死ぬ瞬間にだけ、愛してほしい

しょくぱん

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第4話:偽りの初恋

 王宮の舞踏会場は、数千の水晶が輝くシャンデリアによって、昼間よりも残酷なほどに明るく照らされていた。
 金糸の刺繍が施された垂れ幕、芳醇な葡萄酒の香り、そして贅を尽くしたドレスを纏った貴婦人たちの嬌声。そのすべてが、壁際に立つエルゼにとっては遠い世界の出来事のようだった。

 エルゼは給仕の制服の袖を、不自然なほど深く手首まで引いていた。折られた左指を添木で固定し、布で幾重にも巻いた跡を隠すためだ。ズキズキと疼く拍動が、まるで心臓が指先に移ったかのように激しい。

「……あ」

 不意に、視界が白く爆ぜた。
 シャンデリアの光が、霧がかかったようにぼやけ、中心から色が抜けていく。治癒の代償が、ついにエルゼの視神経を侵食し始めていた。

「見て、アルベルト様。今夜の星は、あの日の夜のように綺麗ですわ」

 会場の中央、人だかりの輪の中心に、その二人はいた。
 黒の軍礼装を完璧に着こなしたアルベルトと、純白のドレスに身を包んだリリアーヌ。アルベルトの腰には、あの不格好な守り袋が不釣り合いに揺れている。

「ああ。……覚えているか、リリアーヌ。森で私が死にかけていた時、君が歌ってくれたあの歌を。私はあの旋律に導かれて、現世に繋ぎ止められたんだ」

 アルベルトの声は、広間全体に響くほど朗らかで、深い慈しみに満ちていた。
 エルゼの手から、銀のトレイが滑り落ちそうになる。

(あの歌……。私が、あなたの傷を塞ぎながら、泣きながら歌った、あの……)

 それは、亡き母がエルゼにだけ教えてくれた、古い地方の守り歌だった。
 アルベルトは、目を細めてリリアーヌを見つめる。

「君という少女が、私にとっての『光』になった瞬間だった。……リリアーヌ、もう一度、あの歌を聴かせてくれないか。今夜の月は、あの時と同じ形をしている」

 リリアーヌの頬が、一瞬だけ引き攣った。
 彼女がその歌を知るはずがない。彼女はその夜、泥だらけで帰宅したエルゼを「汚らしい」と罵り、彼女が持ち帰ったアルベルトの外套を、さも自分が救った証拠であるかのように奪い取っただけなのだから。

「……え、ええ。もちろんですわ、殿下。でも、わたくし、少し喉が……」

 リリアーヌの視線が、鋭く壁際のエルゼを射抜いた。
 それは「なんとかしなさい」という、冷酷な命令だった。

 エルゼは、震える唇を噛み切った。
 もしリリアーヌが歌えなければ、彼女の嘘が暴かれる。それはアルベルトの「初恋の思い出」を汚すことになり、同時にエルゼの命を奪う口実をリリアーヌに与えることになるだろう。

(……あなたが、あの夜を愛してくれているなら。私は、影でいい)

 エルゼは目を閉じ、残った魔力のすべてを喉に集めた。
 感覚のない左指を強く握り込み、痛みを代償に「音」を編む。
 禁忌の術——声の転写。

 リリアーヌが、意を決したように唇を開いた。
 その瞬間、会場に響いたのは、天上の調べのような、清廉で、どこか悲痛な旋律だった。

『――昏い森の奥、星が降る……。あなたの眠りを、守りましょう……』

 リリアーヌはただ口を動かしているだけだ。実際に歌っているのは、柱の影で吐血しそうなほどの負荷に耐えているエルゼだった。
 かすれた喉から、無理やり引きずり出される音。
 視界がさらに白濁していく。一音ごとに、自分の寿命が蝋燭の火のように短くなっていくのが分かった。

 アルベルトは、その歌声に魂を奪われたように立ち尽くしていた。
 彼の瞳が潤み、愛おしさが限界まで高まっていく。

「……これだ。この歌声だ。君こそが、私の命を繋いでくれた唯一の女性だ、リリアーヌ」

 歌が終わると同時に、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。
 アルベルトはリリアーヌの手をとり、その甲に深く、熱い接吻を落とした。

「愛している。……この命、君に捧げよう」

 その言葉。エルゼが、人生のすべてを賭けて、死ぬほどに欲しかった言葉。
 それが、自分の歌声を使って、自分を最も虐げる女に捧げられる。

「……っ、……ご、ふっ」

 エルゼの口内に、鉄の味が広がった。
 堪えきれず、白いハンカチを口元に押し当てる。
 真っ赤な鮮血が、雪のような布を容赦なく汚した。

 視界はもう、ほとんど何も見えない。
 ただ、遠くでアルベルトがリリアーヌに注ぐ、温かな光の残像だけが、網膜に焼き付いている。

(よかった……。あなたの思い出が、壊れなくて……本当、に……)

 エルゼは、血に濡れたハンカチを隠し、よろめきながら会場を後にした。
 背後からは、いつまでも幸福な拍手が鳴り響いていた。
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