私を満たしていく。
「承知いたしました。閣下。本日、貴方へのすべての投資を終了します」
私は背後の控えていた侍女を――彼女は私が個人的に雇っている、有能な「秘書」だ――顎で呼んだ。
彼女は無言で、銀のトレイに三冊の革綴じファイルを載せて現れる。
「なんだ、それは」
「私の『清算』です。閣下がお望みの離縁届。そして……これまでの『献身料』を一括請求するための書類ですわ」
私は一枚目の書類――離婚届を、レオポルドの前に滑らせた。
彼は「話が分かるじゃないか」と鼻を鳴らし、乱暴にサインを書き込む。
カトリーヌが、勝ち誇ったように扇で口元を隠した。
その目は「これで公爵夫人の座は私のもの」と雄弁に語っている。
だが、私の指が二枚目の書類を指し示した瞬間、レオポルドの顔色がわずかに変わった。
「これは……なんだ? 『債務弁済契約書』……?」
「公爵家の運営費、および領地再建のために、私が私の個人資産――『アデライド魔導商会』から貸し付けていた資金の明細です。合計で、金貨二万枚ほどになりますわね。明日までに一括返済をお願いいたします」
レオポルドの手が、わずかに震える。
「な、何を馬鹿なことを! 夫婦の共有財産だろう!?」
「いいえ。結婚前の契約を忘れたのですか? 『個人の商売に関わる資産は、配偶者の権利を認めない』。そうサインしたのは閣下ご自身です。そして、三枚目。こちらは『全商談の白紙撤回状』」
私は三枚目の、真っ黒な表紙のファイルを提示した。
「この屋敷の魔導ライフライン、および王都との物流網。これらはすべて、私の商会が独占契約を握っております。本日の離縁をもちまして、公爵家との取引をすべて停止させていただきます。明日から、この屋敷には魔力も水も食料も、一切届きません」
静寂が、ダイニングを支配した。
カトリーヌの扇が、床に落ちて乾いた音を立てる。
「……君、何をしているんだ……?」
呆然と呟く元夫に対し、私は最高に優雅な、コンサルタントとしての微笑みを向けた。
「これは正当な献身料の清算です。明日までに一括返済できない場合、この屋敷および領地の商権は、私が差押させていただきますね」
私は立ち上がり、一度も手を付けなかった鴨のローストを一瞥した。
冷えた料理ほど、価値のないものはない。
「それでは、失礼いたします。あ、それからカトリーヌ様。そのドレスの代金、まだ未払いですから。明日、私の店員が回収に伺いますわね」
青ざめる二人を残し、私は一歩、また一歩と、かつての「負債」を後にした。
夜風が頬を撫でる。
自由だ。
脳内の帳簿は今、新しい真っ白なページを開いている。
隣国の皇帝陛下から届いていた、あの「国家予算立て直し」の打診。
次は、あの案件に全額を投じるとしよう。
だが、その香りを愉しむ者はこの食卓にはいない。
結婚三周年。記念日のディナーを彩るはずの最高級のワインは、注がれることもなく、冷えた空気の中で静かに酸化を続けていた。
「――聞こえなかったのかい? アデライド。君とは今日限りで離縁する」
耳を打つのは、夫であるレオポルド公爵の、酷く薄っぺらな声だ。
彼は隣に座る小柄な女性――カトリーヌの腰を、見せしめるように強く抱き寄せた。
カトリーヌは桃色の瞳を潤ませ、勝ち誇ったような嘲笑を隠しもせず、私の顔を窺っている。
「ごめんなさい、奥様……。レオ様を愛してしまったのは、私の罪ですわ。でも、愛のない家庭に縛り付けられるレオ様が、あまりにもお労しくて……」
カトリーヌの指先が、レオポルドの胸元でくねり、甘えるように震える。
その光景を視界の端に捉えながら、私は手にしたカトラリーを静かに置いた。
カチャリ、と硬質な音が響く。
(――ノイズがうるさいわね)
私は、前世の記憶を持っていた。
かつて巨大企業の不採算部門を次々と切り捨て、再生させてきた経営コンサルタントとしての記憶。
その視点から見れば、目の前の光景は「痴話喧嘩」などではない。
ただの『不良債権の処理案』の提示だった。
私は脳内で、パチンと音を立てて帳簿を閉じた。
この三年間の家計、領地経営、魔導具商会の利益、そして、この「夫」という個体への投資額。
「君は強いから、僕がいなくても生きていけるだろう?」
レオポルドは、どこかの安っぽい演劇の台詞のような言葉を吐く。
自分は「弱きを助ける騎士」にでもなったつもりなのだろうか。
彼の指に嵌められたカフスボタン。
その魔石を磨かせたのも、私の資産だ。
彼が口にしている最高級の食材も、その輸送ルートを確立したのは私の手腕だ。
「……本日をもって、愛の損益分岐点を下回りました」
私の唇から漏れた呟きに、レオポルドが眉をひそめた。
「何をブツブツ言っているんだ。ショックで頭が沸いたのか? とにかく、この離縁届にサインしろ。カトリーヌのような守ってあげたくなる女性こそが、公爵夫人に相応しい。君のような冷血な女は、今日限りでこの屋敷から出て行ってもらう」
私はゆっくりと、彼らの正面を見据えた。
瞳に映るのは、無能な夫と、寄生することしか能のない愛人。
投資価値、ゼロ。
リターン、マイナス。
感情的な怒りよりも先に、合理的な「納得」が私を満たしていく。
「承知いたしました。閣下。本日、貴方へのすべての投資を終了します」
私は背後の控えていた侍女を――彼女は私が個人的に雇っている、有能な「秘書」だ――顎で呼んだ。
彼女は無言で、銀のトレイに三冊の革綴じファイルを載せて現れる。
「なんだ、それは」
「私の『清算』です。閣下がお望みの離縁届。そして……これまでの『献身料』を一括請求するための書類ですわ」
私は一枚目の書類――離婚届を、レオポルドの前に滑らせた。
彼は「話が分かるじゃないか」と鼻を鳴らし、乱暴にサインを書き込む。
カトリーヌが、勝ち誇ったように扇で口元を隠した。
その目は「これで公爵夫人の座は私のもの」と雄弁に語っている。
だが、私の指が二枚目の書類を指し示した瞬間、レオポルドの顔色がわずかに変わった。
「これは……なんだ? 『債務弁済契約書』……?」
「公爵家の運営費、および領地再建のために、私が私の個人資産――『アデライド魔導商会』から貸し付けていた資金の明細です。合計で、金貨二万枚ほどになりますわね。明日までに一括返済をお願いいたします」
レオポルドの手が、わずかに震える。
「な、何を馬鹿なことを! 夫婦の共有財産だろう!?」
「いいえ。結婚前の契約を忘れたのですか? 『個人の商売に関わる資産は、配偶者の権利を認めない』。そうサインしたのは閣下ご自身です。そして、三枚目。こちらは『全商談の白紙撤回状』」
私は三枚目の、真っ黒な表紙のファイルを提示した。
「この屋敷の魔導ライフライン、および王都との物流網。これらはすべて、私の商会が独占契約を握っております。本日の離縁をもちまして、公爵家との取引をすべて停止させていただきます。明日から、この屋敷には魔力も水も食料も、一切届きません」
静寂が、ダイニングを支配した。
カトリーヌの扇が、床に落ちて乾いた音を立てる。
「……君、何をしているんだ……?」
呆然と呟く元夫に対し、私は最高に優雅な、コンサルタントとしての微笑みを向けた。
「これは正当な献身料の清算です。明日までに一括返済できない場合、この屋敷および領地の商権は、私が差押させていただきますね」
私は立ち上がり、一度も手を付けなかった鴨のローストを一瞥した。
冷えた料理ほど、価値のないものはない。
「それでは、失礼いたします。あ、それからカトリーヌ様。そのドレスの代金、まだ未払いですから。明日、私の店員が回収に伺いますわね」
青ざめる二人を残し、私は一歩、また一歩と、かつての「負債」を後にした。
夜風が頬を撫でる。
自由だ。
脳内の帳簿は今、新しい真っ白なページを開いている。
隣国の皇帝陛下から届いていた、あの「国家予算立て直し」の打診。
次は、あの案件に全額を投じるとしよう。
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